巻頭言  185年12月

巻頭言 芸の細かいこと     樋口孝徳

 先日不思議なことがありました。それで今回は会長より紙面を頂き、久しぶりに巻頭言を書いてみたいと思います。

 十一月二十七日に、高校時代の友人が教会を訪れてくれました。十月に来るというのを変更してもらっての来訪です。正直あまり会いたいとも思わなかったのですが、わざわざ東京から来てくれるというので敬意を表して、一泊してもらいました。

 冨美代との結婚式に寝坊して来なかった不埒な奴ですが、それでも五十年ぶりぐらいの再会に、彼との話はとても面白いということを、再認識しました。

 そんな彼は教会の子供として生まれましたが、今はほとんど信仰もしておりません。

 話は変わりますが、先日「陽気」誌に、私の文章が載ったことはご存知な方も多いと思いますが、その原稿の依頼を受けたときに、ちょうどひざの痛みが再発したのです。それで、次のように書きました。「年を取れば目も悪くなり、足腰も弱くなります。それが年を取るという姿です。ぽっくりいかしてほしいなどと考えるのは卑怯です。老いの中に楽しみと神様の思いを探しながらこれからも生きていきたいと思います。」中島みゆきさんのエッセイを読んだ時の「人生の長い下り阪には、どんな意味があるのだろう」とうろ覚えですが書かれてあったのを、ときどき思い出していますが、年を取ればどんな人も程度の差はあれ、肉体が弱ります。それが神様の思いであるなら、それを避けずに行きたいと思っていることを、半分正直に、半分ええかっことして書きました。

 友人から次のような文章が届きました。
「エッセイ、読みました。相変わらず巧みな文章ですね。イメージ通りでした。飾らず、正直なところに共感を持てました。奥様を亡くされた痛みが、ひしひしと感じられました。しかし、オレとしたら、そんな樋口の想いを想像できず、慰めの言葉ひとつかけることが出来ず、無神経極まりました。ごめんなさい。

にも関わらず、ご家族からも心からのおもてなし。ありがとうございました。

これからもお元気で過ごされる事を願っております。」とこちらが恥ずかしくなるような、丁寧な文面でした。

そんなこともあり、ちょうど「天明」誌の編集後記も当たっていたので、「陽気誌から、原稿を頼まれました。あの陽気ですよ。まったく陰気で根暗な生活をしている者からは、眩しい雑誌です。

十二月号に載っています。その中で「年を取れば目も悪くなり、足腰も弱くなります。それが年を取るという姿です。ぽっくりいかしてほしいなどと考えるのは卑怯です。老いの中に楽しみと神様の思いを探しながらこれからも生きていきたいと思います」とええかっこを書きました。するとその日から、治まっていたひざの痛みが再燃しました。やっぱりええかっこは、するものではありませんね。

「年を取れば目も悪くなり、足腰も弱くなります。それが年を取るという姿です。ぽっくりいかしてほしいなと考えています」に、ここだけででも変更します。

いよいよ大教会の百三十周年記念祭も半年あまりに迫りました。ええかっこ書くとなんか起こりそうなので、事実だけ叙述しておきます」と書きました。「陽気」の文と、天明の文面を、二編を読んで一篇になるという、芸の細かいところを自慢したかったので、友人と、編集者に送りました。

すると友人から次のような言葉が送られてきました。

20:50 いえいえ。

20:50ぽっくりいかしてほしいなどと考えるのは卑怯です。老いの中に楽しみと神様の思いを探しながらこれからも生きていきたいと思います。

21:03 この部分は、宗教人の覚悟を述べて、感心しました。

なるほど! 信仰を持つとは、そういう事か! と、納得した一文でした。

しかし、そのあと直ぐに、樋口の覚悟は、神と言う存在を信じる、信じないにかかわらず、人として素晴らしい覚悟だと、思い直しました。

ですから、変更などしないでください。

21:06 腰が痛くなったのは、ええカッコしたせいだとは思いません。きっと、本心では、樋口もそう思っているでしょう。ええカッコしたせい、は、樋口一流の自虐精神の表れ、と理解します。

21:09 ムリせず、なるだけ歩いてください。

膝も良くなる事を願っています。

21:12 蛇足ですが、

ぽっくりいかしてほしいなと考えています、では、笑いは取れますが、心に響きません^_^

 この文章を読んで、神様から来たような気さえして、とても恥ずかしくなりました。

 妻を失ったダメージは悔しいことに、私の想像以上だったようで、鬱々とした日を過ごし、孫との同居の毎日というような喜ぶべき日常にも喜べず、こんな御守護がありましたというような他の会長さんの話にも、心が動かず、自分に都合のいい話ばかりするなという思いが止められませんでした。

 前から思っていたことですが、天理教は目に見えた御守護ばかりを寿ぎすぎてしまったのではないかと思っています。それによって病気になったり、まして亡くなったりした人のフォローがおざなりになっているのではないでしょうか。生の喜びと同様に、病気や死の悲しみに、深く付き合うのも大事な宗教者の使命です。そんな思いにそれでいいよと神様が言ってくれたようなそんな友人との会話でした。五十年ぶりの友人を使うとは、神様ってやっぱり芸が細かいと思う数日間でした。