巻頭言  教祖の時代        10月

 天理教が立教になったのは、三つのいんねんがあったからだとお聞かせいただきます。「教祖魂のいんねん」「やしきのいんねん」「旬刻限(しゅんこくげん)の理」と言い、立教の三大いんねんと呼びならわしています。旬刻限の理とは、人間を宿しこんだとき、最初に生みおろした子数の年限(99万9999年)が経過したときに、神として拝をさそうという日のことになります。

 その教祖がお生まれになった日から立教前後まで、世界ではどんなことがあったと思われますか。

 教祖の誕生は今から約二百二十年前の一七九八年です。

立教は、それから四十年後の今から百八十年前の一八三八年です。その当時の世界の情勢で一番大きな出来事は、フランス革命で、教祖が生まれる五年ほど前に、ルイ十六世、マリーアントワネットが処刑されています。また教祖が生まれた翌年にナポレオンが登場します。

 そして、フランス革命前後に啓蒙思想が発達します。教祖がお生まれになる十年程前に、フランス人権宣言(人間の自由と平等、人民主権、言論の自由、三権分立などのフランス革命の基本原則を記したもの)が交付されます。

 ちょうど教祖が生まれた時に西洋では、今私たちが当たり前だと思っているそのような考え方ができてき、そしてそれが世界の潮流となります。ご都合主義と言われたらそれまでですが、私は神様が旬刻限の理と合わせて、人間の成人をそこまで導いたと思わずにはいられないのです。

 もう少し前なら、専制君主がいて、その王権は神様からのさづかりものであるという王権神授説が主流をなしている時に、人間はみな平等であると言われてもよくわからなかったかもしれません。

 日本だって、明治維新までは、各地に藩主や武士がいて、その身分はほとんど変わらなかったのですから、武士も百姓も同じ人間で平等であるということは、たとえば教祖の「吉田家も偉いようなれども、一の枝の如きものや。枯れる時ある」仰せられたように、明治維新のような旧体制の崩壊を経なければ、なかなか実感がないと思うのです。このことを、たとえば戦国時代に神様が表れて教えてくれても私たち人間には、何を言っているのか分からなかったと思うのです。だから神様は人間が少しずつ進歩して、人間が平等だとか、奴隷とか男女の差はないのだということが分かるようになり、教祖がその教えを説いても分かるような人類の成人を待って、教えは説かれたように私には思えるのです。

 また今の世界の国のほとんどの産業形態である資本主義もその時代にできてきました。資本主義の最初は、一七六〇年代から一八三〇年代にかけてイギリスで産業革命がはじまり、資本主義が始まるのです。資本主義とは、ウキぺディアを引用すると、

『封建制度に次いで現れ、産業革命によって確立された経済体制。生産手段を資本として私有する資本家が、自己の労働力以外に売るものを持たない労働者から労働力を商品として買い、それを上回る価値を持つ商品を生産して利潤を得る経済構造』生産活動は利潤追求を原動力とする市場メカニズムによって運営されます。つまりは、労働力を安く買って作った商品をできるだけ高く売るのが資本主義の根本原理です。コスパという言葉を聞いたことがありますね。コストパフォーマンスの略で、費用対効果で安い費用で大きな効果を得られればコスパが高いということでもてはやされるのです。

 その言葉を聞くと思いだすことがありますね。教祖の「商売人なら、高う買うて安う売りなはれや」というお言葉です。(逸話篇一〇四 信心はな)教祖の言葉は深い含蓄があると思いますが、ここではこの言葉を提示するだけにしておきます。

 いまその資本主義は大きな曲がり角に来ているような気がします。

 十九世紀から二十世紀にはもう一つの大きな潮流がありました。共産主義です。共産主義は、立教の十年後、一八四七年のマルクスの共産党宣言から、レーニンのソ連建国、その後アジア・東欧・アフリカ・カリブ海域において、多くの国が生まれました。しかし、一九七〇年代に入り経済発展の面で西側先進国からの立ち遅れが顕著になったこと、政治的な抑圧体制も広く知られることとなり次第にその権威は失墜、一九九一年のソビエト連邦崩壊に前後して、そのほとんどは姿を消しました。

 人間は平等であり、しいたげられた労働者が資本家の利益を奪取することによって平等な社会が出現するという考えは、その理想を追うべき共産党が自分たちの利益を追うことに汲々として内部が腐敗するという悲しい、しかしある意味では分かりやすい結果となりました。

 教祖が現身でこの世界におられた時代、「人間はみな平等であり、人種の違いや、国の違い、宗教の違いによって差別されるものではない」ということは私たちの理想になったけれども、現実に世界の国でできているわけではありません。

 それは世界でもそうだし、私たち人間においてもそうです。

国にもその平等度に差があるように、人にも差があります。

 マザーテレサやガンジーのような人もいれば、今は禁止されましたが、ヘイトスピーチに代表されるように人を差別することで、自分の鬱憤を晴らしている人もいます。

 それは、私たち一人ひとりの魂に差があるのだと思います。

 私たちは今、成人の道中を歩んでいます。その成人は難しい成人です。

 私たちの手本は教祖です。その手本がありながら、私たちは今手をこまねいているのです。世上のいろいろな原理にがんじがらめにされて教祖のお姿を見失っているのです。

 だけどもうお前達ならできるだろうと親神様はこの教えを今、教えられたのだと思うのです。ユダヤ教のある聖人の言葉を思いだします。

 『第二次大戦中のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)後、多くのユダヤ人は「神に見捨てられた」という思いをひきずっていました。なぜ神は天上から介入して我々を救わなかったのか。若いユダヤ人の中には信仰を棄てる人たちも出てきました。その時、レヴィナスは不思議な護教論を説いたのです。

 「人間が人間に対して行った罪の償いを神に求めてはならない。社会的正義の実現は人間の仕事である。神が真にその名にふさわしい威徳を備えたものならば、『神の救援なしに地上に正義を実現できるもの』を創造したはずである。わが身の不幸ゆえに神を信じることを止めるものは宗教的には幼児にすぎない。成人の信仰は、神の支援抜きで、地上に公正な社会を作り上げるというかたちをとるはずである」』(内田樹)

そしていつまでも自分は成人への道中であるということを忘れないでいただきたい。

 

 私たちはあるべき人間の姿と、そうなるための方法も知っています。

 ただそれを見つめようとしていないのが、私たちの今の姿なのかもしれません。