詩(四)・語録(五)・読書録(七) 6
@「苦痛に意味がある」というのは宗教的な考え方で、場合によってはいわれの無い社会的な差別のようなものまでを必然としてしまう危険な面もあります。それでもやはり、苦痛にでもプラスの面もある、という多面的な考え方は必要なのです。
バカの壁 養老孟司
A日本の社会では、いつのまにか宗教的な言葉の権威が地に堕ちてしまっていたということです。更に言えば、我々は学校で、講演会で、書物の上で、イエスの言葉や仏陀の言葉、あるいは親鸞の言葉を見たり聞いたりしてわかったつもりになってはおりますけれども、それは、しょせんは「頭から上だけの理解」でしかない、腹の底から納得したり信じたりはしていない。つまり、宗教の言葉が頭の中で空回りしているだけで、腹の底に落ちていない。
中略
しかし、他方で我々の周囲を見回してみると、モノでは解決できない問題で苦しみ、喉から手が出るほど心の救いを求めている人々が大勢います。そういう人々にとって本当に必要なのは、仏陀のような人間、イエスのような人間がそばにいてくれることでしょう。それだけが最終的な心の安らぎになると感じているに違いない。けれども、イエスのような人間、仏陀のような人間が現実にいるわけがありません。現実にいるわけがないからこそ、その隙を突いて偽者があらわれてくる。自分こそ仏陀であるという偽者、われこそイエスの生まれ変わりだという人間がどこからともなく出てくる。すると、おぼれて藁をもつかみたいと思っている人々がそこに近づいていく。麻原彰晃の教祖の出てくるような社会背景はそういうところにあると私は考えているのです。
宗教の力 山折哲雄
熊さんの個人的解説
@宗教的な考え方というのは、常識的な考え方と反対の場所に立っています。宗教は私たちの計算で成り立つものではありません。
A宗教は科学と相容れないものとして戦後教育で否定されました。しかし科学的なものだけで私たちは生きていけるものではありません。病気や事情、そして人間としての成長の中で、科学では割り切れない生の深淵を覗き込んだ時、宗教という教育を受けていない私たちは、やすやすと似非宗教に迷い込むのです。気をつけましょうね。