171年のカントウゲン(関東言)

巻頭言          171年 2月

与える理に変わりはないけれど

 

「夏の太陽は暑い。冬の太陽は暖かい。

夏の風は涼しい。冬の風は冷たい。」

先日三丹生の教会の応接間で、ガラス窓から差し込む陽だまりの中で、そんな言葉が口をついた。

寒い冬の太陽は歓迎されるが、暑い夏にはもうこれ以上は結構という気持ちになる。寒い冬の風はごめんだけれど、暑い夏に一陣の風は自然のクーラーになる。

太陽も風も、同じように照り、同じように吹いているだけであるが、私たちの置かれている環境が違えば喜びの対象になったり、怨嗟の対象にさえなったりする。

陽だまりの中で連想は次の言葉に繋がった。

『与える理に違いはなけれど 受ける理に違いはないけれど。受ける心に違いが出る』

これは教会の掲示板に掲げてある言葉である。以前はポスターとか、教会からの連絡などを掲示していたが、新しい掲示板を頂戴したので、ある信者さんに恒久的な掲示板にするのでコンパネ一枚分の図案をお願いしたら、その中央にこの言葉を入れて持ってきてくれた。

これは教祖のお言葉ですかとお尋ねすると、そう思うが出典はわから無いということだった。出典の分からないものはどうかとも思ったが、本当にその通りだとも思ったし、書いていただくのに随分手間もかかったことを思い、そのまま掲示してもう十年近くにはなると思う。

この言葉にそんなに説明は要らないと思う。

私たちは、同じ地球に住み、太陽の熱や風や空気をはじめ私たちの生存に必要なさまざまな恵みを受けている。

太陽も風も神様のご守護だとお聞かせいただく。神様から与えられている恵みに差はないけれど、それをどのように受け取るか、冬の太陽の時のように暖かい、ありがたいと感じるか、夏の太陽の時のように暑い暑いと不足に思うかは、各人の自由だ。

そしてそれは自然現象に限らない。私たちが生きていく上で、与えられているいろいろなもの。特に既に与えられており、自分では変えられないもの、たとえば生まれた境遇、そして両親、兄弟、自分の生年月日、性別など、それをどのように受けるかは、それぞれそれを受ける自分に任されている。  

言い換えれば、変えられないものを受けるしかない自分が唯一出来ることは、その変えられないものをどのようなものとして受けとるか、ということだけだと思う。

そしてそれこそは、自分にしか出来ないことなのだ。

例えば、人からどんなに今の境遇を喜べと言われても、喜べない人もいるだろうし、あんな中をと人から同情されるような境遇を喜び勇んで通る人もいる。

 

使い古された言葉かも知れないが、寒風吹きすさぶ曇天の雪空の上にも、必ず太陽がある。そんな太陽の存在を感じられる人が、幸せな人なんではないだろうか。

陽だまりの中で太陽の熱を感じながらそんなことを考えた。 

 

巻頭言 年に不足はない 171年 3月

             

 

先日、テレビで古い映画を見た。その中で、「もう七十歳を越えていたから、年に不足はないのだけれど・・・。」という台詞があった。息子らしき人が亡くなった父親の話をしていた中での言葉である。たまたま信者さん宅のおつとめに行かせて頂いたときチラッと見ただけなので、もちろん題名も何もわからないが、おそらく名作劇場のような映画で、昭和三十年代のものだったと思う。

そのとき、「年に不足はない」という懐かしい言い回しと、あの当時は七十歳で年に不足はないと言ったんだなあと、深い感慨を持った。確かに昭和三十年、男性の平均寿命は、約六十四歳、女性は六十八歳である。昭和四十年で、男性は六十八歳、女性は七十三歳である。七十歳以上であるなら、平均寿命を越えているのだから、確かに年に不足はなかったのである。

「年に不足はない」とは、しかし厳しい言い方だ。それは、死ぬ本人が言うのではなく、周りの人々が死んだ人の年齢を聞いて勝手に言う言葉だからだと思う。おそらくいくら子供からそう言われても、私だったら「年に不足がある、もう少し生きたい、勝手に決めるな」と思わず言いたくなると思う。

そう考えながら、一方では、出直すとき、自分から「年に不足はない」と言える生き方をしたいとも思う。

それなら、いったい自分は何歳だったら年に不足はないと言えるだろうか。平均寿命をはるかに越えて百歳ぐらいならそう言うだろうか。言うかもしれないが、それは積極的な言葉ではなく、あきらめの言葉のような気がする。

私は今,五十四歳になった。昭和二十二年の平均寿命五十歳を越えている。今から七十年ほど前なら今出直しても、息子から「年に不足はありません」と言われていた年代になっている。

ちなみに私の手持ちの記録の中で一番古い明治二十年代の平均寿命は男性四十二歳、女性は四十四歳である。

平均寿命から考えると、私たちは、明治二十年代の人のほぼ倍の人生を生きることになる。人生を倍生きているから、明治の人の倍幸せであるとか、それこそもういつ死んでも年に不足はないと言い切れないところが、人生の難しいところだ。

そう考えれば、年に不足がないと思えるかどうかは、生きた実際の長さではないのだと思う。

その与えられた人生を、真剣に精一杯生きた人だけが、年に不足がないという思いを持てるのだと思う。

そういえば、五十四歳で出直した天理教の著名なおたすけ人がいる。東本大教会初代会長中川よし先生である。

先生が病床に就かれたとき、先生は決して私のためにお願いをしてくれるなと人々に厳命したそうである。それは、人たすけのために自分の命を代わりに差し上げますとお願いした年齢を足せば、もう既に三百歳以上生きさせていただいているのだという思いからだったと聞く。

 

 同じ五十四歳である。

生きてきた年数は変わらないが、精一杯生きたという意味においては、その違いに息を呑む思いがする。



巻頭言 算数の時間

            171年 四月

新年を迎えたと思ったのに、もう四月、今年も既に三分の一が過ぎた。この頃になるといつも月日がたつのは早いという話題になる。本当にそのとおりだと思う。

子供は一年を何度も経験していないので、一つ一つが新鮮で長く感じるが、年を取れば取るほど一年を何回も繰り返しているので、一年が早く感じられると、聞いたことがある。他にも忙しい時間は早く感じるから、大人はあれもやらなければ、これもやらなければと、やることが多すぎて、あっという間に時間が過ぎてゆくのだという説もあるようだ。

先日子供たちに「時間を早く感じる?」と聞いたら、塾やクラブで毎日が忙しくてと、一日が二十五時間あればなんて大人顔負けの子供もいたが、やはり個人差があるようだが、相対的に私たち大人ほど早くは感じていないようだ。

他にも時間を早く感じる理由として、二十歳前後に脳の成長が終わると、後は神経細胞が少しずつ死滅するので、二十歳以降は覚えたことを忘れ易くなり、さっきまで退屈だと思っていた時間の記憶さえ失ってしまうということで時間を短く感じるのでは?という一見科学的な説もあるが、どれも確定的な説とはいえないようだ。

そんなのを調べながら私は画期的な説を思いついた。というか、原点に戻って算数の式を考えただけだが・・。

速さは算数でも習ったように、道のり÷時間で求められる。百キロの道を一時間で行こうと思ったら、一時間に百キロの速さが必要だ。二時間で行くつもりなら、五十キロのスピードでよい。

道のりを自分の到達場所への距離、もしくは人生の目標と考えれば、時間は残された時間である。残された時間が短くなればなるほど、スピードは速く感じるということになる。千キロの道でも、十時間しか時間のない人は時速百キロで飛ばさなければならないが、千時間もある人は、一時間一キロでゆっくり歩いていけばよい。

どう考えても子供より残された時間の少ない大人たちが、時間の経つのを早く感じるのは当たり前ということになる。

ここで、大人は今まで何十年間も歩いてきたのだから、道のりも子供より大人の方が距離は短くなっているはずだという反論が出てくると思う。しかし残念なことに時間を費やしたからといって、自分の人生の目標への道のりが減ったことにはならないというのが、人生の難しいところだ。

肉体的な人生を考えるなら、子供→大人となって死を迎えるのが一般的な人生である。しかし時間が早いとか遅いとかを感じるのは精神的な営みである。精神的な人生を考えるというなら、肉体的には大人であっても、子供のような人間はそれこそいくらでもいる。子供の頃に到達距離の半分以上来ていたのに、大人になってかえって遠くなってしまったような人間も多いはずだ。道のりは減らないのに時間だけは減れば、当然速さは早くなる。

到達するべき場所への距離が減らないのに、時間だけが無くなっていく精神的な焦りが、私たちの一日を早くしているというのが、私の算数である。

残された時間はそう長くすることは出来ない。そうすれば変えられるのは、道のりつまりは人生の目標をどこに置くかということになる。人生の目標をお金や地位や裕福な生活に置けば、人生も半分を過ぎれば、稼げるお金や就ける地位はたかが知れてくる。たかが知れているのにそんなものを追い求めれば、残された時間で割れば、速さは増すばかりになる。

それではどうすればよいか。人生の目標を変えればよいのである。お金や地位というものの多くは、自分が渇望しても与えられるものではない。才能や運や、さまざまなことが必要だ。言い換えればそれは、自分だけではどうも出来ないことである。自分ではどうも出来ないことばかりを追い求めていれば、いつまで経ってもその到達は難しいし距離も少なくならない。

そうであるならどうすればよいか。

人生の目標を、自分だけではどうも出来ないことから、自分だけで何とかできることに変えればいいのだ。

人と比較することを止め、自分だけに与えられた人生を自分が楽しめばいいのだ。

あなたを支えてくれる人がいる幸せと、あなたが支えている人のいる幸せをもう一度かみしめ、桜の花の咲き乱れる姿を美しいと感じ、沈丁花のほのかな匂いに心を満たし、今日生きていることを本当に喜べばいいのだと思う。そうすればそれこそブレークの詩のように、一瞬が永遠の永さに感じられるではないだろうか。

 

そうはいっても、本当はこれが一番難しいことです。

人は本当はそれが一番難しいから、手っ取り早く人との比較の上で、自分の場所を決めるのです・・・・。

 

そこで、最後に一つ、禁じ手をお教えします。

残された時間はそう長くすることは出来ないと書きましたが、一つだけ長くする方法があるのです。

人生は一度きりではなく、人間は何回も生まれ変わり出変わりして、陽気暮らしをするために生きているのだという神様の教えを信じることです。
 ほら、そうすれば時間は無限大、ゆっくりゆっくり時間がやさしく流れて行くのを感じませんか。

これが神様の算数です。


巻頭言 砥石のような人

             171年 5月

先日ある女の人と話をしていて、「砥石(といし)のような人」という懐かしい言葉を聞きました。もう随分前に、その人に私が言ったその言葉を覚えていたそうです。

砥石とは、刃物などを磨く石のことです。今は余り見かけなくなりましたが、昔はどの家にもあって、刃物が切れなくなったらその石で刃物を磨くのです。

そのときどんな話からその言葉が出たのかといえば、その彼女の近しい人に、不足ばかりをわめき散らし、何かといえば人に突っかかっていき、周囲の人を不快にばかりする人がいるという話で、その人は神様からどのような役割を与えられているのでしょうかと聞かれた時に、とっさに出た言葉だったように思います。

「神様の話を聞いて、自分を振り返り、心を見つめなおすことが出来る人もいれば、他人のあらばかり探し、悪いことは皆、周りのせいにする人もいる。

でもその人がいることによって周りが磨かれるのだから、その人は砥石のような人なんや。砥石やから、自分の身すり減らし徳すり減らしてでも、周りの人を磨いてくれるのや。ありがたいことやないか。

その人によって周りの人は成人するし、その人も自分からは何も成人はできないけれど、周りの人を成人させたということで、神様はその人にもしっかりと徳を下さると思う」と、悟りきった人のように話をしたことを微かに覚えています。汗顔の至りですが、彼女はそのことを覚えていて、「でも、砥石は、一つとは限りませんね」と言うのです。

前の話の時の砥石は、彼女の言によれば人を磨ききって出直したそうだが、新たな砥石が出現したのだそうです。

磨ききれてないのか、もっと磨けば光ると神様が思われているのか、私にはわからないけど前置きして、

「砥石のような人がいるのは事実やし、やっぱり今でもそう思うけれど、その砥石の人がすべての人に対して砥石であるわけではない。ある人にとっては、その人をかわいがってくれるやさしい人でも、またもう一人の人に対しては、いやでいやで仕方が無く、砥石としか思えない場合もあると思う。

新たな砥石の出現をあなたは嫌がっているけど、自分にとって砥石であっても、他の人にとってはその砥石のような人が砥石ではなく、大事なすばらしい人である場合もあると思う。

それと同じようにあなたも、私にとってはすばらしい大切な人だけど、ひょっとしたらあなたを砥石としか思えない人が、あなたの周りにいるのではないかということも考えられるのじゃないかな。」と、少しびびりながら話をしました。

さすが聡明な彼女。

「そうかも知れませんね。よく考えてみます。会長さんもね」と、言ってくれました。

私のことは言われなくてもわかっています。

砥石ではなく、反面教師です。

巻頭言 深いい話   171年 6月

           

最近テレビで「深いい話」というのをやっているが、私も先日「深いい話」を聞いたので、ご披露したい。ただし又聞きであるので、細部については少し違っているかもしれないが、ご容赦いただきたい。

奈良県のある教会の会長さんの話だが、その方の教会は娘が三人で、会長さんは、長女にそれとなく、養子をもらって教会をついで欲しいと言っていたそうだが、「今の時代、そんな養子なんて無理」と、長女に言い返されていたそうだ。

その教会の近所に元その筋の方がおられ、刺青をちらつかせては集金のお金を踏み倒したりしていた。にをいがかかって教会へも時々参拝に来、教会に住み込むようになったが、もともとその筋の方なので、教会生活にはちょっと不向きで、何回も飛び出す。飛び出しては、金が無くなって教会へ帰ってくるような人だった。

教会を何回飛び出しても、その方が帰ってくる方法はいつも同じで、本部の参拝場で急病になるそうである。

深夜一時ごろ、本部の南礼拝場で「腹が痛い」と大声で叫び、飛んできた境内掛(交代で神殿の警備をしている若い人たち)が、どうなされましたかと訪ねると、教会名を言い、連絡して欲しいと頼むのだそうだ。仮病とは思わない境内掛は、教会に切迫した電話を入れる。電話を受けた会長さんは、夜中に本部まで車を飛ばし、お迎えに行き、境内係りに礼を言い、教会の客間へお通り頂くそうだ。「ちょっとのどが渇いたなあ」と言われビールを出したり、食事を出したりしながら、何ヶ月か滞在されるが、最後に「このぼけっ、二度と来るか!」と悪態をついて教会を飛び出すそうだ。

そんなことが四回も続いた。

一回ならご愛嬌だが、四回も同じ方法を使った方のずうずうしさにもあきれるが、もっと驚くのは、四回も迎えに行った会長さんだ。私も一回や二回ぐらいならお迎えに行くが、三回目ともなると、「いいかげんにしろ」とほっておくと思う。それを四回も続けたということだから、真実のある人は違う。 

二回目も同じ境内掛から電話がかかってきた。不思議なことに三回目も、四回目も同じ境内掛が、ちょうど居合わせたそうだ。何十人もの人が交代で当番する大勢の境内掛の中からいつもその人になるのも、とても不思議だが、何回もそんなことがあると、会長さんもその境内掛と知り合いになる。境内掛も事情がわかり、四回目ともなると、境内掛も慣れたもので、「又、例の人がお見えです」という電話だったそうである。

それからしばらくして、娘から会わせたい人がいるという話があった。

教会に来た彼は、何回も電話をくれた境内掛だった。

娘と知り合い付き合い始めた彼が、彼女の所属教会を聞いて驚き、そして「その会長さんなら知っている。私のとても尊敬する会長さんだ。あの会長さんの教会なら、養子でも何でも行かせていただきたい」と言ったそうだ。

そして今彼は、その教会の会長となられている。

「理は鮮やかである」という、お言葉以外に、教訓じみた説明は要らないと思う。

本当に「深いい話」である。


巻頭言  お礼        171年 7月

           

最近妻が退院させていただきました。なかなか一筋縄ではいかないような身上でもあり、今は教会で療養させていただいていますが、入院中はいろいろとお心にかけていただき、また退院後もお願いづとめをはじめ、いろいろとお力添えをいただきありがとうございます。

昨年来から、巻頭言では自分の「いんねん」についていろいろと書かせていただきましたが、実際に妻の身上としてその「いんねん」をお見せいただくと、自分が如何に口先だけで言っていたのかを改めて強く思い知らされました。そして信者さん方の事情や身上についても、随分上っ面の理解しかしていなくて、その人の本当に内面までは入ったおたすけをしていなかったということを強く反省しています。

それと同時に、巻頭言を始め年頭挨拶などで、まるでこれからの自分の心の納め方を予見しているような文章を書いていることに、これは自分が書いたのではなく、神様がこのような心で通れと教えてくれていたのではないかと、今読み返してみて、とても不思議な気持ちがしています。特に今年の年頭挨拶や、プライバシーがあるので詳しくは書けませんが、ある信者さんの心定めについて話した言葉などは、このように思えよと仰せ下さる神様の深い慈愛を感じています。

しかしながら、それならお前の心は平静なのかと問われれば、否と答えるしかありません。否と答えるしかありませんが、そんな中でも、いろいろなことを感じることによって、勇んでいるようにも思います。

先日も、ある信者さんの言葉をきっかけとして、自分の心の奥底に気づかせていただきました。

それは、「会長さんが奥さんのことを優しくしている姿を見るのが、私は涙がでるほどうれしい」という言葉でした。

おっしゃいませんでしたが、その前には「いつも奥さんのことをほったらかしにして、怒り散らしている会長さんが・・・」という言葉があったのではないかと想像しています。

私は教会で生まれ育ち、今教会長をさせていただいています。自分の中で、人から見て結構やなあと思える姿を見ていただくのが教会長の「にをいがけ」の一つであると、心のどこかで思っていました。

妻が歩きにくくなってきた時、いたわるどころかきつい言葉で責めたことも一度ならずあります。それは、会長は「人から見て結構やなあと思える姿を見ていただかねばならない」という思いも、どこかにあったからだと思います。

ご守護とは、目に見える結果ではなく、どのように思えるかだと、教典の「見えるまま、聞こえるままの世界に変りはなくとも、心に映る世界が変り、今まで苦しみの世と思われたのが、ひとえに、楽しみの世と悟られて来る。」という言葉を引用してよく話していましたが、目に見える結果に私が、一番囚われていたのだと思います。自分のいんねんや心の至らなさを忘れ、教会長としての体裁に囚われた本当に高慢な姿だったのだと今となっては思います。

そんな私にその信者さんの一言が、すとんと胸に治まり、結構になった姿を見せるのも大事だけれど、人から見て結構でなくても、その中を喜んで通っている姿を見ていただくだけでもいいのだと、私の思いを変えるきっかけになりました。

考えてみれば、教祖のひながたこそ、そういうお姿だったように思います。

その思いがいつまで続くかは、自分の心の身勝手さだけには自信がある私にとって、自信はありません。自信は無いどころか、相変わらず怒ったりもしています。でも毎日がとても大切に思え、帰る家に待ってくれている人のいるという幸せを、今ほど感じていることもありません。

変な文章になってしまいました。

巻頭言にこのような私事を書き連ねることが適当かどうかは分かりません。でも、書くことによって少しは自分の気持ちも整理できましたし、読み返して思いを新たにすることもできると思います。また人に宣言することによって、妻にえらそうにしている時は、あんな風に書いていたくせにと、人間の度し難さも私を通して見てもらえるかもしれません。

私の心が一筋縄でいかないのと同じように、身上も一筋縄ではいかないのかもしれません。

でも、今年の年頭挨拶の最後の文章を引用して、私の決意とさせていただきたいと思います。

 

七、成っても成らいでも

(立教一七一年一月 年頭挨拶より)

私の好きな言葉に「成っても成らいでも」という言葉があります。おさしづによく出てくるお言葉です。その代表的なものが、明治四十年六月九日本席様最後のおさしづです。本部の会計の窮乏を受けて百日のおさしづで、親神様は人々の精神を定めることをお急き込みくださいます。そしておぢばに当時の全教会長が集まり、会議の後、本席様に「部下教会長一同わらじの紐を解かず一身を粉にしても働かさして頂き、毎月少しずつでも集まりたるだけ本部へ納めさして頂く事に決め申しました」と御返事申しげます。そして本席様から、神様のお言葉が下がります。おさしづの最後の部分です。

『もう十分の満足をして居る。席は満足をして居る/\。(中略)その精神というは、神の自由受け取りたる精神。何も皆、身上は成っても成らいでも案じてくれる事要らん。篤と心を鎮め。皆々心勇んでくれ/\。』

 本席様はもう十分の満足をしているとおっしゃいます。それは神様の御守護というものをしっかりと受け取り心に置いた精神を皆が見せてくれたからであって、本席様の身上が、成っても成らいでも(よくなっても、ならなくても)、心配してくれることはいらない。しっかりと心を鎮めて、みんな心勇んでくれとおっしゃているのです。

 本席様は、それから数時間後お出直しになられます。それは御守護のない姿なのでしょうか。教祖の平癒を願って「命捨てても」との思いでつとめた明治二十年一月二十六日とそれは見事に符合するのです。

 人間の側の直接的な願い(教祖や本席様の身上平癒)と、結果は正反対ですが、そこにこそ神様の御守護があるのです。

私達はただ、神様の自由用の御守護を信じて、たとえ結果が「成っても成らいでも」しっかりと心勇んで勤めさせていただくことが大事だと思うのです。(今回の場合は、成るほうの御守護を頂きたいと切望していますが)  

世界には二種類の人間しかいないのであるならば、私達はやはり真の意味での「よふぼく」にとしてらせていただこうではありませんか。たとえ現世では思うような結果に「成っても成らいでも」、その精神は神様が確かに受け取ってくださっているのです。

 そのことを改めて心にしっかりと置き直して、今年の長い長い年頭挨拶を終わらせていただきます。


巻頭言 成っても成らいでも 樋口孝徳

       

今月の巻頭言は、七月二十四日の大教会神殿講話を、掲載します。

 

こどもおぢばがえりが、いよいよこの二十六日から始まります。

おぢばがえりの伏せこみとしてのひのきしんに汗を流す若者もいれば、勝ち組、負け組などという言葉に踊らされて、人生に絶望して信じられないような事件を起こす若者もいます。

そんな若者に私たちはどのようにこの道の教えを伝えていくのか、今日はそれについて少し思うところを話させていただきたいと思います。

そんな若者の思いを象徴するような言葉を聞いたことがあります。

何もない小さな自分と言う言葉です。ある人の言葉です。以前私どもの教会の会報で文章にしたことがありますので、まずそれを読ませていただきます。

『二年程前にある人と話をした。彼は酩酊し、泣きながら搾り出すようにこんな言葉を言った。

「このままでいいとは思いません。でもしらふになると、何もない、ちいさい自分が見えて怖いのです、不安なのです。」 その言葉が、今も時々よみがえる。

「酒が弱いので酔うことはできないけど、あなたの不安は、私の不安でもある」と答えた私に、「会長さんでもそうですか」とうれしそうに返した彼の顔も覚えている。「でも何もない、小さい自分でいいのではないか」と言った時、彼はしかしこう言った。「それではダメなんです。」

 今日、巻頭言を書きながら、久し振りに彼の言葉を思い出し、「このままでいいとは思いません。何もない、ちいさい自分の」反対である、「このままでいい。何かある、大きな自分」というのが、はたしてあるのだろうかと、ふと考えた。

 「何かある」とは、何があったら不安でなくなるのだろうか。大きな自分とはまさか身長や体重のことではないだろう。

 「何かある、大きな自分」になりたいという思いが、現実の私達の活動を揺り動かし、それが進歩や、経済発展の原動力となっているのも事実だと思う。

しかし彼の言葉は、今の日本を象徴しているような言葉に思えてならない。

昔、職人気質という言葉があった。大辞泉では、「職人に特有の気質。自分の技能を信じて誇りとし、納得できるまで念入りに仕事をする実直な性質。」と書かれているような職人の代表的な一例が料理人であった。彼は親方について何年も修行した料理人であった。それこそ親方に包丁を投げられるような修行時代も経験したそうだ。しかし彼の料理の腕は、彼の何かにはならなかった。

その当時彼は、結婚し一戸建ての立派な家を買い住んでいた。しかし彼はそれにも満足していたわけではなかったと思う。誰か他の人と比較して「贅沢な、喜べ」などという話ではない。

彼の求めている何かは、職人技として何かを極めるものでもなく、結婚だとか家だとかといった目に見える形の何かでもないということなのだ。

あの時の彼の言いたかったことを単純に考えれば、何かとは、お金と、名声ではなかったかと思う。

そしてそれは、今の日本に共通している何かということでもあると思うのだ。

何かを造って結果としてお金をもうけるのでもなく、どうしても必要な何かを買いたいからお金が欲しいのでもない。とりあえず、まずお金がほしいのだ。

何かを成し遂げて、その結果有名になるのでもなく、まず有名になりたいのだ。自らの子供に「悪魔」という名前をつけてでも有名になりたいと考えた父親がいたが、エスカレートした今では、有名になりたいという理由で犯罪さえ犯す人間が出てきた。

私達が、お金と名声を、追い求める「何か」とする限り、いつまでたってもどこまでいっても、「何かある大きな自分」にはなれないと思う。

それは具体的な物ではないからだ。

具体的な物でないということは、無限ということだ。無限を追い求めれば、いつまでたっても満足することはない。

神様はそれを「欲にきりない泥水」とおっしゃた。

宗教とは、「何もない小さな自分」が、「何かある大きな自分」に変わることをたすけることではないし、まして「何もない小さな自分」が、「何かある大きな自分」になれたなどということを、ご利益として喧伝することでもない。

それは幻想に過ぎない。そして今その幻想が一人歩きして、私達の焦燥や不安をさらに大きくしているのだと思う。今ある現実の自分と、ありうべき幻想の自分とのギャップの中で、息も絶え絶えの若者たちが私達の周りにずいぶんいるではないか。

そのくびきから逃れる方法が一つある。

自分が有限であるということを思い出すということだ。私達が年をとり、いずれ死ぬのだという冷徹な現実を思い出すということだ。

その人の考える「何かある大きな自分」になれたとしても、最後には、「何もなく消えていく自分」でしかないのだということを、はっきりと認識することだと思う。

そしていずれ「何もなく消えていく自分」でしかない人間の、本当の存在の意義を教えるのが宗教なのだと私は思う。』

もう少し続くのですが、この文についてはこれぐらいにしておきます。

ここで一番私が思っていたことは、現世的なご利益を追うことの怖さです。もちろん信仰をして現世利益というものは必ずあるし、それはとても大事なことですが、それは結果であって目的ではないということをしっかり分かっていなければならないということです。

そうでないと、私たちの教えが、現世的な利益の差によって勝ち組負け組に分けている世間の風潮と少しも変わらないことになってしまうのではないでしょうか。

それともう一つ、何もなく有限の存在である人間が、無限の存在である神様の思いをすべて理解するのは無理だということも心においておかねばならないと思うのです。

わからないことは、わからないこととしておいておくのが一番よいのではないかということです。

例えば人間から見たら、癌が消えるということは、不思議な御守護であります。不思議なこととは、言い方を代えれば、理不尽なことです。

誤解を恐れず、人間の都合を捨てて、裏返しから見たら、すべての理不尽なことは、すべて不思議な御守護ということになります。

それをただ人間の都合のよいことは、「神様の御守護」であり、都合の悪いことには口をつぐみ、口をつぐめばまだましなぐらいで、「信仰が足らなかった」などと神様でもないのに、神様のように言ってはいないかと思うのです。

人間にとって都合の良いこと、悪いことを神様の御守護というもので分けるのではなく、不思議なこと、理不尽なことはすべて、神様の深い思惑があるのだと信じることが、もっと必要なのではないでしょうか。

そのことを一人の宗教家としてどこまでしっかりと腹の中に納まっているのかが、大事なことだと思うのです。

そういえば阪神大震災のあと、次のように言ったある宗教学者の言葉を思い出します。

「阪神大震災でいろいろな宗教が救援活動に行ったが、ボランテイアや、にわか精神科医や、にわかカウンセラーはいたが真の意味での宗教活動をした宗教はひとつもなかった」という言葉です。

元神戸分教会のことを知らんかったから、そんなことを言ったのだと思いますが、しかし例えばあの大震災で子供や親や兄弟をなくした人たちに私たちは、本当の意味での宗教的なおたすけをできたでしょうか。

そんな遠い話でなくても、自分たちの周りにも理不尽な死を迎えた人はいっぱいいます。その人たちに対して私たちはどれだけ、本当の意味でのおたすけををしてきたでしょうか。

教祖の逸話篇に悟り方というお話があります。読ませていただきます。  一八四 悟り方
 明治十九年二月六日(陰暦正月三日)、お屋敷へ帰らせて頂いていた梅谷四郎兵衞のもとへ、家から、かねて身上中の二女みちゑがなくなったという報せが届いた。教祖にお目通りした時、話のついでに、その事を申し上げると、教祖は、「それは結構やなあ。」と、仰せられた。
 梅谷は、教祖が、何かお聞き違いなされたのだろうと思ったので、更に、もう一度、「子供をなくしましたので。」と、申し上げると、教祖は、ただ一言、 「大きい方でのうて、よかったなあ。」と、仰せられた。というお話です。

 聞きようによってはひどい話だと思えないでもありません。私は末っ子ですが、小さいほうの立場がないやないかと、思わずつっこみを入れそうになります。私が信者さんにそういえば、信仰を止めるといわれてもおかしくない話です。

でも、こうして残っているのは、梅谷先生の心にこの言葉がすとんと納まったからなのだと思います。

しかしそれは、言葉どおり、「大きいほうでなくてよかった」というふうに得心できたということではないように思うのです。

また、その当時、教祖は既にこかん様も秀司先生夫妻も亡くされています。同じように子供を亡くされていたことで通じるものがあったというのもちょっと少し違うように、私は思うのです。

先人の話の中で、教祖にお会いしたらこれも聞きたい、あれも聞きたいと思っていても、いざその前に行かせて頂くと、なんともいえない気持ちになって何にも聞かなくても良くなったと言うような話をよく聞かせていただきます。もちろん教祖は月日のやしろで、神様ですからと言ってしまえばそれまでですが、教祖には、私たちとまったく違う価値観があったのだと思うのです。

それは端的に教祖のひながたを考えればわかることです。

先ほどの「人間の都合のよいこと、悪いこと」という見方でいくならば、貧に落ちきられたことや、大勢の肉親の死を考えただけでも、私たち人間側から考えれば都合の悪いことばかりを通られたのが教祖のひながたであることは、私が一つ一つ説明するまでもないことだと思うのです。

それでは教祖の前でいったい人々はどのように感じたのか、そのような今だけの喜びだけではない何かを教祖の前では感じられたのではないかと思うのです。

教祖の御前にいった人々は、9億9万年前から未来へと続く悠久の人間の歴史、その中で私たちは生き、そして又死に、生まれ変わってはまた一歩ずつ成人への道を歩んでいく、教祖の前で、一瞬にそんな永遠を垣間見たように感じたのではないかと思うのです。

だからこそ、梅谷先生の心に教祖の言葉がすとんと落ちたのではないかと思うのです。

これは私の全くの想像ですが、もし梅谷先生の大きいほうの子が亡くなられていたとしたら、教祖はおそらく「小さいほうでなくてよかった」と仰せられたのではないかと思うのです。それはいみじくも「悟り方」という題どおり、まさに悟り方であり、絶望的な悲しみの中で自分を鼓舞するための言い訳なのかもしれません。

しかしそれがたとえ絶望的な悲しみの中で自分を鼓舞するための言い訳であったとしても、その言葉をすとんと心の中に落とさせる力が宗教の力として一番大切なものの一つなのだと思うのです。それは様々な悲しみや苦しみのなかを勇んでお通り下されたとお聞かせいただく教祖のひながたを通ることによって自然に身についてくるもののような気がしますし、それこそが私の中に一番欠けているように思うのです。

道と世界は合図たてあいとお聞かせいただきます。

世界では、地震や台風やさまざまな自然災害が頻繁に起こり、日本では豊かになりすぎた若者たちの考えられないような犯罪が多発しています。

そんな中にあって私たちが、ただ目先のご利益に神様の姿を求めていては、「真の宗教活動をした教団は一つもなかった」などという、宗教学者の言葉を待つまでもなく、何の指標も世界に示すことはできないのではないでしょうか。

まず自分の心の奥底に目を向けて、「人間にとって都合の良いこと、悪いこと」でご利益を判断するのではなく、神様を探す努力をしなければならないのではないかと思うのです。そんな意味での象徴的な言葉があります。

「成っても成らいでも」という言葉です。

二つのおさしづを引用します。

「身上不足なったら、どうや知らんと思う。そうやない。成っても成らいでもという心を持って、よう聞き分け。人間という、一代切りと思ては違う。これまで運び尽した理は、日々に皆受け取ってある程に。さあそうしたら身上なあと、又思うやろ。さあ成っても成らいでもという心定め。さあ身上返やして了たら、暫くは分かろまい。なれど、生まれ更わりという道がある。さあこれより楽しみな道は無いと定めて、いかな事情も心に治め、道という理を治め。後略 」

             (明治三十九年十一月十四日)

もうひとつ、もっとも有名なおさしづのひとつです。明治四十年六月九日本席様最後のおさしづです。

本部の会計の窮乏を受けて百日のおさしづで、親神様は人々の精神を定めることをお急き込みくださいます。そしておぢばに当時の全教会長が集まり、会議の後、本席様に「本席の御身上も普請の上から御苦しみ下さる事でありますから、部下教会長一同わらじの紐を解かず一身を粉にしても働かさして頂き、毎月少しずつでも集まりたるだけ本部へ納めさして頂く事に決め申しました、」と御返事申しげます。そして本席様から、神様のお言葉が下がります。おさしづの最後の部分です。

『もう十分の満足をして居る。席は満足をして居る/\。又今一時席の身上の処差し迫り、どうであろうこうであろうと、困難の中で皆心を合わせ、もう一度十年何でも彼でもというはなか/\の精神。その精神というは、神の自由受け取りたる精神。何も皆、身上は成っても成らいでも案じてくれる事要らん。篤と心を鎮め。皆々心勇んでくれ/\。』

 本席様はもう十分の満足をしているとおっしゃいます。それは神様の御守護というものをしっかりと受け取り心に置いた精神を皆が見せてくれたからであって、本席様の身上が、成っても成らいでも(よくなっても、ならなくても)、心配してくれることはいらない。しっかりと心を鎮めて、みんな心勇んでくれとおっしゃているのです。

 本席様は、それから数時間後お出直しになられます。教祖の平癒を願って「命捨てても」との思いでつとめた明治二十年一月二十六日とそれは見事に符合するのです。

 人間の側の直接的な願い(教祖や本席様の身上平癒)と、結果は正反対ですが、そこにこそ神様の御守護があるのです。

私たちはみないずれ死ぬのです。かりものである体で作らせていただいたどんな大きな屋敷もお金も、かりものである身体をお返しするときに一緒にお返しするしかありません。どんなに愛情を注いだ人とも、自由に使わせていただいた心をお返しするとき、別れなければ。なりません。

何かある大きな自分も、いずれ何もない小さな自分として死んで行くしかないのです。そんないずれ返さなければならないことに血道をあげるのではなく、貸していただいている心と身体を使って、永遠である魂を磨く努力をさせていただくために生きているのだと、本当に心の底から言える信仰を私は持ちたいと思います。

人生に絶望して、誰でも良いのだと人を殺す若者がいます。

成る事が人生の目的だからなのです。

そんな人々をこれ以上増やさないためにも、今こそ私達はもう一度、ただ、神様の自由用の御守護を信じて、成る事が目的ではなく、たとえ結果が「成っても成らいでも」しっかりと心勇んで勤めさせていただく生き方を見せようではありませんか。ご清聴ありがとうございました。


巻頭言 同 情       171年 10月

 

十月の「今月の言葉」は、同情という題です。引用します。       

    同情は自分にするものではない

人にするものだ

と、言われたことがあります

その人の前で、自分はこんなに忙しいのだ

あれも、これもすることが一杯あってと

いろいろな愚痴を並べ立てていた時です

そんなふうにぴしゃりと言われて

はじめて自分に言い訳していることに

気がつきました

考えてみれば私たちは、

人に同情するより先に

自分に同情して

本当はしなければならないことから

逃げていることも多いように思います

 

最近、忙しい忙しいが口癖となっています。「おたすけ」も、忙しさにかまけて、三回が二回、二回が一回になっているようなことも多いように思います。

 先日もある信者さんとおたすけの話をして、どうしても験(しるし)を見せていただけないので、だんだんおたすけに行きにくくなってきたが、どうしたらいいのだろうかという話になりました。おたすけは、病気を御守護いただくのが大事なのではなく、その人の心がたすかることが大事なのであり、それ以上に、自分との戦いのような気がするという話をしながら、この「今月の言葉」を思い出していました。

おたすけでも鮮やかな御守護をお見せいただくときもあれば、ほとんど何の験もお見せいただけないように思えるときもあります。そんな時は、なかなか行く気にはなれないものです。しかし、そんな自分の気持ちとの葛藤の時こそが、自分の本当の姿を気づかせていただく時であり、その思いを押して行かせていただくとき、御守護をお見せいただけるようにも思います。

昔、大教会の五代会長さんにお聞かせいただいたお言葉を思い出します。

『私たちは教祖に「そこまでせんでもいいから」と言ってもらう前に、自分で「そこまでせんでもいいや」と思って止めてしまうことが多い。神様や教祖に「そこまでせんでもええや」と言っていただくことは無理にしても、せめて他人から「そこまでせんでもええや」と、言われるような通り方をさせていただきたいものや。』

天神橋の橋杭につかまって、一晩川の水に浸かってからおたすけに廻わられた泉田藤吉先生は、教祖より「この道は、身体を苦しめて通るのやないで。」とお言葉を頂きました。先人の先生方は皆、「そこまでせんでもええや」と今の私なら思ってしまうような通り方をされ、不思議な御守護を数多く頂かれたのです。

「会長さん、そこまでしてくれんでも・・・。」と、言われたことのないわたしにとって、信者さんからせめてそう言ってもらえるような勤め方をさせていただきたいと思っています。

 

巻頭言 たった一つの命だから 171年 十一月

今月は、先月教会で作った「にをいがけチラシ」を少し加筆掲載しますが、手抜きではありません、お間違えのないように・・・。

 

こんにちは、三名之川分教会です。

すばらしい秋日和が続きます。こんな日は、生きているということについて少し考えてみませんか。

 

◎たった一つの命だから

先日たまたま運転中にラジオを聞いていたら、NHKラジオの特集で、「たった一つの命だから」という番組を放送していました。

 この言葉は二〇〇六年、病気で右腕をなくした女の子が左手で書いた年賀状に書かれていた文字だそうです。その力強い文字と言葉に感激した人が、この言葉に続くメッセージを集め、命の大切さを考えるきっかけにしてほしいというプロジェクトを発足させました。

最初にこの呼びかけに答えたのは、十五歳の女の子。「たったひとつの命だから、楽しく笑え」だったそうです。その後、地元のラジオ局に出演し、メッセージの募集を呼びかけたところ、小学生からおじいちゃん、おばあちゃんまで、世代を超えて数多くのメッセージが、次々と寄せられたそうです。

この言葉をきっかけに、多くの人が、命について考えたのです。ある人は、自殺を思いとどまり、ある人は、大切な人への思いをつづりました。

ラジオでも、多くのメッセージが寄せられていました。

最愛の子供や家族を失った人のメーセージを読み進めるうちに、淡々とメーセージを読むべきアナウンサーの声が震え、コメンテーター達の言葉がだんだんと少なくなってきました。

たった一つの命だからと書いた少女は、昨年亡くなったそうです。

あなたは、この言葉のあとにどんな言葉をつなぎますか。

 

◎電池が切れるまで

宮越由貴奈ちゃんは、大変な病気でありながら生きる希望を失わず、人を思いやり、勇気を与え続けました。「電池が切れるまで」とは、その由貴奈ちゃんが書いた「命」という題名の詩から生まれました。十一才で短い生涯を閉じた由貴奈ちゃんが、亡くなる四ヶ月前に書いた「命」という詩。一緒に入院していた友達が亡くなり、テレビから流れるいじめや自殺のニュースを聞いて、生きたくても生きられない友達がいるのにと、命の大切さと精一杯生きることの大切さを教えてくれる詩です。   

命       

命はとても大切だ。

人間が生きるための電池みたいだ。

でも電池はいつかは切れる。命もいつかはなくなる。

電池はすぐにとりかえられるけど、命はそう簡単にはとりかえられない。

何年も何年も、月日がたってやっと神様から与えられるものだ。命がないと人間は生きられない。

でも、「命なんかいらない」と言って、命をむだにする人がいる。まだたくさんの命がつかえるのに。

そんな人を見ると悲しくなる。

命は休むことなく働いているのに。

だから、私は、命が疲れたと言うまで、せいいっぱい生きよう。

この詩によって私の命は随分充電されたような気がします。

天理時報でも紹介されたことがありますからご存知の方もおられると思いますが、由貴奈ちゃんは信仰のある家庭に生まれました。お母さんは次のように綴っています。

「由貴奈、お父さんとお母さんを選んで生まれて来てくれてありがとう。人は皆、それぞれ使命や目的を持って生まれてくるんだって。あなたは・・・・。

両親の成長を早めるために短い人生を承知で生まれてくる子がいるということを聞きました・・・。

もっと一緒にいたかった・・・。

でもね、あなたは多くの人たちにいろいろすばらしいことを残してくれました。ほんとうによくやったね、よく頑張ったね。由貴奈いろいろありがとう。」

 

◎たった一度の人生だから

たった一つの命ではありますが、たった一度の人生ではありません。

自分に与えられたたった一つの命で、私たちは自分にしかできない何かをするためにこの世界に生まれてきました。それはみんな一人ひとり違うのです。

病気になった人々の多くが、「何故私がこんな病気に・・・。」と尋ねます。私はいつも答えられません。

でもそれは「何故私がこんな顔なのですか」と同じような質問のような気もするのです。人々は顔が違うように、それぞれの人生も違います。お金持ちもいれば貧乏な人もいます。若くても病気になる人もいれば、高齢まで元気な人もいます。

しかしどんな境遇の人も、必ずその中で、厳しい節に当たることがあります。厳しい節の時、人はいやおうなく自分と向き合うしかありません。

例えば病気の時何故自分だけがといってみても、誰も代わってはくれません。結局病気になった人とその周りの人々が、その中を通るしかないのです。

そしてその厳しい節の中で呻吟しながら叫ぶ何故こそが、神様から一人ひとりに与えられた、この人生で解くべき問題のような気がします。

その答えを解くために私たちは生まれてくるのです。

その問題をしっかりと解く人もいれば、宿題としたまま、出直す(死ぬ)人もいます。

たった一つの命ですが、たった一度の人生ではありません。私たちは、長い長い魂の成人という道を歩いています。死はその道中の宿屋での一泊です。目覚めたら、また新しい一日が始まるのです。たとえ前の日のことはすべて忘れてはいても、あなたが昨日到達したその場所が出発点になるのです。

巻頭言 命は命からしか生まれない 171年 12月
命は命からしか生まれません。

当たり前のことです。私は木の股から生まれてきたのではなく、樋口金徳、カネ子という親から生まれてきました。

樋口金徳は、樋口宇三郎、ヨシ夫婦から生まれました。樋口宇三郎は、樋口宇吉、ハル夫婦から生まれました。その前は知りません。

母方になるともっとひどいものです。樋口カネ子は沼津の大川という家から嫁に来ています。先日初めて沼津の母親の先祖のお墓に参拝したのですが、墓標がたくさんあって、どなたがどういう関係なのかわからないまま、(親戚の人が説明してくれたのですが・・・)、頭だけ下げてお礼申し上げて帰ってきました。

私の場合は、次男でもあり、生来人間関係を頭に入れるのが苦手なせいもあるかもしれませんが、それでも皆さん、どれだけ自分の先祖のことってわかっていますか。

せいぜい自分から三代から四代ぐらいで、それも父方、母方の両方となるとかなりいい加減で、五代以上前のことを知っていたら大したものじゃないかと思います。

もう随分前になりますが、ルーツという言葉がはやりました。そんなルーツ探しをしろというのではないのですが、命は命からしか生まれないのですから、私が今いるというのはものすごい奇跡なのだと、先日ふっと思ったのです。

私でいうなら、樋口金徳とカネ子がいなければ私はいません。樋口金徳は樋口宇三郎とヨシがいなければいません。カネ子も、二人の両親がいなければいません。その計算でいけば、私は、二人の両親と、四人の祖父母、八人の曾祖母がいなければ、生まれては来なかったのです。それが四代前に遡ると、十六人の人が必要です。わずか十代前に遡ると、私は、千二十四人の人、つまりは五百十二組の夫婦が、子供を生まなければ生まれてはこないのです。

その計算で行くと、私が生まれてくるためには、二十代前には、百四万八千五百七十六人、三代で百年と計算するなら、およそ千年前の三十代前には、十億七千三百七十四万千八百二十四人の人、その当時の世界人口をはるかに超えた人が必要なのです。

二人の両親から私が生まれるだけでも、二人とも死の危機からの生還という大きなドラマが必要でした。四人の祖父母にもいろいろなドラマがありました。

「月日よりだんだん心つくしきり そのゆえなるの人間である」というおふでさきのお言葉は、何も人類の創造という大きな意味だけではありません。私一人にも当てはまる言葉なのです。

奇跡の連続の中で私が生まれ、あなたが生まれ、そして今、生きているのです。

一年の終わりという月に、自分の背負っているとてつもない命の重みに改めて驚嘆すると共に、もう一つの奇跡、六十億を超えた世界人口の中で、あなたと出会い少しの時間でも共有しているという不思議に感謝の挨拶をして、本年納めの巻頭言とさせていただきます。

今年一年いろいろとありがとうございました。