初席を運ばせていただこう そのB

たましい()への確かな栄養

 おさづけの理についての説明

 

私たちは、人間です。人間は身体と心がありますね。ここまでは別に天理教を信仰していなくても、同意してくれるのではないかと思います。

私たちが死ぬということは、その心も身体も消えてしまうということです。

それでは、私たちが死ぬということは私たちの全てが消えるということなのでしょうか。

 

先ほど人間は心と身体で出来ていると言いましたね。でも心と身体だけではなく、そのもっと奥に魂(たましい)という土台があるのです。

私たちが死んでも、そのたましいだけは残るのです。

 

私たちはこの身体と心とそしてたましいとの関係を次のように

お聞かせいただいています。

 

私たちはこの世界に生まれてくるとき、私たちのたましいに応じた身体と心を親神様からお貸しいただきます。身体も心も神様から貸していただいているものですが、身体は神様からの借り物のままで自分の思い通りにはなりませんが、心は自分がどのようにも使える自由をお許しいただいています。

人間はその心と身体を使って、陽気ぐらしをするために生まれてきたのだとお聞かせいただくのです。

私たちは身体と心を使ってこの世界を生きています。一生懸命仕事をして、たくさん儲けて大きな財を成したり、いろいろな名誉を受けることもあるでしょう。しかし身体で作ったものは、身体が神からの借り物で、出直すときには返すしかないのと同じように、身体で作ったどんな大きな物も、この世界を去るときには必ず返さなければなりません。

また心でどんなに愛情を注いだ人とも、またどんなに愛情を注いでくれた人とも、別れなければなりません。生まれてきたとき一人で生まれたように、去るときも一人で去らねばならないのです。

身体と心だけを考えれば、いずれ私たちはそれらをすべて失うことになるのです。

 

しかしたましいだけは出直しても神様のもとに戻り、そのたましいに応じた身体と心をお貸し頂き、また生まれ変わるのだとお聞かせいただくのです。

 

私たちは、身体や心のことについては、一生懸命考えます。また身体の病気や、心のストレスなどにも大きな注意を払いますが、普段たましいのことについてなんてあまり考えません。でもたましいだけが生き通しであり、たましいに応じた体と心を与えられるとしたら、たましいを成長させることが一番大事なことなのだということになります。

 

それではそのたましいを成長させるためにはどうしたらいいのか、ちょっと考えてみたいと思います。

身体も心もたましいも、それを成長させるためにはそれぞれに栄養が必要です。その栄養の取り方を考えてみると、そこに神様の深い思惑を感じます。

 

身体を成長させるための栄養は、食料です。食料は他から取るしかありません。身体自らが自分の栄養を作り出すことはできず、先ず外から食料をとるしかないのです。  

それでは、心の栄養とは何でしょうか。私は心の栄養は愛情ではないかと思います。まずは周囲の愛情を受けて人は、心豊かな子供に育ちます。しかしこの愛情という栄養は、意外と厄介なもので、あまりに取り過ぎもいけません。私たち人間は最初、愛情は外から例えば両親や周囲の人から与えてもらうことによって、優しい愛情豊な子に育つのですが、ある程度の年齢になると、今度は自分の中から愛情を人に与えるようにならなければなりません。与えることをせずに求めてばかりでは、子供は過保護となり、わがままな子供に育つだけなのです。

心の栄養は、先ずは人から与えられ、そして次には人に与えるようになっているのです。そのようにして心は成長します。

 

それではたましいの栄養はどうなのでしょうか。

身体の成長が、栄養を外からもらう一方であり、心の成長は外からもらって次に自分から出すということになれば、たましいの成長のためには、この順番から言えば栄養を自分の方から出す一方ということになります。

つまりひたすら相手に出し尽くすことが、たましいに栄養をつけ成長させることになります。

 

しかし、先ほども言いましたように、人間は身体と心のことについては注意を払いますが、その奥のたましいについては、そんなに考えることはありません。

たましいは本来「陽気ぐらしをする」ようにとの神様の思いに基づいてつくられていますが、何代も生まれ変わることによって、八つのほこりに代表される自分がかわいいという心の動きによって心の中が曇ってしまい、たましいが見えにくくなっているのです。その心の曇りを少しでもぬぐうために、今の私の人生が有り、私の周りの人々がいるのです。お互いが心を磨きあうように、私の心が一番磨きやすい人々を私の周りに配置されているのです。それが周りは鏡だとお聞かせいただくゆえんなのです。

 

たましいの栄養は、出すことと申し上げましたが、それは人をたすける心になるということでもあります。

「さづけの理」は、病気の人に対して取り次ぐもので、取り次ぐ者の何としてでも助かって欲しいとの真実に神様がお働きくださり、どのような御守護もして下さるとお聞かせいただきます。

 

 しかし、「さづけの理」を取り次ぐというのは、ただ単にその人をたすけさせていただくということだけではなく、自らのたましいを磨き、栄養をつけているのだと、私は「さづけの理」の取次ぎによって感じています。

 

 今月二十五日、そのさづけの理を拝戴するための別席団参がございます。

是非ご参加いただきますよう、またもし今回都合が悪くても是非近い機会に別席をお運びいただきますようご案内かたがたお願い申し上げます。

                            

 

 

「さづけの理」を頂くための、具体的方法について

 

@    一番最初だけ、教えの伝わった順番どおりに参拝させていただく。三名之川分教会の場合は三名之川分教会→鷲家分教会→八木大教会→本部の順。

A    本部に参拝して、別席場で別席のお話を一月に一回一時間半程度9回聞かせていただく。別席は日祝もあり、午前ならば8時から9時半まで、午後は12時から1時半までに受付がある。

B    9回の別席がすむと教祖殿で真柱様を通して教祖より「さづけの理」を拝戴する。

C    おさづけの理を拝戴後、お礼に順番に参拝させていただく。

本部→八木大教会→鷲家分教会→三名之川分教会

 

                     詳しくは教会にお尋ね下さい。