--今月の掲示版 三月
夏が暑い年の次には
例年より厳しい寒さの冬が来るそうです
地球は暑さと寒さのバランスをとるために
暑さの厳しい夏の次には、
厳しい寒さの冬がくるのだそうです
この寒さは、地球がバランスをとるために
必死でがんばってくれているのだ
そう考えたら、この寒さも
ちょっとはがまんできるものですね
暑い日もクーラーもなく、寒い日も火鉢一つで暖を取るしかなかったのは、そんなに昔のことではありません。今から五〇年ほど前には、私たちは石油ストーブの暖かさも、クーラーの涼しさも知りませんでした。そのことを思えば、今はどんなにありがたいことでしょう。
暑い暑い、寒い寒いと言いながら、それでも充分四季の移り変わりを楽しみながら暮らしていたのです。
夏は暑いし、冬は寒い。そうに決まっていたし、夏が寒く、冬が暖かくないからこそ、私たちは安心して地球という親の懐に住むことが出来るのです。
暑い時は暑くて結構、寒い時は寒くて結構。そんな気持ちで寒い冬をお互いに頑張りましょう。
もうすぐ春です。
今月の掲示版
後悔先に立たずと言う言葉があります
ああしておけばよかった
こうしておけばよかったと、
あとでいくら思っても
起こってきたことは
どうしようもないということです
そんな諺は知っていても
私たちはよくそう思ってしまいます
あのとき何故、
ああしなかったか、こうしなかったかと
悔やんでも変えようもないことを
悔やんでしまいます。
起こったことは どうしようもしかたのないことです。
起こったことはどうしようもないことですが、
その起こってきたことをどう受け取るかは、
あなたに任されています
そこに何かの価値を見つけられたら
あなたは大きく変わることが出来るはずです
どんなに後悔しても、起こってきたことはどうしようもありません。それをそのまま受け取って、それを生かす方法を考えねばなりません。でももう一つ、起こってきたことを後悔してはいけないのは、そんな風に起こってきたことこそ、神様の思いなのだということだからです。天理教の教祖伝逸話篇の話を読めば、泥棒に入られた人が被害のなかったことを教祖にお礼に行けば、教祖は「欲しい人にもろてもろたらもっとよかったのに」とお話しされます。災害で裏の山が崩れた人には、と、心の持ち方を話されます。
起こってくることを悪く考えないのは、神様が人間の成人をお待ちくださっているという大前提があるからだと思います。たとえ自分にとって悪い事、都合の悪いことが起こって来ても、そんな時こそ「節から芽がでる」とのお言葉通り自分が変わるための大きな機会をお与え頂いているのだということです。「何故こんなことが起こるのだ」という疑問が自分を振り返るキーワードです。満ち足りた時には、なぜ自分はこんなに幸せなのだろうなんて自問は持ちません。
苦しさや哀しさの中で、自分を振り返ることが、自分の生き方を問うことになり、それが自分が成人する大きな一歩なのです。
今月の掲示版 五月
車のカーステレオで
録音した同じ話を
何回も何十回も聞いています
話は変わりませんが
聞く度に
新しい発見があります
それは聞く者に
聞く力が
ついてくるからなのだと思います
そして何よりもそのテープの話が
深い深い魂の泉から
出ているからなのだと思います
そんな話ができる人に
なれたらなあと、思います
朝づとめの時に「おさしづ」を毎日読んでいた時、最初は全くわからない文章が日を経るにつれて心に納まってくるような経験をしました。「読書百篇意自ずから通ず」わからない本でも、一回二回三回と百回も精読・熟読すれば、だんだんと意味が分かってくるというような意味のことわざがあります。
最近カーステレオに天理教の先生の話や、天理教ではないけれどいろいろな先生の話を入れてよくそれを聞いています。
難しい話は、最初は全くわからない時もありましたが、何回も聞くうちにだんだんとわかってくる時があります。
聞くことによって、理解する力がついてくるのでしょう。
私たちは同じことでも繰り返すことで、そのことに対して自然と理解が深まっていくのだと思います。
そうだとするならば、人生も同じ日を何回も何百回も何万回も繰り返してきました。そろそろわかって来てもいいような気もしますが、やっぱり漫然と一日を送っているだけではだめなのだということが、最近ちょっとわかってきました。
今月の掲示版 六月
「今が一番いい時ですね。」と言われた時、
子育てに追われていた私たちは、
今が一番いいとは思いもせず
そしてその今がもう取り戻せない
昔になった頃、
「確かにあの時が一番よかった」と
思う私がいます
それは私が今の年齢に達しなければ
思えないことだったのでしょう
そんな風に思いながら
年をとることを楽しみにしています
子供達が小学生ぐらいの時、年上の人から「今が一番いい時ですね」とよく言われました。
そして必ず、「今はわからないと思うけど・・・。」と言われました。「今はわからなかったら言わないでほしい」なんて言いあいながら私達は、子育てに追われていました。
そしてそれから十数年が過ぎて、子供たちも大きくなったとき、「確かにあの時がいちばんよかったのかなあ」と思っている自分がいます。
でもそれは、どんなに頑張っても今の年齢に達しなければ見えなかったことのようにも思います。
この調子でいくなら、七十になったら七十にしか見えなかったこと、八十になったら八十にならなければ見えないことがきっとあると、年を取ることが少し楽しみになっています。
まずは今度、子育てに必死の若い人を見たら、
「今が一番いい時やな。今はわからんと思うけど・・。」と言ってみることの楽しさを味わいたいと思います。
今月の掲示版 八月
身体は二十歳を過ぎれば
成人しますが
心の方は二十歳で成人とは
いかない場合もあるようです
身体は神様の領分で
自分の自由にはなりません
心は自分の自由になりますが
自然に大きな心にはなりません
でもそのかわり
身体は二十歳を過ぎれば成長が止まりますが
心はまだまだ大きく深くなれるのです
身体は神様からの借り物で、心だけが自分の思い通りに使えるようにお許しいただいている。天理教では身体と心の関係をそのように教えられています。そう考えれば神様の思いの一端がうかがえるような気がします。
身体の成長は二十歳前後でピークを迎え、四・五十歳ごろからだんだんと緩やかな低下が続きます。
心という臓器はありませんが、脳の一つの働きとして、覚える能力とか、とっさの判断力とは六〇を超えて随分低下したことは実感しています。ただしいろいろなことを考えるということに対してはまだまだ新しい何かを見つけられるような気もしています。
だんだんと身体が思うように動かないことさえ、そんな中でもお前は喜ぶことが出来るだろう、という神様の思いのような気がします。「たんのう」という教語はそのままを喜ぶという意味であり、「たんのう」は「前生いんねんのさんげ」ともお聞かせいただきます。神様は年を取ることによって、自然に「たんのうし、徳を積ませていただけるようにと身体の不自由をお与え頂いているのだとさえ思います。
今月の掲示版
私が生まれた時、
この世界もひそやかに産声をあげました
私が死ねば、世界は滅びます
あなたが死ねばあなたにとっての世界が
滅びるのとそれは同じことです。
今私が生きている世界は、
私のためだけに
神様が準備をしてくれた世界です
私のために用意された世界で
神様は私に
何をせよとおっしゃるのでしょうか
私ができる本当のことは、
私のために与えられたこれら全ての
不思議さを感じ、喜び、
味わうことだけなのです
そしてそれだけが神様の望みなのです
この世界がいつ出来たか知っていますかと聞くと、人はいろいろな答えを言います。この世界がいつ滅びるか知っていますかと聞くとまた人は様々な答えを言います。でも一番確実な答えが一つあります。
自分が生まれたときこの世界は出来、自分が死ぬ時この世界は滅びるのです。私の死は、たとえ外から見たら私一人の死だったとしても、私にとってはみんなを道連れにし、世界が滅びていくのです。
世界は私のためだけに神様が造って下さったものです。そんな世界の中でいったいこれ以上何を私たちは求めるのでしょうか。最初から私のためだけにすべてのものが造られているというのに・・・・。
この輝く世界も、暖かい隣人も、きれいな伴侶もやさしい子供たちも、皆私のために、私の陽気ぐらしのために与えられているものなのです。
ただそう信じ、喜び、味わうことが出来にくいだけなのです。
今月の掲示版
さんさい心
陽気ぐらしの心とは
三歳のような心だと聞いたことがあります
三歳の時は悩みがないから
三歳の時のような心、
悩みのない心になることの大切さを
言っているのではないと思います
三歳には、三歳の
悩みがあり、辛さがありました
それでも親に抱かれているという安心を
あの時ほど持っていたことはないのです
その安心こそが
陽気ぐらしのもとなのです
陽気ぐらしは、さんさいの心を定めることだとお聞かせいただきます。
陽気ぐらしは、環境や地位や裕福さによって左右されるものではありません。そう言いながら、私たちはそのことによって左右されると本当は思っているのではないでしょうか。
でもあなたが三歳の頃、あなたの家のくらしや、財産の多寡があなたの心にかかっていたでしょうか。あなたは親の愛情を無条件に信じ、その愛の中で毎日を楽しく生きていたのではないでしょうか。
実を言うともう忘れてしまったけれど、三歳の時もきっと大きな悩みや叶えられない希望があるのだろうと思います。私の三歳の孫は、あんなに大きな声で泣くのですから・・・・。
三歳のときの悩みと、今の悩みは大きく違うかもしれません。でもあの時は、親のやさしい声だけであなたは十分泣き止んだのです。親がいてくれるという安心感が、どんなにあなたを幸せにしてくれたかを、思い出してみましょう。陽気ぐらしの心とは、ちょうど三歳の子供のそんな心を忘れないことなのだと思うのです。
今月の掲示版
一歳の時に見えた世界と、
十歳の時に見えた世界は
ずいぶん違って見えました
二十歳になった時、
世界はもっと違って見えました
それは背が
伸びたからだけではないはずです
三十になっても、
四十になっても、
五十になっても、
六十になっても
それから世界はあまり変わりません
それは心が
伸びやかさを失ったからではないですか
小さい子供の頃に見える世界が、大きくなるにつれて、変わってきます。よちよち歩きの頃と、十歳の頃では行動範囲も大きく違うので、目に見える景色もずいぶん違ってきます。
そして二十歳になると、世界の姿がほぼわかるようになります。たとえその場所に行けなくても、世界の姿がわかるようになってきます。それはただ背が伸びたからではありません。
でもそれから先は、三十になっても、四十になってもそんなに世界は変わりません。
でもじっと見つめることさえできたなら、三十の世界と、四十の世界と、五十の世界は違うはずだと思うのです。
私だって六十になって、新しい世界を発見したのですから・・・・。
今月の掲示版
おてんとうさまが見ている 六月
昔よく、誰が見ていなくても、
お天道様が見ている
という言葉を聞きました
お天道様とは、お日さまのことであり、
神様や仏様のような、何か
偉大なものを象徴する言葉でしょう
そんな言葉を最近聞かなくなりました
家に神棚も仏壇もない家が増え
それも仕方がないことかもしれません
でも、お天道様が見ているというのは
見張られているという意味ではなく
いつも誰かに
見守られているということなのです
人は誰かに見守られ、
安心して生きていけるのです
昔はよく、おてんとうさまが見ているという言葉を聞いたような気がします。それは、「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉や「世間様に笑われないように」というような言葉と対のようだった気もします。そんな言葉もあまり聞かなくなりました。
そう考えれば昔は、神様の目や世間の目といったものをもっと気にしていたように思います。世間体が悪いだとかそういった世間の目を気にすることが、悪い事のように言われたこともありましたが、一概にそうとは言えないと私は思っています。
目を気にするというのは見られていることでもありますが、見守られていることでもあるのです。
何か大きなものに生かされているという畏怖の念と、何かに見守られているという思いは、私たちに大きな安心感を与えてくれるように思います。
今月の掲示版 納得すれば
納得すれば信仰するという人がいます
病気の人は、病気が治れば
金欠の人は、お金が入れば
困った事情で悩んでいる人は、
事情が納まれば
納得して、信仰するとおっしゃいます
その人は何もかも、納得してからでなければ
行動できないと言います
それはその通りです
ところがその人にとっても、
納得できないことが一つだけ
それは今の自分の境遇です
納得できない境遇を解決するために
納得してからとは、
ちょっと虫が良すぎるような
気がするのですが・・・。
納得すれば信仰するという人も、今の自分が今の自分であることを納得しているわけではない。そちらの方はなんとなく受け入れている。生まれてきた時に、この時間のこの場所のこの両親の子として、この性別で、この顔で生まれてくると納得したわけではないはずなのに、そちらの方は仕方がないらしい。病気になるときも選べなければ、愛する人と別れるときだって選べない。
そう考えれば、納得できないことばかり。納得して生きていくより、理不尽な流れの中で私たちは束の間の息継ぎに忙しいだけだ。
だけど一つ思うことがある。私達が本当に感動するのは、成功物語にだろうか。少なくとも私達の先人が教祖と言って絶句した時、神殿の壮大さに感激して絶句したわけではない。
教祖に私達が本当に感動するのは、納得とは正反対の理不尽ともいえる生き方に出会うからだ。
普通の人間にとって、全く納得できない生き方を、言い換えるならば単純に損得だけで考えれば損に違いない生き方を、勇んで通るそんな姿に私達は感激し、感動するのではないか。
本当に大事なものは目に見えません
目に見えないものを見るには
見る事のできる力が必要です
昔はどの家にも、神棚や仏壇がありました
それは目に見えないものを
見るためのものなのです
神棚や仏壇があるからといって、
神様も仏様も見えることはないけれど、
毎日見えないものに頭を下げ、
祈りを捧げていると
相変わらず目には見えないけれど
見えないものを見る力がついてきます
それは信じるという力です
それこそが、
目に見えないものを見るためには
絶対に欠かせない力なのです
以前はどの家にも神棚や仏壇が有ったが、仏壇や神棚の方が多いのではないかと思う。
教会の信者さんでも、故郷の家には神棚があるが、都会へ出た息子の家には何もないという人も多い。そして信者さんに限らず、都会には仏壇も神棚もない家が多い。
家に神棚や仏壇があるというのは、家の中に柱が一本通っているということだと思う。神様は男は柱、女は台とお聞かせいただいたが、現在の柱はぐらつきぱなしである。台も同じ所にどっしりとしている人が少なくなってきた。親の権威は昔と比べて随分低下した。
何か目に見えないが大事なものがあるということを小さいうちから教えるのは親の大切な役目であるが、それを教えることは意外と難しい。非行少年が親の無償の愛に気づいた時、非行が止むと聞いたことがあるが、そんな目に見えないものを気づかせるためには大変な努力が必要である。しかし、神棚や仏壇に小さい時から手を合わせさえすれば、自然に目に見えないものを感じる力が養われると思う。人は愛され、見つめられていると感じる時、安心しやさしくなれるのだという。
私達はいずれ子供を残しこの世界を去らなければならない。一人になった子供たちが、私達がいなくなっても目に見えない何かを感じられるならば、そんなに世の中は悪くならないのではないかと、私は思う。
今月の掲示版
身体の栄養は食べ物からとります
でも取りすぎは、肥満のもと、病気のもとです
頭の栄養は、書物からとるようです
でも取りすぎは、頭でっかちと言われます
心の栄養は、愛情からとります
でも取りすぎは、自尊心だけを肥大させます
魂の栄養も、愛情からとります
ただしこちらはもらうのではなく、与える方です
自分さえその気になればできるのです
それが一番難しい事では ありますが・・・。
身体の栄養は通常、野菜や肉魚等を摂取することによってとります。そのおかげで身体はだんだんと成長し、成長が終わってからもその維持に食物は欠かせません。でも過剰摂取は、肥満となり病気のもとになります。/昔どっかで頭の栄養は書物からなんて読んだような気もしますが、変に取りすぎると頭でっかちなんて揶揄されたりします。/心の栄養は愛情からしか取れません。あなたを大事に思ってくれている人のあなたへの愛情が、心の栄養になるのだと思います。しかし食べ物の取りすぎが肥満につながるように愛情も、ただ与えればよいということではなく、過剰な愛情は子供の心を肥満増長させるだけの時もあるようですので注意が必要です。
さて、魂の栄養はどうして取ればよいのでしょうか。魂の栄養も愛情なのですが、与えられることが栄養になるのではなく、愛情を与えることが栄養になります。外から得ることしかできない身体の栄養は、自分に食物をとる力がなくなれば、餓死するしかなく、心の栄養も、あなたを大事に思ってくれる人がいなくなれば、だんだん心が痩せていくのを見続けるしかないのかもしれません。どちらも他人のたすけが必要なのである。
しかし魂の栄養だけは、他人を必要としないで自分さえその気になればよいのです。体中に医療用具を取り付けられ、日に日にやせ衰えながら、「ありがとう、ありがとう」と見舞いに来られる人毎に話されていた人がいます。その人は魂にたくさんの栄養をつけて出直されたのです。
今月の掲示版
カーナビ
カーナビゲーションという機械は、
行きたいところまで 案内してくれます
目的地を入力するより前に大事なことは
自分の今の居場所と、
自動車が
どの方向に向かっているかということです。
カーナビの場合は
機械が自動的に判断しますが、
実際の人生の場合は、
そのことが意外となおざりにされてしまいます
自分が今どこに立って
どの方向に向いているかを確認してから
行きたいところを入力しなければ
とんでもないところに
着くかもしれません
カーナビという機械は、行きたいところを入力すれば、その場所に案内してくれます。
人生にもそんな機械があって、なりたい自分の方向に連れて行ってくれたらなあと思うことがありますが、そんな機械はありません。
そしてもう一つ、カーナビは自分の自動車の位置と方向が自動で入力されていますが、人生において、自分の位置と向かっている方向をしっかり知っていることは、意外と難しいことです。
生きることに無我夢中の時は、なかなか自分を振り返って考えることはありません。
神様は、病気や事情は、そんな自分の現在位置と向いている方向を確認し、訂正する時だとお聞かせ頂きます。
カーナビのような便利な機械は人生にはないのですが、カーナビの代わりになる機会は、意外と苦しい辛い時にこそあるのだと思います。
今月の掲示版
自分の痛みは、
人に伝えることはできません
悲しみも、怒りも、
残念ながら正確に、
人につたえることはできません
自分が経験したいろいろなことは
言葉にして 話はできても
人にそのまま伝えることは出来ません
自分に受けたいろいろな痛みや思いを
やっぱり人に伝えることは出来ないのです
そう考えれば、結局
自分の心に刻むしかないのかもしれません
人は自分にしか分からないものを
魂に刻んで
自分だけの人生を積み重ねていくのですね
病院でお医者さんに、自分がどれだけ痛いかを伝えるのはなかなか難しいものです。/それと同じように、その人が感じている悲しみや怒りを人に伝えるのも難しいものです。亡くなった人への悲しみも遺族と近親者では少し違うだろうし、同じ遺族であっても亡くなった人が自分の配偶者か、親か子供かでもそれぞれの思いは違います。「親子でも夫婦の中も兄弟も みなめいめいに心違うで」五号―八と、お聞かせいただくように、私たちはみんな親子であっても、夫婦であっても、兄弟であっても、それぞれ心が違い、自分にしかわからないものがあるのです。それを伝えようとする努力はもちろん必要ですが、伝えようとして伝えられないものもあると思うことも大切です。
人に伝えられないものは、自分の中で消えていくしかないのでしょうか。あなたが死ねば、あなたの身体が消えるのと同じようにあなたが感じた全てのものも消えていくしかないのでしょうか。/痛みや悩みや、それと反対の喜びや楽しみも、結局は自分が感じていることはなかなか人に伝えることは難しいものです。人に伝えられないことだからこそ、人はその人の魂にそのことを刻んでいくしかないのだと思います。/自分だけしかわからないからこそ、自分の中に刻むしかないのだし、そしてそれこそが魂があるという一番確かな証拠なのであり、その自分だけの思いを、自分だけの魂に刻むということが、生きるということの、一番大きな意味なのだと思います。
今月の掲示版
今日、たくさんのものを食べても
次の日には必ずおなかは減ります
今日、どんなに長く寝ても
一日起きてればやっぱり眠くなります
食い貯めも寝だめも
どうも無理なようです
そのかわり
どんなに空腹でもそんなに食べられないし
どんなに眠たくても
熊のように冬眠もできません
そう考えれば、
人の身体は、一日一日
その日のことをするように
できているのです
心だって体の一部のくせに
そのつもりでいてくれれば
こんなにあくせくすることも
ないはずなのですが
身体は神様からの借物だとお聞かせいただきます。そう考えれば、身体が今日一日の事しか出来ないように、私たちも今日一日こうして生きていることを喜べば一番神様の心に添うことになるのではないかと思いますが、心は今日一日の生きる喜びだけでは、なかなか満足できないようです。
今日食べられても、明日の食糧も明後日の食糧も心配です。子供の教育や、老後のこと、考えていけば心配の種ばかりです。
明日も明後日も生きていると思うから、心配の種は尽きません。明日自分がいないと思えば、明後日の食糧の心配も、自分の老後も心配しても仕方がありません。
身体が今日一日のことしか出来ないように、心も今日一日だけのことを考えていれば、ずいぶん楽になることも多いように思います。
何故私が・・・
厳しい病で入院すると
だれもが、何故私が・・・と、
自分が病気になった理由を
尋ねたくなってしまう
自分がこんな病気になるのが
どうしても腑に落ちないのだ
尋ねても詮ない事と知っていても
そう尋ねずにはおれないのだ
でも考えてみれば、
その病にかかる前の元気な時に
一度でも何故自分はこんなに元気なのかと
尋ねたことがあるだろうか
何故自分が病気にならないで
こんなにいつも元気なのかと
そう考えるとやっぱり、
喜ぶことは難しいことです
わたしだけにではなく、みんなに必ず来ることがある。
死ぬということだ。
その死を前に神様は、私に白羽の矢を立てて、自分の人生を振り返る機会を与えてくれたのだ。
「何故私だけが」と思うときにはこう思ってみるしかない。
自分の人生をふりかえってみるしかない。そしてそのとき思い出して欲しい。何故私だけがこんなにしあわせなのだろうか、といったい何度思えただろうかと。
もし一度もないならば、ちょうどよい機会だ。やせ我慢でもいい、一度今言ってみよう。
「何故私だけがこんなに幸せなのか」と・・・。
今月の掲示版
大きな勘違い
ここ百年ほどで、
人類は大きく進歩しました
鳥よりも高く空を飛び、
魚よりも早く海を渡ることが出来ます
チータよりも早く走り、
どんな獰猛な肉食獣よりも
多くのものを殺す手段も持っています
科学は進歩して
私たちはいろいろな術を身に着けました
でも勘違いしてはなりません
私達一人ひとりは相変わらず
弱い存在でしかありません
人は百年前や、千年前と同じように、
弱い、小さな存在に変りはないのです
確かに産業革命以来、科学技術は驚くべき進歩を遂げました。それ以前は、馬力という言葉が残っているぐらい、せいぜい牛や馬の力を借りるか、人力を利用したものしかありませんでした。それが蒸気船や、蒸気機関車、飛行機の発明や電気の利用、兵器の飛躍的な進歩によって、地球上のどんな生物よりもわが世の春を謳歌しています。
でもそれは人間が強くなったわけでも早くなったわけでもなく、そのような科学技術という術を身に着けただけなのです。言ってみれば、大きなダンプカーに乗って、自分が大きくなったような気がしているだけなのです。車から降りれば、変わらない私しかいないのです。
百年前や千年前から見ると私たちは大きな進歩をしたように思いますが、自然の前では何にも変わらず、百年足らずを生きてそして死んでいく無力な存在でしかありません。
唯一他の動物と違うと言えば、そんな自分を客観的に見ることが出来るということなのだと思います。だからこそ、「世間(よのなか)を空しきものと知る時し
いよよますます悲しかるけり」と、千年以上前に歌われた歌が、同じように心に沁みるのです。
言葉より伝わるもの
エブリバディ・スマイル
二〇〇三年四月、
イラク、ナジャフ
和平交渉のためのアメリカ軍が、
誤解した民衆に囲まれた
一触即発の危機
アメリカ軍の司令官は
たった一言命令した
そのおかげで
事態は収まり、
群衆と兵士は握手を交わした
その言葉は、
エブリバディ・スマイル
言葉の通じない誰にも通じる言葉だった
9・11。あの民間飛行機がビルに突っ込むという衝撃的な事件を背景に、アメリカがテロに狙われているという危機意識のもと、正義に立つのか、テロリストの立場に立つのかと、当時のブッシュ大統領は、欧米諸国や日本に決断を迫った。
善と悪というずいぶん強引ではあるけど、わかりやすい分け方だった。そして多国籍軍とイラク軍は開戦した。しかし、隠されていたはずの大量殺りく兵器は発見されず、悪の象徴としてフセイン大統領は死刑にされた。しかしその地方には今も混迷だけが残っている。我々は、威勢のいい言葉に騙されていただけであったが、まるでなかったかのように、誰もその総括をしようともしない。
そんなイラク戦争であったが、2003年4月ナジャフに進駐したアメリカ軍が、宗教的指導者を拘束に来たと勘違いした群衆に囲まれ、一触即発の危機に発した、米司令官の言葉は、悪の枢軸という大統領の演説よりも記憶されるべきだと思う。
殺気立つ群衆を前に司令官は兵隊に、「みんな笑え」と叫んだ。
ブッシュ大統領が司令官であれば、おそらくは発しえない言葉だったと思う。