169年のカントウゲン(関東言)

巻頭言 教祖百二十年祭を迎えて  169年 2月

先月一月二十日、教祖百二十年祭の年の春季大祭を迎えるにあたり、次のような手紙を信者さんに送った。

「厳しい寒さが続きますが、お元気でお過ごしのことと存じます。さて、今月も一月二十日の春季大祭がいよいよ近づいてまいりました。今月の春季大祭は、教祖百二十年祭の年。一月二十日に教祖の御前で教祖百二十年祭の祭文を奏上させていただきます。いうまでもなく教祖の年祭は、明治二十年一月二十六日の教祖が現身を隠された日、世界すけを急き込まれる教祖の思いと、その教祖の思いを受けて人間がはじめて「命捨ててもと思うもののみつとめにかかれ」と教祖の思いと一つになった元一日を祈念して勤めさせていただく日であります。今からちょうど十年前教祖百十年祭の時も、「どうでもつとめさせていただきたい」という思いの者で勤めたいとお話しして、感激のおつとめをつとめさせていただいたことを思い出しています。今回はご連絡が遅れましたが、今回もこの二十日には、「どうでもこの日のおつとめをつとめさせていただきたい」という思いの者が集まって、真剣の上にも真剣に、おつとめをつとめさせていただきたいと念願いたしております。そしてこの私達の「どうでも」という思いこそが、親神様、教祖が一番お待ちくださっている心なのだと思います。皆様方にも、私の意のあるところをお汲み取りいただきまして、今月二十日に是非お帰りいただき、ともに明治二十年一月二十六日を偲び、教祖の思いを再確認させていただく日にさせていただきたいと存じます。諸事お忙しいとは存じますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。」                    

私がこの手紙を出した一番大きな理由は、この月が特別な月であり、特別な月であるという私たちの思いが、この月を特別な月にし、この日を特別な日にするのだと思ったからである。そしてこの日に「どうでも」との思いを持たずに、一体いつ持つのかというぐらいの思いで、この日を共に迎えたかったからでもある。
この手紙を読んで会長さんの思いがよく分からせていただいたとお話しくださった人もいるし、欠席はされたが、どうしても都合つかず大変申しわけないとの電話もいくつかあったので、そういう意味でも結構であったと思っている。
みんなの思いが一つになって、二十日の春季大祭のおつとめは、近年では一番真剣なおつとめだったと自負している。誠にありがたいことであったし、その春季大祭への皆さん方の物心両面での心尽くしに改めて御礼を申し上げたい。
誠にありがとうございました。
この年を教祖百二十年祭の年としてとの真柱様の思いを胸に、今年一年共々に精一杯つとめさせていただきたいと思っています。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 

巻頭言 百日の説法 屁一つ   169年 3月

「百日の説法 屁一つ」ということわざがある。意味は、お坊さんのありがたい説法も、屁一つですっかり値打ちが下がるということから、長年の苦心も、たった一つの小さな過失からすっかり無駄になってしまうということと、ある。
もちろんことわざの意味はそういうことなのだと思うが、先日ふとこのことわざを思い出し、少し考えてしまった。
 まず百日も説法をしたお坊さんに頭が下がる。私なんか一時間以上話をしたことがない。
それにしても百日も説法をしたのに、屁の一つぐらいで、すっかり値打ちを下げてしまうとは、聞き手もよほど程度が悪いか、説法がひどかったのか、その両方か、どちらにしてもお坊さんには気の毒だと思う。同じ宗教家として、といってもこちらは一時間以上話をすると、熱が出るから同じとは言われたくはないだろうが、お坊さんに同情しきりである。
いやまて、このことわざは、「百日の説法 屁一つ」で終わってるから、本当は解釈が違うのではないかと思えてきた。

それでは私の想像するシーンを再現します。

お坊さんが毎日毎日ありがたいお話を百日続けられた。そして百日目のお話が終わり、聴衆が和尚の素晴らしいお話の余韻にまだひたっている間に、和尚は一礼して、まさに席を立たんとしたとき、大きな音で「ぷうー」と一発、放屁をされた。
放屁一発、何も言わずにそのまま別室に下がられた老師は、いぶかる弟子に一言、「百日の説法、屁一つ。喝!」。

きわめて私流に、次のような解釈をする。
 百日の説法もありがたいだろうが、話にのみ感心したのでは、自分の都合の良いように話を解釈しただけで、本当の信仰がわかったとは言えん。そのために屁を一発放ったのである。その屁一発でわしの話が台無しになったと思うのはもってのほかである。
百日話を聞かせていただけたのは、聞ける耳があり、身体があればこそである。その根本に感謝せずして、話にのみ感心しても意味のないことである。逆に話を聞ける耳を貸し与えられていることに感謝すれば、次に話すことの出来る口に、歩いてきた足に、そしてそれらがついている身体にも感謝の念が沸いてくる。そうすれば百日も話を聞きに毎日送り出してくれた家族に、いつも一緒に行った隣人にと、感謝の念は留まるところを知らずに沸いてくるのである。
 つまりは、この身体がありてこその説法であり、この身体を貸し与えられたことへの感謝が根本であることがわかる。 
しかしてその身体は、この屁のような臭いものも出すのであり、また尿、便などの汚いものも出てくるのである。しかしそれも、この屁が出ず、尿も便も出ないとしたら、まさに人は死ぬしかないのである。そのことが分かれば、百日の説法の一番言わんとしたところがわかるのであり、まさに百日の説法は、屁一つに象徴されるのである。
 老師、再び言葉をついで呵呵大笑。
「百日の説法、屁一つ。かああああっつ!」。
老師、あまりの大声についに入れ歯が飛び出しにけり。

巻頭言         言うたやないか。思うようにしてやった  169年 4月

今年は特に、言ったことが言ったようになる年であるから、皆さん言動にはくれぐれもご注意をと、年明けから幾度となく申し上げている。その根拠は、教祖が現身を隠された明治二十年に由来する。

明治二十年、教祖の身上優れず平癒を願って、命捨ててもとの思いでおつとめをつとめさせていただいたが、人間の思いと神様の深い思惑は違い、教祖は身を隠された。

その直後のおさしづに、

さあ/\ろっくの地にする。皆々揃うたか/\。よう聞き分け。これまでに言うた事、実の箱へ入れて置いたが、神が扉開いて出たから、子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。しっかり見て居よ。今までとこれから先としっかり見て居よ。扉開いてろっくの地にしようか、扉閉めてろっくの地に。扉開いて、ろっくの地にしてくれ、と、言うたやないか。思うようにしてやった。さあ、これまで子供にやりたいものもあった。なれども、ようやらなんだ。又々これから先だん/\に理が渡そう。よう聞いて置け。」との有名なおさしづがあるが、このおさしづの「言うたやないか。思うようにしてやった。」というのは、その日明治二十年一月二十六日の早朝のおさしづで、

「さあ/\すっきりろくぢに踏み均らすで。さあ/\扉を開いて/\、一列ろくぢ。さあろくぢに踏み出す。さあ/\扉を開いて地を均らそうか、扉を閉まりて地を均らそうか/\。」との問いに、一同より「扉を開いてろくぢに均らし下されたい」と答えがあり、さらにその答えに応じて、

「成る立てやい、どういう立てやい。いずれ/\/\引き寄せ、どういう事も引き寄せ、何でも彼でも引き寄せる中、一列に扉を開く/\/\/\。ころりと変わるで。」という神様との問答をおっしゃっておられるのである。

 つまり、一月二十六日早朝、教祖の身を案じた人々の伺いに対して、神様から「世界をろくぢ(平らな地)に踏み均(なら)すが、扉を開いて地を均すか扉を閉めて地を均すか」と問われて、深い意味を考えずに扉を開けたほうが陽気でよいだろうと、扉を開けて地を均してくれとお願いしたのである。

 そしておつとめが終わった午後二時、教祖は現身を隠される。人々は動転してもう一度神意を伺う中に、「お前たちが、扉を開いて地を均してくださいというたやないか、思うようにしてやったのや」とのお言葉が下るのである。

今ならば教祖は神様の社であるから、その社の扉を開くというのは、神様がその社から出られるということだから、教祖の現身は亡くなるのだということが分かるが、当日の緊迫した状況の中でそこまで思い当たる人はなかったのである。

私は高校の頃はじめてこのお話を聞いたとき、もっと神様も説明してやればよいのにと思ったものである。

しかし今はそうは思っていない。そしてこの話は明治二十年一月二十六日の話だけではない。今も人間はそれを意識するしないにかかわらず、誰もが「言うたやないか。思うようにしてやった」と、神様からお聞かせいただく御守護をいただいていることを決して忘れてはいけないのだと思う。

私たちの御守護は、「願いどおりの御守護ではなく、心どおりの御守護」とお聞かせいただく。おふでさきには

しかときけくちでゆうてもをもうても

どこでゆうてもをもふたるとて   五―八十七

(しかと聞け 口で言うても思うても 

どこで言うても思うたるとて)

そのままにかやしとゆうハこの事や

神がしりぞくみなしよちせよ    五―八十八

(そのままに返しというはこのことや 

    神が退く 皆承知せよ)

とお書きくださっている。神様は言うたことだけではなく、思ったこともそのまま受け取り、お返しくださるとおっしゃるのである。

それは明治二十年と同じく、その意味がわかっていてもわからなくても同じことなのである。神様から見れば、「言うたやないか。思うようにしてやった」という御守護をくださっているのである。

教祖の年祭の年は、特にすぐに言うたやないか、思うようにしてくれる度合いが早くて強いように思う。私自身が年始早々そんな経験をいくつもしたので、信者さんがたにもそんなお話をしていた。

先日もある信者さんが入院されたが、その方は「これさえすんだら、わしはもうどうなっても結構ですから」とよく言われていたが、その方に「言うた通りにしてもらいましたね」というと、「やっぱりもうちょっと・・・。」とのお話であった。

大難に至らなかったら笑い話ですむが、私達は平気で「切り口上・捨て言葉」を言ってしまう。親の教えをお聞かせいただきながら、それはそれ、これはこれと日々の生活と信仰を分けている。

重ねて言うが、私たちの今は、私たちの言うたこと、思ったことが現れてきた結果なのである。

もし今自分の現実に不満があるとすれば、それは間違いなく自分のしてきたことの通り返しの結果なのである。それは人に言われてそう思えるものではなく、自分が思うしかないのである。そう思えてきたとき、それがいんねんを本当に自覚できたときなのだと思う。

戦前ある教会の初代は、知人宅でお金を盗んだと疑われ、娘を奉公に出してその契約金で払いをしたそうである。後日別のところからお金が出てきたことに驚き、知人が詫びながら初代に尋ねると「私は盗んだ覚えはありませんでしたが、これは前生のいんねんをお見せいただいているのだと思って、お払いしました。」と言ったそうである。

東本大教会初代の中川よし先生は、教会でお金が無くなったとき、教会に住んでいるものすべてを集めて、幾度となく誰か心当たりの人はいませんかと尋ね、返事がないのを見て、「あなたたちは何を信仰してきたのだ。これだけの人の中で誰も、前生のいんねんを自覚して、私が盗りましたという人がいないのか」と嘆かれたそうだ。

そんな話を思い出すとき、私達はそんな信仰から随分遠いところにいるのだと思う。

せめて今この旬に、誰彼への不満を言挙げする前に、自分がそうはしてこなかったか、という反省を少しでももてるような生き方をさせていただきたいと思う。


巻頭言 何回目の人間? 169年7月

 先日「松紳」という島田紳助と松本仁志のトーク番組をテレビ (平成十六年九月二十九日の再放送) で放送していたが、島田紳助が、「人間は死んでも生まれ変わるのや」と、言っていた。面白かったので、紙上に抄録する。

「人はいいことをして徳を積んだら人間に生まれ変われるが、徳を積んでない人は他の生き物に生まれ変わるのや。たとえば新幹線の中で大声で携帯をしゃべっているあほなおっさんがおるやろ。あんなおっさん怒ったらあかん。人間になるのが初めてなんや。初めてやからしゃない。学校で同じように授業を聞いていてもわかるやつとわからんやつがおる。おかしいと思うやろ。そいつは(人間を)四回目なんや。四十歳でもすごい四十歳に出会うこともあるやろ。人間的にすごく大人で明らかにこの人には負けたと思う瞬間があるやろ。あれは回数で負けているんや。えらい高僧になるような人は三十回・四十回生まれ変わっているのやと思う。非暴力で訴えたガンジーさんなんか四十回も五十回も生まれ変わっているのやと思う。一回目は我慢できんと殴り返していたと思うのや。

エレベーターでこちらが出る前に乗り込んでくる人おりますやろ。あれみな一回目ですな。それ怒ったらあかんねて。

老後のために人はお金をためる。たまったら次に何をするかと言えば、生まれ変わるための徳を積まなあかん。老後のお金がなくても次に生まれ変わるために徳を積んでおかなあかん。人に親切にする、やさしくする、みんなのためにする。車から道路へごみをほっているような奴は絶対にあかんで。

人間は生まれ変わるけれど、ちゃんと前世の記憶を消してくれる。だから生きていけるんや。もし知ってたらものすごく、しらけるで。小学校三年生ぐらいで、「世の中そんなもんや」と言い出すね。デジャブと言うのがあるやろ。ちょうどデジャブぐらいで残っているから人は生きていけるんや。

せやから、道であほなおっさんやおばはん見ても怒ったらあかんで。おっさん一回目かと思たらええんや。そう思うたら腹立てへんで。一回目やから、慣れてへんなあと思うたらええねん。ええことせなあかんね。」

松本仁志が言う。「僕小学校の時に同級生と温度差を感じていたんです。なんかこどもぽいなあっと。あっ、鼻くそ食べてる、しょっぱいのに、何で分かるのやろ食べてないのに。」

「俺も先月フランス料理初めて食べたんや、そのときこれ食べたことあると思ったんや。フランス人やったんや」という落ちで終わるのですが、なかなか面白いと思うし、生まれ変わりについては私もその通りだと思う。 

特に私達は「元の理」を聞かせていただいており、九億九万九千九百九十九人の子数の年限がたったときが立教であり、ちょうどこれと呼応するように立教の時の世界の人口も推定で九億から十億人ぐらいだそうである。今は六十二億人余、これから先は私の想像に過ぎないが、二百年足らずで人口は七倍になっているのだから、七人のうち六人は人間になりたての人だと考えても不思議ではないといえる。

そういえば、自分がどれだけ人に迷惑をかけたり、周りのものがどんな思いで付き合っているかもわからない人や、常識に欠ける人が増えたように思うけれど、人間の初心者が増えたのであればそれも仕方がないことなのかもしれない。

 それではお前はどうだって?

 前に私の知人が本部で教会長の研修を受けたときに、本部員の先生がおっしゃったそうです。「私はあなた方の前世がどんなものだったかは、一人ひとりと付き合っていないからわからないけれど、一つだけわかっていることがあります。それは皆さん前世も必ずよふぼくであったということです。」とおっしゃられたそうです。

よふぼくですから、前世も人間だったということですね。

来世については、ちょっと自信がありませんが・・・・。

 

   

巻頭言 みやかげ 169年 8月

先日、東吉野で育った同年代の人と田舎のことを話した。

夏は、長いこと泳いでましたねえという話になった。田舎の夏は暑いといっても長時間の水泳は身体を冷やし、唇が紫色になってがたがた震えて、熱い岩にピッタリと抱きついて身体を温めてまた泳いだものでしたね。という話になるとほんまやと懐かしそうに相づちを打たれた。

本当に考えてみれば夏休みは泳いでばかりいたような気がする。教会の裏が川で、「みやかげ」という優美な名前の水泳場だったのでいつもそこで泳いでいた。泳ぎも誰かに習ったわけでもないが、大体は年上の子が優しく、あるいは厳しく教えてくれたおかげで、自然に泳げるようになった。私の場合は厳しくバージョンで、川に放り込まれて泳げるようになったように思う。その放り込んだ張本人は現在信者さんなので、あの時は溺れて死にそうでしたと時々思い出したように言うことにしている。結婚式の一口話に「結婚式のときの新婦は本当に食べてしまいたいくらいに可愛かった。今思えば何故あのときに食べてしまわなかったかと悔やんでいる。」という話があるが、あまり言うと、「なんであの時死んどかへんだんや」と逆襲を食らいそうだからである。

 川も随分変わった。教会の裏は竹やぶで川に向かってなだらかに下がっていた。伊勢湾台風以後護岸工事が進み、コンクリートのよう壁が出来た。よう壁から川へ降りるのに最初は木の簡略な階段だけで、下りるのがとても恐く、何回か夢に見た記憶もあるぐらいだ。子供の時だったことを差し引いても堤防も随分低くなったように思う。昔は川の砂をよくダンプで浚渫(しゅんせつ)していたが、今はそれも出来なくなったので川床が上がってきたのである。会長になった十六年前でも川からの堤防の高さは私の身長を越えていたが、今は胸辺りしかない。きれいな砂浜だった「みやかげ」も、今は葦に覆われている。「今の子も泳いでいますか」と聞かれたので、「昔ほどではないでしょうね」と答えた。「今は他に遊びもいっぱいありますしね」というありきたりの結論になったが、やっぱりちょっと寂しいような気もする。

 泳ぎ疲れて帰った時に、たまにではあったが、井戸で冷やしたスイカを食べた。父親がいて、母親がいて、坪井のおばちゃんと前田先生と、他に誰がいるのだろう、裏の縁側に座って、みんなで生ぬるいスイカを食べている。

私の心のアルバムの一枚である。

 

 

        

巻頭言 何も心配するな 169.9

九月二十六日の理のお許しをもって、鷲家分教会の会長が、樋口喜徳氏より樋口敦徳氏に代わる。就任奉告祭は、既報のように、十月二十九日に勤められるが、会長が代わるというのは何十年に一度の大きな慶事なので、是非みんなで参拝させていただき、共にお祝い申し上げたいと思う。

私が三名之川に来させていただいたとき、三名之川の会長であった兄が鷲家の会長に就任した。

それから既に十六年余り経つ。

十六年前、私が三名之川に行かせて頂く話を父としていたとき、父は最期にこう言った。「三名之川は、お前の祖父母と、父母とそして兄夫婦と三代が伏せこんだ教会や。お前は何も心配せずに行かせて頂いたらいいのや。」

 その言葉どおり、親神様・教祖のご守護は言うまでもないが、三名之川の信者さん方の真実のご協力によって、本当に私は何も心配することなしに教会長をさせていただいている。

 十六年の間に、神殿普請をさせていただいたし、隣の駐車場も不思議なめぐり合わせの中で買わせていただくことが出来た。

 それ以上に真実の信者さん方に恵まれ、いまも楽しくお育て頂いている。本当に父の言った言葉どおりだなあと、今も時々父の言葉とあの時の情景を懐かしく思い出す。

 「三代が伏せこんだ教会や。お前は何も心配せずに・・・」という言葉は、聞きようによっては傲慢なようにも聞こえるが、教祖のひながたを目標に、言うにいえない道を通ったという自負が父にはあったと思うし、今も祖母や父の話を涙ぐみながら話される方がいてくれるという事実ひとつとっても、確かにそれだけの道は通ってくれたのだと思う。

 しかし今私が会長になって、十六年が経ち、祖父母や父母に育てられた人も、だんだん少なくなってきた。

 そして今、お前は子供たちに「お前は何も心配することはない」と言えるかどうかを考えたとき、言うことに躊躇するどころか使いすぎた徳の大きさに、言う言葉もないような気がする。

といっても、神殿普請が完成した時に、私の長男には風呂場で「伏せこんだものは父が使い果たしたので、お前は一からしっかりと徳を積め」と申し伝えてあるので、彼は彼なりにがんばらねば仕方がないと思ってもいるようだ。

 ところで、兄は息子にどんな言葉を言ったのだろうか。本当は一寸聴いてみたい気もしている。


巻頭言  膳     169年10月

先日「陰膳〔かげぜん〕」という懐かしい言葉を聞いた。

辞書によると「旅行などで不在の人のために、家族が無事を祈って供える食膳」とある。戦争中は、出征した人の安全を祈って陰膳をした人も多かったらしいが、最近はほとんどその言葉を聞くことはなくなった。

教祖伝逸話篇には、次のようなお話が残っている。 

「明治十五年十月二十九日(陰暦九月十八日)から十二日間、教祖は奈良監獄署に御苦労下された。
  (中略) 

十一月九日(陰暦九月二十九日)、大勢の人々に迎えられ、お元気でお屋敷へお帰りになった教祖は、梅谷をお呼びになり、「四郎兵衞さん、御苦労やったなあ。お蔭で、ちっともひもじゅうなかったで。」と、仰せられた。
 監獄署では、差入物をお届けするだけで、直き直き教祖には一度もお目にかかれなかった。又、誰も自分のことを申し上げているはずはないのに、と、不思議に思えた。
 あたかもその頃、大阪で留守をしていた妻のタネは、教祖の御苦労をしのび、毎日蔭膳を据えて、お給仕をさせて頂いていたのであった。
 そして、その翌十日から、教祖直き直きにお伺いをしてもよい、というお許しを頂いた。」(教祖伝逸話篇一〇六 蔭膳)

 逸話篇では蔭の字が使われている。陰は、「かげでささえる」の陰であるが、こちらの蔭は、「おかげさまで」の蔭の字である。 

こちらの蔭のほうが私の記憶の中の「かげぜん」の気持ちに近いように思う。私が子供の頃、小さなお膳の上に祖父母の食事が作られていたことがあった。もう随分遠い記憶なのでそれが毎日だったか、いつまでそうしていたかなどの細かい記憶はないが、そのとき初めて父に「かげぜん」という言葉を教えてもらった。祖父母はもう既に鷲家にいて私たちと住んでいたわけではないので、父としても陰と言うより蔭という思いで蔭膳をしていたのだと思う。

実は私も蔭膳をしたことがある。こちらはそんなに古い記憶ではないのに(これは少し問題だが)、いつからどんな理由でしだしたのか、あまり覚えていない。妻に聞くと三名之川に来て何年かたって、父親の蔭膳をということで急にすることになったそうである。子供の頃の蔭膳の記憶が影響したことは確かだと思う。  

父親が出直して蔭膳もしなくなったが、「いただきます」の次に「おじいちゃんいただきます」という食事の前の挨拶だけは今も残っている。

先日久し振りに子供と食事をして、今は家を離れた子供が、「いただきます」の後に「おじいちゃんいただきます」というのを聞いて、ちょっぴり嬉しくなった。


巻頭言  待つ理    169年11月

 

私は父親や前田先生に「あわてのぐず」と、よく言われた。

「あわて」で、しかも「いらち」だから、どこかへ出かけるときにも早く行くぞといらいらするくせに、何かを忘れて結局人を待たすことが多い。今もそれはあまり変わらなくて、妻と出かけるときも「早く、早く」と急かしながら、結局最後に私が忘れ物を取りに行って待たすことが多い。

それでも私は「いらち」だから、待たされることが嫌いだし、待つということが大変苦手だ。どんなときにもただ待つということが出来ない。病院での長い待ち時間はもちろん時間をつぶすために本を持っていくし、ほんちょっとした待ち時間も何かほかの事をして、ただ待つということが出来ない。

 そんなわけだからもちろん子供の誕生の時も病院で待つことは出来なかったし、妻も「いらち」の私に待たれて「まだか、まだか」と急かされてもと思ったのか、そんなことは言いもしなかった。

 最近そんなことをふと思った。何故出産に立ち会わなかったかということではなく、待つということについてだ。

「今日」と「明日」を正しく使いこなせるのは三歳児でそれぞれ六十八%と六十四%。「あさって」「おととい」となると六%と四%。時間の概念ができあがるのは十歳児になってからだし、未来の意識があるのは人間だけと聞いたことがあるが、未来を知り、時間という概念をもったことで、私達は自然の中で生かされていることを忘れてしまい、自然では当たり前の待つということが、時間を損しているような気になりだしたのではないだろうか。

親が子供に一番多くかける言葉は「早く、早く」という言葉だそうだが、それが今の私達を象徴しているような気がする。そして時間を有効に使っているようで、時間に追われ、人々は一年が早いと言うようになった。「もう一年が終わりですね。早いですね」が、十二月の挨拶の定番になった。

しかし考えてみれば、本当は私たちの人生は待つことのほうが多い。誕生も、成長も、そして死も、大事なことはみな待つしかないのではないか。

自然は待つしかないし、待ってさえいれば太陽も月も違うことなく必ず出てきてくれる。

 教祖伝逸話篇に、二十六日の月次祭について「この日は、結構や、結構や、と、を様の御恩を喜ばして頂いておればよいのやで。」と、お聞かせ下さったというお話がある。

せめて一月に一度、この日は結構や結構やとをや様のご恩を思い、自然に感謝して月次祭のお祭りを「待つ理」と思うような気持ちで通らせていただかねばと、改めて思わせていただいた。

五九 まつり
 明治十一年正月、山中こいそ(註、後の山田いゑ)は、二十八才で教祖の御許にお引き寄せ頂き、お側にお仕えすることになったが、教祖は二十六日の理について、
 「まつりというのは、待つ理であるから、二十六日の日は、朝から他の用は、何もするのやないで。この日は、結構や、結構や、と、を様の御恩を喜ばして頂いておればよいのやで。」
と、お聞かせ下されていた。
 こいそは、赤衣を縫う事と、教祖のお髪を上げる事とを、日課としていたが、赤衣は、教祖が、必ずみずからお裁ちになり、それをこいそにお渡し下さる事になっていた。
 教祖の御許にお仕えして間もない明治十一年四月二十八日、陰暦三月二十六日の朝、お掃除もすませ、まだ時間も早かったので、こいそは、教祖に向かって、「教祖、朝早くから何もせずにいるのは余り勿体存じますから、赤衣を縫わして頂きとうございます。」 とお願いした。すると教祖は、しばらくお考えなされてから、
 「さようかな。」
と、仰せられ、すうすうと赤衣をお裁ちになって、こいそにお渡し下された。
 こいそは、御用が出来たので、喜んで、早速縫いにかかったが、一針二針縫うたかと思うと、俄かにあたりが真暗になって、白昼の事であるのに、黒白も分からぬ真の闇になってしまった。愕然としてこいそは、「教祖」と叫びながら、「勿体ないと思うたのは、かえって理に添わなかったのです。赤衣を縫わして頂くのは、明日の事にさして頂きます。」と、心に定めると、忽ち元の白昼に還って、何の異状もなくなった。
 後で、この旨を教祖に申し上げると、教祖は、
 「こいそさんが、朝から何もせずにいるのは、あまり勿体ない、と言いはるから、裁ちましたが、やはり二十六日の日は、掃き掃除と拭き掃除だけすれば、おつとめの他は何もする事要らんのやで。してはならんのやで。」
と、仰せ下さった。


巻頭言 見えてくる事   169

 

年をとらなければ見えてこないことがある、と聞いたことがある。見えてきたかどうかはよくわからないが、体の変化は驚くべきものがある。

思い切り走って見事に前向けに転がったのは四十代半ばのことで、それ以来思いっきり走ったことはない。頭髪も頭頂部が薄くなってきたし、白髪も増えてきた。何よりも老眼になって、二・三年前から遠近両用の眼鏡にお世話になっている。年をとらなければ見えてこないことがあるどころか、年をとって見えないことだらけになってきた。

それでも周囲も同じように年をとってきたので、周りの友人も自分も気持ちはまだまだ若いつもりだ。でも会話は、糖尿の話や足腰の弱った話など、今はやりの「ちょい悪おやじ」ならぬ「(身体)ちょい悪おやじ」ばかりだ。

見えるといえば、五十歳を越えて自分の一生がなんとわなしに見えてきたという気はする。見えてきたというか、そんなことを考える年になったのだと思う。若い時は、この人生がいつまでも続くように思っていた。過去を振り返るには歩んできた過去は短すぎるし、未来はまだ洋々と自分の前にあるような気がしていた。と言っても、先が見えるようになったから、自分の過去を振り返り、自分の一生が分かったという意味とはちょっと違うようにも思う。自分の一生を自分から離れてちょっと見えるようになってきたという言い方が一番近いかもしれない。魂だけが自分の肉体を離れて、外から自分の姿を見る「幽体離脱」というのを聞いたことがある(聞いたことはあるが経験したことは勿論無い)が、ちょうど自分の一生をそんなふうに自分から少し離れて見えるようになった気がする。

そんなちょっとだけ見えてきたことから何を感じるかといえば、やはり今自分がここにいるということの不思議と、そして納得だ。納得とはつまり、親(神様)の思いを、そこにそこはかとなく感じられるようになったということだ。

私が一番成人し因縁を果たせる可能性のあるように、私の境遇を決め、周りの人々を配剤し、しかも成人のステップとして越えられる節を与えてくれているのだなあと、自分の半生を振り返ってそう思う。幾つかの人生の岐路で、最善を選べなかったという悔悟はあるが、道を間違えたとしてもその間違いの中で最善の御守護をしてくださっているということぐらいは見えるようになってきたと思う。

人生を四季にたとえて、青春・朱夏・白秋・玄冬という言い方をすることがあるが、色の濃い青や朱の色の時には見えなくても、白くなり暗くなってきて初めてほのかな、しかし確かな光に気がつくことがあるのだと思う。