母の五十年祭
今月母の五十年祭をつとめさせていただくことになりました。前に書いた文章を加筆訂正し自戒と反省の意味を込めてもう一度載せたいと思います。
『たすけられているということ 一七〇年 十月号
母親が出直して今月で四十四年になる。昭和三十八年二月九日、享年は五十二歳であった。
私はその時まだ小学三年生で足を折っていたので大学生の兄に抱いてもらって玉串をしたことだけをほのかに覚えている。そんな幼い子を残していくのはどんな気持ちであっただろうかと、今、母の亡くなった年を越えた私は、やるせない気持ちになる。兄は父に「天理教を信仰していてなんでこんなことになるのや」と、その時聞いたそうである。父は「お前にそんなこと言われんでも、世間の人がみんな言うてくれてる。」とだけ答えたそうだ。その短い言葉に凝縮された父の思いに何ともいえない気持になる。
母親は私のすぐ上の姉を身ごもったとき、お医者さんは、「出産は無理で母の命は保証できない」と言ったほどの難産であった。臨月が近づき母子共に危険になったちょうどその時、父に修養科の一期講師の話があった。そんな事情なのでとても無理とお断りに行くと、大教会の五代会長さんより「家におってもどうしょうもないのだから、神様の理を立てて行かせてもらえ」と言われて行かせていただき、ふしぎな御守護いただき、姉も無事出産でき、母も無事だった。
それから五年たって私を妊娠したが、そんな経緯もあり、また両親とも高齢なので出産については随分悩んだそうである。それでもせっかく神様から授かったのだからと出産を決意し、私がこの世界に生まれることになった。私のときは無難に出産の御守護をいただいたが、まさに両親に信仰がなかったら生まれてこない命なのである。
父親は、私が節目の時には必ず病気をしていた。私が生まれて間もない頃の父は、結核が悪化し死の床にあった。「教祖の年祭の時に教会長が倒れているということを聞いてほっておかれるか」と一面識もない他系統の
私の結婚式の日に、父が挨拶で、結婚前に私が父に何気なく言った言葉に触れ、とても嬉しかったと言ったことを今も覚えている。それは、「親が信仰してなかったら俺はどこかの施設で暮らしていたのかも知れんなあ」という言葉である。「息子からその言葉を聞いて本当に嬉しかった」という父の言葉に私は、逆にとても不思議な気がした。そんなに大層な思いで言ったのではなく、ただそのときちょっと思っただけの思いつきと言ってもよいような軽い気持ちで言った言葉だったからである。
今、やっと父の気持ちが少しは理解できるように思う。
授かった命だから生もうと両親が決心した時、母は、やっとの思いで姉を出産してから既に五年が過ぎ、高齢で病気自体も全快したわけではなかった。
母は文字通り命がけであった。
そして父も重い結核の身上を持っていた。二人はいつ死んでもおかしくなかったのである。
「俺はどこかの施設で暮らしていたかもしれん」という私の何気ない言葉は、その当時の両親にとってはありうる現実だったのである。
この文章を書きながら、今あの時の父の姿を思い出している。そして改めて私と父の一つの人生に対する受け取り方の大きな違いに驚いてしまう。
私が結婚をするまでに成長したという事実は変わらないが、それが当たり前としか思えなかった私と、それを大きな奇跡として感謝する父。
私の例はわかりやすい例だと思うが、皆さん方もちょっと考えていただきたい。皆さん方の当たり前と思っている今の人生が、本当はあなたが考えるほど当たり前ではないかもしれないのだから。
自分のいんねんを自覚することが信仰の第一歩であり、喜びの第一歩であるとよくお聞かせいただく。
しかし自分のいんねんを自覚することは難しい。
私が本当は生まれてこない命であり、親の信仰によって初めてこの世に生を享けられたと本当に自覚できたのは、最近である。
そして父が私のあの何気ない言葉であんなに喜んだ理由をおぼろげながらも分かってきたのは、今この文を書きながらのことだ。
私の三人の子どものうち、二人は既に成人を迎え、一人も四月からは高校三年生になる。考えてみれば、この三人の子ども達が授かった時、成人を迎えるまで私は生きているだろうかと悩んだ日は一日もない。信仰のある家に生まれ、いんねんの自覚と、人にも言ってきた私が、このていたらくである。何もかもが当たり前であるのは、いんねんの自覚がないからである。そして何もかもが当たり前であるという思いの次に出てくるのは不足しかない。いんねんの自覚ができると言うことは、何もかもが当たり前ではなく大きな御守護によるものだということが分かることであり、そして今が本当にありがたいと心から喜べる気持ちになることだと思う。
もう一度書く。
自分のいんねんを自覚することが信仰の第一歩であり、喜びの第一歩であるとよくお聞かせいただく。
しかし自分のいんねんを自覚することは難しい。
自分のいんねんを自覚することが喜びの第一歩であるなら、言い換えれば、今を喜べなければ、いんねんを自覚しているとは言えないのである。
ここまで私は自分のいんねんを自覚しているような言葉を書き連ねてきた。
しかしお前は今を本当にありがたいと思っているかを、心の奥底まで尋ね自問自答してみれば、やっぱり喜びよりも不足や案じの心の多い自分が見える。
いんねんを自覚するというのは、本当に難しい。
最後に、いんねんを自覚することは本当に難しいと書いたが、そう書いたら難しいのであるならば見せてやろうと、妻の腰痛として、因縁の片鱗をお見せいただくことになった。
神様はすごいなあと思う。思うが、やはり実際その姿を見ていると、とてもつらく感じる。妻の病気を何とか御守護いただきたいと、自分なりに神様の思いのあるところを思案させていただき、実行もさせていただいている。
父親は妻を亡くし、子供も亡くした。「いんねん」ということで言うならば、生まれてこないはずの命を助けていただき、妻を娶り子供までもお与えいただいた。元気な妻と子供たちがいて当たり前だと思っていたことが、どんなに大きな御守護をいただいているのかを、本当の意味でやっと今頃分かりかけてきたような気がする。
貧に落ちきらねば、貧になる者の気持ちが分からないと、教祖は全ての物を施し、貧に落ちきる道を歩まれた。病む事も同じような気がする。家族が病んでみなければ、病むことのつらさは心底は分からないし、今までいろんな病人のおたすけに行かせていただいたが、分かっていたつもりだったんだなあと、つくづく思わせていただく。
「そんなことお前に言われんでも、世間の人がみんな言うてくれてる」と言ったという父親の気持ちも、今まで以上に共感できるし、それがどんなに「しんどい」ことなのかも、ようやくちょっと分かった気がする。しんどいというのは、世間に対して以上に、自分に対してのことだ。
私の例で言うなら、妻の病気が「いんねん」であるならば、私の母親は出直したのであるから、それと比較すれば随分軽くしてくださっているのだと思う。そうであるなら、これ以上の御守護を願うことは欲で、これでありがたいと思うべきであり、大難を小難に御守護いただいているのだとしっかり喜べという思いが一方にあり、また一方には、もう少し何とか目に見える御守護をいただきたいと願う心もある。その狭間の中で今も行ったり来たりしている。それは自分の信仰を見つめ直すことであり、自分の中の神一条でない部分、欲や世間体に流される自分を、否応無く自覚させられるということだ。そしてもっと根本的に、たすけて欲しいと願うのは、本当に妻のことを案じている「ひとだすけ」の止むに止まれぬ思いなのか、それともお前が困るからなのかという問いを、突きつけられたりもしている。
ここまで書いていて、「明日上市の教会で学生会の集まりがあるので」と、天理に下宿している長男が珍しく帰ってきた。よい機会だから、母親におさづけの理を取り次がせていただくことになった。
妻と長男と私が神殿に参拝して、長男が妻におさづけの理を取り次ぎ出した。長男のおさづけの理の取次ぎのお歌の合間に妻の嗚咽が聞こえる。「泣いていたんか」と聞くと、「息子におさづけを取り次いでいただくなんて、こんなうれしいことはない」と、妻が言う。
その妻の言葉を聞いて、たすけられているのだと改めて思った。母におさづけを取り次ぎたくても、母親が病気の時、私はまだ十歳にも満たなかった。そのことを思えば、たすけられているのだと本当に思う。
信者さんには、「妻が生きてさえいてくれれば結構と、私が本当に思わせていただくことが出来たら、御守護いただくと思います。でもそれが難しい」と冗談のように申し上げているが、おそらくはまだ揺れ動くことだとは思うけれど、本心そう思わねばと思っている。』
五年前の文章です。十年ほど前からそれまで大嫌いだった「いんねん」という言葉を使い始めた気がします。そして妻の身上、神様は先回りしてくださっているのだなあと、妻の病名を聞いた時本当に思いました。
今月妻も五十三歳、母親の年を越えました。孫も見せていただき、次男も来月から修養科に入学させていただきます。
巻頭言たすけられているということ 2
三月二十八日の真夜中私は脳梗塞を起こしました。当日長男、次男は天理。昨日泊まっていた娘と孫も京都に帰り、一人で就寝しました。
前兆も何もありませんでしたが、突然誰かに起こされたような気がして目が覚めました。トイレに行こうと思ってベッドから起き上がろうとするのですが、全く起きられません。まだそのときは自分の体に麻痺が起っているなど思いもしていません。おかしいなと思いながら何回も起き上がろうとしてはベッドに転がります。これはちょっとおかしいぞと思います。左半身が動かないのです。一瞬このままで出直してもいいかとも考えましたが、中途半端に朝になって気がついても困ります。何とか消防署に電話して救急車をお願いしました。午前二時頃です。救急車の中へ運び入れられた私でしたが、今度はなかなか搬送先が決まりません。救急隊員は色々な病院に電話をしてくれているのですが、七・八箇所は断られたようです。脳梗塞は時間との勝負と聞いていましたが、まあこのままでと脳梗塞に気がついたとき思ったこともある手前、「おおこれがたらいまわしというやつやなあ」と意外と落ち着いています。結局遠方ですが、橋本市の橋本市民病院に決まりました。入院時にもらった入院治療計画書には次のように書かれていました。
病名 脳梗塞 症状 構語障害、左片麻痺
治療計画 点滴・リハビリ 推定入院期間 約2週間
点滴が四日まで、お医者さんや看護師さんも驚くほどの回復で五日に退院いたしました。後遺症としては厳しいリハビリ(もちろん運動不足の私の主観です)による極度の筋肉痛、退院当日は正座どころか座ることも痛いほどでしたが、今は(八日)元気にしています。
「不思議が神」というお言葉があります。二十七日に、「不思議が神という言葉があるけど、人間にとって都合のよい不思議もあれば、人間にとっては理不尽としか思えない不思議もある。不思議が神とおっしゃるのだから、人間にとって都合のよいことだけを御守護という考え方は違うと思う。」とある人と話していたばかりでした。三十日には私はあまりしたくなかったのですがと、月次祭の後の連絡の時に話していた「二十四時間のおてふりまなび」も行われました。不思議なことに言葉通り私は入院中で参加できませんでした。
三月二十日には母親の五十年祭を勤めさせて頂きました。会報の巻頭言には「たすけられているということ」という題で五年前の十月号の巻頭言を再掲しました。
妻のことを書いていますが、本当にたすけられているのはお前だと神様に言われたような気がしています。だから今月の題名は「たすけられていること2」としました。
「人間にとって都合のよい不思議もあれば、人間にとっては理不尽としか思えない不思議もある。不思議が神とおっしゃるのだから、人間にとって都合のよいことだけを御守護という考え方は違うと思う。」と、先日言いましたが、まあやっぱり人間にとって都合のよいことを御守護と呼びたくなるのは当たり前だなと再認識している今日この頃です。
今月は皆様に大変ご心配をおかけしましたが、なんとか無時帰らせて頂きました。
本当にいろいろとありがとうございました。
巻頭言 どうしても伝えておきたいこと
三月二十八日の真夜中に脳梗塞を起こし、ちょっと向こうの世界も覗いてきたと先月号に書きましたが、その時思ったことと知ったことをいくつか書いてみます。
その中で一つどうしても伝えておきたいことがあります。ある友人に「孤独死するところやったのによかったなあ。」と言われましたが、孤独死というのはないというのがあの時確かに感じた感覚でした。
だれにも看取られず死亡している人を孤独死として取り上げる風潮が、昨今ことさら多くなりましたが、天理教信仰者として以前から私はどうも腑に落ちない感じを受けていましたし、孤独死を嘆く報道の仕方には、孤独死しそうになったかわいそうな私のひがみ根性からかもしれませんが、「家族にみとられず」孤独死するかわいそうな人たちへの上から目線を感じてしかたがありませんでした。
昔は、「死ぬときは家族にみとられて死ぬことが当たり前」でした。それは別に昔の人のほうが家族愛が強いというのではなく、以前は、三代・四代が同居する大家族であり、平均寿命がまだ低く今のような老々介護ではありませんでしたし、何より医療も発達途上で、病院で死ぬより家で死ぬことが多かったからです。一人で死ぬことを孤独死といってその増加をセンセーショナルに言うなら、生きているときは家族から離れて一人でほっておかれている人がずいぶん多くなっていることのほうがもっと問題なのではないでしょうか。
震災以後「絆」だとか、「家族」といった言葉をよく目にします。そんな言葉をよく目にするのは、「絆」や「家族愛」が日本中にあふれているようにみえますが、果たしてそうでしょうか。そしてそれ以上に私たち宗教家は、絆や家族愛が信仰すれば満ち溢れてきますよとのみ喧伝するのではなく、そこから外れてしまった人々に心配しなくてもよいと伝える必要があると思います。
そして私がどうしても伝えたいことに話を戻します。
それは孤独死はないということです。脳梗塞をおこし、あちらの世界も垣間見たあの時、それでもどこか安心感があったのは、誰かがそこにいたからです。
あの時感じた一番大きな収穫は、誰かがいてくれるという感覚です。あの時確かに自分一人しかいなかったけれど、誰かがいてくれました。私の横にいてくれたのが教祖だったというのは、私ごときに教祖がおいでいただくのはあまりにも申し訳ないことですので教祖でないにしても、今は亡き誰かが私の傍らにいてくれたことは確かです。
そういえば祖父母や、近所の人たちをはじめ昔の人は、出直しが近くなったとき、今日はだれだれが来てくれたとよく言っていたのを今思い出します。父親も最後近くに今日は誰それが来てくれたと言っていました。その時は、老人の幻覚のように聞き流していましたが、今から思えば確かにその人が来ていたのでしょう。
人間は生まれるとき双子でなければ一人で生まれてくるのだから、死ぬ時も一人で死ぬのがいいなどと思っていましたが、大きな間違いでした。この世界に生まれるときは、母親がいなくては生まれません。それと同じように死ぬ時も必ず誰かが傍らで見つめてくれているのです。
孤独死はありません。安心してください、皆さん。
巻頭言 人災
「七月五日、福島第一原発の事故を国会事故調査委員会は人災と認定しました。報告書は地震、津波対策について、東電や経済産業省原子力安全・保安院などが、「意図的な先送りを行った」と踏み込み、「何度も事前に対策を立てるチャンスがあったことを鑑みれば、事故は明らかに人災」と断じた。」(七月六日朝日新聞朝刊)そうです。人災であるならば、この災いを起こした人が特定され責任を糾弾されるべきなのでしょうが、東京電力やそれを許した許認可庁の誰かが責任をとったというようなことはないようです。
人災だと言われた原発が、皮肉なことに七月五日から再開されました。この再開がだれのどのような責任で行われたのかも、実のところよくわかりません。本当は誰も責任を取りたくないし、取る気もないようです。
それどころか今有り余る電気の恵みを享受しながら、原発反対を言うな、このままだと計画停電を甘受してもらわねばならないと言われるとそれはそれで困ってしまうので、再開も仕方がないかと思ってしまう私がいます。
私の住んでいる小川は、計画停電の予定はないそうです。この地区を停電させてもほとんど使用電力には大差ないのだということなのでしょう。それはちょっとさみしいと思いながらほっとしています。
そんな私ですから、原発を再開することに大上段に反対などする気はないのですが、それでもこんなことで大丈夫と思ってしまいます。結局のところ誰も責任を取らないのは、日本という国の常態ですからそれはそれで仕方がないことですが、原発事故が怖いのは起こってしまったら、人為的に回復ができないことなのです。小川は放射能で汚染されました。今後数十年は住むことはできません。この場所を出てくださいと現実に言われた時、「はい、わかりました」と、答えるわけにはいきません。しかし逃げるしかありません。そうして昨年たくさんの人が故郷を追われて逃げました。
天災はどのように厳しいものであっても、それが過ぎれば自然や人は元の暮らしに戻ろうと一から始めることができます。しかし原発事故は汚染されればその土地を放棄しなければなりません。
汚い言い方で恐縮ですが、「自分の尻も拭けないくせに一人前の口を聞くな」と昔は言いました。自分の尻を自分で拭くことは大人の人間としての最低のレベルです。事故がなくても、今でさえ使用済みの核燃料の始末に困っている原子力発電を弄びながら、一人前の顔はできません。
垂れ流した自分の糞さえも始末できない私たちが、一人前のはずはないのです。
何年か前に「ガラスの地球を守れ」とまるで地球の守護神のようなコマーシャルが流れました。自分で後始末さえできない子供が、よくもまあそんな偉そうなことが言えたなあと思いますが、よく考えれば子供だからこそ言えたのかもしれません。
天災によって見せられたことは、天といういうものの警告なのかもしれません。同じ過ちを何度も繰り返せば、まさしく人災です。
私たちは「過ちは 繰返しませぬから」と誓ったはずではありませんか・・・。