おさづけの理をいただくための別席のおすすめ
お誕生日おめでとうございます。今日は17才から聞かせていただく「別席」と「おさづけの理」について少し聞いてくださいね
『さづけの理』は、通常『おさづけ』とも呼ばれ、おぢば(天理)の別席場において、毎月一回づつ九回、都合九ケ月に渡って同じ神様の話をお聞かせいただき、十回目に本部教祖殿において、真柱を通して存命の教祖から『さづけの理』をお渡しいただくのです。
その『さづけの理』をいただくために、九回、話を聞かせていただくことを別席といいます。
『おさづけ』は、病気の人に対して取り次ぐもので、取り次ぐ者の真実と取り次がれる者の気持ちが一つになったとき、神様はどのような御守護もして下さるとお聞かせいただきます。
私はこの『おさづけ』に『人をたすけて我が身たすかる』という、天理教の教えの根幹をお見せいただいていると思うのです。この『おさづけ』は自分には取り次ぐことができません。どんなに自分がつらくしんどくても、自分で自分に『おさづけ』を取り次ぐことはできないのです。あくまでも自分の戴いた『おさづけ』は、他の人にしか取り次げないのです。
別席を運び『おさづけ』を戴くためには、九回おぢばへ足を運び、またいくばくかのお金も必要です。そしてようよう戴いたものが自分自身には使えないというのは、考えてみればとても不思議なことだと思うのです。私たちが、神仏に参るのは、まず私自身が、また自分の家族が助かりたいから、何らかの御利益を求めて、参拝するのです。ところが、苦労して戴いた『おさづけ』は、決して我が身に使うことは出来ないのです。もちろん『おさづけの理』を戴くことによって、また別席を運ばせて戴くことによって、お見せいただく御守護というものも多いのでありますが、実際 神様から戴くものが、自分以外の人にしか効用がないというのは、特に教理を考える上に象徴的だと思うのです
神様から見れば人間はみな可愛い子供であり、兄弟であるとお聞かせいただきます。だから、どんな子供にも精一杯の御守護をしてやりたいと思われています。しかし、例えば自分たちの子供が一つのお菓子を争って、例えば兄が弟の物を取り上げたなら、親は情けないと思い、叱ることもあると思います。逆に兄が我慢して、弟にお菓子をあげたなら、親はとても喜びます。教祖は、『その人が礼を言わなくても、親がかわりて礼を申しますで』と、お話し下されたとお聞かせいただきます。
自分達が自分達だけの御利益を願うのは、神様から見れば、ちょうど兄が、親に、弟はどうでもよいから自分だけは何とか助けて欲しいと、願っているようなものです。親はどんなに情けない思いをするでしょうか。
人類全体が、神様から見て、子供であるならば、『人をたすけて我が身たすかる』という意味は自ずからおわかりいただけると思います。
『おさづけの理』はそれを、実地で経験させていただけるものです。『おさづけの理』を取り次がせていただいた時、相手である病人よりも、させていただいた自分が、助けていただいたことに気づくのです。それは、その病人がお礼をしてくれなくても、『親がかわりて礼を申し』てくれているのです。
その経験を積み重ねていくことによって、神様の教えが間違いないことが、本当に心に治まってくるのです。
ですから『おさづけ』は、人に取り次がせていただかねば、その真価はなかなかわかりません。
せっかく『おさづけ』をいただきながら、一度も取り次がないとしたら、まさに宝の持ち腐れだと思うのです。
世の中のものは何でも、使えば使うほど減ってきます。ただ神様からいただく『おさづけ』だけは、使えば使うほど、その価値は増してくるのです。
別席は、その第一歩です。どうぞ以上のことをお考えいただきまして、別席を運ばせていただきますようお願い申し上げます。