巻頭言  後ろから拝む

                  樋口孝徳

 『「おつくし(お供え)の話を人に聞いていただくには、その人に後ろ姿を拝まれるようになってからである」という、ある先生から聞いた言葉が忘れられない。

 その話を聞いて、自分を後ろから拝んでくれる人が何人いるか指折り数えてみたことがある。私も教会長の端くれだから、前から礼をしてくれる人は何人かいるが、後ろから頭を下げてくれそうな人は、片手どころか一人も見当たらなかった。

 後ろから頭を下げてもらうにはどうしたらいいのだろうか。

 おもしろいことを経験した。おさづけに行かせていただいた時のことである。その家は神様を祭っておられるので、講社祭りにはいつも行かせていただいているが、家人とは、玄関先で別れていた。ある時、おさづけの理の取り次ぎに行かせていただいた帰り、玄関先で別れ、家を出て角を曲がるとき何げなく振り返ったら、いつもは玄関先で別れていた家人が、門を出て深々と頭を下げてくださっていた。

 前から頭を下げていただくのはそう難しい事ではない。地位や力が上になれば、人は簡単に頭を下げる。しかしそれは、その人に頭を下げているのではなく、その人のもっている地位や、力、お金に頭を下げているだけである。そうはわかっていても、それに慣れてしまうとそれが自分自身に対して頭を下げてくれているかのように錯覚する。

 それに対して後ろから拝まれるために必要なものは、相手に対する底無しの親切であり、誠真実である。言うなれば、人が前から頭を下げる場合は目に見えるものに対して頭を下げるのであり、後ろからの場合は目に見えないものに対して頭を下げてくれているのである。前から頭を下げてくれる人と、後ろから頭を下げてくれる人の数を数えてみると、どちらがより難しいかは言うまでもないだろう。

 ある時もっと大切なことに気がついた。果たして自分が後ろから拝める人は何人いるかということだ。後ろから拝めるような人は余りいないものである。それがさも当然のように思っていたが、よく考えてみると、人を後ろから拝めないということは、自分のほうが上だと思っている、高慢以外の何物でもない。「無条件に尊敬できる人なんてそんなにいないもんやな」と豪語してきたが、それは自分の高慢さを自慢していただけに過ぎないと、やっと気がつくことができた。

 それに前から頭を下げてもらうのも、後ろから頭を下げてもらうのも、これは人任せである。自分ががんばった結果であるとしても所詮人任せである。相手の人が頭を下げてくれなければ仕方がないのである。いうなれば自分にはどうしようもないことである。 

 しかし自分が後ろから頭を下げられる人を一人でも多くつくっていくのは、これは自分ができることである。

 人生の価値というのはいろいろな計り方がある。どれだけ名刺の横に肩書があるかということを、人生の目的にするような人も多いように思う。しかし、一生のうちでどれだけの人を後ろから拝めるようになるか、その人を今からどれだけ増やせるかが、一生の目的になるような人生を、私は送りたいと思う。』立教百五十五年三月

 二十六年前の私の文章です。久しぶりに古い教会報の巻頭言の中からこの文章を見つけました。偉そうなことを書いています。

 二十五年前の自分と今の自分、少しは変わったでしょうか。

 会長を二十五年以上もさせていただき、大教会の役員先生にまでしていただき、前から頭を下げてくれる人も少しは増えたかもしれませんが、それと引き換えに高慢の度合いが激しくなっただけなのではないかと危惧しています。

 でも会長を二十五年以上も勤めさせていただいたおかげで、こんな高慢な私でも、信者さんの後ろ姿には自然に頭が下がるようになりました。

 毎日日参をされる方、いつも率先してひのきしんをしてくださる方、こんな私を会長さんと慕ってくださる方、そんな皆さんのおかげで、こんな私でも会長をつとめさせていただいています。

 そして皆さんのおかげで、後ろから拝める人が随分増えたような気がします。決して忖度でもごますりでもありません。私のようなものを会長さんと言ってくださるのはみなさん以外はないのですから・・・。