179年のカントウゲン(関東言)

巻頭言  心の成人    179年1月

新年あけましておめでとうございます。

昨年は、教会の上にいろいろとお力添えをいただき誠にありがとうございました。

今年は、一月二十六日に、教祖百三十年祭を迎えます。この三年千日「仕切っての成人と一手一つの活動を期して」と諭達第三号でお聞かせいただきましたが、どれだけ成人させていただいたかを考えれば、成人とはなかなか難しいことです。

それよりも成人するというのはどういうふうになったことを言うのでしょうか。私たちはよく成人という言葉を使いますが、これは便利な言葉ですが、どうなることが成人したことになるかと考えれば、実のところよくわかりません。

でもわからなくて当たり前という気もします。

大人になるということを考えてみれば、なぜわからなくて当たり前かはわかります。

 『幼児は「大人である」ということがどういうことかを知らないから幼児なのであり、大人は「大人になった」後に、「大人になる」とはこういうことだったのかと事後的・回顧的に気づいたから大人なのである。成然した後にしか、自分がたどってきた行程がどんな意味をもつものなのかがわからない。それが成熟という力動的なプロセスの仕掛けである。』これは内田樹先生の言葉ですが、たとえば私の一歳の孫はこれから何年かしたら幼稚園に入り小学生になり、青春を迎え大人になるということはわかりません。大人になるということを想像できないから幼児なのです。幼児から少年、そして成人となった私たちは、大人になったからこそ、大人になるというのはこういうことなのだとわかるということです。
 そう考えれば、心の成人とはどういうことかわからないのも当たり前でしょう。
 少なくとも私は成人していない心の幼児ですから、やっている信仰も幼児の信仰なのです。嫌なことがあれば泣き、悲しみ、母親に頼るように神に苦しみを取り除いてくれと願います。よい事をすれば褒めてもらい、悪いことをすれば罰を与えられるというような勧善懲悪のような信仰は、私を幼児のレベルから飛び立たしてはくれません。
 「人間が陽気ぐらしをするのを見て神も共に楽しみたい」とお聞かせいただいた親神様は、そのような幼児からの成人を、私たちに促されているように私には思います。
 この世界は、単純な勧善懲悪の世界ではありません。何とも言えない理不尽なことも起こります。それは地球全体から見た大きな貧富の差の結果によってもたらされていることも多いのです。そのような世界情勢を考えるとき、恵まれていることを謳歌するだけでは許されないのではないでしょうか。その貧富の差や、様々な理不尽は神様の責任ではなく、私たちの責任です。
 何千年をかけてこの世界をつくってきたのは私たちであり、もしその責任は私たちにあり、私たちが変えるべきであり、それを神様に願うものではないからです。
 神様は私たちに陽気ぐらしをする力と世界を与えてくれました。陽気ぐらしの世界にできるのは神様ではなく、人間なのです。それだけのものを私たちに与えてくれているからこそ、人間を創られたのは神様であるという証明になるのだと思います。

 幼児の信仰から、成人した信仰へ、それは幼児の信仰の私にはまだ見えないものかもしれません。でも大人になってわかってくることがあるのと同じように成人さえしたら、必ず見えてくるものがあるのだと思います。
 ただ少し問題なのは、心の成人は大人になる時のように時間さえあれば自然に大人になっていくということではないということです。

 そして大人になるという時でも、時間さえあれば大人になれるものでもないことを考えれば、心の成人は本当に難しいことだと思います。


巻頭言 年祭の元一日に心を  179年2月

 先月の先月の会報の「掲示版」に、「今年は暖冬です。でも今日は雪が降っているかもしれません。(中略)今日の天気さえ決められない私ですが、今日の天気をありがたいと思うかどうかを決められるのは、私だけです」と書きました。すると二十日の春季大祭の前日から厳しい寒さが続き、雪まで舞ってきました。ある人とその雪を見ながら、「まるで書いたやないか、思うようにしてやった」ということやなあと話しました。

 教祖が現身を隠された直後のおさしづに、扉開いてろっくの地にしようか、扉閉めてろっくの地に。扉開いて、ろっくの地にしてくれ、と、言うたやないか。思うようにしてやった。』というおさしづがあります。

 それは当日の早朝に、神様から、『さあ/\すっきりろくぢに踏み均らすで。さあ/\扉を開いて/\、一列ろくぢ。さあろくぢに踏み出す。さあ/\扉を開いて地を均らそうか、扉を閉まりて地を均らそうか/\。』というお尋ねに対して、『一同より「扉を開いてろくぢに均らし下されたい」と答えられたのです。その時、(伺いの扇)が開き、神様の方から『成る立てやい、どういう立てやい。いずれ/\/\引き寄せ、どういう事も引き寄せ、何でも彼でも引き寄せる中、一列に扉を開く

/\/\/\。ころりと変わるで。』というおさしづが続いたそうです。扉を開いて地を均すか、扉を閉めて地を均すかと教祖に聞かれた時、扉を開いた方が景気がよかろうとそんなに深く考えずそう答えたと史実に残されています。月日の社たる教祖の扉を開くということは、現身を隠されるということです。当時の人々はそこまで思い至らなかったのかもしれません。しかし、神意は厳然としてあり、『言うたやないか。思うようにしてやった』とのおさしづが下がるのです。

 教祖の年祭は「教祖の残された志を共に追います」と誓う日です。『さあ/\ろっくの地にする。皆々揃うたか/\。よう聞き分け。これまでに言うた事、実の箱へ入れて置いたが、神が扉開いて出たから、子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。しっかり見て居よ。今までとこれから先としっかり見て居よ。』というお言葉通り、(※ろっくとの地にするとは地面を平らにするということです)世界も日本も随分平等になってきました。奴隷制度や人を差別をしてはいけないということはそれが本当になされているかどうかはさておき、理念上は当たり前のことになってきました。親神様がろくじに踏み出されたおかげだと思います。

 しかし親神様の教え《人間は親神様の子供で、みんなが兄弟であり、そこに魂の上下はない》が行き渡ったわけではなく、逆にその歩みは退歩しているかのようです。

 それは神様のせいではなく、私たち信仰者の責任です。

 神様が、『世界ろくぢに踏み均し』に出られ、『今までと、これから先としっかり見て居よ。』と、お聞かせいただいた通り、明治二十年から三十年の間に、信徒は五万人から三百万人に実に六十倍のご守護を見たのです。それは教祖の言葉を真正直に信じ行った当時の先生方の信仰の賜物です。

 そしてそれから百三十年後、

 教祖百三十年祭の当日は晴天でしたが、前日までは全国的に非常な寒さでいろいろな所で雪が降りました。当日はいい天気で雪は降りませんでしたが、寒さは大変厳しいものがありました。ちょうど本部中庭の日の当たらないパイプ椅子に座りましたので、日が当たるまでは本当に寒く、お日様の暖かさを再認識いたしました。

 教祖が監獄で厳しい寒さの中を通られた日を思いだしてありがたいと思おうとしましたが、喜べないものです。服を着まくりカイロをつけているのに寒いとしか思えない私と、いそいそと監獄に出かけられた教祖の違いを改めてまざまざと思い知らされました。

 教祖の年祭はまず真剣に教祖と自分の違いを思い知り、教祖の世界一列をたすけたいという熱情があるかどうかを自分の中に再確認するところから始めたいと思います。                      

                   

 

 

神殿講話 一七九年 五月二十四日 樋口孝徳

 孫もだんだん大きくなってきました。先日も娘から絵をかいたり、色もわかるようになってきたと聞いたので、「おじいちゃんの頭の色、何色かわかる」と聞いたのです。すると私の頭をまじまじ見て、「おじいちゃんの頭の色は、肌色」と言ったのです。なかなか成長してきたけど、今度は祖父に対する気配りというのも教えなければならないと思いました。

 このように子供はだんだん成長します。

 身体の成人は、年月がたてば成人するが、心の成人は、年限がたてば成人するというわけではありません。心の成人の目安の一つは、人をたすけさせていただきたいという心が満ち溢れてくるようになることではないかと思うのです。

 「人をたすける心の涵養と実践」と教祖百二十年祭の諭達で真柱様はお述べ下さいましたが、人をたすける心が芽生え、それをはぐくみ育て、そして実践するようになることが成人の過程なのだと思うのです。その時意外と自分は人をたすける心が充分にあると思っていることもあるのです。そんなひとつの例として、私の信仰の元一日を話させていただきます。

 鷲家分教会で青年をしていた今から四十年近く前のころです。ある時父親から、おさづけに行かせて頂けといわれ、橿原市の信者さん宅に行かせていただきました。その方はベッドから起き上がれないようなきついリューマチの方でした。何回か行かせていただいて、ずいぶん元気になられ、ベッドから起き上がれなかった人が自分でトイレに行けるようになりました。それで実家へ帰られることになり教会の近くに帰ってこられたので、父から「毎日おさづけに行かせていただけ」と言われ、それからは毎日行かせていただくことになりました。家は信仰をしており、おばあちゃんもずいぶんご守護を戴いたので大変喜んでくれています。行かせて頂いたら、「先生、先生」と下へもおかないおもてなしです。私は勇んでおさづけに行かせていただいていたかというと、そうでもありません。それどころか毎日行かせていただくのがだんだん苦痛になってきたのです。もっと有体に言えば毎日行くのが邪魔くさくなってきたのです。

 私は教会で生まれ育ちました。病人さんをたすけるために、水垢離をしたり、お茶断ちをしたりとそんな話はたくさん聞かせていただきましたが、おさづけにいくのが邪魔くさくなってきたなどと言う話は一度も聞いたことがありません。「なさけないとのよにしやんしたとても 人をたすける心ないので」十二号九十というおふでさきの言葉そのもののような私の姿に、自分ながらショックを受け、鷲家の教祖殿で一人教祖に尋ねてみたりもしましたが、鬱々とした気持ちは全く晴れません。

 そんな中本部の月次祭に参拝させていただきました。当時東西礼拝場普請が打ち出され、北礼拝場から教祖殿に仮廊下が繋がっていた時代でした。私はその仮廊下の中ほどで参拝していましたが、神殿講話で「おさづけにいくというのはなかなか大変や」というようなお話を聞かせていただき、本部の先生がそうおっしゃるのなら、私が邪魔くさく感じても当然やと変な自信を持って、もう一度心を入れ替えてお願いのおつとめをさせていただこうと、おつとめを始めたのです。そうしていましたら多くの人が教祖殿へ参拝される時間になり、境内係の人が向こうから順番に座っている人を立たしだしたのです。

 今の私からは想像できないでしょうが、当時私は少し偏屈で、せっかくもう一度おたすけをしっかりさせていただこうと思っている私も立たなければならないのかと思いながら向こうから順番に人を立たせている境内係の人を見ていたのです。そしてその人が私の前の人を立たせたのち、私の前で私を守るように手を広げてくれたのです。私はその時本当に神様はいると実感したのです。あの時何万人もの参拝者があり、みんなそれぞれに助けを願って参拝に来られていたと思うのです。その中でおたすけに行くのが邪魔くさいなどと考えていたのはおそらく私一人ぐらいだと思うのです。でもそんな私でもちょっとだけ心の向きを変えてもう一度おたすけに行かせていただきますと思ったら、その心をお受け取りくださり、こうして手を広げて人の波から私を守って下さるのやと本当に思えたのです。

 「わかるよふむねのうちよりしやんせよ 人たすけたらわがみたすかる」3 47ということはこういうことなのだ。私は人をたすける真似事をさせていただく事によって初めて自分の心の中に、人をたすける心がないということがわかり、それでも、力を振り起して改めて人をたすけさせていただきたいと思うことによって、神様の存在を実感させていただきました。おたすけに行き人をたすけているつもりの私が、本当は助けられたのだなと思いました。

 おたすけに行き、毎日行くのが邪魔くさいと思わなかったら、自分は今も人をたすける心がいっぱいあると勘違いしたままであっただろうと、怖いような気がします。それが私の信仰の原点です。だから今も「人をたすける心」が無いということに関しては自信があります。だからこそ、教祖120年祭の時に真柱様が諭達で「人をたすける心の涵養と実践」というお言葉を聞かされた時、涵養とははぐくみ育てることなので、はぐくめというかぎりは最初無い人もいてもいいのかなと、何となく嬉しく思ったことを覚えています。

 身体の成人は、年限がたてば必ずやってきます。しかし心の成人、魂の成人は年限が来れば成人するものではありません。10代でも立派に成人している人もいれば、60になっても幼児のような信仰の人もいます。これは私のことですが・・・。

 信仰にも子供の信仰と、大人の信仰があるような気がします。

 第二次世界大戦に、ユダヤ人は大変な迫害と虐殺を受けました。第二次大戦中のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)後、多くのユダヤ人は「神に見捨てられた」という思いをひきずっていました。なぜ神は天上から介入して我々を救わなかったのか。若いユダヤ人の中にはユダヤ教の信仰を棄てる人たちも出てきました。その時、エマニュエル・レヴィナスという人は次のように述べました。

 「罪なき者が苦しむ世界に私たちはいる。そのような世界で一番簡単な選択は無神論を選ぶことだ。無神論を選ぶ人たちはこんな風に考えている。神様というのはよい事をした人には報償を、悪いことをした人間には罰を下す存在だ、と。つまり、神様とは、正義の配分を通じて、万人を「幼児」として扱うのだ、と。無神論とはそのような考えをする人の選択肢である。善行をしたものには報償を与え、過ちを犯したものを罰し、あるいは赦し、その善性ゆえに人問たちを永遠の幼児として扱うものをあなたがたは神だと信じてきたのか。だが、よく考えて欲しい。ホロコーストは人間が人間に対して犯した罪である。人間が人間に対して犯した罪は人間によってしか贖うことはできない。それは神の仕事ではなく、人間の果たすべき仕事である。人問たちの世界に人間的価値を根づかせるのは人間の仕事である。「私たちだけの力ではこの世界を公正で慈愛にみちたものにすることができません。神さま、なんとかしてください」と泣訴するような幼児的な人間を神がわざわざ創造するということがありえようか。神がその名にふさわしい威徳と全能を備えたものであるならば、神は必ずや神の支援抜きでこの地上に正義と慈愛の世界を作り出すことのできる人間を創造されたはずである。だから、成人の信仰は、神が世界を負託できるものたることを自らの責務として引き受ける人間の出現によって証明されるのである」難しい言葉ですね。

 でも人間が陽気ぐらしをするのを見て、神も共に楽しみたいというのは、まさにこのことだと思うのです。神様は私たちに陽気ぐらしの出来る心と体を与えてくださったのです。

 明治二十年、親神様はこの言葉をもっとわかりやすくお教え下さいました。

 「人間は法律にさからう事はかないません」という人間の問いに神様は、

 さあ/\月日がありてこの世界あり、世界ありてそれ/\あり、それ/\ありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで。というお言葉を返されました。

 「このやしきに道具雛型の魂生まれてあるとの仰せ、このやしきをさして此世界始まりのぢば故天降り、無い人間無い世界拵え下されたとの仰せ、上も我々も同様の魂との仰せ、右三箇条のお尋ねあれば、我々何んと答えて宜しう御座りましようや、これに差支えます。人間は法律にさからう事はかないません」上も我々も同じ魂ということは、戦後確かに天皇の人間宣言もあり、いろいろな差別も無くなり、今では当たり前になってきましたが、明治時代それは決して考えられないことでした。今だって自分の中で差別を作っている人はいっぱいいます。

 絶対不変とその当時は思っていることも神様から見れば順序が違うのです。

 たとえば今、私たちは、韓国とも中国とも台湾ともロシアとも、領土問題を抱えています。そしてそれは絶対譲れないものとお互いに思っています。しかしこれも私たち人間が決めたことなのです。ほん二百年ほど前には、それぞれ藩があり、国境は変えることのできないものでした。民族の違いもそうです。民族の違いを絶対的なものとして考えてしまいます。でも肌の色さえ孫の言うように黒になったり、肌色になったり、白になったりするのですから・・・。

 幼児の信仰から、成人した信仰へ、それは幼児の信仰の私にはまだ見えないものかもしれません。でも大人になってわかってくることがあるのと同じように成人さえしたら、必ず見えてくるものがあるのだと思います。

 成人するというのはなかなか難しいものだと思います。どうすれば成人するのでしょうか。

「「成熟」というのは、知性的なものであれ、感性的なものであれ、自分が今手元に持っている「ものさし」では考量できないものがこの世には存在するという自分の「未熟さ」の自覚とともに起動します」(内田樹)と、読んだことがあります。

 これも何も難しい話ではありません。教祖殿逸話篇に、天の定規という話があり、その中で教祖は、

 教祖は、「その通り、世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで」と、お教え下された。と、あります。

 私たちは天の定規があるということを知っているのです。ここで勘違いしてはいけないことは、信仰しているから天の定規を持っていると誤解し、会長だから私は天の定規やと思ってしまいそうになる時があります。しっかり思わなければならないことは、天の定規があるということで、私が天の定規を持っているわけではないのです。自分の物差しでは測れない天の定規があるということです。

 私たちはいろいろな定規を持っています。今一番使われているものさしは、お金が大事だというものさしなのかもしれません。体重計で、身長は量れません。お金で、人生は量れません。当たり前のことです。でも私たちは、今自分のものさしとなっているものが本当にどこまで正しいかもう一度その自分のものさしに問いかけ、別の物差しがあるのではないかということに気づくことです。

 「世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで」ということを、私たちの生き方も一生懸命やっているつもりでも、どこかに狂いがある、それを忘れないことが成人させていただく大きな条件の一つだと思います。

 

巻頭言 環境白書 平成四年    1798

 『仮に、世界に国境がなかったならば、たとえ水平線の向う側のことであれ、そこに環境破壊があるならば、人々は資金や労力を投じて環境破壊にさいなまれている人々を救おうとするであろう。また、このような努力が実を結ばないなら、不利な環境を捨てて、人々は環境が優れ経済的に豊かな地域を目指して移り住んでこよう。我々の住んでいる世界には国境があってこうしたことは見られないが、国境に隔てられていても、理性を用いて、人類は助け合わなければならない。誰のせいであれ地球が破壊されてしまったら、人類全ての生存が危うくなる。地球は一つしかなく、人類はそこから逃れようもないからである。

 日本は、17世紀から19世紀中葉にかけて鎖国の時代を経験した。海外資源に一定程度依存しつつも、国内で生み出される自然界の産物を最大限に活用して、独自の高い文化を築いた。その社会では、技術の進歩は必ずしも速くはなかったし、封建的な社会関係は人間性を抑圧することも多かった。気候によっては飢餓が襲い、多くの人命が失われた。こうした江戸時代と同じ世の中に逆戻りすることは誰も望んでいないが、人類は、地球という器の中で暮らさなければならない点では、江戸時代の日本人が置かれていた状況と共通点のある状況に置かれている。好むと好まざるとを問わず、人類は、この限りある地球環境と共存し、その中で幸せを築いていかなければならないのである。江戸時代には、お留め山の禁伐林を盗伐すると極刑に処せられたし、自然界の産物を極力効率的に入手するため、あるいは自然の猛威を防ぐために、人々は力や資金を出し合い、場合によっては強制的な夫役によって辛い普請工事に汗を流した。今日の日本人も、この江戸時代の人々の営々とした努力の成果を各地の美林などに見ることができるし、この時代に整備された堤防や田畑に多くを負って暮らしを立てている。地球環境の中で生き抜くためには、地球の環境が有限であることが明確に認識され、それに応じた行動が育まれなければならない。地球が物質的には閉じた系であることを忘れて行動すれば、それがもたらす災禍は、耐え難いものとなろう。他方、同じように閉じた世界の中で、日本人は、相互扶助や譲り合い、自己犠牲といった洗練された行動を養い、文化を楽しんだ。日本人の知恵は、現代においても決して無価値なものではないであろう。日本人は、単に、その経済力を活用する面だけでなく、技術や知恵や意志や文化といった面でも世界に向けて明確に発言していくことがますます重要となってきている。』

 平成四年の環境白書です。いま日本でも世界でもせっかく人類がたどりついた「たすけあう」という思いに、逆行する動きが出ています。日本では先日十九人もの障害者の人々を殺傷する事件が起こりました。アメリカもイギリスも、富の独占を叫ぶ人や考え方に人気が出ています。

 でも、世界中の人々が日本の私たちと同じように暮らすためには、地球が二個分、アメリカのように暮らすためには地球が四個必要だそうです。私たちの今の生活は、世界の他の人の犠牲の上でしか成り立たないのです。

 「感謝・慎み・たすけあい」教会のガレージに張ってある天理教のスローガンです。このスローガンが、ただのお題目に終わらないよう、私たち信仰者の誠実な取り組みが求められています。


巻頭言 身体と心を鍛える     1799

 先日テレビのオリンピック特集の中で、シンクロナイズドスイミングの井村コーチの話が出ていた。スパルタで有名な彼女にはいろいろな語録が残っていて、選手が「死にもの狂いで頑張りました」と言った時、「死にもの狂いって、死んでから言え」と返したのは有名な話だ。最近でもリオオリンピックシンクロデュエットで銅メダルをとった三井梨紗子が「いいデュエットができた。今まで毎日が地獄のような日々を過ごしてきて、大丈夫かなと思った日もあったが、その日々が報われた」と語ったのを聞いて、「地獄やて、見たこともないくせに」と一刀両断だった。

 「肉体の限界を超えたところに、新しい地平が見える」というのは、言うは優しいけれど、なまはんかな練習で言える言葉ではない。それでも肉体の限界を超える練習によって彼女らは銅メダルを取った。井村コーチはこのようにも言う。「スポーツって何でも自分で壁を作って、その壁を自分の力で打ち砕いていく快感みたいなのが本来あるじゃないですか。だからよく言うの『言っておくけど、私が言うことに応えていかなければ、変わらないよ』って」 壁があってそれを打ち砕いていく。その手伝いをするのがコーチの役目、だからそのコーチの言うことに応えていかなければ、変わらないと言う。

 身体は、厳しい練習によってその限界を超えていく。

 心はどうなのだろうか。身体は神様からの借り物だとお聞かせいただく。心は銘々が自由に使うように許されてはいるけれど、これも自分のものではない。そうであるなら体も心も、厳しい練習によってその限界を超えていくものなのではないか。今の時代は自分を追い込んで力をつけるというような方法を特に心の面ではとらないけれど、でも心の面でも自分の病気や大事な人の災難とか、そんな理不尽な場面に立ち会うこともあるかもしれない。

 スポーツに壁があって自分の力でそれを打ち砕いていく手伝いをするのがコーチの役目であるなら、信仰とは自分の心の壁を破ることであり、教会長は、その手伝いをすることなのだと思う。「言っておくけど、私の言うことに応えていかなければ、変わらない」と、そんな自信に満ちた言葉を私は吐いたことがあるだろうか。

 「会長の役目はここぞという時に、ここぞという言葉を言ったらいい。たとえば月次祭に参拝するということ一つについても、ここではどうしても言わなければならないという時に、しっかりと、間髪をいれず言ったらいい」亡き父の言葉である。ここぞという時はいつわかるのと聞く私に父は、「それは神様が教えてくれる」と言ったことを思いだす。

 八月の月次祭にかわいらしい二人のおつとめ奉仕者が、後半下りを勤めてくれた。年に一回総出のおつとめをつとめさせていただくが、それは多くても二下りで、六下りを勤めてくれたのは最初だ。心は厳しい節の中に成長するのだと、本当にうれしくありがたく思う。それも子供たちの方から言ってくれて、後半の琴と胡弓を上手に勤めてくれた。

 でもなかなか、ここぞという人が帰って来ない。

 馴れ合いの中で、厳しく言えない私が情けない。

 思い当たる人、あなたのことですよ。そう書くのが精いっぱいの私です。


巻頭言 奇跡は目の前に      179年 11月


 私の父親は、私が節目の時には必ず病気をしていました。私が生まれて間もない頃の父は、結核が悪化し死の床にありました。「教祖の年祭の時に教会長が倒れているということを聞いてほっておかれるか」と一面識もない他系統の大教会長さんが教祖のお水をお持ちくださりおさづけの理を取り次いでいただき、父は九死に一生を得ました。それ以後も、私の高校入学の際も、大学入学の際も、卒業の際も病の床にいました。

私の結婚式の日に、父が挨拶で、結婚前に私が父に何気なく言った言葉に触れ、とても嬉しかったと言ったことを今も覚えています。それは、「親が信仰してなかったら俺はどこかの施設で暮らしていたのかも知れんなあ」という言葉です。「息子からその言葉を聞いて本当に嬉しかった」という父の言葉に私は、逆にとても不思議な気がしました。そんなに大層な思いで言ったのではなく、ただそのときちょっと思っただけの思いつきと言ってもよいような軽い気持ちで言った言葉だったからです。

その父の喜びがちょっと理解できるようになったのは、まだ最近のことです。

授かった命だから生もうと両親が決心した時、母は、やっとの思いで姉を出産してから既に五年が過ぎ、高齢で病気自体も全快したわけではありませんでした。

母は、文字通り命がけでした。

父は重い結核の身上を持っていました。二人はいつ死んでもおかしくなかったのです。

「俺はどこかの施設で暮らしていたかもしれん」という私の何気ない言葉は、その当時の両親にとってはありうる現実だったのです。

自分は本当に危うい道を生きてきたのだと、そんなことを考えることもなく、私は生を享け大きくなりました。

私の父母が信仰していなかったら、おそらく生まれてこなかった私から、三人の子供が授かり、そのうち長女は結婚し孫も見せていただきました。

そして今、長男が結婚をさせていただくことになりました。

本当にありがたいことだと思います。

私のようにわかりやすくなくても、今生きているというのは、大きな奇跡です。

奇跡は起こるのではなく、感じるものです。私たちは奇跡の連続の中で今日を生きています。

そう思えるとき、日常の些細なことも喜びにかわるのだと思います。