170年のカントウゲン(関東言)

巻頭言 いんねんの自覚 

170年2月

母親が出直して今月で四十四年になる。昭和三十八年二月九日、享年は五十二歳であった。

私はその時まだ小学三年生で足を折っていたので大学生の兄に抱いてもらって玉串をしたことだけをほのかに覚えている。そんな幼い子を残していくのはどんな気持ちであっただろうかと、今、母の亡くなった年を越えた私は、やるせない気持ちになる。

兄は父に「天理教を信仰していてなんでこんなことになるのや」と、その時聞いたそうである。父は「お前にそんなこと言われんでも、世間の人がみんな言うてくれてる。」とだけ答えたそうだ。その短い言葉に凝縮された父の思いに何ともいえない気持になる。

母親は私のすぐ上の姉を身ごもったとき、お医者さんは、「出産は無理で母の命は保証できない」と言ったほどの難産であった。臨月が近づき母子共に危険になったちょうどその時、父に修養科の一期講師の話があった。そんな事情なのでとても無理とお断りに行くと、大教会の五代会長さんより「家におってもどうしょうもないのだから、神様の理を立てて行かせてもらえ」と言われて行かせていただき、ふしぎな御守護いただき、姉も無事出産でき、母も無事だった。

それから五年たって私を妊娠したが、そんな経緯もあり、また両親とも高齢なので出産については随分悩んだそうである。それでもせっかく神様から授かったのだからと出産を決意し、私がこの世界に生まれることになった。私のときは無難に出産の御守護をいただいたが、まさに両親に信仰がなかったら生まれてこない命なのである。

父親は、私が節目の時には必ず病気をしていた。私が生まれて間もない頃の父は、結核が悪化し死の床にあった。「教祖の年祭の時に教会長が倒れているということを聞いてほっておかれるか」と一面識もない他系統の大教会長さんが教祖のお水をお持ちくださりおさづけの理を取り次いでいただき、九死に一生を得た。それ以後も、私の高校入学の際も、大学入学の際も、卒業の際も病の床にいた。

私の結婚式の日に、父が挨拶で、結婚前に私が父に何気なく言った言葉に触れ、とても嬉しかったと言ったことを今も覚えている。それは、「親が信仰してなかったら俺はどこかの施設で暮らしていたのかも知れんなあ」という言葉である。「息子からその言葉を聞いて本当に嬉しかった」という父の言葉に私は、逆にとても不思議な気がした。そんなに大層な思いで言ったのではなく、ただそのときちょっと思っただけの思いつきと言ってもよいような軽い気持ちで言った言葉だったからである。

今、やっと父の気持ちが少しは理解できるように思う。

授かった命だから生もうと両親が決心した時、母は、やっとの思いで姉を出産してから既に五年が過ぎ、高齢で病気自体も全快したわけではなかった。

母は文字通り命がけであった。

そして父も重い結核の身上を持っていた。二人はいつ死んでもおかしくなかったのである。

「俺はどこかの施設で暮らしていたかもしれん」という私の何気ない言葉は、その当時の両親にとってはありうる現実だったのである。

この文章を書きながら、今あの時の父の姿を思い出している。そして改めて私と父の一つの人生に対する受け取り方の大きな違いに驚いてしまう。

私が結婚をするまでに成長したという事実は変わらないが、それが当たり前としか思えなかった私と、それを大きな奇跡として感謝する父。

私の例はわかりやすい例だと思うが、皆さん方もちょっと考えていただきたい。皆さん方の当たり前と思っている今の人生が、本当はあなたが考えるほど当たり前ではないかもしれないのだから。

自分のいんねんを自覚することが信仰の第一歩であり、喜びの第一歩であるとよくお聞かせいただく。

しかし自分のいんねんを自覚することは難しい。

私が本当は生まれてこない命であり、親の信仰によって初めてこの世に生を享けられたと本当に自覚できたのは、最近である。

そして父が私のあの何気ない言葉であんなに喜んだ理由をおぼろげながらも分かってきたのは、今この文を書きながらのことだ。

私の三人の子どものうち、二人は既に成人を迎え、一人も四月からは高校三年生になる。考えてみれば、この三人の子ども達が授かった時、成人を迎えるまで私は生きているだろうかと悩んだ日は一日もない。信仰のある家に生まれ、いんねんの自覚と、人にも言ってきた私が、このいたらくである。

何もかもが当たり前であるのは、いんねんの自覚がないからである。そして何もかもが当たり前であるという思いの次に出てくるのは不足しかない。

いんねんの自覚ができると言うことは、何もかもが当たり前ではなく大きな御守護によるものだということが分かることであり、そして今が本当にありがたいと心から喜べる気持ちになることだと思う。

もう一度書く。

自分のいんねんを自覚することが信仰の第一歩であり、喜びの第一歩であるとよくお聞かせいただく。

しかし自分のいんねんを自覚することは難しい。

自分のいんねんを自覚することが喜びの第一歩であるなら、言い換えれば、今を喜べなければ、いんねんを自覚しているとは言えないのである。

ここまで私は自分のいんねんを自覚しているような言葉を書き連ねてきた。

しかしお前は今を本当にありがたいと思っているかを、心の奥底まで尋ね自問自答してみれば、やっぱり喜びよりも不足や案じの心の多い自分が見える。

いんねんを自覚するというのは、本当に難しい。

 

巻頭言 「うさぎとかめ」の現在版 

170年 3月

遠い昔、お山のてっぺんまで競走したうさぎさんとかめさんがいました。そのひ孫のひ孫のそのまたひ孫のひひ孫のウサギさんとカメさんが、今度はもっと遠い小山のてっぺんまで競走することになりました。

昔は自分の身体を使いましたが、こちらは現在版、まず自動車を借りなければなりません。

そこでレンタカー屋さんに行き、自分の懐具合と相談してウサギさんは高級自動車を、カメさんは軽自動車を借りました。

同じ場所に向けて走り出しましたが、ウサギさんの高級車は、スピードが速くあっという間にかめさんを抜き去ってしまいました。ウサギさんはお金持ちなので、そのまま高速道路を行くことになり、一方カメさんは、お金も無いし、ゆっくりと一般道を走っていくしかありません。最初から随分差がついてしまいました。

ウサギさんの高級車は快適ですが、よくガソリンを消費します。高速道を走り抜けて一般道に下りたウサギさんは、まだまだお山まで遠いし、カメさんを随分引き離したので、ちょっとガソリンスタンドで給油をすることにしました。

ガソリンの値段が上がっていますよと店主から聞いたウサギさんは、それなら自分がガソリンスタンドをしたら、儲かるしガソリンもいっっぱい手に入ると、そのガソリンスタンドを買収することにしました。

商売上手なウサギさんは、瞬く間に成功し、何十軒ものガソリンスタンドを持つ社長さんになりました。左うちわで美女をはべらし、葉巻を吸っているところに、やっとカメさんが現れました。

カメさんを見て、ウサギさんはようやく、向こうの山のてっぺんまで競走していたことを思い出しましたが、いつでも追い抜けるさと、もう少し儲けることにしました。でも、すべてのガソリンスタンドにカメさんにはガソリンを売らないようにとこっそり電話をすることだけは忘れませんでした。だってここから先のガソリンスタンドは、全部ウサギさんのガソリンスタンドなのです。

金儲けに夢中になっている間に時間がたってしまいました。

老人になったウサギさんは、そろそろ山に向けて出発することにしました。お金持ちのウサギさんが次に欲しいのは、祖先の負けの恥をそそいだという名誉でした。

インターネット(さすが現在版です、インターネットでレース中継をしています)で見るとカメさんは、もう少しでゴールのお山のてっぺんに着きそうです。

でもどこでもガソリンを売ってくれなかったのか、最後の坂道を車を押して登っています。押しては少し休憩し、休憩しては押しながら、ゆっくりゆっくり、それでもゴールにだんだん近づいているようです。

ウサギさんは、ガソリンを満タンにして、その上、後ろの座席やトランクにも予備のガソリンを一杯積んで急いで高級車で出発です。目指すはカメさんのおんぼろ車です。

さすがは高級車、あっという間にカメさんの車に近づきました。ふうふう言いながら車を押しているカメさんを見て、ウサギさんは一言嫌味をいってやりたくなりました。

「大変だねえ、今度は僕の勝ちだよ。」

カメさんはちょっと驚いた顔をして言いました。

「勝ちってなんだい。そんなことよりウサギさんも、ちょっと車を止めて、周りの景色を見てご覧よ。とってもきれいだよ。」

ウサギさんはすっかり勝負のことを忘れているカメさんにちょっとびっくりしましたが、

「この老人性健忘症め。」と毒づきながら、それでも勝負は勝負とばかりに、ニコニコ笑っているカメさんを尻目に、急発進して、カメさんの車を追い越しました。

ところがスピードを出しすぎたウサギさんの車は、ゴールを目の前にして、最後のカーブを曲がりきれずガードレールにぶつけてしまい、おまけに後ろに積んであったガソリンに引火して、大爆発をおこしてしまいました。

どうやら今回も、カメさんに追いつかれたようです。

                       おわり

今回の出演 

ウサギさん   人間の魂 A

  カメさん    人間の魂 B

  高級車     Aさんの身体

  軽自動車    Bさんの身体

  ガソリン    ある人にとってはお金、

          ある人にとっては地位等

  自分の懐具合  その人の持って生まれた徳

  お山のてっぺん 死に場所

引き出される教訓 

①たとえば私たちが車に乗るのは、行きたい場所があるから車に乗るのです。ガソリンは、行きたい場所にいくための燃料に過ぎません。

人生も同じ事で、私達は身体という車を借りて人生という道を走っています。大事なことは、ガソリンを貯めることではなく、ドライブを楽しみ、途中の周りの景色を楽しむことです。

②ウサギさんの生き方のほうが良いと思う人もいますが、みんなが出来るわけでは無いということが、一番の難点です。

月のウサギさんをうらやみながら、自分も月へ行こうと、一生同じ場所で虚しくぴょんぴょんしているウサギさんをよく見かけます。

③スピードの出しすぎに注意しましょう。

 

巻頭言 おつとめ総会   170年 4月

三月三十日大教会で少年会のおつとめ総会が、今年も賑やかに行われた。今年は三十一回目、三名之川も幾つかの教会と一緒に五・六下りをつとめさせていただいた。いつも教会の信者さん子弟だけではなく、教会近辺の子どもたちも出てくれている。多い時には半数以上が未信者の子どもさんの時もあった。 大変ありがたいことだととても嬉しく思っている。
私達は「陽気ぐらし」をするためにこの世界に生まれ、陽気ぐらしは、この
「おつとめ」と「おさづけ」に象徴されているのだとお聞かせいただく。

おつとめは、一人では出来ない。笛、チャンポン、拍子木、太鼓、鐘、つづみ、琴、三味線、胡弓の九つの鳴物と、六人のてをどり、地方(歌を歌う人)の最低十六人が必要である。笛を吹く者、琴を弾く者、踊りを踊る者と、それぞれ与えられた役割をつとめながら、地方の歌う「みかぐら歌」(数え歌形式の神様の言葉)に合わすのだ。
  それは、陽気ぐらしが一人では出来ないということの、最もわかりやすい寓意だと思う。私達は、「おつとめ」で様々な役割を勤めるのと同じように、様々な仕事をしながらこの世界を生きていく。地方の歌に合わすことによって素晴らしい「おつとめ」が出来るのと同じように、この世界も「おさづけ」に込められた神様の思いに合わすことによって、素晴らしい陽気ぐらしの世界になるのだ。
「おさづけ」に込められた神様の思いとは、「人をたすける心」にほかならない。おさづけの理をいただいた方はもちろんご存知のことではあるが、九回もおぢば(天理市にある天理教会本部のある場所)に行き、話を聞いて、やっといただいた目に見えないそのお宝は、病気の人に取り次ぐもので、そのおさづけを真剣に取り次ぐことによって、どんな難病も御守護いただくとお聞かせいただく。
 しかし、その「おさづけ」は、自分には取り次げない。人にしか取り次げないのだ。まさに人をたすけるためだけに与えられるお宝なのである。

  神様を真ん中に東西南北の四つの礼拝場から参拝する本部の神殿のように、世界中の人々が拝みあうような気持ちになれば、陽気ぐらしの世界が自ずから出来てくるのだと思う。
  そうは言っても、その道は遥かに遠い。信仰をする人の少なさを言っているのではない。形は拝みあっていても、心までそうはなかなかならないのである。本部の神殿で拝んでいる私のことを考えてみればそれはすぐにわかる。
 しかし最近私はそれでもいいのじゃないかと、思ってもいる。神様は、今の人間の姿になるまでに八千八度の生まれ変わりが必要だったとお聞かせいただく。そうであれば、一度や二度の生まれ変わり、まして三十年や四十年程度の信仰で心がきれいに変わると思うのは虫がよすぎる話だ。

 おつとめ総会の話に戻るが、三十一回ともなれば、出てくれた人の数も相当で、親が出て、今はその子どもが出てくれている人もある。大きくなって、今も教会に来てくれている人もいれば、そうでない方ももちろん大勢いる。先ほどの話ではないが、それはそれでいいのだと思う。

おつとめに出させていただくというのは、神様の陽気ぐらしへの強い思いを、魂のどこかに、必ず徳という姿で頂戴しているのだから・・・。

巻頭言 ある韓国人布教師170年5月

今、大教会の教養掛として詰所にいる。修養科生は、四人だが、韓国からの講習生が十五人いる。

韓国からの講習生の中で、ひときわ異彩を放つ人がいる。

Iさん、五十一歳、○○教会の部内布教所の所長さんだ。Iさんは、三歳の頃祖母におんぶされている時、逆さまになって頭から落ち、頭と脊椎を怪我し、それ以後歩くことは困難を極め、座ることも出来ず、大小便も自分の意思とは無関係に出てしまう身上になったそうだ。

国民皆兵の韓国では二十歳頃徴兵の通知が来る。その頃のIさんは、自らの体に対するコンプレックスと、幼い時より大小便の排泄もままならないことで肉親にもいろいろ言われ続けたことなどが重なり合って死を考えるようになった。

その時ふと、高校の下宿先の大家でもあった天理教布教師の「足が不自由なら、タイヤを替えなくっちゃ。天理教で必ずたすけてもらえる」と言う言葉を思いだした。

日本の修養科に当たる韓国修講院に入学を決意し、三か月の間に、水を飲めば勝手に小便が出てしまう身上を鮮やかにおたすけいただいた。「本当に御守護いただいたのかと、マコリ(韓国の濁り酒)を一晩飲みあかした。七回小便に行ったが、一度もズボンを濡らすことはなかった。今までは小便が出ることがわからなかったのに、小便をしたいということがわかるようになった。神経が働きだしたのだ。あの時神様の御守護がはっきりわかり、神様を感じた」と、彼は言う。

修講院を出て「にをいがけ」に出るようになったら、あぐらをかくことさえ出来なかったのに、あぐらをかくことができるようになり、曲がっていた背中と出ていた胸もまっすぐになってきた。

その後、両親の面倒を見なければならないこともあり、道一条になれなかった時期もあったが、両親が他界された現在、道一条として、にをいがけや、路傍講演、個別訪問と勇んだ毎日を送られている。

主に歩道橋や、バス停など、車が通ったり人通りのある所で、

「健康な人はその健康を守っていただくために、身上の方はその身上をたすけていただくために信仰をさせていただきましょう。自分は三歳の時に怪我をして、背中も曲がり胸も出て大便も小便も垂れ流すしかなかった者ですが、こうして今御守護いただいた」と、話すそうだ。

バスの中へ乗り込み情熱を持ってこの話をしたら、皆に拍手してもらいとても嬉しかったと彼は語る。

 小学四年生の長男を抱えての道一条の生活は大変ではないですかとお聞きすると、「教祖の逸話篇にあるように、おいしいものを食べずに、よい服を着ない気持ちで通ったらなんとかなります」と笑顔で答えられた。

 大きな御守護をいただいているとはいえ、見た目には歩くだけでもかなりの努力がいるようにも見えますが、それ以上の御守護を望まれますかという、誠に失礼な質問を敢えてさせていただいた。

 「二十年ほど前までは、小便大便も垂れ流しで肉親にさえ死ねと言われたことを考えれば、これ以上ありがたいことはありません。自分の身上を考える時、逸話篇の「水を飲めば水の味がする。神様が結構にお連れ通り下さっている」という教祖のお言葉がすごく実感できるのです。」と、敢然と答えられるIさんの言葉には、本当にたすけられた者が持つ威厳と重みがあった。

現在講社は六ヶ所、月次祭の参拝者もまだ二桁に行かない時も多いそうだが、今後どのような布教所にしたいとお考えですかとお尋ねした。よふぼくを何人とか、おつとめの手が足るようにというような返事を想像していた私には予想外の答えが返ってきた。

「教祖のひながたを想い、自分の心にひながたをたどろうという気持ちさえあれば、何もかもが御守護であり、おかげだと感じられます。」

そこには彼と教祖だけがいる。信仰はそれで充分であり、それが一番大事なのだ。よふぼくが何人とか、おつとめの手が足るとか足らないとか、教会の今後とかばかりに、頭を悩まし先案じに走りがちな私に、それは大きな衝撃であった。

たすかるとは、単に身上が治り、事情が解決することではなく、教祖のひながたを思い、自らがひながたをたどろうという気持になれることなのだということが、改めて深く魂に響くように伝わってきた。 

「よふぼくにてハ ていれする」という神様のお言葉を胸にして、病気になっても薬を飲まずに信仰の力で正したいといつも考えているIさんは、今回の講習でも風邪を引いたが、同行の人の薬を飲んだらという勧めを断り、御守護いただいたそうである。

先ずは子供にはっきりとこの信仰を伝えるとともに、多くの人にこの信仰の素晴らしさを伝えていきたいとIさんは語り、講習を終え元気で韓国に帰って行った。

 

巻頭言 病気から身上へ  170年6月 

先月の巻頭言で韓国人布教師尹景煥さんのことを書いた。大教会の会報天明誌にも掲載したが、何人もの人から感激したという言葉をいただいた。他系統の人で、わざわざ詰所に訪ねてくれた人や、月次祭に参拝された人までいた。自分も感激していたので、みんなの反応が嬉しかった。
その中である未信者に近い人から、病気と身上の違いについて尋ねられた。
私たち天理教を信仰している者は、病気を病気とは言わず、身上(みじょう)という。身上にお知らせいただいたというような使い方をよくする。もちろん、身上という別の病気があるのではなく、例えば風邪なら風邪という病気を、天理教では身上というのである。
ちょっと教理を再確認しておくと、

「私達は生まれる時、神様から魂に身体と心を与えられ、陽気ぐらしをするためにこの世界に生まれてきた。身体も心も神様からお借りしているが、身体は自分の思い通りにはならないが、心は自由に使えるようにお許し頂いている。陽気ぐらしとは、その心と身体を使って楽しく暮らす生き方だが、一人が楽しんで後々の者苦しますようでは真の陽気とはいえんとお聞かせいただくように、自分だけが楽しむことではない。人々が共にたすけあって創り上げなければならないが、先ほども書いたように心はそれぞれが自由に使えるから、助け合うよりはまず自分が楽しみたいという心が出やすいものなのだ。
そんな心が出た時に、ちょっとした軌道修正のお知らせが、身体の貸主である神様から届く、これが身体に病気として現れるのが身上なのだ。」
例えば食中毒は、細菌が身体に入って起こるというように、病気には原因がある。それは病院にいけば原因と治療法を教えてくれる。しかしなぜ自分がその病気にかかったのかという答えは、病院では出ない。その何故自分がその病気にかかったのかを、考えることによって病気は、初めて身上となる。
私達は簡単に病気のことを身上というが、信者だから全て病気は身上であるかといえばそうではない。病気を神様からの手紙だと考えて、自らを振り返り、神様の思いを探す努力をして始めて、病気は身上となり、節となる。逆に言えば、この病気が神様からの手紙だと考え、その病気から新たな出発があったなら、たとえ信仰をしていなくても、その人にとってそれは身上なのだ。
人間にとって、最悪の身上が出直しということだ。
死という最大の身上に対して、明治三十九年十一月十四日の次のようなおさしづがある。

人間という、一代切りと思ては違う。これまで運び尽した理は、日々に皆受け取ってある程に。さあそうしたら身上なあと、又思うやろ。さあ成っても成らいでもという心定め。さあ身上返やして了たら、暫くは分かろまい。なれど、生まれ更わりという道がある。さあこれより楽しみな道は無いと定めて、いかな事情も心に治め、道という理を治め。



巻頭言 分からん子供が・・。170年 7月   

 

教祖は、常々次のようにお話しくだされたと聞く。

「分からん子供が分からんのやない。親の教が届かんのや。」          (教祖伝逸話篇 一九七)

 

本当に親の言葉だと思う。

 

こんなに素晴らしい神様の教えを何で分かってくれないのだろうと、歯噛みをする思いで帰るときがある。

何故私の真意が分かってくれないのかと涙を流した時もある。

そんな時は必ず自分の至らなさを棚に上げている。

自分の至らなさを棚に上げたら、ついでに自分も上がってしまい、何でこんなことが分からないのかと、棚から人を見おろしている。

 

そんな時に、ありがたいことに、この言葉がふっと頭をよぎってくれる。

 

分からんあの人が分からんのではないのだ。自分の真実が、まだまだ届かないのだ。

届かないどころか、果たして自分に真実などあったのだろうか。

一体自分は何様のつもりなんだろう。神様にでもなったつもりか。

神様でさえ、分からん子供が分からんのやないとおっしゃっているのに、へたをしたら相手の成人が鈍いせいだなどと、神でもない我が身が、神様以上に、相手の成人の度合いまでも測っているのではないだろうか。

そんなふうに考えていくと、ちょっと心が落ち着いてくる。

 

「分からん人に会うのは、お前が分かってないことを分からせたいからだよ」という神様の優しい声が聞こえる頃には、鼻歌でも歌いたい気分だ。

 

両親を二人共に既に亡くした私が、本当の親の優しい手を感じ、その手に包まれて安らぐことのできる嬉しい一瞬がそこに現れてくる。

                    

巻頭言 人生の宿題  170年 8月 

 

子供たちにとって一番うれしい夏休みも、そろそろ終盤になりました。

子供たちのいる家庭では、そろそろ宿題、宿題と親の声もヒートアップしているのではないかと思います。

私の家では、一番下でも高校三年生になりましたので、今では妻の声もだいぶトーンダウンしました。高三ですから本当なら一生で一番勉強していなければならないはずの次男は、至ってのんきに構えています。彼のあの根拠のない自信が一体どこから来るのか、一度聞いてみたいと思いますが、おそらく性格の一言で片付けるしかないような気がします。

そういえば学生時代に宿題の夢を、よく見ました。夢の中で、遊びまわって家に帰って、宿題を一つもしていないことに気がつきます。明日から二学期なのにどうしようと思ったところで目が覚めます。ああ、まだ夏休みだったと、とてもうれしかったことを覚えています。宿題をしていないことは変わらないのですが・・・。次男の根拠のない自信には、遺伝という二文字を付け加えたほうがいいかもしれません。

そんな宿題の夢を見なくなって久しいですが、人にはそれぞれ、神様から人生の宿題を与えられているのではないかと、最近そんな気がしています。

学校の宿題は、みんな同じように出されますが、神様からの宿題は、一人ひとり違うようです。一人ひとり違いますから、他の人に見せてもらうわけにはいきません。

宿題といって出されるわけではないので、その宿題に気付く人もいれば気付かない人もいます。気付かないまま一生過ごす人もいれば、早くから気付いて悪戦苦闘する人もいます。

期限もあってないようなものです。出直すまでですから、明日かも分かりませんし、五十年後かもわかりません。

答えは、辞書を調べても参考書を調べても出てきません。自分の中にあることは確かですが、分かっていてもなかなかできないものです。

でも、なかなか出来ないということがわかれば、宿題の半分以上は出来たようなものだとも思います。

宿題を出されていることさえ分からずに、一生を過ごすより、宿題の存在を知り、その解決方法が自分の中にあり、そしてそれが最も難しいことが分かれば、本当にたいしたものだと思います。

といっても、根拠のない私の思いに過ぎませんが・・。

 

いんねんとは、神様から与えられている人生の宿題のことをいうのです。

巻頭言 立教の月に寄せて170年 9月

(われ)(もと)(かみ)()(じつ)(かみ)である。この屋敷(やしき)にいんねんあり。このたび、()(かい)れつをたすけるために天降った。みき(かみ)のやしろに(もら)()けたい。」とは、今を去る百七十年前の立教の時の親神様のお言葉である。その立教以来、月日の社となられた教祖のお言葉を通して、いろいろなことをはじめてお聞かせいただいた。

神様と私達人間はちょうど親と子のような関係であり、それ故人類全体は兄弟姉妹であり、陽気ぐらしをする人間の姿を見て神も共に楽しみたいとの親神様の深い思し召しの中で創造され、気の遠くなるような長い年月を経て今の人間の姿にまで成長したのだということ。私達の身体は神様からの借り物であり、心だけが自由に使えるようにお許しいただいていること。身体に起こる様々な病気や、人生の長い道中の中で見せられるいろいろな事情は全て、陽気ぐらしへと導こうとされる神様からの節なのであるということ。

それを信じるかどうかは別としても、この今生きている自分は、こんなふうに生まれたいと自分が納得して生まれてきたわけではない。生まれる時期も場所も、性別も、容姿も、そして両親さえ自分で決めることは出来ずに、人間は生まれてくるのだ。それを理不尽と言うならば、人間は生まれながら理不尽を背負って生きていかねばならない。理不尽に生まれた人間は又、理不尽な生き方をせざるを得ない。いつ愛するものと別れなければならないかもわからず、何時どんな病気に襲われるかも知れない。立教以前はその理不尽を、外から襲ってくる、自分とは関係ない災厄と考えていた。

しかし親神様理不尽ないのだと教えていただいた。人間は「陽気ぐらしをするために生まれてきた」という大きな目的の中で生きているのだとお教えくださり、しかも、一代限りではなく死ぬ時身体は神様に返すが、魂は生き通しで、時が来ればまたいんねんある家に生まれ変わるのだとお教えいただいた。人間にとって理不尽に見えるのは、自分の一代だけを考えるからで、何代もの生まれ変わりと、その間にしてきたことを考えれば、全ては「なってくるのは天の理」であり、神の大きな計らいであると教えていただいた。

理不尽と思うのは、理由がわからないからである。陽気ぐらしをするために生まれてきた者が、陽気ぐらしが出来ないのは、自分の考える陽気ぐらしと神様の考える陽気ぐらしが少し違うからである。どこが違うのか、人間は自分が楽しいことが陽気ぐらしと思いがちだが、神様は人が喜ぶのを見て自分もうれしいのが陽気ぐらしだと教えられた。

親に何かをしてもらって喜ぶ子供の信仰から、子供が喜ぶのを見て自分もうれしい親の信仰へと成人することが、人間の生まれてきた目的であり、成人すれば「成人しだい見えてくる」ものがあり、理不尽が理不尽でないことが分かるとお教えいだいた。立教より百七十年。自らの信仰を省みて、子供の信仰から脱却する、その道のりの遥かに嘆息をしながら、それでも短足を使って歩かねばならないと思う。

歩かなければ決して近づきはしないのだから・・・・。


巻頭言 たすけられているという事170年 10月

 

最近、妻の腰痛が悪化している。この頃は見た目にもひどく(勿論顔の事を言っているのではない)、いろいろな方にご心配をいただいている。

今年になって、自分のいんねんということに対して、いろいろと考えることがあった。二月号の巻頭言にそのことについて書いている。少し長いがそのまま引用する。

 

いんねんの自覚  一七〇年 二月号

母親が出直して今月で四十四年になる。昭和三十八年二月九日、享年は五十二歳であった。

私はその時まだ小学三年生で足を折っていたので大学生の兄に抱いてもらって玉串をしたことだけをほのかに覚えている。そんな幼い子を残していくのはどんな気持ちであっただろうかと、今、母の亡くなった年を越えた私は、やるせない気持ちになる。

兄は父に「天理教を信仰していてなんでこんなことになるのや」と、その時聞いたそうである。父は「お前にそんなこと言われんでも、世間の人がみんな言うてくれてる。」とだけ答えたそうだ。その短い言葉に凝縮された父の思いに何ともいえない気持になる。

母親は私のすぐ上の姉を身ごもったとき、お医者さんは、「出産は無理で母の命は保証できない」と言ったほどの難産であった。臨月が近づき母子共に危険になったちょうどその時、父に修養科の一期講師の話があった。そんな事情なのでとても無理とお断りに行くと、大教会の五代会長さんより「家におってもどうしょうもないのだから、神様の理を立てて行かせてもらえ」と言われて行かせていただき、ふしぎな御守護いただき、姉も無事出産でき、母も無事だった。

それから五年たって私を妊娠したが、そんな経緯もあり、また両親とも高齢なので出産については随分悩んだそうである。それでもせっかく神様から授かったのだからと出産を決意し、私がこの世界に生まれることになった。私のときは無難に出産の御守護をいただいたが、まさに両親に信仰がなかったら生まれてこない命なのである。

父親は、私が節目の時には必ず病気をしていた。私が生まれて間もない頃の父は、結核が悪化し死の床にあった。「教祖の年祭の時に教会長が倒れているということを聞いてほっておかれるか」と一面識もない他系統の大教会長さんが教祖のお水をお持ちくださりおさづけの理を取り次いでいただき、九死に一生を得た。それ以後も、私の高校入学の際も、大学入学の際も、卒業の際も病の床にいた。

私の結婚式の日に、父が挨拶で、結婚前に私が父に何気なく言った言葉に触れ、とても嬉しかったと言ったことを今も覚えている。それは、「親が信仰してなかったら俺はどこかの施設で暮らしていたのかも知れんなあ」という言葉である。「息子からその言葉を聞いて本当に嬉しかった」という父の言葉に私は、逆にとても不思議な気がした。そんなに大層な思いで言ったのではなく、ただそのときちょっと思っただけの思いつきと言ってもよいような軽い気持ちで言った言葉だったからである。

今、やっと父の気持ちが少しは理解できるように思う。

授かった命だから生もうと両親が決心した時、母は、やっとの思いで姉を出産してから既に五年が過ぎ、高齢で病気自体も全快したわけではなかった。

母は文字通り命がけであった。

そして父も重い結核の身上を持っていた。二人はいつ死んでもおかしくなかったのである。

「俺はどこかの施設で暮らしていたかもしれん」という私の何気ない言葉は、その当時の両親にとってはありうる現実だったのである。

この文章を書きながら、今あの時の父の姿を思い出している。そして改めて私と父の一つの人生に対する受け取り方の大きな違いに驚いてしまう。

私が結婚をするまでに成長したという事実は変わらないが、それが当たり前としか思えなかった私と、それを大きな奇跡として感謝する父。

私の例はわかりやすい例だと思うが、皆さん方もちょっと考えていただきたい。皆さん方の当たり前と思っている今の人生が、本当はあなたが考えるほど当たり前ではないかもしれないのだから。

自分のいんねんを自覚することが信仰の第一歩であり、喜びの第一歩であるとよくお聞かせいただく。

しかし自分のいんねんを自覚することは難しい。

私が本当は生まれてこない命であり、親の信仰によって初めてこの世に生を享けられたと本当に自覚できたのは、最近である。

そして父が私のあの何気ない言葉であんなに喜んだ理由をおぼろげながらも分かってきたのは、今この文を書きながらのことだ。

私の三人の子どものうち、二人は既に成人を迎え、一人も四月からは高校三年生になる。考えてみれば、この三人の子ども達が授かった時、成人を迎えるまで私は生きているだろうかと悩んだ日は一日もない。信仰のある家に生まれ、いんねんの自覚と、人にも言ってきた私が、このいたらくである。

何もかもが当たり前であるのは、いんねんの自覚がないからである。そして何もかもが当たり前であるという思いの次に出てくるのは不足しかない。

いんねんの自覚ができると言うことは、何もかもが当たり前ではなく大きな御守護によるものだということが分かることであり、そして今が本当にありがたいと心から喜べる気持ちになることだと思う。

もう一度書く。

自分のいんねんを自覚することが信仰の第一歩であり、喜びの第一歩であるとよくお聞かせいただく。

しかし自分のいんねんを自覚することは難しい。

自分のいんねんを自覚することが喜びの第一歩であるなら、言い換えれば、今を喜べなければ、いんねんを自覚しているとは言えないのである。

ここまで私は自分のいんねんを自覚しているような言葉を書き連ねてきた。

しかしお前は今を本当にありがたいと思っているかを、心の奥底まで尋ね自問自答してみれば、やっぱり喜びよりも不足や案じの心の多い自分が見える。

いんねんを自覚するというのは、本当に難しい。』

 

最後に、いんねんを自覚することは本当に難しいと書いたが、そう書いたら難しいのであるならば見せてやろうと、妻の腰痛として、因縁の片鱗をお見せいただくことになった。 

神様はすごいなあと思う。思うが、やはり実際その姿を見ていると、とてもつらく感じる。妻の病気を何とか御守護いただきたいと、自分なりに神様の思いのあるところを思案させていただき、実行もさせていただいている。

父親は妻を亡くし、子供も亡くした。「いんねん」ということで言うならば、生まれてこないはずの命を助けていただき、妻を娶り子供までもお与えいただいた。元気な妻と子供たちがいて当たり前だと思っていたことが、どんなに大きな御守護をいただいているのかを、本当の意味でやっと今頃分かりかけてきたような気がする。

貧に落ちきらねば、貧になる者の気持ちが分からないと、教祖は全ての物を施し、貧に落ちきる道を歩まれた。病む事も同じような気がする。家族が病んでみなければ、病むことのつらさは心底は分からないし、今までいろんな病人のおたすけに行かせていただいたが、分かっていたつもりだっただなあと、つくづく思わせていただく。

「そんなことお前に言われんでも、世間の人がみんな言うてくれてる」と言ったという父親の気持ちも、今まで以上に共感できるし、それがどんなに「しんどい」ことなのかも、ようやくちょっと分かった気がする。しんどいというのは、世間に対して以上に、自分に対してのことだ。

私の例で言うなら、妻の病気が「いんねん」であるならば、私の母親は出直したのであるから、それと比較すれば随分軽くしてくださっているのだと思う。そうであるなら、これ以上の御守護を願うことは欲で、これでありがたいと思うべきであり、大難を小難に御守護いただいているのだとしっかり喜べという思いが一方にあり、また一方には、もう少し何とか目に見える御守護をいただきたいと願う心もある。その狭間の中で今も行ったり来たりしている。それは自分の信仰を見つめ直すことであり、自分の中の神一条でない部分、欲や世間体に流される自分を、否応無く自覚させられるということだ。そしてもっと根本的に、たすけて欲しいと願うのは、本当に妻のことを案じている「ひとだすけ」の止むに止まれぬ思いなのか、それともお前が困るからなのかという問いを、突きつけられたりもしている。

ここまで書いていて、「明日上市の教会で学生会の集まりがあるので」と、天理に下宿している長男が珍しく帰ってきた。よい機会だから、母親におさづけの理を取り次がせていただくことになった。

妻と長男と私が神殿に参拝して、長男が妻におさづけの理を取り次ぎ出した。長男のおさづけの理の取次ぎのお歌の合間に妻の嗚咽が聞こえる。「泣いていたんか」と聞くと、「息子におさづけを取り次いでいただくなんて、こんなうれしいことはない」と、妻が言う。

その妻の言葉を聞いて、たすけられているのだと改めて思った。母におさづけを取り次ぎたくても、母親が病気の時、私はまだ十歳にも満たなかった。そのことを思えば、たすけられているのだと本当に思う。

信者さんには、「妻が生きてさえいてくれれば結構と、私が本当に思わせていただくことが出来たら、御守護いただくと思います。でもそれが難しい」と冗談のように申し上げているが、おそらくはまだ揺れ動くことだとは思うけれど、本心そう思わねばと思っている。


巻頭言 何かある、大きな自分170年11月

 

二年程前にある人と話をした。彼は酩酊し、泣きながら搾り出すようにこんな言葉を言った。

「このままでいいとは思いません。

でもしらふになると、何もない、ちいさい自分が見えて怖いのです、不安なのです。」

 その言葉が、今も時々よみがえる。

「酒が弱いので酔うことはできないけど、あなたの不安は、私の不安でもある」と答えた私に、「会長さんでもそうですか」とうれしそうに返した彼の顔も覚えている。

「でも何もない、小さい自分でいいのではないか」と言った時、彼はしかしこう言った。「それではダメなんです。」

 今日、巻頭言を書きながら、久し振りに彼の言葉を思い出し、「このままでいいとは思いません。何もない、ちいさい自分の」反対である、「このままでいい。何かある、大きな自分」というのが、はたしてあるのだろうかと、ふと考えた。

 「何かある」とは、何があったら不安でなくなるのだろうか。大きな自分とはまさか身長や体重のことではないだろう。

 「何かある、大きな自分」になりたいという思いが、現実の私達の活動を揺り動かし、それが進歩や、経済発展の原動力となっているのも事実だと思う。

しかし彼の言葉は、今の日本を象徴しているような言葉に思えてならない。

昔、職人気質という言葉があった。大辞泉では、「職人に特有の気質。自分の技能を信じて誇りとし、納得できるまで念入りに仕事をする実直な性質。」と書かれているような職人の代表的な一例が料理人であった。彼は親方について何年も修行した料理人であった。それこそ親方に包丁を投げられるような修行時代も経験したそうだ。しかし彼の料理の腕は、彼の何かにはならなかった。

その当時彼は、結婚し一戸建ての立派な家を買い住んでいた。しかし彼はそれにも満足していたわけではなかったと思う。誰か他の人と比較して「贅沢な、喜べ」などという話ではない。

彼の求めている何かは、職人技として何かを極めるものでもなく、結婚だとか家だとかといった目に見える形の何かでもないということなのだ。

あの時の彼の言いたかったことを単純に考えれば、何かとは、お金と、名声ではなかったかと思う。

そしてそれは、今の日本に共通している何かということでもあると思うのだ。

何かを造って結果としてお金をもうけるのでもなく、どうしても必要な何かを買いたいからお金が欲しいのでもない。とりあえず、まずお金がほしいのだ。

何かを成し遂げて、その結果有名になるのでもなく、まず有名になりたいのだ。自らの子供に「悪魔」という名前をつけてでも有名になりたいと考えた父親はその嚆矢なのかもしれない。(エスカレートした今では、有名になりたいという理由で犯罪でさえ犯す人間が出てきた。)

私達が、お金と名声を、追い求める「何か」とする限り、いつまでたってもどこまでいっても、「何かある大きな自分」にはなれないと思う。

それは具体的な物ではないからだ。

具体的な物でないということは、無限ということだ。無限を追い求めれば、いつまでたっても満足することはない。

神様はそれを「欲にきりない泥水」とおっしゃたのだと思う。

そのくびきから逃れる方法が一つある。

自分が有限であるということを思い出すということだ。私達が年をとり、いずれ死ぬのだという冷徹な現実を思い出すということだ。

「何かある大きな自分」も最後には、「何もなく消えていく自分」でしかないのだということを、はっきりと認識することだと思う。

そしていずれ「何もなく消えていく自分」でしかない人間の、本当の存在の意義を教えるのが宗教なのだと私は思う。

宗教は、「何もない小さな自分」が、「何かある大きな自分」に変わることをたすけることではない。まして「何もない小さな自分」が、「何かある大きな自分」になれたなどということを、ご利益として喧伝することでもない。

それは幻想に過ぎない。そして今その幻想が一人歩きして、私達の焦燥や不安をさらに大きくしているのだと思う。

今ある現実の自分と、ありうべき幻想の自分とのギャップの中で、息も絶え絶えの若者たちが私達の周りにずいぶんいるではないか。

 若さは、その幻想に惑わされやすい。自分が老いや死から遠い存在だからである。

 そのことを伝えるのは、本来老人の役目である。老いや死に近いからこそ、向き合わねばならないのだ。そして「何もなく消えていく自分」に、名声や金がどれだけの慰めになるのかを、慰めになるのならなるでよい、ならぬのならならぬでよい、真剣に考え見せてやればよいのだと思う。

 高齢化する日本は、その点から言えば間違いなく、神の思召しの結果なのだと私は思う。

 しかし、老人といえど、それを考える人は少ない。病と死が、身近ではなく、巧妙に隠されているからである。家で病む人はほとんど無く、人々は死と痛みから逃れることに汲々として、大病院は、まるで大伽藍の聖堂のように、人々を集めている。

残念なことに、私も含めて天理教の信者でさえも、本来の老人の役目を忘れ、長生きすることのみが自己目的と化してしまっている。  

「身上・事情は道の華」という言葉は、いつのまにか死語に近くなり、少しでも長生きしたいと当座の反省にばかり右往左往している状態だ。

 「命捨ててもと思う者のみ:」という、有限であることに立脚して無限を信じた言葉が発せられてよりまだ百二十年余りしか経たないというのに、私達は随分違う場所に立っているような気がする。

 有限な私を、無限にすることは無理だということは、始皇帝の昔から分かっていたことではないのか。

                     

巻頭言 一年の終わりに 

ありがとう 170年 12月

今年、一年も終わりを迎えようとしています。

 皆様方には、今年一年いろいろとありがとうございました。

そんな一年の終わりに、次の文章を見つけました。

笹田雪絵さんという人の文章です。

 

私決めていることがあるの。この目が物を映さなくなったら目に、そしてこの足が動かなくなったら足に「ありがとう」って言おうってきめてるの。今まで見えにくい目が一生懸命見よう、見ようとしてくれて、私を喜ばせてくれたんだもん。いっぱいいろんな物、素敵な物を見せてくれた。夜の道も暗いのに頑張ってくれた。足もそう。私のために信じられないほど歩いてくれた。一緒にいろんな所へ行った。私を一日でも長く喜ばせようとして、目も足もがんばってくれた。なのに、見えなくなったり、歩けなくなった時「なんでよ!」なんて行ってはあんまりだと思う。今まで弱い弱い目・足がどれだけ私を強く強くしてくれたか。だからちゃんと「ありがとう」って言うの。大好きな目、足だから、こんなに弱いけど大好きだから「ありがとう。もういいよ。休もうね」って言ってあげるの。多分誰よりもうーんと疲れていると思うので・・・・・でもちょっと意地悪な雪絵は、まだまだ元気な目と足に「もういいよ」とは絶対に言ってあげないの。だってまだ見たい物、行きたい所いっぱいあるんだもん。今までのは遠い未来のお話でした。

(彼女は十四歳の頃から身体の機能が少しずつ失われていく難病、多発性硬化症(MS)に冒されながら「どんな身体になっても、歩けず、見えず、字を使えず、話せなくても、MSの自分を愛していく」と明るく生き、たくさんのエッセイを残し、二〇〇三年十二月二十六日亡くなった。享年三十三歳)

 

 余計なことを書くことは、しません。

 

一年の終わりに・・・・

ありがとう