みなの長屋信仰談義 第一章 教祖 

みなのながや信仰談義 1

 

この信仰談義は教典を中心にした教理を、みなの長屋に住む長く天理教を信仰している物知り顔のご隠居さん、信仰しはじめの熊さん、無信仰の虎さんの三人の会話を通してできるだけ分かりやすく?したものです。

 一、おやさま      その一

                            

虎さん よう熊さん、どこへ行くんだい。

熊さん おう、虎さんかい。これから教会へ参拝に行くんだ。虎さん  教会?。教会ってあの天理さんの教会かい。そういやあんた最近天理教にこってるていう話やけど、ほんまかい。

熊さん こってるとは嫌な言い方だね。ところで江戸っ子は疲れるから東京生まれの大阪育ちといきますどすえ。

虎さん そりゃ京都違うんかい。

熊さん こないだ病気になったとき、教会の会長さんが『おたすけ』に来てくれて、病気ようなったんや。そのお礼に教会に参拝させてもらってるのや。

虎さん そりゃ偶然や。

熊さん わしゃ神様にたすけてもらったんやと信じとる。それにお前ら一回しか見舞いに来んかったけれど、会長さんは何回もきてくれてんねんきねんぶつ。それだけでも感謝してるねんてん、ちょうねんてん。

虎さん それは腸捻転の後遺症か。

熊さん それでな今教会へ参拝して、少しずつ神様のお話しを聞かせてもらってんがちゃや。

虎さん そりゃもうええて。

熊さん いま『おやさま』の話を聞かせてもらっているんや。『おやさま』てお前わかるか。

虎さん 『おやさま』というのは、いつも不思議がってる人のことやな。なにみても「おや、おや」って。上品な人やから様がついて「おやさま」。

熊さん 落語の判じ物と違うぞ。『おやさま』というのは、天理教の教祖や。今を去ること二〇〇有余年。年は寛政十年四月二十六日、大和の国は三昧田の前川家でお生まれになったのや。

虎さん 「サンマ遺伝の前乾け」て何のことや。

熊さん そこはサンマの干したのが名物で、遺伝で皮のまえだけよく乾くさんまがとれるのや。

虎さん そんなことあるかい。さんまいでんという地名や。わしの親戚もそこにおるんや。おまえもええかげんなやつやなあ。

熊さん せやさかい。まだわし信仰の初心者やいうたやないか。いうてみれば青葉マークや。そういや紅葉マークの人がいるで。これからちょうど家賃待ってもらうように頼みに行くさかい一緒に神さんの話聞きに行こか

虎さん 紅葉マークて、大家のご隠居さんのことかい。あの人は紅葉マークていうより、枯れ葉マーク違うんかい。せやけど、ええわ。わしも家賃待ってもらうようにたのまにゃならんし。

熊さん お前又家賃ためてるんか。

虎さん お前ためてへんのか 

熊さん 俺は家賃を払うなという親父の遺言で…。それに

ご隠居さん、話好きやさかい、話とったら金もらうの忘れるかもしれんしな。 

 

やいのやいの言いながら、二人は大家のご隠居さんの所へ参ります。

熊さん  こんにちは。ご隠居さん

ご隠居  おや、虎さんと熊さんかい。家賃をはらいに来てくれたのかい。ばあさんや、来てごらん。長生きはするもんだね。熊さんと虎さんが家賃もって来てくれたよ。

熊さん  これだから年寄りはせっかちで困る。誰も家賃なんか持って来ないよ。

虎さん  あんなぼろ長屋で家賃を取ろうとはずうずうしい。

ご隠居  なんだい黙って聞いていれば、用事がなかったら、とっとと帰っておくれ。

熊さん とうとうご隠居を怒らせてしもたがな。ご隠居さん、怒らんといてください。わしら家賃はらわんとは思ってません.せやけど今日は持ち合わせがないんですわ。

 そのかわり今日は神さんの話聞かせてもらいに来たんですわ.

ご隠居 そうかい、神さんの話かい。お前さん方もヤット神さんのはなし聞く気になってくれたかい。

虎さん そしてあわよくば今月も家賃待ってもらおうとおもってますねん。

ご隠居 待つもまたんも今まで払ったんは、お前の親父の時に一回だけやないか.まあええわ.その分ゆっくり神様の話したるわ。

 

わあわあ言いながら長屋談義は続きますが、お後は次回ということで

みなのながや信仰談義 2

 

 一、おやさま      その二

ご隠居  おまえさんがたのリクエストにお答えして教祖の話をさせていただこうかな。天理教の教祖のお名前は知っておるな。

虎さん  さっきも言ってたんですが、中山ミキ様ですね。

ご隠居  そうだ。そして教祖とかいておやさまとお呼びするのだ。ちょうどわしも教会の若先生から毎月教祖伝を習っておるのだ。 

熊さん ご隠居さん、なんか言葉がえらそになってませんか。

ご隠居 黙れ、町人,そこにならへ,手打ちにしてくれる。

熊さん ばあさん,ご隠居又悪いテレビでもみたんと違うか。何,さっきまで時代劇を見ていたって。こりゃ間が悪かったな,ご隠居ほど影響されやすい人もおらんからな。ちょっとご隠居さん。しっかりしてくださいや。

ご隠居 うーん、すまなかったな。さっきまで「暴れん坊黄門、痔が痛い」という時代劇を見ていたのでな。その影響が残っていたんだな。

虎さん どんな番組ですか。まあよろしわ,聞いてたら話が前へ進まんさかい。ご隠居  それじゃ教祖の話をさせてもらおうか。わしもそんなに詳しくないから、ちょうど天理教教典というのがある。それに沿って勉強したいと思う。

虎さん 勉強ですか。その勉強というのは、私は大嫌いで…。

熊さん こいつは「べん」と聞いただけで拒絶反応を起こしますんで。

虎さん ウーン。

ご隠居 よし、それじゃ勉強はやめて、一緒に読んでかんがえることにしよう。一月に一度ずつして、最後まで終わるまで家賃は取らんことにしよう。

虎さん ウーン。

ご隠居 又倒れたね、今度は勉強という言葉は使ってないのに。

熊さん いえ、喜びすぎてですわ。

ご隠居 それじゃ、教典をまず読んで見るから、わからないところがあったらまず熊さんが答える。間違っていたらわしが訂正するからな。それじゃいくよ。 

教祖は、寛政十年四月十八日、前川半七正信の長女として生れ、名を みきと申される。 
   
幼少の頃から、慈悲と同情の心に篤く、又、深く道を求め、世塵を脱けて、生涯を信仰に捧げたい、と熱願されたが、奇しきいんねんの理によつて、大和国山辺郡庄屋敷なる、中山氏という元のやしきに迎えられ、善兵衞の妻となられた。 以来、益々信心の道に心を磨かれると共に、人の妻として、忠実やか  に夫に従い、両親に仕え、家人をいたわり、篤く隣人に交り、又、家業に精を出された。かくて、慈悲と同情の天禀は、愈々深められ、高められて、よく怠者を感化し、盗人を教化されたばかりでなく、自分を無きものにしようとした者に対してすら、その罪を責めることなく、我が身の不徳のいたすところとして、自然のうちにこれを徳化せられた。又、  預つた乳児が病んだ時には、我が子、我が身の命を捧げ、真心をこめ、  命乞をして、瀕死の児を救われた。(天理教教典p46)

虎さん うーん

熊さん 今度は熊さんが倒れてしまいました。

熊さん ごいんきょもうすこしわかりやすく

ご隠居 つまり、教祖は小さい時から信仰熱心な、やさしい利発なお子さんやったということやな。そして庄屋屋敷村の中山家の善兵衛さんと結婚されたということや。熱心な信仰といっても、もちろんこのときは立教以前から、仏教を熱心に信仰し、夫や舅姑はもちろん、隣近所の人にも優しかったということや。

熊さん 家のかかあや虎さんとこのかかあとは性反対ということですな。

ご隠居 まあそういうことになるかな。

虎さん 家のかあちゃんに言うたろ。

ご隠居 それだけはやめてくれ、殺されるがな。

    まあどちらにせよ教祖はうまれつきおやさしく、その性質がますます結婚してみがきがかかったということや。

 中山家はお金持ちの庄屋さんやから、働き手も多かったんやが、その中には怠け者もおってな、他の人がどんなに忙しく働いていても、いっこうに働かなかったんやが、みき様がいつも「ごくろうさん」と声をおかけになられた。

虎さん 家の嫁さんやったら、わしがこんだけ働いていても、怠け者ごくつぶしとしか言輪へんのに、えらい違いやなあ。

ご隠居 怠け者が怠け者と言われても平気だが、働いてもいないのにいつもご苦労さんと言われて、さしもの怠け者もこれでは申し訳ないと心を入れ替え、後には人一倍働いたそうや。

熊さん 今度うちの嫁さん連れてきますさかい、もう一度話したってください。

ご隠居 何ぼでもしたるけど、無理やと思うで。教祖は、このときは性格にはまだ教祖やないけど、みき様はワシらとはだいぶ違っておったということや。

 ある時は米倉に入った盗人に米を与えたとか、逆恨みで毒を盛られた時も、「神や仏が私の腹の中を掃除くだされたのです」と、一言も責めなかったそうや。又乳が出ないのでと預かった子供が重病になった時は、我が子や自分の命を捧げてまで神様にその子の命乞いをしてたすけていただいたこともあるのや。

熊さん やっぱし神さんのしはることは、まねできまへんな。

虎さん ほんまにえらいもんですなあ。ところでさっきの話ですけど、正確には教祖ではないというのは、どういうことなんでっか。

ご隠居 中山みき様を教祖(おやさま)とお呼びするのは、みき様が神がかりになられてからのことや。が、この話は、天保9年10月26日の立教のときより以前だから、正確にはまだ教祖ではないということや。

 それともう一つ大事なことは、さっき熊さんが神さんやから真似できまへんと言ったけれど、確かに教祖は『月日のやしろ』とお聞かせいただくし、神様に違いないんやけど、心は神様やが、身体は人間や。このことはあとでゆっくり話するけど、ワシら天理教の信者は、教祖のご生涯を『ひながたの道』と申し上げて、自分達の生き方の見本というか理想というか、通らせていただかねばならないものと考えているけど、教祖をワシらとは違う超人的なお方やと考えてしまうと、

「教祖とわしらはちがうんやから・・・。と、『ひながたの道』を通る努力を最初から捨ててしまうことになると思うのや。

 そのことはしっかり注意していて欲しい。

みなのながや信仰談義 3

 

 一、おやさま      その三

ご隠居  前回は,中山みき様が、神懸りになられた時の話をしたな。そして、中山みき様に降りられた神様は、宇宙を創り、生物を、そして人間をお創りくださり、今もご守護してくださっている神様や。という話をしたな。おまはん方にもそのことを信じるかと聞いたら、熊さんは信じるように努力すると言うたが、虎さんは、なかなか信じられへんと言うた。今は、天理教というたら、よく知られた宗教や。それでもそれを信じるかというたら別問題や。今でもそうやのに教祖が神懸りになられた時というのは、変な神様が中山家の奥さんに降りはったというて、誰もなかなか神様の言うことを聞かへんかったんや。 

教祖の神懸り直後とはそういう世間の非難中傷との戦いやったんや。そのことを忘れんようにしながら、教祖四十二歳、運命の時の教典を読んでみよう。

熊さん  じゃやじゃやじゃじゃーん

ご隠居  しょうもない合いの手はいらんというのに。

    そこのところを教典第一章から読んでみるよ。

 

「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。」
とは、親神天理王命が、教祖中山みきの口を通して仰せになつた最初の言葉である。
家人は、この思いがけぬ啓示にうち驚き、再三言葉を尽して辞退したが、親神は厳として退かれぬにより、遂に、あらゆる人間思案を断ち、一家の都合を捨てて、仰せのままに順う旨を対えた。

時に、天保九年十月二十六日、天理教は、ここに始まる。

虎さん  相変わらず難しいですな。一つずつ教えてもらいたいですが…・。

熊さん  何も難しいことあらへんがな。

虎さん  ほんだら、われは元の神、実の神というてはるけど、それはなんや。

熊さん  われは元の神、実の神ということや。元の神言うたら元の神やし、実の神言うたら実の神のことやないか。

ご隠居  まあまあ、ここはなかなか難しいとこでな。この短い文章に天理教の真髄が隠されているのや。

虎さん  天理教のおじさんかなんかで?。

ご隠居  親類やない、真髄、つまり本質がそこに全部詰まってるということや。

 ちょっと、わかりにくいと思うから、その前の事も話しするわ。中山家では、一年程前から、善兵衛、みき夫婦の長男秀司が、足痛になり、何回か寄加持(よせかじ)をしていた。寄せ加持をすると治る、しばらくすると痛むの繰り返しで、一年に九回も寄せ加持を繰り返したが、十月二十三日の夜から、秀司の足痛に加えて、善兵衛は眼、みき様は腰と、三人揃って痛み出したので、修験者の市兵衛に来てもらい、寄せ加持を行うことになるが、ちょうどその時は、いつもの加持台のそよが不在で、急遽みきを加持台にしての、祈祷の真っ最中に、さっきのようにみき様が神がかりにならはったんや。

熊さん 寄せ加持ってなんですね。

ご隠居 修験道の加持法の一つやそうや。修験者が、加持台に自己の守護霊を憑依させて、託宣を下させるものや。

熊さん 時代劇でようやってるやつですな。

ご隠居 ちょっと違うかも知れんけど、よう似たもんかも知れん。昔は医者・薬いうてもそんなに簡単にかかれなかったし、大して医学も発達してへんから、病気なんかは加持祈祷で治す場合も多かったんや。

だから中山家の場合も、秀司さんの足痛もこれで治してたんやな。ところが今回は、いつも加持台になっていたそよという女性が不在で、かわりにみき様が加持台になられたんや。    

すると思わん神様が降りてきはった訳や。

熊さん 親神様が降りてきはってよかったん違いますの。

ご隠居 そりゃ、今やから言えることや。よう考えてみ、その時は、誰もこんな神様知らんのや。それに、自分らの病気を治してもらいたいだけやのに、元の神やとか、世界一れつたすけるとか、みきを神の社にもらいたいやとか言われたらびっくりするで。

虎さん そりゃそうでんな。

ご隠居 それで中山家の人々も何回も断るんや。何回も断るんやけど神様は聞いてくれへんね。それでみき様の体も弱ってきはるし、ついに善兵衛さんが、すべての人間思案を捨てて、おっしゃる通りにいたしますと、返事された訳や。これが、十月二十六日午前八時ごろやそうや。

虎さん、人間は誰によって創られたと思うかい。

虎さん 誰によってて…?。わしの場合は、父親と母親によってですが…。

ご隠居 そうやない。そのもっともっと前の話や。それに父親と母親にしたって、仕込んだだけやろが…・。

熊さん そりゃそうですわ。自分で思い通り創れるんやったら、誰も虎さんみたいな子ども、欲しないと思いますわ。

虎さん 余計なお世話や。人間を誰が創ったかなんて、考えたことありませんわ。

ご隠居 普通人間を創ってくれたのは誰かなんてあんまり考えんわな。考えても自然に発生したぐらいにしか思えんかも知れん。せやけど、元の神とは、何もないところから人間をこしらえた神ということなんや。

ご隠居 ほんだら虎さん、今生きてるのは誰のおかげやと思う。

虎さん 誰のお陰て、誰のお陰でもありませんがな。

熊さん あんたの身体は神さんから貸してもらっているって言われたらどう思う。

虎さん そんなことあるかい。俺の身体はおれのもんや。

ご隠居 神さんはな、身体は神さんが貸し与えて、心だけは人間の思うように使える自由を与えてくれているんや。考えてみ、自分の身体やけど、なかなか思い通りにはならんやろ。

熊さん 病気になりたいと思って、病気になるやついませんもんな。

虎さん そういやそうですけど…・。

ご隠居 実の神というのは、今もこの世界を守護し、私たち人間をお守り下さっている神様ということなんや。

虎さん えらい神様でんねな。何でそんな神様が、中山家の寄せ加持におりはったんですか。

ご隠居 問題はそこや。

熊さん どこですか、ここですか。えらいこってますわ。

ご隠居 誰も肩コリの場所を探してるんと違う。せやけどええ気持ちやさかいもう少し揉んどいてんか。

 話進めるわ。何でそんなえらい神様が、中山家に下りたかというと、次に言うてはるやろ、この屋敷に因縁ありって。さっき、人間は親神様によって創られたと話したけど、そのことは『元の理』に詳しく教えられているんやが、その人間を最初に創られた場所がおぢば、つまり中山家のあった場所やったんや。だからこの屋敷にいんねんありとおっしゃられたんや。

そしてみき様は、そのとき人間全体の母親の役割をしてくださった魂をお持ちの人やったんや。

 また『元の理』のところで詳しく説明するけど、中山家の土地が、人間宿しこみの元の場所であったという『やしきのいんねん』と、中山みき様が、人間全体の母親の役割をしてくださった方という、『おやさまたましいのいんねん』、それと、約束の年限の到来という『旬刻限の理』の三つが重なって親神様がおくだりになられたんや。

虎さん そんな話、せやけどなかなか信じられませんわ。

熊さん お前なんちゅうばちあたりなことを…・。

ご隠居 しゃあないがな。お前かてほんこの間まで、そうやったやないか。

熊さん そりゃそうですけど…。

ご隠居 今でこそ天理教といえば知らんものもおらん宗教やが、この当時はもちろんそんなことはない。だから中山家の人も、何回も断ってるのや。だからわしが大事やというたのも、そこや、もう揉まんでもええぞ、話し進めたいからな、

熊さん 断るのが大事いうことですか。

ご隠居 違う、これはわしの信仰信念やから、絶対おまはんがたにもそうせよ、といってるわけじゃない。せやけど、くどうなるけど、中山家の人々は、自分らの病気がたすけて欲しかったんや。そして元の神、実の神言われてもまだその時はなんのことかもわからへんだし、せかいいちれつたすけるなんて、実感はなにもわからんだと思うんや。せやけど三日間悩んだ末、親類友人達の反対を押し切って、決断したんや。

 だからこの問いは、立教の時の中山家の人々に対してだけではなく、我々信者一人一人の入信の時に問われていることなんや。

虎さん 熊さん、お前問われとるらしいぞ。

熊さん ご隠居、わし、なに問われてますんやろ

ご隠居 むつかしい考えんでもええ。

熊さん なかなかむつかしいけど、がんばります。

虎さん わしは、今まで信仰てなかったから、きゅうにそない言われても…・・。

ご隠居 中山家の人々にとっても、また中山家以外の村人達にとってはもっと、このことを信じることは難しかった。教祖のご苦労はそこに尽きるといってもよいのではないかとさえ思うぐらいや。次回はそのことについて話をしよう。

みなのながや信仰談義 4

 

 一、おやさま      その四

 

よろづよのせかいいちれつみはらせど

むねのハかりたものハないから        一 1

そのはづやといてきかした事ハない

なにもしらぬがむりでないそや        一 2

このたびハかみがをもでいあらハれて

なにかいさいをといてきかする        一 3

世界中の人間は、我が身思案に頼って、心の闇路にさまようている。

それは、元なる親を知らず、その心に触れぬからである。親神は、これをあわれに思召され、この度、教祖をやしろとして表に現れ、その旨のうちを、いさい説き聴かされる。

熊さん 最初のお歌はよろづよのお歌ですな。
ご隠居 みかぐらうたにも出てくるけど、これはおふでさきの最初のお歌や。
虎さん おふでさきて何ですの。
ご隠居 耳に聞くだけでは、すぐに忘れると、教祖がお書き下されたものや。わかりやすく、覚えやすいように和歌体で書かれているのや。
熊さん 真っ暗な中でも、筆が動いたらしいですな。
ご隠居 意味はそんなに難しいもんやないやろ。書かれている通りや。ご隠居  前回は,中山みき様が、神懸りになられた時の話をしたな。そして、中山みき様に降りられた神様は、宇宙を創り、生物を、そして人間をお創りくださり、今もご守護してくださっている神様や。という話をしたな。その神様の思いをお書きくださっているのが、このお歌や。せやけどなかなかそのことが信じられへんのや。神がかりになられるまでは、ただの中山家の奥さんやさかいな。

おまはん方にもそのことを信じるかと聞いたら、熊さんは信じるように努力すると言うたが、虎さんは、なかなか信じられへんと言うた。今は、天理教というたら、よく知られた宗教や。それでもそれを信じるかというたら別問題や。今でもそうやのに教祖が神懸りになられた時というのは、変な神様が中山家の奥さんに降りはったというて、誰もなかなか神様の言うことを聞かへんかったんや。 

教祖の神懸り直後とはそういう世間の非難中傷との戦いやったんや。それを教祖伝では次のように書いてはる。

 

いまなるの月日のをもう事なるわ

くちわにんけん心月日や          一二 67

しかときけくちハ月日がみなかりて

心ハ月日みなかしている          一二 68

教祖の姿は、世の常の人々と異なるところはないが、その心は、親神の心である。しかし、常に、真近にその姿に接し、その声を聞く人々は、日頃の心安さになれて、その話に耳をかそうとしないばかりか、或は憑きものと笑い、或は気の違つた人と罵った。

かかる人々に、親神の教を納得させるのは、並大抵なことでなかったとはいえ、教祖が月日のやしろにおわす真実を納得させずしては、いつまでも、たすけ一条の道は啓かれず、陽気ぐらしへの立て替えは望めない。されば、教祖は、頑是ない子供をはぐくみ育てるように、世の人々の身にもなって、説き聴かせ、或いは筆に記し、又は、親神の自由自在の働きを目のあたり知らせ、身を以て行に示すなど、うまずたゆまず導かれた。 

熊さん この一二-67・68のおふでさきは、どういう意味ですか。ご隠居 これは教祖のお立場を言われているのや。つまり姿は普通の人間と変わらないけど、お話くださる言葉も教祖のお心も全て神様のお言葉やし、神様の思いということや。しかしそれが人々にはなかなか納得できなかったんや。
虎さん 『月日のやしろにおわす真実』というのはどういうことですねん。 
ご隠居 月日というのは、神様のことやねん。おふでさきの中で神様の呼び名は、三種類あって、『神』・『月日』・『をや()』とあるのや。いずれも親神様のことやけど、人間にわかりやすいように、最初は神、そして全てをご守護して下さっているのがわかりやすいように、月日、そして人間全体の親であるから『をや()』という使い方をしてはるんや。これはもう少し後で出てくるからそのとき詳しく話そう。
熊さん やしろというのは、教組のお立場のことで、最初にみきを神のやしろに貰い受けたい、とおっしゃたことですね。
ご隠居 そうや、そのことが周りの人にはなかなか納得できんかったんや。そのことはもう少し先になるけど、それが結局教組が現身(うつしみ)を隠される明治二十年まで続くのやけどな。だけど、少しずつでもわかるように、ちょうど子どもを育てるように、優しく話をされ、忘れないようにと、筆をとって、『おふでさき』に神様の言葉をお書きくださり、又いろいろな不思議なご守護をお見せになったり、又ご自身もお通り下さり、飽きることなく、人間をお導きくださったのだ。

 

みなのながや信仰談義 5

 

 一、おやさま      その五

 

よろづよのせかいいちれつみはらせど

むねのハかりたものハないから        一 1

そのはづやといてきかした事ハない

なにもしらぬがむりでないそや        一 2

このたびハかみがをもでいあらハれて

なにかいさいをといてきかする        一 3

世界中の人間は、我が身思案に頼って、心の闇路にさまようている。

それは、元なる親を知らず、その心に触れぬからである。親神は、これをあわれに思召され、この度、教祖をやしろとして表に現れ、その旨のうちを、いさい説き聴かされる。

 

熊さん 最初のお歌はよろづよのお歌ですな。
ご隠居 みかぐらうたにも出てくるけど、これはおふでさきの最初のお歌や。
虎さん おふでさきて何ですの。
ご隠居 耳に聞くだけでは、すぐに忘れると、教祖がお書き下されたものや。わかりやすく、覚えやすいように和歌体で書かれているのや。
熊さん 真っ暗な中でも、筆が動いたらしいですな。
ご隠居 意味はそんなに難しいもんやないやろ。次ぎに書かれている通りや。

ご隠居  前回は,中山みき様が、神懸りになられた時の話をしたな。そして、中山みき様に降りられた神様は、宇宙を創り、生物を、そして人間をお創りくださり、今もご守護してくださっている神様や。という話をしたな。その神様の思いをお書きくださっているのが、このお歌や。せやけどなかなかそのことが信じられへんのや。神がかりになられるまでは、ただの中山家の奥さんやさかいな。

おまはん方にもそのことを信じるかと聞いたら、熊さんは信じるように努力すると言うたが、虎さんは、なかなか信じられへんと言うた。今は、天理教というたら、よく知られた宗教や。それでもそれを信じるかというたら別問題や。今でもそうやのに教祖が神懸りになられた時というのは、変な神様が中山家の奥さんに降りはったというて、誰もなかなか神様の言うことを聞かへんかったんや。 

教祖の神懸り直後とはそういう世間の非難中傷との戦いやったんや。それを教祖伝では次のように書いてはる。

 

いまなるの月日のをもう事なるわ

くちわにんけん心月日や          一二 67

しかときけくちハ月日がみなかりて

心ハ月日みなかしている          一二 68

教祖の姿は、世の常の人々と異なるところはないが、その心は、親神の心である。しかし、常に、真近にその姿に接し、その声を聞く人々は、日頃の心安さになれて、その話に耳をかそうとしないばかりか、或は憑きものと笑い、或は気の違つた人と罵った。

かかる人々に、親神の教を納得させるのは、並大抵なことでなかったとはいえ、教祖が月日のやしろにおわす真実を納得(なっとく)させずしては、いつまでも、たすけ一条の道は啓かれず、陽気ぐらしへの立て替えは望めない。されば、教祖は、頑是ない子供をはぐくみ育てるように、世の人々の身にもなって、説き聴かせ、或いは筆に記し、又は、親神の自由自在の働きを目のあたり知らせ、身を以て行に示すなど、うまずたゆまず導かれた。

熊さん この一二-67・68のおふでさきは、どういう意味ですか。
ご隠居 これは教祖のお立場を言われているのや。つまり姿は普通の人間と変わらないけど、お話くださる言葉も教祖のお心も全て神様のお言葉やし、神様の思いということや。しかしそれが人々にはなかなか納得できなかったんや。
虎さん 『月日のやしろにおわす真実』というのはどういうことですねん。 
ご隠居 月日というのは、神様のことやねん。おふでさきの中で神様の呼び名は、三種類あって、『神』・『月日』・『をや()』とあるのや。いずれも親神様のことやけど、人間にわかりやすいように、最初は神、そして全てをご守護して下さっているのがわかりやすいように、月日、そして人間全体の親であるから『をや()』という使い方をしてはるんや。これはもう少し後で出てくるからそのとき詳しく話そう。
熊さん やしろというのは、教組のお立場のことで、最初にみきを神のやしろに貰い受けたい、とおっしゃたことですね。
ご隠居 そうや、そのことが周りの人にはなかなか納得できんかったんや。そのことはもう少し先になるけど、それが結局教組が現身(うつしみ)を隠される明治二十年まで続くのやけどな。だけど、少しずつでもわかるように、ちょうど子どもを育てるように、優しく話をされ、忘れないようにと、筆をとって、『おふでさき』に神様の言葉をお書きくださり、又いろいろな不思議なご守護をお見せになったり、又ご自身もお通り下さり、飽きることなく、人間をお導きくださったのだ。


みなのながや信仰談義 6

 一、おやさま      その六

 教祖は、世界の子供をたすけたい一心から、貧のどん底に落ち切りしかも勇んで通り、身を持て陽気ぐらしのひながたを示された。更に、親神が教祖をやしろとしてじきじき表に現れている証拠としてよろづたすけ道あけであるをびや許しをはじめとし、親神の守護を、数々、目のあたりに示して、疑い深い人々の心を啓かれた。     (教典6ページ2行―6行)

虎さん 貧のどん底に落ちきりとか、陽気ぐらしのひながたとか、をびや許しとか、わからん言葉が出て来ますね。

ご隠居 親神様は、『人間が陽気ぐらしをするのをみて神も共に楽しみたい』と、思し召されて人間をお創りくださったのや。だから教祖は、陽気ぐらしを私たち人間に教えたいのや。陽気ぐらしと言うのは、どんなんやと熊さん思うで?。

熊さん そりゃ陰気の反対の暮らしやさかい、何の心配もない暮らしという事かなと思いますが。

虎さん そりゃせやな。今みたいに不景気で、明日仕事があるかどうかもわからんだら、陰気になるしな。

ご隠居 今ちょうど陰気と陽気という話しが出たけど、もう一回、その陰気と陽気を考えて欲しいんや。虎さんが言うたように明日の仕事が無かったら陰気になるわな。それはなんでや。

虎さん それは仕事無かったら、おまんまの食いあげになりますやろ。飯食えへんかったら、陽気にはなれませんで。

熊さん そりゃそうや。貧乏しとったら、陽気にはなれへんわな。

ご隠居 ところが教典は違うこと書いてたやろ。教祖は、後でも出てくるけど、神様のおっしゃるとおり、中山家の財産をだんだん処分しては貧しい人に施しながら、貧乏になっていかはったんや。それは、どんな中でも神様のご守護を実感すれば、勇んで通れ、陽気ぐらしができるのだということを、みんなの手本としてお示し下されたんや。それをひながたと言うんや。

虎さん 信仰して貧乏になるような宗教やったら、誰も信仰しやへんのと違いますか。わしら信仰して貧乏にならんでも、せん前から貧乏やもんな。

熊さん 教祖が貧のどん底に落ちていかれたのと、虎さんの貧乏は違う。なりたくなくたって、虎さんは貧乏やけど、教祖は自分から貧乏になっていかはったんや。えらい違いや。

虎さん えらい言われようやな。

ご隠居 最初に言うとくけど、教祖は貧乏になる信仰を教えたんと違う。信仰とは、金持ちになることが目的ではないし、貧乏になることが、目的でももちろんない。お金によって幸せも不幸せも、言い換えれば陽気ぐらしは、お金によって左右されるものではないということを教えてくれたんや。教えるだけなら誰でもでけるが、教祖はそれを自分で、中山家の財産を施して貧乏になることを通して、実地に通っておしえてくれたんや。せやけど、そんなことは今になればわかるけど、教祖が、実際貧のどん底へ落ちていった時は大変やった。中山家の奥さんがキツネ憑きかなんかになって、と親類連中とは付き合いが無くなるし、村八分みたいな状態になってしもうたんや。それに施しを受けた人は一杯いるけど、それから信仰につながった人は一人もいない。神がかりになられてから、現身を隠されるまでちょうど五十年やけど、最初の二十年くらいは、誰一人といっていいほど信仰に入った者はなかったんや。

熊さん そりゃ腹立ちますな。家財はもちろん、家屋敷さえ施されたんでしょう。普通のものなら恩に感じて言うこと聞きますやろ。

ご隠居 物をもらった時の感謝は、一時の感謝や。もらえんようになったら、感謝せん。神様はそんな一時的な感謝を求めていたんではないということや。それともう一つ。物があると言うのは、そのものを守りたいと言う気持ちが出てくるやろ。あればあるほど欲しくなるのが、物や。ものに囚われとったら、なかなか素直に喜べんちゅうことも、教えてくれてるんや。

熊さん そういや、うちの嫁さんも何ぼでも着物ほしがりますね。うちの蔵には、ほかすほどありますのに…。

虎さん 蔵ちゅうのは裏の小屋の事か。お前とこは、少しは買ったれよ。こないだなんか裸で歩いてたぞ。

ご隠居 冗談はさておき、おしゃれなんか考えたらよくわかるやろ。おしゃれもええけど、おしゃれしてたら、服や服飾品にばかり心が行って、その本体、身体があるからおしゃれも出来ると言うことなんか、なかなか感謝せんやろ。

 このひながたについては、後でもっと詳しくするからこのぐらいにしておくけど、物に囚われていると、もっと大事な根本的なことを、感謝出来にくくなるということは、忘れんといて欲しいんや。

みなのながや信仰談義  七      

 一、おやさま      その七

 教祖は、世界の子供をたすけたい一心から、貧のどん底に落ち切りしかも勇んで通り、身を持て陽気ぐらしのひながたを示された。更に、親神が教祖をやしろとしてじきじき表に現れている証拠としてよろづたすけ道あけであるをびや許しをはじめとし、親神の守護を、数々、目のあたりに示して、疑い深い人々の心を啓かれた。     (教典6ページ2行―6行)

ご隠居 先月は、教祖が、神様のおっしゃるとおり、中山家の財産をだんだん処分しては貧しい人に施し、貧乏になっていきながら、陽気ぐらしというのは、金や地位や名誉には関わりなく、どんな中でも神様のご守護を実感すれば、勇んで通れ、陽気ぐらしができるのだということを、みんなの手本としてお示し下されたという話をしたな。そんな中、嘉永七年、教祖が神がかりになられて以来二十年後に、娘のおはるさんが初産で家へ帰っている時、『何でもかでも、内からためして見せるで』と仰せられて、腹に三度息をかけ、同じく三度なでて置かれた。これが『をびや許し』の始まりで、出産の当日、大地震があったが、おはるさんはいとも安く男の子を出産した。

熊さん わしの嫁さんも、子どもを産むときに戴きましたわ。

虎さん 『をびや許し』ていうのは安産のお守りみたいなもんですか?。わしの娘も来年出産するさかい、もらえますかいな。

熊さん おまえとこの娘は心がけが悪いさかい、あかんのと違うか。

虎さん おまえとこの嫁さんがご守護いただいたなら、世界中の誰でももらえるわい。

ご隠居 これこれけんかするもんやない。神様は心通りのご守護とおっしゃって、何ぼ願っても神様の心に叶わぬ心遣いばかりしていると、ご守護はいただけないともお聞かせいただくけど、心配せんでもええ。『をびや許し』だけは、心どおりではなく願いどおりのご守護と聞かせてもらうから、しっかりお願いしたら大丈夫や。ただ疑ったらいかんぞ。おはるさんが余りの安産だったので村でも評判になり、『をびや許し』を願い出たが、教祖のお言葉にもたれきれず、毒忌み、凭れ物など当時の習慣に従うと、産後の熱で伏せってしまッたという史実があるように、しっかりもたれさせて頂いたら、必ずご守護くださるんや。

熊さん 虎さん、わしんとこの嫁さんは、七人とも『をびや許し』を戴いて全員安産やった。おまえも早速明日にでも教会へ行って、『をびや許し』をいただいておいで。

虎さん それはどうしたらいただけるんで?。

ご隠居 妊娠六ヶ月を過ぎれば、本人夫婦が、教会へお願いすればいいんや。本部で戴ける。本人夫婦がどうしても都合の悪い場合は嫁ぎ先の親ならば代参は許されるが、遠方や、やむ終えない事情がある場合以外は、やはり本人夫婦が参拝させていただくことやな。

熊さん そういや会長さんとこの、次男さんは日を延ばしてもらったって会長さんおっしゃていたな。

虎さん どういうことやね。

熊さん 予定日が、平成二年の二月十四日やったそうや。それで会長さんが、どうせなら二並びのほうがええなあとお願いしていたら、予定日になってもなかなか出産せずに、二十二日になって出産したそうや。奥さんも、どうせ二十二日までは大丈夫と、予定日を過ぎても病院に行かず、お医者さんに検診に来いと怒られたそうや。

ご隠居 親会長さんが、話の種やとおっしゃって、はるのりとつけたという話やな。

虎さん その時、徳を取りすぎたと会長さんが、ぼんの成績を見て嘆いていたという噂があるらしいで。

ご隠居 これこれ、ほんとのこと、いやいやめったなことを言うではない。

熊さん ご隠居、また脱線してますで。

ご隠居 そうや、教祖のお話しやったな。その『をびや許し』の噂が近郷に響いて、やっと教祖が普通の人ではないと気付き始め、そのころから『をびや許し』を初め様々なお願いに教祖のもとへ来る人が出始めたんや。

虎さん そうすればだんだん暮らしもましになっていかはったんですか。

ご隠居 そうやない。その逆で、『をびや許し』を下された頃からの十年間ほどが一番厳しい貧の中をお通り下さったんや。第五章の『ひながた』のところで出てくるが詳しく、一つ覚えておいて欲しいのは、さしもの中山家の財産も無くなりそれこそ食べる米も底つくありさまになっても、教祖は今日食べる米さえ門口に立つものがあれば施されたということや。また寒さにふるえている者を見て、身につけているはんてんを脱いで与えられたともお聞かせいただくのや。わしらが忘れたらあかんことや。

みなのながや信仰談義 八 

 一、おやさま      その八

 

 更に、教祖は、

このよふハりいでせめたるせかいなりなにかよろづを歌のりでせめ 一 21

せめるとててざしするでハないほどに

くちでもゆハんふでさきのせめ一 22

なにもかもちがハん事ハよけれども

ちがいあるなら歌でしらする 一 23

とて、親神の思召を伝えられ、

だん?とふてにしらしてあるほどに

はやく心にさとりとるよふ  四 72

と、後々繰り返し繰り返し思案させるよう、心を配られた。この事は、後日、


これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。忘れるからふでさきに知らし置いた。

       (明治三七・八・二三)

と仰せになつたように、おふでさき耳に聴くだけでは、とかく忘れがちに

なり易い人々の上を思い、筆に誌して知らされた親神の教である。

(教典六〜七頁)

ご隠居 これは『おふでさき』というものについてかかれているのや。

虎さん おふでさきてなんでんの

ご隠居 天理教には三原典というものがあるのや。原典というのは、その宗教の教えの根本が書いてあるもので、キリスト教で言えば聖書みたいなもんや。

それが三つあるというわけや。『おふでさき』と『みかぐらうた』と『おさしづ』の三つや。その中で『おふでさき』と、『みかぐらうた』は、教祖がじきじきにお教え下されたもので、『おさしづ』は、教祖が現身を隠されて以後、本席となられた飯降伊蔵先生のお言葉、神様のお言葉なんやけど、それを筆記したものや。この文中の最初の四つのお歌が『おふでさき』で次の(明治三七・八・二三)とか枯れている文が『おさしづ』や。『みかぐらうた』は、おつとめの地歌や。

 おふでさきは、十七号に分かれ、全部で千七百十一首、明治二年より明治十五年にわたって書かれたものや。和歌体、つまり五七五七七で、誰にも読みやすいよう書かれているのや。

虎さん 誰にもわかるって、わしらには読めませんで。

熊さん 最初はむつかしいけど、読んでもろたらわしらにも意味がわかるわ。

ご隠居 原本は変体仮名といって今となってはむつかしいわな。読み方は和歌といっしょで、五七五七七と区切って読んでいったらよいのや。このおふでさきを少し区切って読んでみよか。

このよふハりいでせめたるせかいなり

なにかよろづを歌のりでせめ 一 21

 この世は、理でせめたる 世界なり

 何かよろづを 歌の理でせめ

せめるとててざしするでハないほどに

くちでもゆハんふでさきのせめ一 22

 せめるとて、手出しするでは ないほどに 口では言わん 筆先のせめ

なにもかもちがハん事ハよけれども

ちがいあるなら歌でしらする 一 23

何もかも 違わんことは よけれども 違いあるなら 歌でしらする

 

熊さん これならわかりますわ

虎さん わかるけど最初の理でせめたるとは、どういう意味ですね。

熊さん 理とは大変難しいことなんやけど、簡単にいうと、ことわりということや。このお道は天然自然の道ともきかせていただくんや。ちょうど自然が、一見無秩序のように見えて、大きな流れの中で規律正しくその流れを繰り返すように、人間世界も同じだと教えられているのや。

人間個人を考えてみて、病気になるというのは、人間が考えて決めていることではないわな。こら突発的に起こってくるもんや。せやけど例えば木々が紅葉して、葉を落とし、新しい芽吹きに備えるように、又芽吹く力のなくなった枝が、自然に枯れ落ちるように、人間の病気も新しい出発に備えるためのものや賭したら、どうや。木に意識があったら、枝が枯れ落ちる時、ちょうど病気になった人間がショックを受けるように、何でや何でやとショックを受けるかもしれんやろ。木に対しては紅葉しても落葉しても、来年の春にも生えてくるということがわかっているのや。何で落ちるかという理由が分かっているから、もみじはきれいやなあと喜んでおられるのや。それと同じように人間の世界で起こってくることも全て「ことわり」があるのや。そういう理がある世界やと、神様は言うてはるのや。

熊さん なるほど、その「ことわり」つまり理を、口で言うのではなくこの『おふでさき』で教えてくださっているのですな。

ご隠居 そうやそのとおりや。

虎さん そのことわりがわかり、そのとおりできればよいが、できないことは『おふでさき』によって教えてやろうとおっしゃってるんですな。

ご隠居 そういうことやな。その後の『おさしづ』にも書かれているように、人間はきいただけではすぐ忘れるから、このように『おふでさき』に書いてお残し下されたんや。

熊さん わし教会の朝づとめの後、毎日おふでさきを読ませてもらってますで。

虎さん 読んだだけやったらあかんのや。しっかり心におさめさせてもらわねば。 

ご隠居 虎さんも言うなあ。せやけど、その通りや。でも毎日読ませていただくことも大事や出。そうしとったら不思議なもんでな。先日もある人から悩みの相談を受けたとき、ふと『おふでさき』のある一首が心に浮かび、それを伝えることで、悩みが解決しましたと喜んで諸たことがあるんや。

熊さん えらいもんですなあ。わしらまだ教会へ参拝したてやさかい。なかなかそうはいきませんわ。

虎さん 熊さんにふさわしい下の句やったら知っとるぞ。『おふでさき』にはないけどな。

熊さん なんやねん。

虎さん へへへ、それにつけても金の欲しさよ。

ご隠居 しょうもない落ちをつけるんやないで。

いずれにせよ『おふでさき』は神様じきじきのお言葉やさかい、それこそ毎日覚えるぐらい読ませていただくことが大切やで。



みなのながや信仰談義 九 

そして、何人にも親しみ易く、覚え易いようにと、歌によせてものされたばかりでなく、屡々、譬喩を用いて理を説かれたのも、深い親神の思召を、うなずき易く、理解し易いように、との親心からである。即ち、

このさきハみちにたとへてはなしする

どこの事ともさらにゆハんで 一 46

やまさかやいばらぐろふもがけみちも

つるぎになかもとふりぬけたら一 47

まだみはるひのなかもありふちなかも

それをこしたらほそいみちあり一 48

と、神一条の道を進む者の道すがらを、山坂や、茨の畔などにたとえて、この道は、一時はいかに難渋なものであろうとも、一すじに親神にもたれて通り切るならば、段々、道は開けて、細道となり、遂には、たのもしい往還道に出られると、希望と楽しみとを与えて、励まされた、そして、自ら真先にかかる中を勇んで通り、陽気ぐらしのひながたを示された。

 又、人の心を水にたとえ、親神の思召をくみとれないのは、濁水のように心が濁っているからで、心を治めて、我が身思案をなくすれば、心は、清水の如く澄んで、いかなる理もみな映ると教えられた。そして、

我が身勝手の心遣いを、埃にたとえては、親神をほおきとして、心得違いのほこりを絶えず掃除するようにと諭された。

更に又、陽気ぐらしの世界の建設を普請にたとえては、これに与る人達を、しんばしらとうりょうよふぼくなどと称んで、その持場々々の役割を示すなど、人々が容易に理解して、早く心の成人をするように、と心を尽された。(天理教教典七頁十一行―九頁十二行)

 

ご隠居 教祖は『一に百姓たすけたい』『学者・高山後回し』とおっしゃったように、まず一番苦しんでいる者をたすけようとなされた。だからその人々に分かるように、『おふでさき』『みかぐらうた』も、平仮名で誰にも分かりやすくお書き下されたし、よくたとえなどを用いて、わかりやすくお教え下された。

虎さん 埃(ほこり)というのはどういうことですねん。

熊さん 埃というのはおまえの家に一杯あるやつやないか。

ご隠居 また後で詳しく出てくるが、天理教には、例えばキリスト教で言うような原罪というような教えはないのや。人間はもともと陽気ぐらしをするために神様によって創っていただいたから、心もきれいなはずやが、心の自由用といって、心は人間がどうにでも使えるから、神様の思し召しに沿わない使い方も出来るのや。そんな心の使い方をほこりとして戒められたんや。せやけどほこりやさかい何ぼ汚い虎さんの家でも、年末の大掃除の後はきれいやろ。それとおんなじで掃除さえしたらきれいになるんや。

虎さん 熊さんの家は掃除してもきれいになりませんで、ほこりがしみついてるから。

熊さん なに言うんや。うちかて、こないだ三日かけて掃除したらきれいになったわ。

ご隠居 埃も積もったらとりにくうなるやろ。それと一緒で、そうならないために、心のほこりも毎日払う努力をしたらええんや。熊さんも、『あしきをはろうて…』と朝晩おつとめしてるやろ。あの手振りを考えてみ、二十一回も、あしきをはろてるやないか。

虎さん あ、こいつこないだ、あしきをはろうてのおつとめは長うてかなわん、と言ってましたで。

熊さん いや、そんなこと言うてへんがな。そうでっか、そうでんな、あのおつとめで、毎日心のほこりをはろてますねな。そんなん考えてませんでしたわ。それやったら、虎さんは、朝晩百回はさせてもらわなあかんな。

虎さん ほんだらおまえは、二百回は必要やで。それはそうと、次の「陽気ぐらしの世界建設を普請にたとえて」というところがありますやろ。それはどういう意味ですねん。

ご隠居 天理教の目的は、『陽気ぐらし』やというのは聞いたことがあるやろ。『陽気ぐらし』を説明するのは、天理教の全てを説明することやから、だんだん説明していくけど、一番簡単に言えば、明るく勇んだ心で、毎日を暮らすことや。

虎さん それやったら毎日、わし陽気に楽しんで生きてますで。

熊さん そのかわり嫁さん泣いてるがな。

ご隠居 虎さんのことやないけど、神様のお言葉にも、自分達だけが楽しんで、自分の周りの者や、後々のものを苦しますようでは、本当の陽気とはいえないという意味のお言葉もあるように、自分達だけで楽しむのはあかんのや。虎さんのこともそうやが、ちょっと難しく考えれば、今の日本や、他の先進国と呼ばれるような国はみんな豊かになってるやろ。それだけ見れば陽気ぐらしの世界かも知れんけど、その豊かさは他の貧しい国の犠牲の上に成り立ってるのや。また、日本にしたって、豊かになったのは物質的なことだけや、心は反って病んでいるやろ。だから陽気ぐらしは、そんな簡単に出来にくいのや。だから、ようきぐらしというのは、神様の設計図を使って、みんなで作り上げるようなもので、世界中がそんな陽気な世界になることを一つの建設に例えて、しんばしら、とうりやう、よふぼくなどと、わかりやすく教えて下さっているんや。

熊さん だから、天理教の一番えらい人をしんばしらと呼ぶんですね。

ご隠居 そうや、とうりようという言葉も、天理教の外向きの事をされる責任者を表統領、内向きの事をされる責任者を内統領とよんでいるのや。そして、おさづけの理を戴いた者をよふぼくというのや。

熊さん それで、この間、『おさづけの理』をいただいた時、会長さんからこれであなたも『よふぼく』ですねと言われたんですね。よふぼくて何の事か、よくわからなかったんですよ。

ご隠居 よふぼくとは、普請に使う用材のことや。おさづけの理をいただいて、初めて陽気ぐらし世界建設の用材となるのや。これは大事なことやと思う。おさづけの理は、わかってるように病気をたすけていただくためのものや。せやけど、このおさづけは自分には取り次げんのや。

このことは、『人をたすけてわが身助かる』という教えの根幹の意味を一番分かりやすく教えてくださっているのや。だからおさづけの理をいただくというのは、今まで自分の幸せばかり願っていた人間から、自分の幸せ以上に人の幸せが喜びとなるような人間に成らせていただきたいと願う人間に、おぢばで生まれ変わったということなんや。

 そういう人間が、陽気ぐらしの用材になれるということや。

虎さん そりゃ、わしは少し心外ですわ。

よふぼくになった熊さんにはできて、わしらのようなよふぼくでない者は、陽気ぐらしできへんということですか。

熊さん へへへ、そういうこっちゃな。

ご隠居 陽気ぐらしの世界とは、そんなもんと違うで。ハルマゲドン見たいなもんがあって、よふぼくとそうでないものが神様によって分けられるといったもんやないんや。一人一人の人間が、心を神様の心に沿うよう変えていくことによって出来ていくことなんや。『道に世界あり、世界に道あり』とも、お聞かせいただくように、信仰していても神様の心に添えない人もいれば、信仰してなくても、神様の心に沿って通っている人もいる。せやからおさづけの理を戴いたから陽気ぐらしをできるもんでもないし、戴いてないからといって、できへんというものでもないで。

せやけど、おさづけの理をいただくというのは、生きながらにして生まれ変わるということや。そしてそれは、戴いてないものには見えない不思議を見せてもらえるのやで。

虎さん、熊さんおさづけの理もらってから、なんか変わったか。

虎さん いやあ、何も変わったようには思いませんが…・。

ご隠居 そりゃ、熊さんもあかんで、さっき言ったみたいに、おさづけを戴くというのは、生まれ変わることなんや。熊さん、誰かにおさづけの理を取り次がせていただいたことがあるかい。

熊さん いやな話になってきたな。いやあ、会長さんにもしっかり取り次がせていただくようにと言われたんですが、まだ誰にも取り次いだことはありません。

虎さん おまえに取り次いでもろたら、助かるもんも死んでしまうわ。

ご隠居 虎さん茶化すもんではないで、このおさづけの理は、戴いても取り次がんだら、宝の持ち腐れや。取り次がせて戴いて初めて神様の不思議なご守護というものも体験でき、また自分の心の醜さも見えてくるんや。わしが、おさづけを始めて人に取り次がせていただいた時の話をしてやろか。

虎さん (小声で)こりゃ長うなるで、

熊さん、取り次がせていただきますというとき。

熊さん わしも早く取り次がせて戴きますから、その話はまたいずれゆっくり聞かせていただきますわ。

ご隠居 そうかい。ええ話やのにな…・。

まあ、熊さんはしっかりおさづけの理を取り次がせていただき、虎さんは、早うに別席を運ばせてもらいや。

 

みなのながや信仰談義 十 

 一、おやさま      その十

このように、子供可愛い一条の親心から、譬喩を用いて分り易く教えると共に、いかにもして、親神の理を得心させたいとの思召から、初め、親神をといい、次に月日と称え、更にをや(おお)せられるなど、成人に応じ、言葉をかえて仕込まれた。

即ち、というては、この世を創めた神、元こしらえた神、真実の神などと、言葉をそえて親神の理を明かし、或は、

たすけでもをがみきとふでいくでなし

うかがいたてゝいくでなけれど 三45

(親神の助けというのは、従来の教えに

あるような拝み信心であるとか、祈祷

をすれば治るんだとか、伺いを立てて

教えられたとおりにすると治るんだと

いうような、幼稚な信心でたすけよう

というのではない)

と仰せられ、神というも、これまでのありきたりの拝み祈祷の神でなく、この世人間を造り、古も今も変ることなく、人間の身上や生活を守護している真実の神であると教えられた。

 次いで、親神を月日と称え、目のあたり天に仰ぐあの月日こそ、親神の天にての姿であると眼に示して教え、世界を隈なく照し、温みと潤いとを以て、夜となく昼となく、万物を育てる守護を説き聴かせて、一層の親しみと恵と

を感じさせるよう導かれた。それと共に、

いまゝでも月日のやしろしいかりと

もろてあれどもいづみいたなり 六59(今までからも、『月日の社』たる教祖はちゃんと神様がおもらいうけになり、いろいろと神様のお話を教えてくださっているけれど、人間の成人が至らず、その思いを実現するのが、停滞がちであった。)

このあかいきものをなんとをもている

なかに月日がこもりいるそや  六63(教組のお召しになっているこの赤い着物をどのように思っているか。教祖のお体の中に月日親神様がこもっているのである)

とて、赤衣を召されたのも、教祖が月日のやしろにおわす真実を、眼に

示して納得させようとの思召からである。ここに、月日親神に対する信

仰と、月日のやしろたる教祖への敬慕の心とが、次第に一つとなり、教祖の言葉こそ親神の声である、との信念を堅めるようになされた。

 更に又、

いまゝでハ月日とゆうてといたれど

もふけふからハなまいかゑるで十四29(今までは、親神のことを月日と言ってきたが、もう今日からは呼び方を変えようと思う)

とて、それから後は、をやという言葉で、親神を表し、

にち?にをやのしたんとゆうものわ

たすけるもよふばかりをもてる十四35(人間全部の親たる親神が、日々に考えていることは、ただただ、かわいい子供である人間達をたすけてやりたいということばかりを考えているのである)

と仰せられた。人間の我が子を慈しみ育てる親心によせて、親神は、ただに、神と尊び月日と仰ぐばかりでなく、喜びも悲しみもそのままに打ち明け、すがることの出来る親身の親であると教えられた。そして、一層切実に、親神への親しみの情を与えると共に、月日のやしろたる教祖こそ、まことに一れつ人間の親である、との信頼と喜悦の心を、たかめるように導かれた。

(天理教教典九頁十行―十二頁九行)

 

熊さん ご隠居、天理教の神様の名前は、親神天理王命(おやがみてんりおうのみこと)と、申し上げるのではなかったんですか。

ご隠居 そうや、神様のお名前は、天理王命様や。せやさかい、おつとめでも、「あしきをはろうてたすけたまえてんりおうのみこと」と、となえるやろ。ここで、神、月日、をやと呼び名が変わるのは、『おふでさき』の中のことをいってはるんや。

虎さん 『おふでさき』というのは、あの読みにくいやつですか。

ご隠居 やつというやつがあるかい。

教祖は、親神様というのは初めての神様やから、最初から難しいこと言ってもわからへんやろ。せやさかい最初は周りにも鎮守さんや、神社等でもなじみの深い神という言葉を使いはったんや。せやけどこの親神様は、そんじゃそこらの神さんと違い、この世界と人間を創り、今もご守護してくださってる神様やから、「元こしらえた神、真実の神」というお言葉で、親神様と、今までの神様との違いを強調してくれはったんや。

次に、月日という言葉で、実際に月日がなかったら、万物が生きていけないように、神様のご守護と実在を分かりやすく理解させようとしてくださったんや。

虎さん 『月日のやしろ』というのは、どういうことでしたかな。

ご隠居 立教の時に話したけど、教祖中山みき様が、姿形は人間の姿をしているが、ちょうど社の中に神様がおいでになるように、心は神様の心なんや。せやけどなかなか人々には頭では分かっていても、理解できにくいから、実際に赤い着物をお召しになって、普通の人間と違うことを目でもわかるようになされたのや。

虎さん をやというのは、親のことですか。

ご隠居 そのとおりや。神様は人間が陽気ぐらしをするのをみて共に楽しみたいと思し召されて人間をお創り下さった。だから神様から見たらみんな人間はかわいい子供や。そのことを分かりやすく『をや』と教えてくれてるのや。その親の思いは子供をたすけることだけやと、十四号の三五のお歌はおしゃっているのや。せやけど、そのたすかる方法というのが、今までとちょっと違うのや。

たすけでもをがみきとふでいくでなし

うかがいたてゝいくでなけれど 三45

という、『おふでさき』は、大事な『おふでさき』や。熊さん意味がわかるか。

熊さん こないだ教会の若先生に教えてもろたばかりですねん。助けるのでも拝んでもろてたすけてもろたり、祈祷したり、また占いのようにして助けてもらうんじゃないということですな。

ご隠居 まあそういうことやな。今までの神さんというのは、拝んでもらったり、また拝みに行ったり、祈祷や、伺いを立てて、どうするというようなことばかりやったが、そんなことでは本当の助かりにはならんと教えてくれてるんや。

虎さん わしら、よう神社へご祈祷の札もらいに行きますけど、それやったらあかんということでっか。

ご隠居 絶対にあかんということではないかもしれんが、分かりやすく言ったら根本治療にはならんということやと思うんや。病気で言うならば、熱が出たら熱を下げる薬が、今までの助けや、一時は熱が下がるかも知らんが、原因を治療せん限り又熱が出ることになる。天理教のたすけは、その熱の出る原因を治療するということなんや。

熊さん その熱の出る原因はそれぞれその人の心にあるということですか。

ご隠居 そうや。ようわかってるがな。

みなのながや信仰談義十一 

 一、おやさま      その十一

このように、明かに、鮮かに、親神を信じることが出来るよう導かれたのであるが、なお、胸のわからぬ人々の心ない反対や、世間からのとめ立てが絶えず、それ故に、ふりかかる教祖の御苦労を思うては、時としてはためらい、時としてはまどう者もあつた。教祖は、これをもどかしく思い、ざんねんりつぷくなどの言葉で厳しく急き込む反面、

こらほどにさねんつもりてあるけれど

心しだいにみなたすけるで    一五 16

いかほどにさねんつもりてあるとても

ふんばりきりてはたらきをする  一五 17

などと、温かい親心を宣べて、常に、子供達の心の成人の上に、心を配られた。

かくて、教祖は、口に、筆に、又、ひながたによつて、種々と手を尽し、心を配つて教え導き、陽気ぐらしへのたすけ一条の道をはじめられた。更に、深い思わくから、親神天理王命の神名を、末代かわらぬ親里ぢばに名附け、又、一れつのたすけを急き込む上から、姿をかくして、存命のまま、恆に、元のやしきに留り、扉を開いて、日夜をわかたず守護され、一れつ子供の上に、尽きぬ親心をそそがれている。

まことに、人は、ただ教祖によつて、初めて親神を拝し、親神の思召を知る。教祖こそ、地上の月日におわし、我等の親にてあらせられる。

 

にんけんをはじめたしたるこのをやハ

そんめゑでいるこれがまことや  八 37

(天理教教典十二頁十行―十四頁十行)

 

虎さん ざんねん、りつふくというのは、親神様が怒っているということですか。

ご隠居 神様としたら人間をたすけたくてたすけたくて、仕方がないと思ってくださっているのや。だから残念と言っても、人間が悔しいと思っているような気持ちとはちょっと違う。もどかしくてたまらんと言うような気持ちやと思う。りつふくというのも、ただ腹が立つというのではなくちょうど子供が危険な道に行くというときは、おこってでも止めにゃならんように、危険な道に行かないようにとの強い思いがりつふくという厳しい言葉になっているのだと思う。

 おふでさきのなかには、ざんねん、りつふくという言葉が多数出てくるが、この『おふでさき』のように、結局は神が引き受ける、請合うという意味のお言葉によって結ばれているんじゃ。

熊さん しかってくれる人ほど、その人のことを大切に思っていると、人間の間でも言いますものね。

虎さん 最後の方が良く分からないのですが、まず神名を末代かわらぬ親里ぢばに名附けとありますが、熊さんどういう意味やねん。

熊さん 親里ぢばというのは、天理教本部のことやないか。神殿のかんろだいの立ってる地点がぢばや。その場所に神様がおられるということや。ね、ご隠居?。

ご隠居  そんなに間違っておらんと思う。わし達は親神様と呼ばせていただいたり、天理王命と呼ばせていただいたりしているが、その神様はもちろん私たちを創ってくださった神様やから、教祖がこの世にお生まれになるずっと以前からおられるわけやが、人間がその存在を知らなかっただけや。そして教祖が月日の社となられて、目に見える姿として現われてくださったわけや。だから教祖がすなわち天理王命様とおんなじや。しかし深い思惑から神名を親里ぢばにお付けくだされたのは、深い思惑があったからや。

虎さん だからそれはどんな思惑ですねん。

ご隠居 深い思惑やがな。

虎さん わからんのとちがいますか。

ご隠居 いろいろな悟り方があると思うが、一つは地面というものはもっていけんもんや。あの当時の警察の迫害を考えたらそんな意味もあるかもしれんし、教祖も心も行いも神様と言っても、身体は人間やから、いずれ見えなくなる、そんな意味もあるかもしれんし、もっとうがった見方をすれば、天理教にも別派があるが、誰も神様とは名乗れないはずやろ。ぢばをどこかに持っていくわけにはいかんからなあ。

熊さん ほんまそうでんな。

ご隠居 次の一れつのたすけを急き込む上から、姿を隠して存命のままというのは、第五章のひながたのところで詳しく出てくるので、教祖は明治二十年一月二十六日、姿を隠されたけれど、存命つまり生きたままお屋敷つまり本部においでになって今もおたすけしてくださっているということや。

 これを教祖存命の理というんや。

 教祖は、世界中の人間が、自分勝手な生き方をして、かえって自分を苦しめている姿を、哀れにお思い下さる親神様のお心を、『月日のやしろ』として始めて人間世界にお伝えくださったばかりでなく、本当の生き方を『ひながた』として、実際にお通り下さるばかりでなく、お言葉を通して、またおふでさきをお書き下さり、なんとしてでも親神様の思いを子供である人間達に伝えたいと心を砕かれたんや。そして姿が直接には見えなくなった今も、私たちをお導き下さっているのや。まことに、人はただ教祖によって、初めて親神を拝し、親神の思し召しを知る。教祖こそ、地上の月日におわし、我等の親にてあらせられるのや。

第一章おやさまはこれで終わりや。

虎さん 教祖殿では今でも生きてるのと同じようにご飯をだしているというのはほんとですか。

ご隠居 生きてるのと同じようにやない。生きておられるのや。だから、三度の食事はもちろんお風呂もお便所もすべてお使いくださるようにお世話してはるのや。お前、変な顔しているようやが、こないだ教会の会長さんが面白いこといってはったで。

熊さん 赤い着物の人からおさづけもらったという話ですな。

ご隠居 そうや。虎さんも、この教典の話が終わる頃にはぜひとも別席を運ばせていただき、おさづけの理をいただいてほしいんやが、ある人がおさづけをいただいたとき、教祖殿で、真柱様から戴くのやが、その時は、顔をあげてもらうのはなかなかむつかしいんや。緊張もするしな。その人がもらった時も顔はよう見やんだらしいんや。

熊さん 会長さんがどうやったと聞かはったら、赤い着物の人がいたという話しやったそうですな。

ご隠居 そうや、その人はまだ入信まもなくやから、教祖が赤い着物を着てはったというのも知らん人や。

熊さん 不思議な話でんな。

ご隠居 せや、わしも前に老人会の人を教祖殿に案内した時、あの赤い着物の人はどなたですかと聞かれたことがある。

奥の方にちょっと見えてすぐ消えはったそうや。

虎さん わしも一度見せてほしいな。

ご隠居 一生懸命お願いしたら、姿は見せてもらえんでも、必ず感じさせていただける。そうや今から本部へ参らせてもろおうか。

熊さん そらよろしな、おともさせていただきますわ。

虎さん わしもほんだらまいらせてもらいますわ。

帰りにちょっと一杯いただけたらもっとうれしいんですが。

ご隠居
 分かった、分かった。ほんだら行こか。