巻頭言 世界と私は繋がっている  1801     

 いま世界中に奇妙な閉塞感が蔓延しています。 

 第二次世界大戦という大きな犠牲を払ってやっと芽生えてきた欧州共同体という理想が、イギリスのEU離脱をはじめとするヨーロッパ各国での右翼政党の台頭など、自国第一主義によってその瓦解が心配されるようになりました。

 アメリカでは、その歯に衣着せぬ様々な差別的な言辞によって、貧困や将来への不安を抱える人々の大きな支持を得て、トランプ新大統領が誕生することになりました。

 中東では、テロが頻発し、憎しみが憎しみを再生産しています。

 ヨーロッパや、アメリカの自国第一主義も、イスラムのテロも、自分の考え方が何よりも正しいというその考え方だけは、不思議と共通しています。

 私たちは何千年もかかってここまで来ました。

 個人が家族をつくり、幾度となく争いを繰り返しながら小さな村落共同体から、国という大きな集合体ができました。 

 日本で言うならば、今の県にも満たない国々がそれぞれ争っていた時代から、日本という一つの国にまとまるまでに何百年もかかりながらここまで来たのです。ヨーロッパ社会も同じです。幾多の戦争を経て、一つのヨーロッパ共同体の夢が花開いたのです。

 人権についてもやっとここまで来たのです。強いものが弱いものを奴隷としてこき使ってきたのはそんなに昔ではなく、リンカーンの奴隷宣言は今から百五十四年前の一八六三年、立教よりも歴史は新しいのです。

 障害者への差別で考えるともっと最近です。アドルフ・ヒトラーは、「戦争は不治の病人を抹殺する絶好の機会である」と提言しました。身体障害者や精神障害者は社会には「無用」であり、アーリア人の遺伝的な純粋性を脅かすため、生きる価値なしと見なされました。第二次世界大戦が始まると、知的障害、身体障害、精神障害のある人は、ナチスが「T-4」または「安楽死」プログラムと呼んでいた殺害の標的とされました。一九四一年の市民の抗議デモにもかかわらず、ナチスの指導者は終戦までこのプログラムを密かに続行し、一九四〇年から一九四五年にかけて、約二十万人の心身障害者が殺害されました。(引用 ホロコースト百科事典)

 日本では戦後です。優生学的なイデオロギーが政策的に色濃く反映され、戦後の一九四八年(昭和二十三年)に優生保護法が施行されました。同法は、ハンセン病を新たに断種対象としたほか、一九五二年(昭和二十七年)の改正の際、新たに遺伝性疾患以外に、精神病(精神障害)、精神薄弱(知的障害)も断種対象としました。一九五二年(昭和二十七年)から一九六一年(昭和三十六年)の間に医師申請の断種手術件数は一万以上行なわれました。またあわせて遺伝性疾患による中絶も年に数千件ありました。これを消滅させるべく、やっと一九九七年(平成九年)に法改正がなされ、名称も母体保護法と変更されました。

 私たちは紆余曲折を経ながら、やっとここまでたどり着いたのです。そのせっかくたどり着いた考え方、行為が、自分が大切、自国が一番という考え方の前に崩れ去ろうとしています。

 道と世間は合図立て合い、世界で起こる状況と、信仰する私たちの心は密接に繋がれているとお聞かせいただきます。

 自国第一主義、自分が大事という考え方と、教祖は全く反対のことを説かれました。

 誰もが我が身がかわいいものです。その我が身かわいい心からの脱却を教祖は説かれました。

 その方法の一つは「貧に落ち切れ、貧に落ち切らねば難儀なる者の味がわからん」というお言葉に象徴されています。

 しかし難儀なる者の味を知るためには大きな努力が必要です。私は以前の巻頭言でも、魯迅(ろじん)の「寒さで震える旅人に自分の着ているコートを与えるか、それとも菩提樹の下で全世界の人のために祈るかどちらかを選べといわれれば、すぐさま菩提樹の下で全世界の人々のために祈るだろう。なぜなら自分のコートを脱ぐことは寒いからである」という言葉をひきました。同感の言葉を多数もらいましたが、それは「自分の身体、そして命以上に大切なものはない」という人間の究極の本音を言い当てているからだと思います。

 教祖のおっしゃる人をたすけるというのは、自分のコートを脱ぐということなのです。教祖のひながたは、自分のコートを脱ぐことから始められたのです。そしてそれは私達一度コートを脱いだはずの教会長にとっても一番難しいことです。

 そしてそれができるのは、「難儀なるものの味」を知った者だけなのです。人のために祈るということへのある種の欺まん性と、自らを犠牲にすることの難しさを自らに問うたことがなければ、その味を知らなければ、魯迅の言葉への共感は涌いてきません。逆にいえば、その難しさと欺まん性を知っているからこそ、魯迅の言葉が「ほんね」として人の心を打つのであって、「ほんね」だけしかない人にとって、魯迅の言葉は何の共感も沸かないのではないでしょうか。

 幼稚園や小学生に、この言葉を言っても、言葉の意味は理解できても共感は得られないのではないかと思います。それは幼児が、コートを脱ぐなどということはもちろん思わず、また人のために祈ることのある種の欺まん性と、人のために祈ることの難しさを未だ自らに問うことがないからなのです。私達は幼児をかわいいとは思いますが、尊敬することはありません。

 そんな幼児がそのまま大人になったような我が身かわいい、我が身第一という思いが、やっとここまで来た大人であろうとする人々の心にも蔓延しています。

 世界がそのようになってきたのは、私たち信仰者が、難儀なる者の味を知ろうとしていないからなのではないでしょうか。私たちが何となく感じているこの閉塞感は、自分だけが可愛いという心が、自分の中だけでそれ以上は広がりを持てないという当たり前の限界だからです。

 世界と私は繋がっていると書きました。

 世界は、難儀なる者が声を上げ、その声を受けて少しずつ進歩し成人してきました。

 

 「貧に落ち切れ、貧に落ち切らねば難儀なる者の味がわからん」それがひながたです。

 『世界の道は千筋、神の道は一条。世界の道は千筋、神の道には先の分からんような事をせいとは言わん。ひながたの道が通れんような事ではどうもならん。どんな者もこんな者も、案ぜる道が見え掛けてはどうもなろまい。一日二日経ったらと言うたら、どんな事やと思て居たやろ。ちゃんとしてやる道は見るも同じ事。ひながたの道を通らねばひながた要らん。ひながたなおせばどうもなろうまい。これをよう聞き分けて、何処から見ても成程やというようにしたならば、それでよいのや。(明治二十二年十一月七日)』

 その原点から私たちはもう一度出発しなければなりません。

                    

巻頭言 におい  1802      

 時々口臭がすると子供に言われることがある。

「人は言ってくれないよ」と、恩着せがましく言われる。

子供が言うように確かに人の体臭や、口臭を面と向かって言うのはなかなか難しい。自分も人が少々臭くても我慢してしまうことを思ったら、気をつけねばと思いながら、なかなか効果的な対策も思いつかない。

 ポリデントだったか「おぢいちゃん、お口臭い」というコマーシャルを思いだす。孫に嫌われるのは困るが、入れ歯がないのでポリデントも使っていない。かわりに早速歯磨きを始めたのはいいが、京都だからすぐに会うことはないかと、先延ばしにしてしまう。

体臭や口臭だけではなく、家にも微妙に臭いがある時がある。昔はどこの家も汲み取りだったから、余計にいろいろなにおいがしたように思う。

最近は、ファブリーズやら除菌やら、そんな清潔志向が大流行だ。そう言えば娘からは孫への口移しで食べ物をやるのはもちろん、キスも禁止されている。赤ちゃんには虫歯菌は無く、口内感染からの虫歯菌を防ぐためだそうである。私としては子供の健康より親の孫への愛情表現をとれと言いたいところだが、歯医者さんで泣くところをみたいの、と脅されると仕方がないかと思ってしまう。ちょっとテンションが上がって脱線してしまった。大人げないことである。

においの話に戻ろう。

教祖は布教のことを「にをいがけ」とおっしゃった。

天理教ホームページには次のように書かれている。

『「にをいがけ」とは、お道の匂い、すなわち、親神様を信仰する者の喜び心の匂いを、人々に掛けていくことをいいます。真のたすかりの道にいざなうための働きかけです。親神様のありがたさを世の人々に伝え、信仰の喜びを広め分かち合うことは、何よりのご恩報じの実践となります。

にをいがけは、単なる宣伝や勧誘ではありません。また、人にお話をするという形に限られているわけでもありません。花の香りや良い匂いが周囲に広まって、人が自然に寄り集うように、日々常に教祖おやさまのひながたを慕い、ひのきしんの態度で歩ませていただく姿が、無言のうちにも周囲の人々の胸に言い知れぬ香りとなって映り、人の心を惹(ひ)きつけるのです。』

でも残念ながら年を重ねると、加齢臭やら口臭やら自らの身体から、ろくなにおいしか出なくなります。いろいろな芳香剤や脱臭剤でその対策も大事ですが、身体の対策以上に心の対策が防臭には有効なのかもしれません。それは、「においを身体から出すのはあきらめましょう。心からしっかりとにおいを出しなさいよ」という神様のメッセージだと思って、今日から『親神様を信仰する者の喜び心の匂い』の涵養(かんよう)につとめましょう。

 

巻頭言     消えぬ灯     1803      

 比叡山には不滅の法灯という灯があるそうです。これは、最澄の時代からずっと灯され守られているそうです。 

 この灯は最澄が日本で天台宗を開く際に最初の願い、「自分の地位によらず、人のために尽くし、互いを尊重しあう心をもって一隅を照らす人となる」ということを込めて灯したものだといいます。以来、千二百年以上、最澄の「志」は、灯され続けています。灯篭は、一瞬でも油を断ってしまえば途絶えてしまう、非常に繊細で危うい存在でもあります。でも法灯当番などはなく、そこに居るみんなが法灯の存在を気にかけ、常にみんなの意識が法灯へ向けられているそうです。そのように特に決まったルールもなく、千二百年以上途絶えることなく灯され続けているのは、本当に信じがたい事実です。

 高野山にも長年守られた灯があります。

 長和五年(一〇一六)祈親(きしん)上人の勧めで、岸和田の貧しい農家の一人娘お照と呼ばれる女性が、女性の命ともいえる大切な長い黒髪を売って、赤ん坊のころから大切に育てれくれた養父母の供養のために燈籠を寄進したといわれています。その燈が有名な「貧女の一燈 (ひんにょのいっとう)」と呼ばれる燈で、「貧女の一燈、長者の万燈」ということわざでも知られています。高野山の祈親上人が万燈会の法要を営んだとき、長者が見事な万燈の中に貧しい燈籠があるのを見つけ、それを取り払うように命じました。すると、一陣の風が吹き万燈の火は消されたが、お照が寄進した貧しい燈籠だけは明るく輝いていたといいます。

         (参照 新日本光紀行・癒しの和歌山)

 こんな話を聞くと、その火と、その思いを守り続けた宗教の素晴らしさを感じると共に、自分ならうっかりと消してしまいそうだなと、自らの宗教的素養の無さを露呈してしまうようなことを考えてしまいます。

 それはさておき、私たちも一人ひとりが、消えぬ灯を持って生まれてきました。それは私の命です。

 先月の祭文の思いにも書きましたが、命は命からしか生まれません。私たちが今、生きているということは、何千年、何万年、何億年と「命」を引き継いできたからにほかなりません。

 私たち一人ひとりが「命」という灯を受け継いでいる存在なのです。

 「陽気ぐらしをするのを見て神も共に楽しみたい」という神様の思いを受けて、それを実現するために何億年も守られている灯が、私でありあなたなのです。

 そう考えれば、私もまんざら捨てたもんじゃないと思いませんか。

                     

 

巻頭言  神様にはあほうが望み

               1804      

 先日御本部の月次祭に参拝しながら、思ったことがあります。三月二十六日は春休みで、しかもちょうど日曜日、家族連れの参拝者も大勢見ました。そんな多くの人を見ながら、これだけの人が、教祖を慕ってこの道を信仰しているのかと思うと、とてもうれしくなりました。

 この世知辛い世の中で、私たちがみな自分ファーストの考え方に染まっていく中で、人に小便をかけられても、温い雨が降ってきたと喜び、頭を叩かれても、あなたの手は痛くないですかと相手の手を心配するようなそういう人たちがこんなにいるのかと思って、とても力強く感じたのです。

 孫引きで恐縮ですが、原文は以下の通りです。

『増井りんが教祖に、「私どもはあほうでございまする」と申し上げると、教祖は、「神様には、あほうが望み」と仰せられ、つづけて、「人が小便かけたならば、ああぬくい雨が降ってきたのやと思って、喜んでいるのやで。人が頭を張れば、あああなたの手は痛いではございませんかと言って、その人の手をなでるのやで。」と諭されました。

 これに反して、人間社会では、他人からきつい言葉で言われたならば、きつい言葉で一言も二言も言い返しをする。頭を一つ叩かれたら、一つも二つも叩き返しをするのが、利口な人の返しであり、当たり前のことなのかもしれません。ところが、他人から言われても、阿呆になって、言い返しをしない、叩かれても叩き返しをしないどころか、「その人たちを救けてやって下さいませ」と神様にお願いする。これが真実の誠であり、天の定規に沿った判断・行いといえます。「たんのうは真の誠」と教えられますが、この誠真実の心になるには、「かしもの・かりもの」の教理を物事の判断の定規として心の内に治めることが大切だと教えられます。』(『誠真実の道・増井りん』97 99 162 163頁参照)

 増井りん先生は、逸話篇にも何度も出てくる有名な先生で、教祖に教えられた道を真正直に歩まれました。先生が九十歳を越えるころ、おぢばの神殿の日西の廊下で夕日が沈むのをじっと見送り、夕日が沈んでようやく立ち上がり、横にいた青年に「いつもおやさまがお休みになるのが寂しいので、お姿が見えなくなるまで見送らせてもらうのや」と仰せになったそうです。

 「安心してください」(だいぶ古い言葉ですが)、あの大勢の参拝者の中で、私はまだそこに至っておりません。

 それどころか、そこに至るまでの道のりの遠さに呆然としています。先日ある信者さんとそんな話をしました。

色々な身上をいただいて喜べませんと、その方は言います。喜べないけど喜べるようになりたいと思えるなら、それがスタートラインだと思います。と知ったかぶりで私は答えました。当の自分はスタートラインに立ってから、もうすでに四十年は経ちました。                   

巻頭言  まだ修業が足らん  1805

 二〇一七年四月二十一日の参議院、東日本大震災復興特別委員会において、民進党の藤田幸久氏が「天理教災害救援ひのきしん隊」について質疑が行われました。

 藤田氏は、「天理教災害救援ひのきしん隊という恐らく、これは実は百二十年以上の経験のある日本最大の民間災害支援組織であると思います」と話し始め、陸前高田の市長さんや、熊本の阿蘇市長、神戸震災時の兵庫県知事の言葉などを引用し、「阪神淡路大震災、新潟中越沖地震や東日本大震災などでも活躍し、装備も全部自分のところで持っており、衣食住も自己完結的にやっている」と手放しでほめ、「レベルがプロです。ですからこういうプロ集団がいるということについてはワンオブゼムの扱いじゃない扱いをしていただきたいと思いますが、いかがですか」と政府に答弁を求めています。そんな話の中で女性議員が議長のもとに歩み寄り、しばらく速記が止まります。 

 その後、再び藤田氏が発言します。「ある意味じゃ政府が持っていないような機能を持っている部隊を活用しなければ私は政府の怠慢になると思いますが、それに関して検討もされていない、検討する意思もないということですか」という問いに対して、内閣府緒方審議官から「天理教災害救援ひのきしん隊におかれましては、非常に活動を展開していく条件が揃っていると承知はいたしております。こういった風のNPOの活用していただくことも含めまして今後政府といたしまして検討したいと思っております」との答弁があり、また今村大臣からも、「いざというときにはすぐ活動できるようなそういう体制づくりをすることも必要じゃないかと、備えを常にという言葉がありますが、そういったことにですね、うまく機能的に活かせるような仕組みを検討していきたいと思います。」との答弁がありました。

 最後に藤田氏が、「私は最後申し上げようと思っていたのは、この緊急援助隊は大変大きな問題を持っているんです。それは何かと言うと、自分たちの手柄を一切言わない団体なんです。だから百二十年たっても、こういうことが知られてなかったんです。ですから、今さきほど後ろの方で宗教団体がって話がありましたが、この団体は布教活動一切やっていないと思います。私が見てる限りで、むしろ宗教団体が故に、手柄を言わないで来てる。ですから例えば県とかに行くと新聞に出てるんです。こういう団体がやってくれた。ところが一般紙に載らない。だから知れないわけですけど、でも私はこれは大変な宝ですから」というような言葉を述べ、質問を締めくくっています。

 まあ、災救隊のことについては天理時報ではいっぱい書かれていますが、こんなふうに国会で取り上げられたら、何か誇らしく思います。

(ネットで、天理教災害救援ひのきしん隊で索引すれば、国会の中継が出ます)

 

巻頭言  持ったもん勝ちか  1806

 今日は、政治的な話を少ししてみたいと思います。

 核抑止という言葉があります。ウィキペディアでは、「核抑止(かくよくし)とは、核兵器の保有が、対立する二国間関係において互いに核兵器の使用が躊躇される状況を作り出し、結果として重大な核戦争と核戦争につながる全面戦争が回避される、という考え方で、核戦略のひとつである。核抑止理論、また俗に「核の傘」とも呼ばれる」。簡単に言えば、核を使うような全面戦争になれば全人類が破滅するので、核を持っている国は核を使うことを躊躇し、結局核によって全面戦争が回避されるということです。これが言われ出した当時は、米ロを始め核大国の間で、お互いに核を使うと破滅になるので、核によって戦争が抑止されるという意味で使われていましたが、今、核さえ持っていれば簡単に攻められることはないという意味に変ってきています。

 今回のアメリカ・北朝鮮の場合を考えてみればよくわかります。一方は核大国で、もう一方はやっと核を手に入れた核小国です。それが核さえ持っていれば、無理やり責められることはないということを証明しつつあります。アメリカは、核の持たないシリアにはミサイルを五十九発も発射しましたが、核を持つ北朝鮮とはにらみ合いが続いているのです。

 そんな姿を見ながら、これではテロを盛んに行っているイスラム国や、その他の過激組織は、核を持っていたら不用意に攻撃はされないのですから今まで以上に核を欲しがるだろうと思います。

 そして全く見ず知らずの人を巻き込んでいく自爆テロを聖戦とする人々に核が渡れば、私たちの生存が今まで以上に脅かされます。

 先日からの北朝鮮とアメリカのチキンレースの報道を見ながら、私たちの置かれている場所が危うい均衡の中で保たれているのだと再認識します。二人のどちらかがより自暴自棄であったならば、最悪の場合核爆弾が日本で破裂するかもしれません。戦争のあり方は、急速に変化しました。刀や槍、弓の時代から、鉄砲、そして機関銃、大砲、ミサイル、そして核爆弾と、スイッチ一つで遠く離れた場所へミサイルを落とせます。私たちにとってどうしょうもできない人の思惑によって、私たちが核爆弾を浴びるかもしれないという、政治の恐ろしさと科学の進歩を思います。 

 そのような時代の走りの時代に、教祖を私たちの前に出現させ、教祖を通して、「ざねん、りいふく」などの厳しい言葉で、その行きつく先を憂えられました。おふでさきには、

『このたびハなにか月日のさんねんを 

     つもりあるからみなゆうてをく" 6号113

 このはなしなんとをもふてきいている

     てんび火のあめうみわつなみや 6号116

 こらほどの月日の心しんバいを 

せかいぢうハなんとをもてる  6号117』と、嘆かれています。教典には、

『思えば、人類社会は、久しく文化の進展を遂げながらも、徒らに迷いを重ね、行方も知らぬ闇路にさすらいつつ、今日にいたった。それは、 互に争を事とし、争を経ることによつて、己のよき生命を楽しめるもの と、思いあやまつて来たからである。しかも他面、人は平けく安らかな生活をのみ求め望んで止まない。これは、限りない矛盾撞著である。この矛盾を解き、撞著を治めるのが、たすけ一条のこの道である。これこそ、人類に真の心の支えを与え、光ある行手を教える唯一の道である。』と書かれています。 

 親神様は、本当は持ったもん勝ちでも、自分ファーストでもなく、「人間は皆親神様のこどもであり、人間は兄弟同士であり、お互いがたすけあい、陽気に暮らすことが人間創造の目的だ」との親の思いを、何とかわかるように、何とか理解するように、手を変え品を変えてお教え下さいました。

 しかし私たち信仰するものの怠慢によって、世界中の人どころか隣人にさえ、その親の思いを届けることは本当に難しいことです。

 自分や、自分の家族や、自教会にとらわれていることは、まさに自分ファーストです。そのことにに執着しないで、その大きな使命をもう一度思いだすことが、今問われているような気がします。

 

巻頭言  縁の下の力持ち  1807

 「アンサング・ヒーロー」という言葉を最近知りました。

 『ひとりの村人が道を歩いていたら、堤防に小さな「蟻の穴」を見つけた。何気なく小石をそこに詰め込んで穴を塞いだ。その「蟻の穴」は、放置しておくと次の大雨のときそこから堤防が決壊して、村を濁流に流すはずの穴だった。でも、穴が塞がれたせいで、堤防は決壊せず、村には何事も起きなかった。

 この場合、穴を塞いだ人の功績は誰にも知られることがありません。本人も白分が村を救ったことを知らない。

 そういうものです。

 事故を未然に防いだ人たちの功績は決して顕彰されることかありません。事故は起きていないのですから。そういう人たちのちょっとした警戒心とささやかな配慮のおかげで大きな災禍を回避できた場合があったということが日本にもあったはずです。

 でも、そのことは誰も知らない。本人も知らない。

 そういう顕彰されることのない英雄のことを「アンサング・ヒーロー」と呼びます。「歌われざる英雄」です(この言葉を僕は福岡伸一先生の『生物と無生物の間』で教えてもらいました)』(街場の憂国論 内田樹 p350)

 日本語では、今では死語のようになってきましたが、「縁の下の力持ち」という言葉がありましたね。死語になってきたというのは、つまりはその言葉を尊ぶ風習が無くなってきたということです。今は、目に見える業績が全てですから、歌われなかったら、縁の下でいるばかりではだめなのです。

 でも本当はこの縁の下の力持ちのお蔭によって、社会は廻っていくのです。内田先生は、次のように書きます。

『この「アンサング・ヒーロー」たちの報われることのない努力によって僕たちの社会はかろうじて成立している。彼らのおかげで、この社会はきわどいところで破滅の淵で踏みとどまって、とりあえずの安寧を保っている。そういうふうに考える人がむかしはたくさんいたと思います。それは言い換えると、ふとした気づかいをしたときに(朝早起きして道の雪かきをしたときとか、道ばたのガラスの破片を拾ったときとか)、「もしかすると、これで誰かが傷つくリスクを少しだけでも軽減できたのかもしれない……」という思いが脳裏をよぎる人もそれだけ多かったということです。

 昔の先生は「隠德を積む」と、よく言われました。

おさしづでは次のように言われています。

『石の上に種を置く、風が吹けば飛んで了う、鳥が来て拾うて了う。生えやせん。心から真実蒔いた種は埋ってある。』(明治二十三年九月三十日午後九時刻限御話)

 真実蒔いた種は、埋っているのです。種をまくという事はどういうことなのか。世間の風潮に負けることなく、しっかりと考えさせていただかねばなりません。

 

巻頭言 中島みゆきさんの歌を聞きながら 

     信仰を考える。       樋口孝徳

 みなさん方の中には、中島みゆきという人のことを聞いたことのない方もおられるかもしれませんので、まずこの糸という歌を聞いて欲しいと思います。

 

○ 糸(4分04秒) 

 中島みゆきの歌で一番有名なのは、糸という歌だと思います。これは今は結婚式の定番となっていますが、最初は今の真柱様の結婚のお祝いに作られた歌です。それが天理教の他の結婚式で歌われるようになりました。今では結婚式の定番の歌となりました。皆さんもどこかで聞いたことがあると思います。

縦の糸はあなた 横の糸は私

織りなす布は いつか誰かを

暖めうるかもしれない

 私とあなたという糸で織りなした布が、まったく別の誰かを暖めるかもしれないと言うのです。私たちが温まるための布ではなく、まったく別の誰かを暖めるのだというのです。

 これはもちろん夫婦の愛情だけを言うのではないかもしれません。

 

 夫婦と言えば思いだす歌があります。

いつか二人になるための一人

やがて一人になるための二人  浅井和代

 どんな二人もやがて別れなければなりません。

 

死を中島みゆきは次のように歌います。

 

どんな立場の人であろうと

いつかはこの世におさらばをする

たしかに順序にルールはあるけど

ルールには必ず反則もある

街は回ってゆく 人一人消えた日も

何も変わる様子もなく 忙しく忙しく先へと

 

愛した人の席がからっぽになった朝

もうだれも座らせないと

人は誓ったはず

 でも その思い出を知らぬ他人が平気で座ってしまうもの

 どんな記念碑も雨風に削られて崩れ

人は忘れられて 代わりなどいくらでもあるだろう

 それでは永久欠番という歌を聞いて下さい。

○永久欠番(5分14秒)   

  

 一人ひとりが永久欠番であるような私たちに、強いも弱いも無いのです。そして私たち人間だけが、心というものを与えられているのです。

 次の歌は、知的障害者を描いたドラマ「聖者の行進」の主題歌として造られた歌です。

 衝撃的な歌詞があります。

何かの足しにもなれずに生きて

何にもなれずに消えてゆく

僕がいることを喜ぶ人が

どこかにいてほしい

生まれたというのは神様の思惑があるのです。だから神様が喜んでくれているはずです。

くり返すあやまちを照らす 灯をかざせ

君にも僕にも 全ての人にも

命に付く名前を「心」と呼ぶ

名もなき君にも名もなき僕にも

おさしづに、「命でも危うき処(ところ)でも心という。これだけの事が分からねばどうもならん。」おさしづ 明治23.6.20 とあります。

 私たちは必ずあやまちを犯すのです。あやまちを犯すのも心であれば、それを照らすのも心なのです。

そして心とは人だけにあるものなのです。

○命の別名(4分53秒)

 

 その心の奥底に震えている私たちの魂があります。

 傷つきやすい魂は、悲しみに耐えられません。所詮この世はこんなものだとわかっているふりをすることもできず、またこの世界の栄達や権力を望んでひたすら走る程、私たちは単純にできてもいないのです。そしてそれが得られない時、私たちは誰かのせいにしようとします。

 救われない魂というのは何かと中島みゆきは問い、救われない魂とは、いろいろなことに傷ついている魂ではなくて、傷ついたことで人を傷つけ返そうとしている魂なのだと歌います。それでは聞いて下さい。 友情という歌です。

○友情(7分04秒)

 

 次は負けんもんねという歌です。

 節はそれを乗り越えられる力のある人のために与えられている。私は神様によって試されているのだというような言い方をしますが、この歌詞はすごいと思います。

 

 失えば その分の 何か恵みがあるのかと つい思う期待のあさましさ

 なにかを失ったかわりに、なにかを得たというような言い方を私たちはしがちですが、それを中島みゆきは、浅ましいと言います。私は本当にすごいなと思いました。

 それについては、糸井重里さんと中島みゆきさんの対談があります。 

『失った分、何かを得るんだという発想が、 人間が生きていくうえで、 最後の救いのような気がするんです。 という司会者の問いかけに対して、

 中島みゆき「見返りを期待しないところから、 世界は開けるんじゃないんですか。 今までのいろんな曲でも言われることは、ままあるんですよね。それ以上のものを信じることができれば、それは些細な絶望じゃないですか。」

糸井 「おお、パチパチパチパチ(拍手)。 我が意を得たり!(笑)」

 

〇負けんもんね

 

 最後に 命のリレー(5分02秒)という曲を聞いて下さい。出直しということはどういうことか、私たちの使命とは何かをこれほどわかりやすく感動的に歌われた歌はないと思います。

 真柱様にお会いになって、インスパイア―されて創られた曲だそうです。

〇命のリレー

 

 

 

巻頭言 あなたはどちら側ですか   1809

人にはどうやら二種類の人間がいるようです。

ユンチアンという人が書いた、「ワイルドスワン」という本があります。清朝の崩壊から日本との戦争、共産党の中国支配、文化大革命まで日本では想像できないような激動の中国を生きてきた一家族三世代を描き、世界的ベストセラーになりました。その中に印象的な文があります。

『このときから、私は中国人を二種類に分けて見るようになった。人間性を持った人と、そうでない人と。十代の紅衛兵から、大人の造反派まで、あるいは走資派とされた人々についても、文化大革命というとてつもない動乱が、その本性をあらわにして見せた。』

全く同じような文章があります。第二次世界大戦のときドイツ軍のユダヤ人強制収容所に入れられ、まさに九死に一生を得た、心理学者V・フランクルの「夜と霧」の中の一節です。

『これらすべてのことから、われわれはこの地上には二つの人間の種族だけが存するのを学ぶのである。すなわち品位ある善意の人間とそうでない人間との「種族」である。そして二つの「種族」は一般的に拡がって、あらゆるグループに入り込み潜んでいるのである。(ユダヤ人の中にも、ドイツ人の中にも)専ら前者だけ、あるいは専ら後者だけからなるグループというのは存しないのである。』

「道に世界あり 世界に道あり」というお言葉を聞いたことがあります。信仰している者の中にも形だけの信仰をして考え方や行動はこの道の話を聞いていない人と同じ人がいるし、その反対に信仰はしていないが、その心や行いは神様の教え通りに通っている人もあるという意味のように記憶しています。この原稿を書くに当たり、出典を調べてみましたが残念ながらよくわかりませんでした。ただ同年輩の人々のほとんどは知っておりましたので、語り継がれてきた言葉である事は事実のようです。

このような意味で、二種類の人間がいるならば、あなたはそして私は、どちら側の人間でしょうか。

一人の人間の中にそのどちらの面もあると考えた方がよいかもしれません。そして極限状況にそのより強い面が出るのだと思います。

通常の時はよき隣人であった人が、「ワイルドスワン」で言うならば文化大革命という動乱の中で、「夜と霧」では、死とまさに隣り合わせの強制収容所という極限の暮らしの中で、否が応でも人々の本性が出てしまうのです。

 文化大革命や収容所体験というような特異な状況ではなくても、人は節に当たればその本性が出てしまいます。

以前夫が病気の人に、「夫の病気は妻への神様の思いがあるので、貴女も反省させていただくことがあるのではないか」と、天理教的な反省を促した時、「なんで主人が病気して、私が反省しやなあきませんのか。主人の病気やから主人が反省したらよろしいやんか。」と言われて、二の句が告げられなかったことがあります。そのときは何でこんなこともわからんのかなあと思いましたが、いざ自分の妻がそうなった時、反省よりも先に腹のほうが立ちました。でもその中でそれは、こんな時に腹しか立たない自分という人間の人間性や品性を自覚する、これ以上ない機会でもありました。

そして今ようやく、節というものの意味をわからせていただいたような気がしています。節とは、自分の本性を見つめ直す機会なのです。言い換えるなら、自分の本性を見つめ直さなければ、それはただの病気でありただの事情なのです。 

 そして今世界は、大きな節にさしかかっています。

 その節は、結局お前は「道の中の世界」ではないのかと、二種類の人間のどちらであるかと問い続けます。

 それは、私だけではなくこの道を信仰する者すべてと、世界中の人々に問いかけられている神様の急き込みでもあるような気がします。

 

巻頭言  教祖の時代        18010

 天理教が立教になったのは、三つのいんねんがあったからだとお聞かせいただきます。「教祖魂のいんねん」「やしきのいんねん」「旬刻限(しゅんこくげん)の理」と言い、立教の三大いんねんと呼びならわしています。旬刻限の理とは、人間を宿しこんだとき、最初に生みおろした子数の年限(99万9999年)が経過したときに、神として拝をさそうという日のことになります。

 その教祖がお生まれになった日から立教前後まで、世界ではどんなことがあったと思われますか。

 教祖の誕生は今から約二百二十年前の一七九八年です。

立教は、それから四十年後の今から百八十年前の一八三八年です。その当時の世界の情勢で一番大きな出来事は、フランス革命で、教祖が生まれる五年ほど前に、ルイ十六世、マリーアントワネットが処刑されています。また教祖が生まれた翌年にナポレオンが登場します。

 そして、フランス革命前後に啓蒙思想が発達します。教祖がお生まれになる十年程前に、フランス人権宣言(人間の自由と平等、人民主権、言論の自由、三権分立などのフランス革命の基本原則を記したもの)が交付されます。

 ちょうど教祖が生まれた時に西洋では、今私たちが当たり前だと思っているそのような考え方ができてき、そしてそれが世界の潮流となります。ご都合主義と言われたらそれまでですが、私は神様が旬刻限の理と合わせて、人間の成人をそこまで導いたと思わずにはいられないのです。

 もう少し前なら、専制君主がいて、その王権は神様からのさづかりものであるという王権神授説が主流をなしている時に、人間はみな平等であると言われてもよくわからなかったかもしれません。

 日本だって、明治維新までは、各地に藩主や武士がいて、その身分はほとんど変わらなかったのですから、武士も百姓も同じ人間で平等であるということは、たとえば教祖の「吉田家も偉いようなれども、一の枝の如きものや。枯れる時ある」仰せられたように、明治維新のような旧体制の崩壊を経なければ、なかなか実感がないと思うのです。このことを、たとえば戦国時代に神様が表れて教えてくれても私たち人間には、何を言っているのか分からなかったと思うのです。だから神様は人間が少しずつ進歩して、人間が平等だとか、奴隷とか男女の差はないのだということが分かるようになり、教祖がその教えを説いても分かるような人類の成人を待って、教えは説かれたように私には思えるのです。

 また今の世界の国のほとんどの産業形態である資本主義もその時代にできてきました。資本主義の最初は、一七六〇年代から一八三〇年代にかけてイギリスで産業革命がはじまり、資本主義が始まるのです。資本主義とは、ウキぺディアを引用すると、

『封建制度に次いで現れ、産業革命によって確立された経済体制。生産手段を資本として私有する資本家が、自己の労働力以外に売るものを持たない労働者から労働力を商品として買い、それを上回る価値を持つ商品を生産して利潤を得る経済構造』生産活動は利潤追求を原動力とする市場メカニズムによって運営されます。つまりは、労働力を安く買って作った商品をできるだけ高く売るのが資本主義の根本原理です。コスパという言葉を聞いたことがありますね。コストパフォーマンスの略で、費用対効果で安い費用で大きな効果を得られればコスパが高いということでもてはやされるのです。

 その言葉を聞くと思いだすことがありますね。教祖の「商売人なら、高う買うて安う売りなはれや」というお言葉です。(逸話篇一〇四 信心はな)教祖の言葉は深い含蓄があると思いますが、ここではこの言葉を提示するだけにしておきます。

 いまその資本主義は大きな曲がり角に来ているような気がします。

 十九世紀から二十世紀にはもう一つの大きな潮流がありました。共産主義です。共産主義は、立教の十年後、一八四七年のマルクスの共産党宣言から、レーニンのソ連建国、その後アジア・東欧・アフリカ・カリブ海域において、多くの国が生まれました。しかし、一九七〇年代に入り経済発展の面で西側先進国からの立ち遅れが顕著になったこと、政治的な抑圧体制も広く知られることとなり次第にその権威は失墜、一九九一年のソビエト連邦崩壊に前後して、そのほとんどは姿を消しました。

 人間は平等であり、しいたげられた労働者が資本家の利益を奪取することによって平等な社会が出現するという考えは、その理想を追うべき共産党が自分たちの利益を追うことに汲々として内部が腐敗するという悲しい、しかしある意味では分かりやすい結果となりました。

 教祖が現身でこの世界におられた時代、「人間はみな平等であり、人種の違いや、国の違い、宗教の違いによって差別されるものではない」ということは私たちの理想になったけれども、現実に世界の国でできているわけではありません。

 それは世界でもそうだし、私たち人間においてもそうです。

国にもその平等度に差があるように、人にも差があります。

 マザーテレサやガンジーのような人もいれば、今は禁止されましたが、ヘイトスピーチに代表されるように人を差別することで、自分の鬱憤を晴らしている人もいます。

 それは、私たち一人ひとりの魂に差があるのだと思います。

 私たちは今、成人の道中を歩んでいます。その成人は難しい成人です。

 私たちの手本は教祖です。その手本がありながら、私たちは今手をこまねいているのです。世上のいろいろな原理にがんじがらめにされて教祖のお姿を見失っているのです。

 だけどもうお前達ならできるだろうと親神様はこの教えを今、教えられたのだと思うのです。ユダヤ教のある聖人の言葉を思いだします。

 『第二次大戦中のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)後、多くのユダヤ人は「神に見捨てられた」という思いをひきずっていました。なぜ神は天上から介入して我々を救わなかったのか。若いユダヤ人の中には信仰を棄てる人たちも出てきました。その時、レヴィナスは不思議な護教論を説いたのです。

 「人間が人間に対して行った罪の償いを神に求めてはならない。社会的正義の実現は人間の仕事である。神が真にその名にふさわしい威徳を備えたものならば、『神の救援なしに地上に正義を実現できるもの』を創造したはずである。わが身の不幸ゆえに神を信じることを止めるものは宗教的には幼児にすぎない。成人の信仰は、神の支援抜きで、地上に公正な社会を作り上げるというかたちをとるはずである」』(内田樹)

そしていつまでも自分は成人への道中であるということを忘れないでいただきたい。

 

 私たちはあるべき人間の姿と、そうなるための方法も知っています。

 ただそれを見つめようとしていないのが、私たちの今の姿なのかもしれません。

 

巻頭言   成人        18011

 先日夜中の三時過ぎに目が覚めた。目が覚めてからもう一度ふとんに入って寝ようとしても、何ともいえぬほど胸が悪く動悸も激しく耳鳴りは大きく聞こえ、寝るに寝られない状況となったので、結局そのまま夜を明かすことになった。普段悟っているようなことを言っていても、身体が少し調子悪いと情けないものである。楽天主義はあっという間に消えてなくなり、厭世的な思いしか出てこない。

 先日来テレビを賑わしている座間市での九人の殺人事件のニュースを聞きながら、自分はそんな簡単に死にたいと思う人間ではないと思っていたが、とんだ勘違いだというのがよくわかった。朝づとめの後、息子におさづけの理を取り次いでもらい少しずつ楽になった。楽になったら現金なもので厭世観もどこかに行ってしまったが、自分というものは本当に悟りからは遠い人間だなあと改めて思った。

 その日の昼に信者さんのところへおつとめに行き、朝のしんどかった話をしていたら、その信者さんがしみじみとこんな話をしてくれた。「自分は死と隣り合わせの大病をして本当につらい目にあい、今も体が何とも言えずしんどい時があるが、それでも同じように死と隣り合わせの病気をしているという話を聞くと、本当に何とか元気になってもらいたいという気になる。以前の自分が元気な時だったら、同じような病気の人の話を聞いても、気の毒になあとどこか他人事だったが、自分が病気になってから、本当に何とか元気になって欲しいと思えるようになりました」と、話してくれた。

 人は節から成人するということは、こういうことを言うのだと思う。そう言えば茨木のり子さんににこんな詩がある。

○苦しみの日々 哀しみの日々  茨木のり子

苦しみの日々

哀しみの日々

それはひとを少しは深くするだろう

わずか五ミリぐらいではあろうけれど

 

さなかには心臓も凍結

息をするのさえ難しいほどだが 

なんとか通り抜けたとき 初めて気付く

あれは自らを養うに足る時間であったと

 

少しずつ 少しずつ深くなってゆけば

やがては解るようになるだろう

人の痛みも 柘榴のような傷口も

わかったとてどうなるものでもないけれど

(わからないよりはいいだろう)

 

苦しみに負けて

哀しみにひしがれて

とげとげのサボテンと化してしまうのは

ごめんである

 

受けとめるしかない

折々のちいさな刺や 病でさえも

はしゃぎや 浮かれのなかには

自己省察の要素は皆無なのだから