巻頭言 あなたはどちら側ですか   樋口孝徳

人にはどうやら二種類の人間がいるようです。

ユンチアンという人が書いた、「ワイルドスワン」という本があります。清朝の崩壊から日本との戦争、共産党の中国支配、文化大革命まで日本では想像できないような激動の中国を生きてきた一家族三世代を描き、世界的ベストセラーになりました。その中に印象的な文があります。

『このときから、私は中国人を二種類に分けて見るようになった。人間性を持った人と、そうでない人と。十代の紅衛兵から、大人の造反派まで、あるいは走資派とされた人々についても、文化大革命というとてつもない動乱が、その本性をあらわにして見せた』

全く同じような文章があります。第二次世界大戦のときドイツ軍のユダヤ人強制収容所に入れられ、まさに九死に一生を得た、心理学者V・フランクルの「夜と霧」の中の一節です。

『これらすべてのことから、われわれはこの地上には二つの人間の種族だけが存するのを学ぶのである。すなわち品位ある善意の人間とそうでない人間との「種族」である。そして二つの「種族」は一般的に拡がって、あらゆるグループに入り込み潜んでいるのである。(ユダヤ人の中にも、ドイツ人の中にも)専ら前者だけ、あるいは専ら後者だけからなるグループというのは存しないのである』

「道に世界あり 世界に道あり」というお言葉を聞いたことがあります。信仰している者の中にも形だけの信仰をして、考え方や行動はこの道の話を聞いていない人と同じ人がいるし、その反対に信仰はしていないが、その心や行いは神様の教え通りに通っている人もあるという意味のように記憶しています。この原稿を書くに当たり、出典を調べてみましたが残念ながらよくわかりませんでした。ただ同年輩の人々のほとんどは知っておりましたので、語り継がれてきた言葉である事は事実のようです。

このような意味で、二種類の人間がいるならば、あなたはそして私は、どちら側の人間でしょうか。

一人の人間の中にそのどちらの面もあると考えた方がよいかもしれません。そして極限状況にそのより強い面が出るのだと思います。

通常の時はよき隣人であった人が、「ワイルドスワン」で言うならば文化大革命という動乱の中で、「夜と霧」では、死とまさに隣り合わせの強制収容所という極限の暮らしの中で、否が応でも人々の本性が出てしまうのです。

 文化大革命や収容所体験というような特異な状況ではなくても、人は節に当たればその本性が出てしまいます

以前夫が病気の人に、「夫の病気は妻への神様の思いがあるので、貴女も反省させていただくことがあるのではないか」と、天理教的な反省を促した時、「なんで主人が病気して、私が反省しやなあきませんのか。主人の病気やから主人が反省したらよろしいやんか。」と言われて、二の句が継げられなかったことがあります。そのときは何でこんなこともわからんのかなあと思いましたが、いざ自分の妻がそうなった時、反省よりも先に腹のほうが立ちました。でもその中でそれは、こんな時に腹しか立たない自分という人間の人間性や品性を自覚する、これ以上ない機会でもありました。

そして今ようやく、節というものの意味をわからせていただいたような気がしています。節とは、自分の本性を見つめ直す機会なのです。言い換えるなら、自分の本性を見つめ直さなければ、それはただの病気でありただの事情なのです。  

 そして今世界は、大きな節にさしかかっています。

 その節は、結局お前は「道の中の世界」ではないのかと、二種類の人間のどちらであるかと問い続けます。

 それは、私だけではなくこの道を信仰する者すべてと、世界中の人々に問いかけられている神様の急き込みでもあるような気がします。