178年のカントウゲン(関東言)

巻頭言   徳力   178 1

身体の持っている力をさらに鍛錬することによって体力が付きます。頭を使って知識を広げていくことによって知力がつきます。そしてもう一つ人間には人生を真っ正直に生きることによって徳力ともいうような力がつくのではないかと思います。

徳力というものは、どんなものだろうか。先日、三代真柱様の追悼特集の中にわかりやすい言葉で書かれていた。

「歌舞伎座や新橋演舞場で、芝居が始まって舞台へ出ると、前真柱様がどこにおられるのかすぐにわかりました。いわゆるオーラが感じられるというのでしょうか。眼光の鋭さもさることながら、存在感がほかの人と全然違うのです。これはほかの役者さんもおっしゃっておりました。中略 新橋演舞場内で、車いすを押させていただいたのですが、行く先々で人混みの中に道が出来るのです。前真柱様のオーラの強さをあらためて感じました。」(中村児太郎氏・歌舞伎俳優)
そんな前真柱様ほどのオーラはなくても、目に見えないけれども、確かに徳力を身に着けている人々を昔は数多く見たように思う。

戦前生まれの古い天理教の信者の方々は、大きな徳力を身に着けておられた方が多かったように思う。学校の実習で教会に滞在した若い専修科生が、にをいがけに出た先で話をしたとき、一通り聞き終わった未信の人に、「あんたの言うたような話なら、近所の○○さんの方がよっぽどわかりやすい話をしてくれる。あんたも一回聞きに行ったらどうや」と近所の信者さんの名前を挙げられたことがある。昔はそんな、教会長に一目も二目もおかれていたような信者さんが、大勢おられた。その理由を私は次のように考えている。

戦前天理教は弾圧されていた。弾圧されている中でその宗教を信仰するということは、私が想像する以上に大変なことだったと思う。だからこそ戦前生まれの天理教信者の多くは、周りがどういっても自分は自分の信じる道を生きてきたという自負がその中にあったように思う。だから、そんな人にはみんな何か犯しがたい威厳があった。

知力が勉強によってつくられ、体力が運動によってつくられるように、徳力は自分の人生をしっかりと受け、自信を持って通ることによって培われるものではないかと思う。