165年のカントウゲン(関東言)


立教165年9月

何故私だけが・・・・・・

顔を見ていてよく思うことがある。目は二つ、鼻は一つ、耳が二つに口一つ。美人だ、美男子だといっても、ついているものが多かったり少なかったりというのではない。ちょっとした配置の違いで美人になったり、ならなかったり、そして不思議なことに一つも同じ顔はない。

以前コマーシャルで、かわいい少女が「人生勝ったも同然」と言っていたのを覚えているが、確かに美人は得だと思うが、美人の全てが人生に勝てるわけではない。美男子で生まれた私が言うのだから間違いはない。
みんな違う顔で、違う体型で、親が違えば、妻も違うし子供たちもみな違う。違うのが当たり前なのに、「何故私だけが・・・」という言葉を言ったり、聞いたりすることがある。病気やいろいろな事情で苦しむとき、「何故私だけがこんな病気になって・・・。」とため息をついてしまう。言っても詮無いこととは知っていても、思わず愚痴のようにこぼれてしまうことがある。
先日もある信者さんとの相談の中で、その言葉を聞いた。「何故私だけが、こんな病気に・・・」と言われても、返す言葉はない。その何故に答えられる答えはない。

みんな、顔や体が違うように、心も違う。かかる病気も違えば、神様の思いも違うはずだ。それなのにやっぱり、「何故私だけが」と言ってしまう。

父母から祖父母、曾祖父母・・と連綿と続く遺伝子を少しずつもらって、今のあなたの顔があるように、前生、前々生・・・と、連綿と続くあなたの魂につんできた徳といんねんが、あなたの今の基礎となっている。

しかし、人が「何故私が」と問い掛けるときは、そんなことを聞きたいのではない。何故こんな事情、身上が自分の身に降りかかってくるのかがわからない。もっといえば何故私だけがこんな不幸にならなければならないのかということなのだ。その証拠に「何故私はこんなに幸せなんでしょう」と、聞かれたことはない。最もそんなことを聞かれた日には、腹が立って眠れないかも知れないが・・・・。

「何故私だけが」と思うときにはこう思ってみるしかないのではないか。

わたしだけにではなく、みんなに必ず来ることがある。死ぬということだ。その死を前に神様は、私に白羽の矢を立てて、自分の人生を振り返る機会を与えてくれたのだと。「何故わたしだけが」と思うならば、私の人生をふりかえってみるしかない。そしてそのとき思い出して欲しい。何故私だけがこんなにしあわせなのだろうか、といったい何度思えただろうかと。
もし一度もないならば、ちょうどよい機会だ。やせ我慢でもいい、一度今言ってみよう。

「何故私だけがこんなに幸せなのか」と・・・。


立教165年9月

いったいいつからそんなにえらくなったのだろう。

いったいいつからそんなにえらくなったのだろう。

最近そんな言葉が呪文のように湧いてくる。

 

会長さん、相談がありますという信者さんと神様の話をしながら、いったいおまえはいつからそんなにえらくなったんだという声がどこからか聞こえる。

 

親の七光という。八つのほこりのうち、親の七光で七つまで消してもらうことができるけれど、最後の高慢だけは消えないので、親の跡を継いだものは高慢だけがひたすら膨張するなんて、冗談めかして言っていたけれど、本当にその通りだと思う。

 

検定講習の本部員講話で、受講生が居眠りをしているのを見たある本部員先生が、「おまえ達のようなものが、天理教を、教祖をくいものにしているんや」と烈火の如く怒鳴られたと聞いたことがある。

その言葉が頭を離れない。他に収入の糧のない私は、まさしく教祖をくいものではないが、言い方は悪いが「飯の種」にしているのは事実だ。教祖を飯の種にしながら、教祖を切り売りしているだけではないのか。しかも商品を使ってみることもせず、口先三寸だけで売っているのではないだろうか。

 

いったいいつからそんなにえらくなったのだろうか。会長と言う立場を与えられたときか。

立派な神殿が建ってからだろうか。

それとも子供の親になったときからだろうか。

妻が三つ指ついて来てくれた時からだろうか。

それとももっと昔、教会に生まれたときからだろうか。

 

 

人間は二度死ぬと聞いたことがある。

一度目は実際の死.そして二度めはその人を覚えている人がすべて死んだとき、その人は二度目のそして本当の死をむかえるというのだ。

 

教祖はおぢばでご存命とお聞かせいただく。いくら教祖がご存命でお働き下されようとしても、私達の心の中の教祖が死んでしまっていては、働きようがないのではないか。            

 

自分の庭 165年7月

「公衆道徳のない人が増えてきましたね。」

ある人との会話である。

「公衆道徳って?」

「たいそうなことではないのですが、昨日車で走っていて信号で停車したんですよ。すると前の車の運転席の窓から吸い殻入れの中のたばこを全部捨てるのですよ。」

「自分の家の庭だったらそんなことをする人はいませんよ。」と彼の憤懣はとどまらない。確かにそういえば車で走っている時、たばこを捨てる人が増えたように思う。灰皿に入った吸い殻を撒き散らした人には、私も一度しかお目にかかっていないが、吸っているたばこを、しかも火の付いたままぽいと捨てる人はよく見かける。信号でとまった時、「落とし物ですよ」と渡したい気持ちになるぐらいだ。

そんなことを話していた後、面白い本を読んだ。「まれに見るバカ」という題名だ。その中でこれが全身バカだというのを紹介しよう。

バカが多くて困ります。というコマーシャルが放映禁止になったことがあったが、快刀乱麻の本である。

「彼らには悩みがない。物事を深く考えることもないから、傷つくこともない。生まれついた自分のまま、生きるだけでいいのだ。この種のバカはただでさえ幸福なのに、破れナベにとじブタといおうか、同じようなバカと結婚して、自分と瓜二つのバカ子供を生産し、もう向かうところ敵なしの状態となる。

そんな一子相伝のバカなどいるのかと疑問をもたれる向きもあろうが、いるのである。彼らの特徴をまとめてみよう。これが全身バカだ。

1.とにかく自分のことだけしか考えない。

 つまり他人がいない。目の前にいてもいないも同然である。

2.恥を知らない

他人が存在しないからそもそも恥が成立しない。恥を知るという高度な倫理など全く無縁である。

3.分の正しさを少しも疑わない。

もし自分の非を認めようものなら、自分の存在自体が崩壊してしまう。だから悪くても、悪くない。まちがっていても、まちがっていない。もうでたらめだが、でたらめでいいのである。とにかく自分は正しい。

4悪いのはすべて他人である。

彼らの頭の中には「責任」という文字はない。もし自分に非があるのなら、それはすべて他人が悪いからである。自分の責任を転嫁するためだけに、他人は存在している。

5.一見、もっともらしい言葉を口にする。

口では正義、根性、やる気をいう。他人に迷惑をかけるな、とも言う。しかし自分がミスをすると、子供みたいな見え透いた言い訳をする。それが自分のけちくささを露呈していることに気づかない。

6.欲望を我慢できない。

行動原理は「だって欲しいんだもん」「嫌なんだもん」である。何故自分が我慢しなければいけないのか。自分には欲しいものを手に入れる「権利」がある。「自由」もある。我慢すべきなのは、自分以外の他人である。

7.自分が助かるためには人を裏切る。

普段は一見善人なのである。だが窮地に陥ると、細部に宿ったバカが出てきて、それはもう平然とウソをつく。」  

のだそうである。

どんなコメントをすればいいのか悩んでしまうが、すべてに当てはまらなくても、そんな人をちょいちょい見かける。というより自分にも随分当てはまるところがあるような気もする。

確かに最近自分勝手な人が増えてきた。

先ほどの彼の言うように、車から吸殻を撒き散らした人も、おそらく自分の家の庭だったらそんなことはしないだろう。

逆に天理では落ちている吸い殻をわざわざ拾っている人もみかける。人にとって自分の庭の大きさはずいぶん違うのかもしれない。

人には目に見える庭と目に見えない庭があるようだ。

教会長にならせていただき目に見えない庭は少しは広がったように思う。人の幸せや不幸を自らの喜びや痛みとして感じる範囲が少し増えたのだ。今まではせいぜい自分か自分の家族ぐらいの喜びや痛みしか本当に共に感じる事は出来なかったが、今では(ちょっとええかっこをしていると言えなくもないが)信者さんの喜びや痛みを自らの喜びや痛みと同じぐらいに感じる事が出来るようになった。

自分の庭が少し増えたのかも知れない。

目に見える庭が大変広いのに、目に見えない庭はほとんどない人もいれば、その逆の人もある。

天理で歩きながら吸殻を拾っている人は、その人の歩く場所はすべて自分の庭に  違いない。

「この地球は神の身体や」と宣言された親神様には及ぶべくもないが、せめて自分の庭をもう少し広げたいものだと思う
大きな目   165年11月

少し旧聞に属するが、先日北海道で偽装牛肉の払い戻しに、大勢の人が詰めかけ、払い戻しは売った代金の何倍にもなったという。何倍にもなったというのだから、かなりの人が買ってもいない牛肉の料金を払い戻してもらったことになる。日本人もここまで落ちたかという記事やコメントが多かったが、そんなことに日本人はここまで落ちたかと声高に言う必要はない。こんな日本人もおれば、そうでない日本人もいるだけの話だ。

 うそをつけるのは、そのうそが自分にとって痛みにも恥にもならないからだと思う。
 「恥を恥と思わねば、恥をかくことなし」とどこかで読んだ気がするが、恥だと思わなければ、それを恥ずかしいことだと分からなければ、確かにその人にとって恥をかくことにはならないだろう。その行いが自分の心に何の痛みも感じなければ、人はあの小学生大量殺傷事件の犯人のように平然と何でもできるのだ。
 
「最近は何故それをしてはいけないか、どんなことでも説明しなければならないのですよ」と、ある小学校の先生に聞いたことがある。

  いつから何もかも説明が必要になったのだろう。だめな事はだめと自信を持って言えなくなったのだろうか。
  だめな事はだめと言えなくなったら、良いことも随分フラフラしだしてきた。
 親が自分の生き方に自信を失い、一番伝えなければならない生き方を伝えることができなくなれば、子どもに残せるのは目に見えるものだけになってしまう。

 そんな人々が増えてきたら、うそを言っても、もらえるものはもらおうと考えても何の不思議もない。
  先日ある若い信者さんと話をした。
  「神様の存在を信じていますか」と、そんなに熱心じゃない信者さんなので、半ば否定の言葉を待つように聞いてみた。
 するとその方は「信じています。私は天理教で育ったわけではありませんが、よく父母から神様はどんなことも見ていると聞かされました。ですから神様がいつも自分のすることを見ておられるのだということだけは子供にもしっかり伝えたい」と、話された。

 「誰が見ていなくても、おてんとう様(お日様)が見ているよ」とよく聞いたものである。誰かに言われたという記憶があるわけではないが、どこでも誰でも言っていたような気がする。そんなことを本当に信じていたかどうかはわからないが、それを是とする社会があったのだと思う。
 人間はひとりだけで生きていけるものではない。誰かに見つめられているという思いは、人の生きていく上での大きな糧になるだろう。
 
 残す財産もない私は、せめて子どもに、自分達がいなくなっても、おまえをいつも見つめ心配している大きな目のことだけは、伝えておきたいと思う。