極度に限定された鮎つり情報 

東吉野村小川 役場裏側の川(みやかげ)    
 6月4日 晴れ 水量 普通6月1日の解禁から、
みやかげは余り釣れないようです。                     

鮎つり名人への道

 (まえがき)この記録は、釣り名人として名高い南北勝負彦(みなみきたかちまけひこ)師匠(仮名)に、師事した日之口低乗(ひのくちひくのり)が、師の言葉を一言も聞き逃すまいとしてつけた口述筆記の記録である。

 

 私が、先生にその釣りの神髄を聞かせていただくことになったのは、妻の経済観念から来た一言であった。わたしは毎年入漁券を買っている。しかしその券に費やす費用に見合うだけの成果をなかなか得ることはできない。毎年一匹二千円、三千円近い鮎を食べされられている妻は、ついに業を煮やして、鮎釣り名人として名高い、南北勝負彦(長いので以下師と呼ぶ)に鮎釣道の奥義の伝授を、頼んだのである。                                 

 師は忙しい時間と、師の令室の厳しい視線に耐えて(これは私の想像であって事実と異なるかもしれない)、私を教えるという大義名分の下、いよいよその鮎釣り道の秘密を私に明かされることになったのである。

 師のたまわく

 『鮎釣道は、一におとりのいきのよさにかかり、次に場所にあり。腕はしかるのちのものなり』

      解説 鮎釣りは、やはり一番におとり鮎の元気なものが大事で、次に鮎のいる場所、上手下手は、その次である。

 師の言葉をうけて、私は師のつけてくれた元気なおとり鮎に、師のここが釣れるという場所に投げるなり。師のおとり鮎のつける早技に驚くばかりなり。(書き方がうつってしまった)

  師のたまわく

 『おとり鮎をつけるは、三秒をもってつけるべし。それ以上かかれば、鮎即ち死す』

      解説  おとりの鮎をつけるのは三秒以内につけられるようにならねばならない。それ以上時間がかかると鮎は弱ってしまう。

 師の釣り方は従来の私の釣り方と異なり、鮎を積極的に動かし、その付近の鮎を一匹でも多くとることだそうです。

 師のたまわく

  『鮎の追うを待つより、鮎に追わすなり。さすればその場所の鮎は残らず我が手の中にあり』

   解説  昔の釣り方では鮎が、おとりの鮎を追いかけるのを待っていた消極的な釣り方であったが、その釣り方では例えば一ブロックに十匹鮎がいるとして、その中の一・二匹しか釣れないが、おとり鮎を自由に動かしながら釣る現在の釣り方は積極的釣り方で、ブロック内の大方の鮎を釣り上げることができる。

 師の教えを受け免許皆伝をさずけられたが、鮎はなかなか釣れず、師の顔にも苦衷の色が現れにけり。まな娘の『父はまだ釣れませぬか』との問いに、師のたうちまわりて曰く

 『かの父君には、我が持てる業の全てを教えにけり。なれど・・・』と娘にこたえて後、

『釣れば釣る、釣らねば釣れぬ、鮎釣りは、釣れぬは人の釣らぬなりけり』  

     解説   お父さんには私の教えられることは全て教えたけれど、・・・に深い意味がある。次の言葉は解説不要、言葉通りである。

 師の教えにもかかわらず、なかなか釣れない私は、川をうろちょろするのであった。師の心の歌

 『教えれど、教えれど弟子の釣りはうまくならざり、じっとしとれよ』

     解説 教えても教えても弟子の釣りはうまくならないことだなあと詠嘆しながら、それにしてもちょろちょろ動くやつやなあ、もうすこし心を落ち着かせることが大事だという意味。石川炊く僕の本歌取り。

 その後、ついに一匹を釣り上げたり。師の喜びは我が喜びに勝れり。その師の喜びの中に我は師の苦衷を見たり。

 というわけで、師の教えに沿いて次の日も、彼はその翌日、また釣りに行ったのです。そして師の『おとり鮎をつけるは、三秒をもってつけるべし。』という教えを守ろうとして、焦り過ぎて一匹を川に逃した後、一匹を釣り上げたのでした。

 その後彼は、釣った鮎の冥福を祈るために、八月にならねば帰られない長い旅に出たのでした。

 

(あとがき)

 師は、我が会報製作の鍵を握る方ですので、先月「私があれほど苦心して教えたのに載ってない」と言われたので、今月師の言葉を思い出しながら書きました。ただし日がたっているので、少しばかり記憶にないことがあり、脚色されております。なおこの欄を書くというときに、「それならば、私も和徳君にジャコ釣りを教えた」と、中小川林之麿(なかおがわはやしのまろ)(仮名)さんも、おっしゃておられました。ここに父子共々、先生方の御教授に改めてお礼申し上げ、あとがきといたします。