巻頭言 私が天理教です 1821
新年明けましておめでとうございます。
今年はいよいよ年号が変わり、皇太子が天皇に即位されます。
天皇としての最後の誕生日の会見を拝見しましたが、天皇陛下の誠実で真摯な生き方に改めて打たれたのは、私だけではないと思います。 「沖縄は,先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め,私は皇后と共に十一回訪問を重ね,その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは,これからも変わることはありません。
そうした中で平成の時代に入り,戦後五十年,六十年,七十年の節目の年を迎えました。先の大戦で多くの人命が失われ,また,我が国の戦後の平和と繁栄が,このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず,戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに,心から安堵しています。」と、戦後の歩みと沖縄について述べられました。
そんなお話を聞きながら、「ノブレス・オブリージュ」という言葉を思いだしました。欧米に育まれた「ノブレス・オブリージュ」という観念は、フランスが起源で、王族や貴族に課せられた義務を意味する言葉です。当時の貴族には多くの特権も与えられましたが、彼らには戦争となれば率先して最前線に立って命懸けで戦う義務も課せられました。「ノブレス・オブリージュ」は、「人の上に立ち権力を持つ者には、その代価として身を挺してでも果たすべき重責がある」と解釈されます。
私は右翼でも左翼でもない、なかよく(中翼)ですというつまらない洒落を昔いってましたが、天皇陛下の言葉を聞きながら、身を挺して果たすべき重責を果たされている人の姿を見たように思います。そして上に立つ人がそうであるからこそ、あの首相を頭にいただきながらも、日本はまだ曲がりなりにも治まっているのだとも思いました。
おさしづには次のような言葉があります。「狂うてはならん。一人狂えば皆狂う。一つ龍頭という、龍頭が狂うたら皆狂うで。狂わずして、日々嬉しい/\通れば、理が回りて来る。なれど、こんな事では/\と言うてすれば、こんな事が回りて来る。」(明治三十四年七月十五日)という有名なおさしづです。
教え諭す立場にあるものの心の持ち方を、端的にお話し下さっています。教会長として何もかも喜んでいるか、起ってきたいろいろなことを自分の責任として受けているかどうか、改めて反省しなければならないと思います。
古いユダヤ教の聖典『タルムード』には、「世界の調和的存続はわずか三十六人の義人、すなわち、神の摂理を実行する人たちによって支えられている」という言い伝えが遺されています。どの時代の世界の成否も、本当に正しい人間が三十六人いるかどうかにかかっているのです。たった三十六人です。消えてしまいそうなぐらい少ない人数です。それでも三十六人さえいれば、世界が道徳的に成り立つことが保障されているのです。
三十六人と言えば、おふでさきの次のような言葉との符号が意味深い気がします。
一寸したるつとめなるとハをもうなよ
二代真柱様は、天理教とはどういう教えですかと聞かれたら、「私が天理教です。と言えるようになりたいものやなあ」と、しみじみと仰せになったといいます。
本当にそう言えるようになりたいと思います。
今月の名句・名歌
五行詩という新しい形態の詩です。条件は五行になっている事だけだそうです。季語もありません。
○体とまた/心さえ/親子より/深く知りあう 男と女なのだ 草壁焔太
○そんなに/自分自身に/しがみつくなよ/
○それは/生きる醍醐味/つらい今日が
○一人の中で/二つの心臓が/リズムを合わせてる/
○「ママ」/幼いころのままの表情で/ 私を見上げている/今日/「母」になった娘
○「長寿を讃えるは/老いの苦しみを知らぬ者の
○たいしたことなど/なにもできない/だから
巻頭言 前人未到の世界 1822
私は天理時報に掲載される中島みゆきさんのコラムを愛読しているが、とくに前々回のコラムにはとても考えさせられた。「人生は台形のように 急な登り坂と、平坦なしばらくと、急な下り坂。はてこの下り坂がなんのためにあるのか、そこが問題だ。こんな下り坂いっそ、無くてもよかったんじゃないのか。生きれば生きるほど、悲しくつらくなるだけならば、悲しくつらくなるために生はあるという答えになる。そんなはずはない。ここにはきっと何かある。この下り坂には、何か仕掛けがある」
ここ十年ぐらい私も老いの意味を考えている。さすが中島みゆきさんだなと、みゆきさんファンの私は一人ごちしているが、老いについて、最初に分かったとても大切なことがある。自分が老いなければ、老いについてなど考えもしないということである。当たり前のことだが、私は最近「ある年齢に達しなければわからないことがある」とよく言っているのだが、老いなどはその典型的な例だと思う。老いというのは自分が経験しなければわからないものであり、そこにどんな仕掛けがあるのかも、私達老いている者しか分からないことなのだと思う。
戦後すぐの日本人の平均年齢は、五十歳を少し超えたところだった。加山雄三の『若大将シリーズ』という映画が1960年代から70年代にかけて何本も撮られたが、その映画のリバイバルで、若大将の友達が、父親が死んだという話をして「七十四歳だから年に不足はないけれど・・」と言っているのを聞いたことがある。七十年代はまだようやく男性の平均寿命が七十歳を越えたぐらいの時である。だから七十四歳で死んだら年に不足はないのである。それから私たちは急速に高齢化になり、今の平均寿命は、男性は81.09女性は87.26になるそうだ。七〇代で出直せば年に大いに不足ありということになる。
日本が世界の平均寿命の最高を更新しているということは、世界で初めて日本人が、前人未到の世界を歩いているということであり、少し大げさに言えば、私たちは人類史上初めて老いというのを経験していることになる。
大層な物言いになったが、この下り坂の仕掛けと意味を解くのは、老人のつとめなのだと思う。私のつとめであり、老人である貴方のつとめなのだと思う。
私が中島みゆきさんのファンであることは周知の事実だと思うが、「下り坂の、何か仕掛け」をどう歌にしてくれるかを今から楽しみにしている。
そう言えば、「傾斜」という歌がありましたね。三〇歳の頃の作品です。さすがです。
今月の名句・名歌
傾斜 中島みゆき
傾斜一〇度の坂道を
紫色の風呂敷包みは また少しまた少し
重くなったようだ
彼女の自慢だった足は うすい草履の上で
横すべり横すべり
のぼれども
のぼれども どこへも着きはしない
そんな気がしてくるようだ
※冬から春へと坂を降り
夏から夜へと坂を降り
のぼりの傾斜は
けわしくなるばかり※
としをとるのはステキなことです
そうじゃないですか
忘れっぽいのはステキなことです
そうじゃないですか
悲しい記憶の数ばかり
飽和の量より増えたなら
忘れるよりほかないじゃありませんか
息が苦しいのは
きっと彼女が
息子が彼女に邪険にするのは きっと彼女が女房に似ているからだろう
あの子にどれだけやさしくしたかと 思い出すほど
あの子は他人でもない
みせつけがましいと言われて
誰かの娘が坂を降り
誰かの女が坂を降り
のぼりの傾斜は
けわしくなるばかり
としをとるのはステキなことです
そうじゃないですか
忘れっぽいのはステキなことです
そうじゃないですか
悲しい記憶の数ばかり
飽和の量より増えたなら
忘れるよりほかないじゃありませんか
巻頭言 あかんぼがいる 1823
『先日待望の第一子である長女を授けていただきました。予定日は、一月三十日だったのですが、陣痛が来たのかなと思って、病院に行って「まだですので、帰って下さい」という空振りを、二回経験しました。そんな時、会長である父から、「早く産まれるようにおさづけを取り次ぐ」と言われました。「希望の日があるか」と聞かれたので、「元気に産まれてくれるだけで十分です」と答えると、父は熱心におさづけを取り次いでくれました。
それからしばらくした二月二日の夜九時ごろ、本陣痛が起こり病院に向かいました。深夜十二時ごろにから娩室に入り、二月三日朝五時ちょうどに元気な女の子を授けていただきました。「をびやゆるし」のおかげで、初産としてはとてもスムーズな出産で、母子ともに元気にさせていただいています。奇しくも二月三日は父の誕生日。あの時のおさづけは、無事に産まれてくるようにとお願いしてくれていたのと同時に、おじいちゃんの心通りの守護を見せていただいたありがたい日になりました。』
引用したのは、和徳が書いた大教会機関誌「天明」の編集後記です。おかげさまで、女の子の孫を授かりました。いろいろと心づくししていただき、本当にありがとうございました。
赤ちゃんが生まれる前に、「産気づいて病院に行くときは、夜中でもお父さんに知らせようか」と聞くので、「親に迷惑をかけないように」と釘を刺しておきましたが、二月三日の朝六時前に和徳から電話がかかってきたので、「これから病院に行くのか」と聞いたら、「無事女の子ができました」と言われ、「いつの間にや、何とじいちゃん孝行の孫か」と、びっくりしました。
体重は、三千六百グラム。結和菜(ゆいな)と名付けました。ゴッドファーザー・ドン・タカノリーネです。
今までの孫とは違い、一緒に住んでいると、愛おしさもひとしおです。と、一応言っておきます。
にんけんもこ共かわいであろをがな
「這えば立て、立てば歩めの親心」とよく言いますが、人間をおつくり下さった神様の思いが、孫を見ていると余計に心に沁みます。その神様の思いを、忘れないようにしたいと思います。
まだ目も見えないそうですが、声は聞こえているというので、彼女の耳元で、「おじいちゃんですよ。おじいちゃんを大事にしましょうね」と、今から洗脳しています。
「じじい、臭い。あっちに行け」と言われないように、
今月の名句・名歌
いつもの新年と どこかちがうと思ったら
今年はあかんぼがいる
あかんぼがあくびする びっくりする
あかんぼがしゃっくりする ほとほと感心する
あかんぼは 私の子の子だから よく考えてみると孫である
つまり私は祖父というものである
祖父というものは
もっと立派なものかと思っていたが
そうではないとわかった
あかんぼがあらぬ方を見て 眉をしかめる
へどもどする
何か落ち度があったのではないか
私に限らず おとなの世界は落ち度だらけである
ときどきあかんぼが笑ってくれると
安心する
ようし見てろ
おれだって立派なよぼよぼじいさんになってみせるぞ
あかんぼよ
お前さんは何になるのか
妖女になるのか貞女になるのか
それとも烈女になるのか天女になるのか
どれも今は はやらない
だがお前もいつかは ばあさんになる
それは信じられぬほど すばらしいこと
うそだと思ったら
ずうっと生きてってごらん
うろたえたり居直ったり
げらげら笑ったりめそめそ泣いたり
ぼんやりしたりしゃかりきになったり
そのちっちゃなおっぱいが ふくらんで
まあるくなって ぴちぴちになって
やがてゆっくりしぼむまで
巻頭言 聴くということ 1824
今、孫の結和菜は、少しずつ何か言葉を発しようとするようになりました。考えてみればまだ「あ―、」とか「うー」とかしかしゃべれないのですが、一年もすれば曲がりなりにも日本語をしゃべるようになるとは、本当に不思議なくらい奇跡的なことです。誰かが教えているわけではありません。
○僕たちは誰でも母語の習得ということを経験しています。でも、母語の習得は受信者への深い信頼がなけいば、そもそも起こりえない。僕たちは嬰児のとき、母語をひとことも理解しない状態から言語の習得を始めます。言語という概念さえもたない状態から言語の習得を始めることができるのは、嬰児でも空気の波動が「ほかならぬ白分にまっすぐ触いている」ヒいうことだけは感知できるからです。この力動的な言語習得のプロセスを駆動する「最初の一撃は「この波動は私に向けらいている」という受信者の絶対的な確信です。
その範例的なかたちを僕たちは信仰的な視点にも見出すことができます。神の言葉が人間に臨むかという事態は、リーダビリティの極限的状況だからです。神は全知全能の超越者です。
こういう問いを立てる人はあいにく僕のまわりにはいません。中世の神学者や律法学者の中には、こういう問いを真剣に受け止めた人もきっといたのでしょうけいど、浅学にして、僕はその所論を知りません。しかたがないので、自分の頭で考えます。
神はどうやってその「理解も共感も絶した考想」を人間に理解させることに成功したのか。たぶん多くの人は「いベルを下げることによって」と思うでしょう。僕たちが幼児に語りかけるときのように、座り込んで身長と視線を合わせて、幼児にも理解できそうなシンプルな統辞法で、幼児の手持ちの貧しい語史をやりくりして、神のメッセージを人間に伝えたのだ、と。
僕は違うと思います。そんなはずがない。そいでは「幼児の神」にしかならないからです。幼児にも理解できるシンプルな神。「善行をなせば報償が与えらい、悪行をなせば罰が与えらいる」というようなシンプルな勧善懲悪の神であいば、幼児のロジック、幼児の語薗をもって理解させることはできるかも知いません。けれど、それでは人間に「成人の神」を教えることはできない。
「成人」とは、披造物としての自覚をもつ存在のことです。
神が人間を消造したのだとすいば、人間は神の威徳と全能にふさわしい存在でなけいばならない。「神の威徳と全能にふさわしい存在」とはどのようなものでしょうか。こいについてはエマニュエル・いヴィナスがきっぱりとこう書いています。「神の支援抜きで、地上に公正で平和な社会を構築しうるもの」、そいが神が創造するだけの甲斐のある人間、神でなけいば創造できない人間です。p204
今月の名句・名歌
朝の厨に透きとほりたる水を汲む
「ありがとう」を書きつづけつつ一本の
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは
頼りない湯豆腐のような君なれば
サバンナの象のうんこよ聞いてくれ
少し寒さをおぼえつつ寝てゐるときに
あなたの足つめたすぎると両の腿に
ああ母はとつぜん消えてゆきたれど
祈るべき天とおもえど天の病む 石牟礼道子
私は俗人ですから、乗る車によって、ずいぶん気持ちが変わります。
昔マイクロバスを運転して、普通車に乗り換えたときは、車高が低く、なんとちまちましているのだと思ったものです。マイクロバスを運転しているときは、ほとんどの車より車高が高かったので、まるで他の車を睥睨しているような気持になっていました。(睥睨 へいげい パソコンは便利です。知らない漢字でも出てきます)大型に乗っているだけで自分も偉くなったような気がすることを、私は勝手に「ダンプカーの論理」と呼んでいるのですが、おそらくいわゆる高級車に乗った時も同じような気持ちになると思います。そんな気持ちが高じて運転していると、ネットでいう、DQN運転手と言われるかもしれません。(「DQN」とは、軽率そうな者や実際にそうである者、粗暴そうな風貌をしている者や実際に粗暴な者かつ、非常識で知識や知能が乏しい者を指すときに用いる。)ここで言うなら、粗暴な運転をするような運転手をDQN運転手といいます。
アルフォードや、最近はプリウスという車が、ネットの一部では、DQN車と言われているそうです。事故が続きましたからね。
でも常識あるニュースではそのようには言われません。
車に罪はないからです。
でも乗る車によって、自分たちの意識が変わることは確かです。そうでなければ、走るということにおいては同じ目的の車に、あんなに値段の差が出るわけないはずですから。
「いつかはクラウンに」というコマーシャルがありましたが、あのコマーシャルほどクラウンという車へのユーザー心理をうまくくすぐったものはないように思います。いつまでもクラウンに乗れそうもない私でも、覚えているコマーシャルですから・・・。
昭和から平成にかけての高度成長期、私たちは豊かさの象徴として、家や車を買いました。そして家や車を買ったことで、自分に満足を覚えます。
そして今、それらのものを手に入れた人々は、幸せかというと、なかなかそうも言えないようです。でも求めるものがあるというのは、それはそれで幸せなことかもしれません。
私たちの時代の反動のように、最近は、車や家に興味のない若者が増えているそうです。その人たちは、どこで自分の自尊心を満足させるのでしょうか。
出世する、金持ちになるという具体的な幸福の指標が目の前にあっただけ、私たちの世代の人々は随分幸福だったのかもしれません。
求めるものがあって、それを手に入れたとき、人は喜びを感じ幸せを感じます。しかしそれは意外と長続きしないものです。
先ほどの「ダンプカーの論理」ではありませんが、私たちは身に着けるもの、乗っているものが豪華になったら、自分も豪華になったように錯覚するだけなのです。
錯覚はすぐに正常に戻ります。どんな豪華な自動車に乗っても、自動車を降りたら何も変わらない自分がいるだけです。
それは、車とか家とか目に見えるものに限りません。
立場や地位のある人は、頭では立場や地位のおかげで、人はこのように接してくれているのはわかっています。
ニュートンの万有引力の発見以来、科学は大きな進歩をしてきました。歩いて移動するしかなかった私たちが、自動車で、そして飛行機で移動することができるようになりました。何もわからなかった人体のことも、地球のことも、かなりわかるようになってきました。自然に従うしかなかった人間が、自然を解明することができるようになって、自然への畏怖の気持ちが少しずつ変化してきたように思います。
しかしそれも、「ダンプカーの論理」でしかないのではないでしょうか。
ここまで科学を発達させたのは、人間の偉業ですが、人間が進歩したわけではありません。私たち一人一人は、寿命は随分延びましたが、心は何も変わったわけではありません。折れやすく、傷つきやすい心を抱えたまま、文明を享受しています。享受していますが、進歩したわけではありません。自動車から降りたら何も変わらない自分がいるのと同様、文明生活を享受しながら、震えている自分がいるのです。
勘違いをしないでちょっと考えてみましょう。私たちの文明は、素晴らしい進歩を重ねました。でも、心は進歩していません。それを一緒に進歩したと錯覚して、傲慢になってはいないでしょうか。
よくある勘違いです。
今月の名詩・名歌・名句
永田和弘氏と、河野裕子氏という歌人夫婦の四十年の愛の記録です。河野裕子氏はがんで亡くなりました。
〇たとへば君 ガサッと落葉すくふように 私をさらって行ってはくれぬか 河野裕子
〇きみに逢う 以前のぼくに遭いたくて 海へのバスに 揺られていたり 永田和弘
そんな風に出会った二人は、恋愛をします。
〇夕闇の 桜花の記憶と重なりて 初めて聴きし日の 君が血の音 河野裕子
そんな二人にガンが襲います。
〇その身体ひき受けてあげようと言ふ人はひとりもあらず たんぽぽ、ぽつぽ 河野裕子
〇ひき受けてやれない私は庭に出て雪だ雪だときみを呼ぶのみ 永田和弘
〇わたしには七十代の日はあらず在らぬ日を生きる君を悲しむ 河野裕子
〇今日夫は三度泣きたり死なないでと三度泣き死なないでと言ひて学校へ行けり 河野裕子
〇死なないでとわが膝にきて君は泣く君がその頸子供のやうに 河野裕子
〇おはようとわれらめざめてもう二度と目を開くなき君を囲めり 永田和弘
〇たったひとり君だけが抜けし秋の日のコスモスに射すこの世の光 永田和弘
巻頭言 韓国の話 1829
韓国が嫌いという「嫌韓」が当たり前で、韓国との交わりを断つという「断韓」という言葉さえ出てきたこの頃です。ペ・ヨンジュン氏をヨン様と言っていた時代が嘘のような気さえします。韓国の天理教信者を多く持っている八木大教会に所属する私としては内心忸怩たる思いがしています。そんな中で、次のような記事を読みました。
週刊ポスト紙が、「断韓といい、世間の風評がきつくなった途端に、記事を撤回し陳謝したことについて内田樹氏が、『彼らが簡単に記事を撤回できる理由はある意味簡単である。それはそれが「職を賭しても言いたい」ことではなかったからである。
どうしても、誰に止められても、言わずにはいられないというくらいに切羽詰まった話であれば、ネットでつぶやかれる程度の批判に耳を傾けるはずがない。中略
でも、そうならなかった。
ということは、『週刊ポスト』の記事は「職を賭しても言いたいこと」ではなかったということである。
この事件で第一に言いたいことは、市民的常識を逆撫でして、世の良風美俗に唾を吐きかけるような言葉を発表するときには、それなりの覚悟を決めてやってくれということである。それで世間から指弾され、発言機会を失い、場合によっては職を失って路頭に迷うことを覚悟してやれということである。覚悟がないなら書くな。
これが第一に言いたいことである。第二に言いたいことは、実はもっと深刻である。
それは「職を辞してまで言いたいこと」ではないにもかかわらず、そういう言葉が小学館のような老舗で、良識ある出版社の出版物で「ぺろっと」口から出てしまったということである。
世の中には「職を賭しても言いたいこと」とは別に、「職を賭してまで言いたいわけではないが、職を賭さないで済むなら言ってみたいこと」というものがある。
うっかり人前で口にすると品性知性を疑われるリスクがあるので、ふだんは呑み込んでおくびにも出さないのだが、「言っても平気だよ」という保証が与えられたら、言ってみたい。そういう言葉である。
私は今の嫌韓言説は「それ」だと思っている。
韓国政府と韓国国民については、いまどれほど非常識で、下品で、攻撃的なことを言っても「処罰されない」という楽観が広く日本社会に拡がっている。現に、周りをきょろきょろ見回してみたら、「ずいぶんひどいこと」を言ったり、書いたりしている人たちがいるけれど、別に処罰もされていないし、仕事も失っていないし、社会的威信に傷がついたようにも見えない。なんだ、そうか。いまはやってもいいんだ・・・そう思った人たちが「職を賭してまで言いたいというほどのことではないが、職を賭さないで済むなら、ちょっと言ってみたいこと」をぺらぺら語り出したのである。それが現在の嫌韓言説の実相であると私は思っている。中略
彼らが「嫌韓」という看板を借りて口にしているのは、先ほど言った通り、「職を賭してまで言いたいというほどのことではないが、職を賭さないで済むなら、ちょっと言ってみたいこと」である。ふつうなら「非常識」で「下劣」で「見苦しい」とされるふるまいが、どうも今の言論環境では政府からもメディアからも司法からも公認されているらしい。だったら、この機会に自分にもそれを許してみよう。「処罰されない」なら・・・と期待して、精一杯下品で攻撃的になってみせたのである。だから、「処罰」がちらついた瞬間に、蜘蛛の子を散らすように消えたのは怪しむに足りない。「処罰されないなら公言してみたいが、処罰されるくらいなら言わないで我慢する」ということである。そうした方がいいと思う。
中略
だが、彼らが忘れていることがある。それは、人間の本性は「処罰されない」ことが保証されている環境でどうふるまうかによって可視化されるということである。
「今ここでは何をしても誰にも咎められることがない」とわかった時に、人がどれほど利己的になるか、どれほど残酷になれるか、どれほど卑劣になれるか、私は経験的に知っている。そして、そういう局面でどうふるまったかを私は忘れない。それがその人間の「正味」の人間性だと思うからである。
平時では穏やかで、ほとんど卑屈なように見えていた人間が、「何をしても咎められない」状況に身を置いた瞬間に別人になって、人を怒鳴りつけたり、恥をかかせたりという仕事にいきなり熱心になるということを私は何度も見て来た。「そういう人間」の数はみなさんが思っているよりずっと多い。そして、彼らがどれほど「ひどい人間」に変貌するかは、平時においてはまずわからないのである。
だから、私は人間を簡単に「咎められない」環境に置かない方がいいと思っている。できるだけ、法律や常識や「世間の目」などが働いていて、簡単にはおのれの攻撃性や卑劣さを露出させることができない環境を整備する方がいいと思っている』
韓国を誹謗中傷していることは、自分の品性の下劣さを見せているだけだという、簡単なことさえ私たちは気づけなくなっています。最近のあおり運転の横行でもご存じのように、カッとなったら、(僧侶でさえあおり運転で逮捕される時代ですから)何をしてしまうかわかったもんじゃありません。
韓国の信者さんについては、こんな話も思い出します。
今から五十年近く前、崔先生もまだ存命で、韓国での布教熱がそれこそ沸騰しているような時代に、ある日本の教会長が、韓国の教会長に、「おたすけの上がり方を見れば、今教祖は、韓国へお出かけや」と、冗談半分に言ったそうです。そうしたらその韓国の会長さんが、「日本の会長さんは、夕食を終えたら、教会でゆっくりされて、晩酌をし、テレビをご覧になっているのじゃありませんか。私たち韓国のものはそれから教祖と一緒におたすけに出させてもらいます。教祖は、必要としている者のそばにいてくれるんだと思います」と言われて、一言もなかったそうです。
「お前の教会もわしが必要なようやな」と教祖に行ってもらえるような熱い信仰と人だすけの心を、涵養さしてもらわねばなりません。
巻頭言 感謝・慎み・たすけあい 18210
九月には千葉に大きな被害を出す台風が襲来しました。
台風は、年々強力になってきています。これからも、伊勢湾台風級の大型台風が、何十年に一度ではなく、毎年押し寄せてくるというような、いやな予想さえ聞こえてきます。その原因の大きな一つに考えられているのは、地球温暖化の影響です。海水温の上昇で台風ができやすくなり、規模も大きくなり、また日本近海でも勢力が落ちない原因になっているようです。
温暖化、温暖化と言われてきましたが、いよいよその影響が最悪な形で出てきたようです。
九月二十三日に行われた、国連気候行動サミットで講演したスウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリさんの言葉が、私の心に響きます。
「多くの人たちが苦しんでいます。多くの人たちが死んでいます。全ての生態系が破壊されています。私たちは大量絶滅の始まりにいます。
それなのにあなたたちが話しているのは、お金のことと、経済発展がいつまでも続くというおとぎ話ばかり。恥ずかしくないんでしょうか!」
日本も、お金のことと、経済発展がいつまでも続くという話ばかりしています。十六歳の女子高生に恥ずかしくないのかと言われた私たち大人ですが、恥ずかしいという心はとうの昔に失われたようです。「恥を知らねば、恥かかず」という言葉がありますが、毎日のニュースを見ていれば何百万もらおうが、「儀礼の範囲内です。法律に違反していません」と、いうような話ばかりです。この国は「盗人猛々しい」国で、「無理が通れば道理が引っ込む」と誰もが思ってしまうような国に年々なっていくように思います。
そんな私たちですから、女子高生に「恥ずかしくないのか」と言われても、本当は痛くもかゆくもないかもしれませんが、私は陽気ぐらしを標榜する天理教を信仰するものです。『めんめん楽しんで後々のもの苦しますようではほんとの陽気とはいえん』という神様の言葉を待つまでもなく、未来に対して恥ずかしくない態度をとらなければなりません。
環境指標である「エコロジカル・フットプリント」は、人類が環境にかけている負荷を、六種類の土地面積に置き換えることで「見える化」しています。
これは、人が利用する食物や林産物の生産に必要な、耕作地や牧草地、森林、海洋の面積、そして排出したCO2(二酸化炭素)を吸収する上で必要な森林の面積などを計測し、明らかにすることで、「人が使っている資源を生み出すために、必要な土地」の規模を明らかにする試みです。その考え方で今の私たちの生活を維持するためには、どれだけの地球が必要かを計算すると、日本のような暮らしをするためには、地球二、七個が必要だそうです。二〇一九年七月二十九日は、「アース・オーバーシュート・デー」です。これは、世界の人々の消費量が、その年の一年間に地球環境が生産できる自然資源の量を上回った日のこと。つまりこの日から、自然資源の「使い過ぎ」の日々が始まったということです。現在、人間が消費している自然資源の量は、地球1.7個分に相当しています。(WWF)
小泉環境大臣が、ステーキを食べたという話で物議をかもしたように、その中でも畜産は、多大な地球環境を費消する代表格と言われているそうです。
そういえば、教祖ご在世の頃、お側の人が「今、すき焼きというものが流行っているそうです」とお話しすると「ほかに食べるものはありゃせんか」と言われたそうです。温暖化と声高に言われても、何もできない私たちですが、肉をそんなに食べていないということで(高いという理由しかないのですが・・・)、少しは温暖化を防いでいることになるかもしれません。
巻頭言 冨美代のこと 18211
十月の秋季大祭で冨美代のことを少し
総出のおつとめを会長としてつとめさせていただくのは、今回で最後になりますので、妻である冨美代の話をさせていただくことにしました。冨美代の話をさせていただくのは、病気になった時に少し話させていただいた以外、初めてだと思います。
何よりも話をする気になれなかったというのが、一番の気持ちです。よく大事な人を失くしたらそこから時間が止まるといいますが、私は失くしてはおりませんが、気持ち的にはそのような感じで、今で病気がわかってから十一年余りになるのですが、やっと今頃、少し平静な気持ちで話をできるようになりましたので、私から冨美代のことをお話しできるのもこれが最後となるかもしれませんので、秋季大祭の話としてはどうかなと思わなくもないのですが、聞いていただきたいと思います。
冨美代は、多系統萎縮症という国指定の特定難病の一つで、十万人に数人と罹患率です。予後はとても悪く、五年から十年で亡くなるというような病気で、今は憩の家の白川病院で、養生させていただいておりますが、幾度か死線を越えてきました。自宅ではおそらく早くに亡くなっていたと思います。
その病気がわかったのは彼女が四十九歳の時でした。保健所で病気の手続きに行った時、「四十九歳ですか。お若いですね。お気の毒に」と言われたことを、今もまざまざと思い出します。
冨美代の病名がわかる数年前ごろから、私はよく「いんねん」の話をするようになっていました。特に母を五十三歳で亡くしましたので、その話もよくしたように思います。ですから、冨美代の病気のことも「いんねん」を考えて、私なりに納得しましたが、せめて五十三歳の母の年齢だけは越してほしいと思ったものです。
その頃に病気の奇跡的な回復を願って、本部に日参しました。百日の日参を定めて百日目に近いときに、ふと「そのままではあかんのか」という声を聴いたような気がしました。どういう精神状態だったか今も思い出せないのですが、よく子供が病気になったら親は変わってやりたいとよく言います。十万人に数人という確率でこの病気になり、冨美代が誰かの代わりにこの病気になったのであれば、それをそのまま受けたら、大きな人だすけになるような気が、その時したのです。そんな話を一緒にして、彼女も私もだんだんこの病気を受け入れたような気がします。
頭では受け入れても本人は、実際だんだん動けなくなり、言葉もしゃべれなくなっていく自分の姿に向き合ったら、とても平静でおれるものではありません。今やっと少し冷静になってあの頃を振り返ってみれば、彼女は乱れることもなく本当によく通り抜けたなと思います。私ならばもっと乱れに乱れたように思います。そんな彼女も口がだんだんしゃべれなくなった時に、「もう死にたい」という言葉を言うようになりました。
そういう彼女に私はかける言葉が見つかりませんでした。
私はいわゆる亭主関白でありました。まあ彼女のほうが私に惚れていましたので、亭主関白にしてくれていたのだと思いますが、その時彼女も私も好きだった「さだまさし」の「関白宣言」という歌を思い出しました。「子供が育って年をとったら、俺より先に死んではいけない。例えばわずか一日でもいい俺より早く逝ってはいけない。何もいらない 俺の手を握り 涙のしずく ふたつ以上こぼせ。お前のお陰で いい人生だったと 俺が言うから 必ず言うから」という歌です。覚えておいでの方も多いかもしれませんが、その歌を思い出して、自称亭主関白の私は、「お前は俺より先に死ぬつもりか」と、「死にたい」と言い出した冨美代に言ったのです。そしたらそれから一切その言葉を言わなくなりました。
「私はなんと愛されているのでしょうか」(笑)
冨美代が病気になって、思い知らされたのは、「居ってくれるだけでありがたい」ということです。
亭主関白であった私は、「こうしろ、ああしろ」とよく言ってましたが、生きてくれていることが、こんなにありがたいものだということを初めて知りました。夫婦の基本はお互いに礼をすることだと昔から聞かされていましたが、私たちは元気でいるのが当たり前で、相手も元気でいるからこそ、「俺はこんなにしているのに、お前はちっともしてくれない」と喧嘩にもなるのです。冨美代がこの病気になって以来、彼女が何もできなくなっても、生きているだけでありがたいと心底思えるようになりました。
なんとか治癒して欲しいと今も思わないではありません。「信仰をしていて何故こんなことに」と言われたこともあります。残念ながら私の信仰程度から言えば、信仰をしていてもこんなことはあります。でも信仰をしているからこそ、大きな節に出会ったとき、自分が成人するきっかけもつかむことができるのだと思います。
こうして生きてくれていることが、自分に何をしてくれるというのではなく、ただそこで生きてくれているというだけで、自分や家族をどれだけ励ましてくれているのかが本当に分かった時、私は少し前に進むことができました。
次には、亡くなってしまっても、自分と同じ時代に生きていてくれたということで、自分たちをこれだけ励ましてくれている存在がいたと思えるようになれたらと思っています。そう思えたら、死というものさえ超克できるのではないかと思います。もちろん今そこまでの気持ちにはなれませんし、こうなったらいいなと思える最上の形ですが・・・。
二人が元気のままであったなら、こんなことは何も考えることはなかったとおもいます。でもこの節のお陰で、自分は少しは考えるようになれたと思います。でも、元気な冨美代と、考えなしの私のどちらを取るかと言えば、考えるまでもなく元気な冨美代を取りたかったですが、こうなったら、せめて私が変わらねばと今思っています。
余談を、そして私にとっての、とびっきりの楽しみを一つ。
冨美代がしゃべれなくなる前にこの時私たち夫婦は、来世についても少し約束しました。一つは来世も夫婦になるということです。もう一つは冨美代も今世少し苦労したのだから、神様にお願いしてちょっと別嬪さんにしてもらうということです。あまり別嬪になると、私のことを鼻もひっかけてもらえないとまずいので、ちょっと口と歯を矯正してもらう予定です。
最後にのろけてしまいました。ありがとうございました。
今月の名詩・名歌・名句
抱きしめてどの子もどの子も撫でておく
先に死ぬしあわせなどを語りあひ
あほやなあと笑ひのけぞりまた笑ふ
終りなき時に入らむに束の間の