三名之川分教会百年史 @  

教会の百年史を大教会発行の  

部属教会史を参考に数回にわ 

たって掲載します。

草創の時代

明治三十年頃より、鷲家分教会初代会長

萩原利七、イト夫妻をはじめとして熱心な

布教師達が、小川村方面にも布教に廻って

いた。

三名之川は、その鷲家分教会の小川村方面の信者たちを集めて宣教所としてお許しを頂くことになった。

それゆえまず鷲家分教会初代萩原先生の信仰から話をさせていただきたい。

萩原利七は、嘉永元年萩原弥右ェ門 フサ夫妻の長男として生まれた。初代入信以前の状況はほとんど記録に残っていないが、入信の経緯は以下のようなものであった。

明治四年十一月十八日縁あって橿原市新ノ口の松尾伊八長女かねと結婚した。松尾家は当時より八木布教所(現八木大教会)の信者であったが、結婚したカネには信仰はなかったようである。夫妻の間には一人娘のセイが生まれ、睦まじく楽しく幸せに暮らしていた。しかし明治二十六年頃より、カネが悪性の子宮病を患い、医薬の限りを尽くしたが、病状は好転せず苦しむようになった。それを聞いた実家の理の親である八木布教所の布教師のおさづけの取次ぎによって、ようやく御守護を頂いた。

萩原家は代々大念仏宗の信者であったが、病気をおたすけいただいた不思議なご守護と、厳然とした理の働きを知り、利七夫妻は大きな感激とともにこの道に入り、明治二十七年三月には早くも一切の過去を捨て、親神を迎え改式者となった。

しかしそれは道を志すものが一度は通らねばならない苦難の始まりでもあった。

閉鎖的な山村は、地縁血縁でがっちりと固められ、異教である天理王命の神名は、村民あるいは村当局にとっても苦々しいものであり、ゆえに反対攻撃は厳しく、事あるごとに反対のための反対を貫き、断じて天理教の布教はならじと村八分の規約までつくり、ことに若者たちは夜間に石を投げたりの嫌がらせを執拗に続けた。

そうした中も、神を信じ、教祖を慕うて一途に通りきるうちに、珍しいたすけや不思議なご守護に浴する者が次第に多く集まるようになり、信者たちと心一つに布教の目標としての布教所を願い出ることになった。

明治二十八年七月十四日に萩原利七を初代所長として、鷲家布教所設置の理のお許しをいただいた。

 

初代会長時代

小川村で菓子製造業を営んでいた西林為造の妻チクが、長年目を患っており医者や薬の効能なく苦しんでいたところを、明治三十年頃萩原利七鷲家初代がおたすけに来られるようになった。

西林夫妻は、いままでに聞いたことのなかった素晴らしい神様のお話に感激し、おさづけを取り次いでいただくうちに不思議な霊救をいただき全快した。

その後も次々と神様のお手入れを頂き熱心となり教導職も拝戴した。

それが道明けとなり、小川村にも次々と不思議な御守護を頂く者が相次ぎ、次第に信徒も増加してきた。

その当時小川村小村において、小川分教会(現吉野町 新子)が設立されたので、鷲家分教会の旧小川村の信者の間に鷲家口での教会設立の機運が起こり、明治四十二年六月十八日、西林為造を初代所長として、奈良県吉野郡小川村大字鷲家口六七七番地の山添宅を借用して、三名之川宣教所の理のお許しをいただいた。

初代所長は、明治四十四年十二月九日に後任を樋口宇三郎に譲り、在任期間はそう長くはなかったが、在任中は、草創期の諸問題をよく治め、教会の基礎を固めた功績は多大なものがあった。

辞任後は家業を務めながら教会をたすけ、教会役員として教会の上に大きな力を尽くされながら、大正四年六月四日出直された。

またその後も西林家の代々の戸主は、教会の筆頭役員として、三名之川分教会の上に多大な貢献をされている。

 

初代会長 教歴

年月日不詳        おさづけの理拝戴 

明治四二年 六月十八日  初代所長拝命

明治四四年十二月 九日  辞任

三名之川分教会百年史 A  


二代会長時代

二代会長樋口宇三郎は、明治十三年四月一日東吉野村鷲家樋口宇吉の二男として生まれた。

樋口家はなかなかの財産家であったが、諸々の事情によって長男でありながら父宇吉はその財産を相続できず、分家していた。

宇三郎は鷲家尋常小学校高等科を卒業後、警察官を勤め故郷を離れていたが、両親の求めに応じて帰郷し、米屋や金貸し業をして生計を立てていたが、明治三十八年八月五日、当時鷲家尋常小学校へ教師として赴任していた木下ヨシと結婚した。

木下家は西吉野村でかなりの素封家であり、ヨシは後年、「実家の父は常々天理教だけは信仰するなと言い、私自身もまたそう思っていたのだが・・・。」と、述懐したことがあるが、樋口家の信仰はそのヨシから始まる。

結婚当時、家には両親の宇吉夫婦をはじめ兄夫婦、宇三郎夫婦のほか、子どもたちを含めて九人の同居生活であり、ヨシも同居生活にありがちな種々の事情に悩んでいた。

ヨシはそんな悩みを、いつとわなしに近くの教会である鷲家分教会初代会長萩原利七先生に相談するようになり、次第に信仰に導かれた。

しかしそれはまだ、夫にも言えない隠れた信仰であった。

以前筆者は、鷲家の古い信者の老母に、「子どもの頃、あんたのおじいさんと年が近かったが、私の家はその頃既に天理教を信仰しており、あんたのおじいさんに、やーい、天理教みたいなもん信仰してるさかい、お前のお尻に尻尾はえてるぞ、とかまわれてことありますね。その人が会長さんになるとは・・・。」と、苦笑されたことがあるが、当時の天理教に対しての偏見は大きなものがあり、宇三郎もそのような一人であった。

いくつもの節に会い、節に会うごとに信仰に深め、いんねんを自覚したヨシは、明治四十三年、二十九歳でおさづけの理を拝戴した。

ヨシがおさづけの理を拝戴した数日後、夫宇三郎が、家の敷居につまづき、鼻がその一部を残してほとんど取れそうになるような大怪我をした。

ヨシは初めて夫にその信仰を打ち明け、おさづけの理を取り次ぎ、お息の紙を貼らせていただくことによって、三日間で不思議な御守護を頂き、五日目には本部参拝をさせていただくまでに御守護いただいた。

鮮やかな御守護を体験した宇三郎は、感激をもって入信を決意し、明治四十四年二月には教校別科を終了、おさづけの理を拝戴した。

萩原利七鷲家分教会初代会長は、宇三郎夫婦に道一条への踏み出しを強く勧めたが、やっと軌道に乗った商売と、幼い子どもたちのことを思うとなかなか決心がつかなかった。しかし親神様にお供えした水玉のふたが知らないうちに取られるということが続き、本人が見張っていた時にさえ、一瞬の間にふたが取られ、また他にも色々な不思議を見るに及んで、家業を捨て、幼子を連れて一家を挙げてその生涯を道一条に捧げる決意をした。

明治四十四年十二月十九日、宇三郎は三名之川宣教所二代会長として、まだ幼い子どもたちをつれて小川の地へ赴任した。

当時の三名之川は、宣教所の名前は戴いているとはいえ、まだ名前ばかりで、また当時天理教を信仰しているということは村八分同様の扱いを受けることでもあった。

宇三郎夫婦はその中を、教祖のひながたと、萩原初代会長の「一家を挙げて子どもをつれて布教に出てくれたのはお前さんたちが始めてや。お前さんたちは鷲家の長男や。今はつらいつらいけれど、先では必ず幸せになれる。もう少しのしんぼうや、神様が連れて通って下さる。」との言葉を胸に、食べるに事欠くなかも、幼い子を勇ませながら、昼は一般の人のおさづけ、夜は人に隠れて結核患者へのおさづけと昼夜を分かたず、熱心につとめた。

その当時、「米びつの米もいよいよ無くなり、明日からは本当に教祖のひながたを通らせていただけると、夫婦で話し合っていた夜に、鷲家時代に借金の棒引きをした人がお礼に訪れ、これはほんのお礼の印ですと、米を一掴み置いていってくださったことがあった。それ以後も苦しい生活ではあったが、食べるものが何もないということだけは無かった。教祖は、ひながたを通らせていただこうと心に決めたら、すぐにその心を受け取ってくださる。ひながたの万分の一を通っただけで、充分受け取ってくださったのや、ありがたいなあ。ありがたかったなあ。」と、ヨシは後年よく、しみじみと述懐していたという。

昭和十一年二月所長辞任までの二十五年間に、三名之川の道も次第に開き始め、部屋住みの教会から、借家とはいえ一戸建ちの家へ、そして更に大きな土地建物を購入、信者たちも次第に増加、成人し、名実共に教会としての内容も充実してきた。その間大正十一年五月、妻ヨシを担任とする三丹生宣教所が設置された。

二度の移転を経て教会の礎を固め、昭和十一年二月、上級鷲家支教会会長就任のため、辞任する。

 

二代会長 教歴

明治四四年 二月一二日  おさづけの理拝戴 

明治四四年十一月 一日  教師補命

明治四四年十二月 九日  二代所長拝命

昭和十一年 二月 十日  辞任

昭和四六年 一月 二日  出直 享年九十歳

三名之川分教会百年史 B  

三代会長時代    

三代会長樋口金徳は、明治三十

九年一月二十四日東吉野村鷲家

樋口宇三郎の長男として生まれた。

 明治四十四年、宇三郎は一家を挙げて神一条の道に出、金徳も道を歩むものが一度は味わう苦難の道をつぶさになめ、時には両親の信仰をうらんだこともあった。

 長じて、大阪に出て消防ポンプで有名なモリタポンプに勤めつつ夜学に通っていた。以前おつとめの帰り、当時高田にあったモリタポンプの支社の前を通ったとき、「ここでおったら、ちょっとぐらい、えらいさんになってたかなあ」「もうとっくに退職してるで」「やっぱりお道で結構やったなあ」と、当時八十近い父と笑ったことがある。

そんな中、人生に深い疑問を持ち、悶々とした日を送ることもあり、それが返って真実を尋ね求める因ともなり、昭和二年一切を捨てて教校別科に入学、昭和三年三月教人登録以後、田舎に帰り両親をたすけて道一条となった。しかしながら神一条の道は厳しく、またいんねんの道は険しいものであり、幾度となく身上事情のお手引きを受け、よふぼくとしての試練の中を通ったが、その都度母ヨシの強い信仰により支えられた。

昭和十一年、父宇三郎が上級鷲家支教会長就任のため、三名之川宣教所三代所長に就任した。

しかし親神のお望みは更に深く、長女を亡くし、妻も失い、自らは病弱と闘う苦難の連続であったが、節から芽が出るとのお言葉の如く、高熱が二十日間も続き、どうしても下がらなかった熱が、兼ねてから言われていた支教会に昇格することをお受けするという心定めで御守護をいただき、昭和十二年十一月二十五日、部内教会一箇所で三名之川は支教会となった。

そして社会的な信用も増し、昭和二十二年には初代や両親の布教に対して、あらゆる反対や攻撃のもとであった村役場に於いて、村長欠員の助役として実際の村政を執ったこともあった。

事情教会として鷲家のお荷物であった三名之川も、両親と三代会長の丹精によって教会内容も更に充実し、昭和二十八年の鷲家分教会の教祖殿新築の際には、会長信者が一丸となって精魂込めて伏せこませていただくまでに成人した。

しかし翌二十九年三月十八日、金徳は大きな節と出会わなければならなかった。鷲家分教会月次祭終了後喀血。その後十日間というものは毎日血を吐き続け、死線をさまよう有様であった。重度の結核である。

十日目の二十七日朝、教祖のお水が当時の南海大教会長山田清治郎先生から届けられた。早速飲ませていただいたところ、怪我をしたところに包帯を巻くように、胸をしめつけるように感じられ、それきり鮮やかに喀血が止まるという不思議な御守護を戴いた。

その後、教祖誕生祭旬間中に山田先生は、老齢の身で足もお悪い中「教祖七十年祭の旬に道のよふぼくが倒れているのを知って、おたすけに行かなければ教祖に申し訳ない」と、山深い教会までおたすけに来てくださり、親しく暖かくおさづけの理をお取次ぎくださった。

山田先生の教祖への思いと、熱いおたすけ魂に深く感動した金徳は、以後末代の教訓として再びおたすけ活動の中に奔走する。

妻スエを失った後、大川カネ子との間に、二男二女をもうけ、次女の出産には、医者から「奥さんをとるか、子どもをとるか」とまで言われたところも御守護いただいた。

昭和三十八年に妻を亡くすが、その後も教祖のひながたを目標に、心倒すことなく布教に信者の丹精に情熱を注いだ。

また神殿神床部分の増築、付属建物の新築、屋敷の拡張と、今日の教会の姿を築いた。

昭和四十二年三月、上級鷲家分教会長就任のため、辞任する。

三代会長 教歴

大正十三年 十月十九日  おさづけの理拝戴 

昭和 三年 三月十八日  教師補命

昭和十一年 二月二一日  三代会長拝命

昭和四一年 三月 十日  辞任

 

三名之川分教会百年史 C  

教会の百年史を大教

会発行の部属教会史

を参考に数回にわた

って掲載します。

四代会長時代    

四代会長樋口喜徳は、昭和十五年

十一月七日、三代会長樋口金徳の

長男として生まれた。

 幼い頃から教会に育ち、たすけ一条に通りきる親の姿に子どもながら感服していた。

和歌山大学経済学部を卒業後、南都銀行に勤めていたが、三代会長の上級鷲家分教会長就任にあたり、道一条を決意、勤めをやめ、昭和四十二年、三月二十六日、会長任命の理のお許しを戴き、四代会長に就任した。

就任後、豊岡大教会の木岡美知子と結婚し、二男一女を授かり、夫婦が心を合わせて教信者の丹精に力を注ぎ、昭和四十六年には炊事場及び教職舎を建築し、五十年には付属建物の一部を増改築し、教会正面前庭の面目も一新した。

また昭和五十一年十一月二十六日には、大阪市天王寺区に於いて前田元枝を所長として鷲三佐布教所を設置、同年十二月二十四日には、奈良県橿原市において西村文子を所長として、鷲三西布教所を設置した。

昭和五十七年十二月二十六日には、鷲三佐布教所が、前田政夫を初代会長として鷲三須分教会として結実した。

会長は自教会はいうまでもなく、大教会の役員として東奔西走おたすけに教務に席を暖めるまもなくつとめる中に、だんだん教勢もあがり、三名之川も信仰のうえでも又形の上でも大きな御守護をいただくようになった。

そんな中樋口喜徳は、平成二年、上級鷲家分教会会長就任のため弟樋口孝徳に後任を譲り辞任する。

現在は、鷲家分教会の会長職を長男樋口敦徳に譲り、前会長として活躍中である。

            

四代会長 教歴

昭和三四年 一月三一日    おさづけの理拝戴 

昭和四一年 十一月五日 教師補命

昭和四二年 三月二六日  四代会長拝命

平成 二年 六月二六日   辞任

 

三名之川分教会百年史 D  

教会の百年史を大教

会発行の部属教会史

を参考に数回にわた

って掲載します。

現会長時代    

現会長樋口孝徳は、昭和二十九年

二月三日、三代会長樋口金徳の

二男として生まれた。

 四人兄弟の四番目で、典型的な末っ子タイプだと今でも人に言われるが、本人にはその自覚はない。母親が病弱で十歳で出直したので、鷲文分教会初代会長の前田和子姉に育てられ、また父親も不憫に思ったのか余り叱られた記憶はなく、姉達からは「甘やかされすぎ」とよく言われたことが記憶に残っている。

北九州市立大学文学部の卒業時に、鷲家分教会長であった父親が病床にあったので、その手伝いをするということで鷲家へ帰郷することになった。鷲家分教会では、七代会長である父親の手足となって、若い人の丹精や少年会活動を精力的に行ったと本人だけは思っている。十三年の鷲家分教会での生活の中で、樋口冨美代と結婚、一女二男を授かる。

平成二年、四代会長の上級鷲家分教会長就任にあたり、六月二十六日、会長任命の理のお許しを戴き、五代会長に就任した。

就任後は、何代にもわたり信仰をされ、熱心な三名之川分教会の信者さんの後ろから、かろうじてついていくような状態ではあったが、大勢の人のお力添えの中、平成十二年には念願の神殿普請と、教職舎の増築が完成し、また平成十四年には隣地約百坪を駐車場として購入するなど、教会の姿が一新する御守護をいただいた。

また谷口 訓を所長として道の華(みちのはな)布教所、中川 剛を所長として三徳(みのり)布教所を、関谷美智子を所長として三美(みよし)布教所をそれぞれ設置する御守護をいただいた。

五代会長 教歴

昭和四十八年  一月三一日    

おさづけの理拝戴 

昭和六十一年 十一月十五日

   教師補命

平成二年    六月二六日

     五代会長拝命