みなの長屋信仰談義  第六章 てびき

みなのながや信仰談義  四十四 

   この信仰談義は教典を中心にした教理を、みなの長屋に住む長く天理教を信仰している物知り顔のご隠居さん、信仰しはじめの熊さん、無信仰の虎さんの三人の会話を通してできるだけ分かりやすく?したものです。

第六章                 てびき ①

 人は皆、苦しみを厭い、楽しみを求め、悩みを避け、喜びを望む、親神が、陽気ぐらしをさせたいとの思召で、人間世界を造られたからである。

 しかるに、世には、病苦にさいなまれ、災厄におそわれ、家庭の不和をかこち、逆境にもだえるなど、その身の不幸をなげいている人が多い。それは、親神を知らずその深い親心を知らないからである。 

親神は、一れつ人間の親におわす。しかるに、人は、この真実を知らず、従つて、互にひとしく親神を親と仰ぐ兄弟姉妹であることもしらずに、銘々が勝手に生きているように思いあやまり、われさえよくばの我が身思案や、気ままな行をして、他の人々の心を傷つけ曇らし、世の親和を害ない紊しているばかりでなく、それがために、己れ自らの心をも傷つけ曇らせていることを気附かずにいる。

  月日にハたん〱みへるみちすぢに 

こわきあふなきみちがあるので  (月日にはだんだん見える道筋に こわき危なき道があるので)

  月日よりそのみちはやくしらそふと 

をもてしんバいしているとこそ  (月日よりその道早く知らそうと思て心配しているとこそ)  (天理教教典p57)

ご隠居 さあこれから後篇や。今までは教理で、これからは実践や。

虎さん 四年かかりましたで。こりゃご隠居さん生きてるうちに終るかなあ。

ご隠居 さっきも言ったように、教典は大きく前篇、後篇と分かれていて、そのことについて二代真柱様は「前篇は、教祖様のお口を通してお筆を通して、親神様の思し召しが邦辺(なへん)にあるのかということをお教えいただいた、そのお話即ち、親神様の教えのあらすじを書いてあるのが、前篇即ち教理篇であり、後篇は、我々がその教えを聴いていかによろこびの生活を続けるか、を書いている篇であって前篇の教理篇に対して後篇は云わば信仰篇である」とおっしゃている。

だから後篇はこの教典の文章を読んでも、そう難しいことはないと思う。早よ終るんと違うかな。

虎さん 熊さん、わしらさい質問しやんだらええねん。

熊さん そうやな。ご隠居さん、今回はようわかりました。

ご隠居 ほんまにわかったんかいな。一つだけ言うとくけど、この最後の「おふでさき」があるやろ。これわしは、最近に特に心に響くねん。

世界の情勢や、日本の事情を見ても、怖く危ない道に人類が入ってきているような気がしてならんのや。これから、そうならんために勉強するんや。


みなのながや信仰談義  四十五 

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第六章                 てびき ②

親神は、知らず識らずのうちに危い道にさまよいゆく子供たちを、いじらしと思召され、これに、真実の親を教え、陽気ぐらしの思召を伝えて、人間思案の心得違いを改めさせようと、身上や事情の上に、しるしを見せられる。

  なにゝてもやまいいたみハさらになし

神のせきこみてびきなるそや(二―7)

  せかいぢうとこがあしきやいたみしよ

  神のみちをせてびきしらすに(二―22)

即ち、いかなる病気も、不時災難も、事情のもつれも、皆、銘々の反省を促される篤き親心のあらわれであり、真の陽気ぐらしへ導かれる慈愛のてびきに外ならぬ。

しかるに、親神の深い心を知らぬ人々は、ただ眼前の苦しみや悩みに心を奪われて、ややもすれば、あさはかな人間思案から、人を怨み、天を呪い、世をはかなみ、或は理想を彼岸に求めたりする。               (教典P58~59)

ご隠居 意味はわかるやろ。病気も事情も神様の陽気ぐらしに導きたいという親心やということや。

虎さん 意味はわかりますけど、病気にもならんし、事情もおこらんだら誰でも陽気ぐらしが出来るのと違いますか。

ご隠居 そりゃ、確かにそうかも知れん。せやけどよう考えてみてみ。そうやな赤ちゃんのこと思たらええわ。赤ちゃんは、親の世話によって思うようにしてもろてるわな。せやけどいつまでたっても、そのままやったら親はうれしないやろ。それに赤ちゃんだって、知恵がついてきて思うようにならんこともいっぱい経験して、だんだん成長してくるのや。成長するというのは、お腹がいっぱいになったからうれしいとか、おしめ換えてもろたからうれしいといった、即物的な喜び以外のもっと大きな喜びを知っていくということやな。

せやけど、親は赤ちゃんが成長していくのはうれしいけど、あぶないことをしたらおこるやろ。それと同じように神さんは子供である人間が危ない道に行かんように、事情や身上を通して教えてくれているのや。

熊さん このおふでさきはどういう意味ですねん。

ご隠居 どんなことでも痛みや病気というものはないんや。神さんの陽気ぐらしを教えたいという急き込みと、手引きやということや(二―7)。次のは世界中の人間は、どこが悪いとか痛いとか言ってるが、それが神様のみちをせ、手引きというのを知らんとおっしゃてるのや(二―22)

熊さん 急き込みとか、手引きとか、病気にも種類があるということでっか。

ご隠居 そうやな。せきこみ、てびき、よふむき、みちをせ、いけん、ざねん、りいふくなどとおふでさきには出てくるわな。ここに出てくる急き込み、手引き、みちをせというのは、このままではあかんと急き込んでくれたり、そっちへいったら危ないと手を引いてこちらへ引き戻してくれたり、みちをせというのは、道を教えてくれているのや。病気は人生の道が分かれている時に、そっちへ行ったら危ないこちらへ来いというような道標を見せてもらってるんやということや。意見は、ちょっと厳しくこのままやったらあかんぞと意見してくれているんや。ざねんりいふくは、人間が残念に思ったり腹をたてたりするのとちょっと違って、なかなか人間の心が人をたすける心に変わらんのが残念でならん、立腹はその残念がさらに厳しくなって何ぼ言うてもわからん、このままでは陽気ぐらしの本当に妨げになるというような時に使われているようやな。このざねん・りいふくはわしは信仰の初心者に対してではなく、長年信仰しているものや、権力者に対してよく言われているように思う。

虎さん ご隠居さんみたいな人にですな。

熊さん ご隠居、権力ないで。さっきも婆さんにえらい怒られとったで・・。

ご隠居 余計なお世話や。せやけどここで大事な事はもう一つよふむき(用向き)というのもあるんや。神様が御用があって呼んでくれているということや。昔おさづけを戴いた先生はみな身上に印を見せられて、つまりは病気になってなんでやろと思って本席様にお伺いしたら、おさづけをやろうというようなお話やったというのが多いんや。

せやから、病気になったらお手入れやいうて、なんか心が悪いからお手入れいただいたと思う人が多いみたいやけど、そうじゃなくて、神様のどんな思いがあるのかをしっかり考えることが大事やということや。

熊さん わしら病気になったら神様怒ってんのやとばっかり思ってましたわ。せやさかいあんまりしんどても教会には言わんとこと思ってましてん。

ご隠居 それが一番いかんがな。独りよがりで神さんの思いを考えるより、教会の先生にいろいろお話を聞かしていただくのが一番や。

熊さん せやけど・・・。

ご隠居 わしは思てるんやけど、神様の目的は病気を治すことやないんや。人間が陽気ぐらしをするために生まれてきたということを教え、実行するように成人させたいんや。それを勘違いせんように。病気が治っても心が治ってなかったら意味の無い事や。病気が治ることがご守護と違うとは言うてへんで。一生懸命お願いしたら、病気は必ず治してくれるやろ。せやけど、それだけがご守護ではなくて、病気や事情を通して心が変わってくることがもっと大きなご守護やということや。このことについてはまた後でも出てくるやろから、その時もっと詳しく説明するわ。

虎さん、病気は病院でなおるで、せやけど心は病院では治療してくれへんということを忘れんことやで。 

みなのながや信仰談義  四十六 

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第六章                 てびき ③

にんけんもこ共かわいであろをがな

  それをふもをてしやんしてくれ   十四―三十四

  にち〱にをやのしやんとゆうものわ

  たすけるもよふばかりをもてる   十四―三十五

  一れつのこどもハかわいばかりなり

  とこにへだてわさらになけれど   十五―六十九

  しかときけ心ちがゑばせひがない 

  そこでだん〱ていりするのや    十五―七十

親神は、これらの人々に、隔てない切々の親心を明かし、人間の我が子を慈しむ親心に照して、よく思案をするがよいと、いとも懇(ねんごろ)に教えられている。

およそ、人の親にして、我が子を愛しないものはない。この行末を思えばこそ、時には、やむなく厳しい意見もする。この切ない親心がわかれば、厳しいうちにも慈しみ深い親神の心尽しの程がくみとられて、有難さが身にしみる。

                     (教典P59~60)

ご隠居 おふでさきの意味を先に説明しておこうか。

人間も子供可愛いであろうがな それを思うて思案してくれ

日々に親の思案というものは 助けるもようばかり思てる

一列の子供可愛いばかりなり どこに隔ては更になけれど

しかと聞け 心違えば是非がない そこでだんだん手入れするのや。意味はわかるやろ。教典の「おふでさき」の次に書いてくれてあるとおりや。

虎さん 最後の心違えば是非がないというのは、どういう意味ですか。

熊さん 次に書いてあると言ってるがな。子の行末を思えばこそ、時には、やむなく厳しい意見をするということや。

そうでんなご隠居。

ご隠居 その通りや。ちょうど子供が誤った道に行かないようにしつけするのと同じように、病気や事情を通して心を入れ替えるように教えてくださっているということや。

虎さん 神さんのおっしゃる心違いというのはどんな心ですか。

 「おふでさき」や「みかぐらうた」には細かくお教えいただいているが、「いずむばかりの心」というような心、これは陽気な心と正反対やな。

虎さん いずむというのは、どういうことでっか。

ご隠居 何を聞いても、何を見ても喜べん心や。

ほかには「めいめいに今さえよくばよきことと思う心」やなあ。めいめいというのは自分ひとりいうことや。自分ひとりのことを、しかも今のことしか考えられんというのは、神様はみな違うとおっしゃているわな。

心違うというのは、神様の心と違う、合わんということやろ。神様の心というのは、一列子供が可愛いという心や。そして神様は先のことを心配していろいろ心を使ってくれているのに、自分ひとりのことを、しかも今のことしか考えてないのは、神様の心とはまったく合わんやろ。

虎さん 熊さんのように、毎日酒ばっかり食ろとったらあかんということでんな。

ご隠居 まあ飲んだらあかんとは言わんが、腹が立ったらけんかして、酒飲みとなったら何ぼでも飲むというのではあかんわな。

虎さん なんかわしに言われているみたいな気がしてきたけど。

ご隠居 それに「疑う心」や。

ご隠居 これは大事やで。神様は人間の心どおりの守護を下さるというてるやろ。その人間の心が、ほんまに神様はご守護くださるんやろかと疑っていては、神様がその心に乗ってお働き下さることがでけんわな。せやからしっかり神様を信じていくことがご守護いただく基本や。それに欲の心もあかんわな。

熊さん まだありまんのか。

ご隠居 そりゃそうや、八つのほこりに言われているような、おしい・ほしい・にくい・かわいい・うらみ・はらだち・よく・こうまんのような心や、むごい心なんかも神様の心に沿わん心やな。いっぱいあるようやけど、簡単にいうたら、自分のことばっかり考えているような心はあかんと言うことや。そういう心を取らしてもらうことが大事やということや。

せやけどなかなかとれんやろ。せやけど病気になったら助けてほしいさかい何とかそんな心があかんと言われたら、その心をちょっとでも変えやなと思うやろ。

それが神様の親心やと聞かせてもらうんや。

それで心の入れ替えをするんや。そしてそれが生涯変わらないように心を定めるんや。

熊さん どんな心に入れ替えまんの。

ご隠居 さっき言った心と反対の心や。何を聞いても何を見ても喜べん心から、何を聞いても見ても喜ぶ「陽気づくめの心」に変えるいうことや。

たとえば病気になって入院せんならん。ああ結構や。わしは外歩いていたら交通事故に会う旬や。神さんそれを心配してベッドにくくりつけてくれたんやなと思う心や。

虎さん ほんまでっか。

ご隠居 ほんまや、偉い先生の本にそう書いてある。入院したことがありがたく思えたら、心が神様に添うたんやから神様はすぐにでも退院してもええご守護くださるんや。

だれも可愛い子供を無理に苦しめる親はおらんやろ。

その親の思いがちょっとでもわかってきたら、なんでこんな病気にと思う心が、病気になってありがたいという心に変わってくるんや。そうさえなったら、すぐにご守護いただくのは当たり前やないか。


みなのながや信仰談義  四十七 

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第六章                 てびき ④

ここに、かたくなな心は開かれ、親神の暖かい光を浴びて、心はよみがえる。そして、ひたすら、篤い親心に添いきる心が定る。かくて、真実に心が定れば、親神は、すぐとその心を受け取り、どんな自由自在の理も見せられる。親神は、それを待ちわびておられる。

  しんじつに心さだめてねがうなら

  ちうよぢざいにいまのまあにも     七―四三

  いまゝでハとんな心でいたるとも

  いちやのまにも心いれかゑ      一七―一四

  しんぢつに心すみやかいれかゑば

   それも月日がみなうけとる      一七―一五

しかし、人間心のはかなさは、折角、手引きを頂いて、心を定めても、時がたてば、一旦定めた心もいつのまにか動いて、形ばかりの信心におち、知らず識らずのうちに、又もや、親心に反する心を遣うたり、行をしたりして、しかも、気附かずにいる場合が多い。

  神の自由して見せても、その時だけは覚えて居る。なれど、一日経つ、十日経つ、三十日経てば、ころっと忘れて了う。(明治三一・五・九)と示されている所以である。故に、

日が経てば、その場の心が弛んで来るから、何度の理に知さにゃならん。(明治二十三・七・七)

と仰せられ、ともすれば弛みがちな心をはげまして、なおも心の成人を促される上から、信心するうちにも、幾度となく、身上や事情の上に、しるしを見せ、心を入れ替える節を与えられる。この篤い親心を悟つて、益々心を引きしめて通つてこそ、生涯変らぬ陽気づくめの理を見せて頂ける。

かくて、教の理が胸に治り、心が次第に成人するにつれて、大難は小難に、小難は無難に導かれる親心が、しみじみと感じられて、今まで喜べなかつたことも、心から喜べるようになり、今まで楽しめなかつたことも、心から楽しめるようになる。

陽気づくめの境地への力強い足どりが、こうして進められてゆく。

  しやんして心さためてついてこい

  すゑハたのもしみちがあるぞや     五―二四

                    (教典P61~63)

ご隠居 人間が不安になるのは、道が分からんからや、理由が分からんからや。何故自分が今この境遇にあり、これから先がどうなるか分からんことほど不安なことはない。それを神様は生きるための道筋をお教えくださり、こうすればこうなると、現在の境遇に自分がある理由も、このまま行けばこうなるという先行きもお教えいただいたのや。親として可愛いからこそ厳しく教えることもあるという親の慈愛を感じることができれば、神も仏もあるものかとかたくなになっていた人の心もほどけてくるのや。

 そして真実を込めて願えば、どんなこともご守護くださるとお聞かせいただくのや。

 せやけど、人間というものは一度大きなご守護を頂くと、ありがたい結構やと思うけれど、日がたてば当たり前になってしまうのやな。

熊さん そうでんな。わしらもこないだ修養科へ入っていろんな病気や事情で入っている人の話を聞いて、わしらほんまに結構やなあと思いましたわ。

虎さん せやけど、なかなかわしら喜べいうても喜べませんで

ご隠居 そこやがな

熊さん どこでっか

ご隠居 しょうもないツッコミはいらんのや。最後に次のように書いてあるやろ。もう一回見るで。

かくて、教の理が胸に治り、心が次第に成人するにつれて、大難は小難に、小難は無難に導かれる親心が、しみじみと感じられて、今まで喜べなかつたことも、心から喜べるようになり、今まで楽しめなかつたことも、心から楽しめるようになる。

神様は、事情が治まったり、病気が治るのがご守護というてへんのや。今まで喜べなかったことが喜べるようになり、今まで楽しめなかったことが心から楽しめるようになるのが陽気づくめの境地やと言ってはるのや。

熊さん わしらやっぱり病気になったら、その病気なおりたいし、事情がおこったらその事情治めて欲しいですけど・・・。

ご隠居 そりゃその通りや。せやから神さんもその前のおふでさきで、人間が真実に心を定めて願えば、今すぐにでも自由自在にご守護をみせてやろうと教えてくれているやろ。せやけど、それはいうなれば神様の思いが分かる入り口やということや。それが目的ではないということや。神様の目的は人がそれぞれ助け合って生きる陽気ぐらしの世界をお望みやから、その為には神様の思いがわからなならんやろ。その手始めとして神様の実在を信じさせるためのご守護をみせてくれてるんや。せやからそれはさっき言ったみたいにほんまの取っ掛かりや。おまはんらも、今生(今生きている時代)を考えたって、人にいえんことも色々してきてるやろ。

熊さん 虎さんなんかいえんことばっかしですで。

虎さん お前にだけは言われたないわ。

ご隠居 今生だけでもいっぱいあるんやから、人にはそれぞれ前世、前々生・・・と積んできたいんねんもあるのやから、考えたらすごい話や。それはそれできっちりしておかんとならんから、いろんなことがおこってくることは当たり前や。

そう考えることが「いんねんの自覚」ということや。いんねんが自覚できたら、今ある境遇も納得できるし、ありがたいと思えるようにもなるのや。それを「たんのう」というわけや。そうなったらちょっと信仰も一人前やな。


みなのながや信仰談義  四十八 

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第七章 かしもの・かりもの ①

たいないゑやどしこむのも月日なり

  むまれだすのも月日せわどり   6―131

人体のこの精巧な構造、微妙な機能は、両親の工夫で造られたものでもなければ、銘々の力で動かせるものでもない。すべては、親神の妙なる思わくにより、又、その守護による。

  にんけんハみな〱神のかしものや

  なんとをもふてつこているやら  3―41

  にんけんハみな〱神のかしものや

 神のぢうよふこれをしらんか   3―126

この世に生れさせて頂き、日々結構に生活しているのも、天地抱き合せの、親神の暖かい懐で、絶えず育まれているからである。即ち、銘々が、日々何の不自由もなく、身上をつかわせて頂けるのも、親神が、温み・水気をはじめ、総てに亙つて、篤い守護を下さればこそで、いかに己が力や智慧を頼んでいても、一旦、身上のさわりとなれば、発熱に苦しみ、悪寒に悩み、又、畳一枚が己が住む世界となつて、手足一つさえ自由かなわぬようにもなる。ここをよく思案すれば、身上は親神のかしものである、と言う理が、自と胸に治まる。

 めへ〱のみのうちよりのかしものを

 しらずにいてハなにもわからん   3―137

銘々の身上は、親神からのかりものであるから、親神の思召に隨うて、つかわせて頂くのが肝心である。この理をわきまえず、我が身思案を先に立てて、勝手にこれをつかおうとするから、守護を受ける理を曇らして、やがては、われと我が身に苦悩を招くようになる。これを、

 人間と言うは、身の内神のかしもの・かりもの、心一つ我が理。(明治二二・六・一)

と教えられている。

  人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たつた一つの心より、どんな理も日々出る。どんな理も受け取る中に、自由自在という理を聞き分け。

  自由自在は、何処にあると思うな。めん〱の心、常々に誠あるのが、自由自在という。

即ち、身の内の自由がかなうのも、難儀不自由をかこつのも、銘々の心遣い一つによつて定まる。それを、心一つが我の理と教えられる。              (教典P6466)

 

 

ご隠居 「かしもの・かりもの」というこの教理が、天理教の最も大事な教理の一つや。

 めへ〱のみのうちよりのかしものを

 しらずにいてハなにもわからん

自分の身体が神様から貸してもらっているということを知らなかったら何もわかってないというてはるのや。

 裸一貫がんばろうとよく言うけど、その裸一貫こそ神様のかりものやということや。それがわからんから、それを知らんから人間は、なんでも自分でできるように思いがちなんや。

虎さん そない言われても、やっぱり身体は自分のもんと違いまっか。

ご隠居 教典に、ここをよく思案すれば、身上は親神のかしものである、と言う理が、自と胸に治まる。」と、書かれてるやろ。  

だれも病気になりたくてなるもんはない。せやけど、勝手に病気になるやろ。だから身体は自分の思い通りにはならんということは、わかるやろ。自分の思い通りにならんもんは、自分のもんと違うということや。

虎さん なるほど、自分の思い通りにならんものは、自分のもんとは違いますわな。そしたら病気にならんように身体を貸してもらうのは、どうしたらよろしんでっか。

熊さん 物にはみんな使用目的があるわけやから、身体も作った神さんの使用目的に添って使たらええということですな。ご隠居 そうや、なかなかうまいこと言うな。神さんは「人間が陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたい」と人間を作られたから、自分のことばかりしないで、人を喜ばせてもらうように使わせていただいたらええのや。それを

「一つの心より、どんな理も日々出る。どんな理も受け取る中

自由自在という理を聞き分け。

自由自在は、何処にあると思うな。めん〱の心、常々に誠あるのが、自由自在という。」とお聞かせいただくのや

虎さん ご隠居すんません。さっぱりわかりませんが・・・。熊さん 人間は毎日いろんなことを考えているやろ。どんなことを思っても神様は皆受け取るとおっしゃてるのや。ええこともわるいこともどんな理も受け取ってくださるけれど、その中で自由自在にご守護をしてくれる理があるのをよく聞き分け。それはどこにあるのではない。人間それぞれの心の中にあるのであり、人をたすけるという誠の心があれば自由自在にご守護をしてやろうということや。

ご隠居 熊さんどうしたんや。えらいよう勉強したやないか。

熊さん 「男子三日会わざれば刮目して見よ」

虎さん あーあ。熊さん後ろへ反りすぎて、こけてしまいましたで。

ご隠居 熊さんが気絶したので、また来月。

みなのながや信仰談義  四十九 

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第七章 かしもの・かりもの ②

しかるに、人は、容易にこの理が治らないままに、あさはかな人間心から、何事も自分の勝手になるものと思い、とかく、己一人の苦楽や利害にとらわれて、一れつの和楽を望まれる親心に、もとる心を遣いがちである。親神は、かかる心遣いを、埃(ほこり)にたとえて、戒められている。

元来、埃は、吹けば飛ぶほど些細なものである。早めに掃除さえすれば、たやすく綺麗に払えるが、ともすれば積りやすくて、油断をすれば、いつしか、うずだかく積りかさなり、遂には、掃いても拭いても、取り除きにくくなるものである。

よろづよにせかいのところみハたせど

あしきのものハさらにないぞや 一―52

一れつにあしきとゆうてないけれど

一寸のほこりがついたゆへなり 一―53

心遣いも、銘々に、我(わが)の理として許されてはいるが、親神の心に添わぬ時は、埃のように積りかさなり、知らず識らずのうちに、心は曇って、本来の明るさを失い、遂には手もつけられぬようになる。かかる心遣いをほこりと教えられ、一人のほこりは、累を他に及ぼして、世の中の平和を紊(みだ)すことにもなるから、常によく反省して、絶えずほこりを払うようにと諭されている。

このほこりの心遣いを反省するよすがとしては、をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまんの八種を挙げ、又、「うそとついしよこれきらい」と戒められている。

親神は、これらの心遣いをあわれと思召され、身上や事情の上に、しるしを見せて、心のほこりを払う節となし、人々を陽気ぐらしへと導かれる。

せかいぢうむねのうちよりこのそふぢ

神がほふけやしかとみでいよ     三―52

めへ〱にハがみしやんハいらんもの

神がそれ〱みわけするぞや      五―4

めへ〱の心みのうちどのよふな

事でもしかとみなあらわすで    一二―171

これみたらどんなものでもしんぢつに

むねのそふちがひとりてけるで   一二―172

                  (天理教教典67~68)

 

 

ご隠居 ここでは、ほこりということについて教えられている。おふでさきの中には、罪という言葉も、罰という言葉も出てこない。人間の心の間違いは、ほこりという言葉で教えてくれてるねん。

虎さん ほこりってあの叩けば出るやつでっか。

熊さん 虎さんなんかいっぱい出るもんなあ。

ご隠居 そうや。神さんはどんなに目張りをした家でも、二・三日ほっておけば、必ずほこりは積もるんやとおっしゃってるんや。そんなほこりはぱっとはたけば、きれいになるやろ。

虎さん 熊さんとこはこびりついてますから、なかなかとれませんで。

ご隠居 そうや。ほこりはいつも掃除さえしていれば、じきにとれるもんや。せやけど何年もほっておいたら容易に取れんようになるやろ。熊さんとこも、ほってあるから少々掃除してもとれんやろ。今ちょうど話題になってる石綿の問題あるやろ。あれかってすってもすぐには症状は出てこんけど、三十年四十年と、長い時間が経って身体に大きな問題を引き起こすやろ。せやから心の間違いも早くにはらえとおっしゃてるのや。それをほっておいたら、それこそ世界が乱れる元にもなるとおっしゃてるのや。

 神さんは罪とも罰ともおっしゃってないやろ。心の間違い、ほこりは必ず積もるもんやけど、それをはらえとおっしゃてるんや。

熊さん わしも帰ったら掃除しますわ。

虎さん 心が先やで。ところでその八つのほこりというやtyがありますやろ。それはどんなんですねん。

ご隠居 これについては、わしの種本である上田嘉成先生の「天理教教典講習録」の中で詳しくお書きくださっているので、そのまま引用する。

「ほこりの話は、人にお諭しするのではなしに、自分の心を磨くために、この八つのほこりをいろいろと並べてみたり組み立ててみたり、時々やってるわけですがね。これはこうだという話ではないので、自分はこういう風にいろいろ組み立てて思案してみることがあるという話です。これは、私の悟りですが、私が思うには、これ、軽いほうからだんだんつまってる方へ、並んでいるような気がするのです。

をしい(惜しい)というのは、持っている物を人にやるのがいやなんでしょう。けれどもほしい(欲しい)というのは、人の持ってる物でももろうてこうかというのが、ほしいですね。ですからを強い、ほしいというのは、ちょっとこれ、あとの方がほこりが多いのと違うのかな。

その次に、にくい(憎い)かわい(可愛い)というのがあるけれど、これ相手が人でしょう。をしい、とかほしいというのは、まあ物であったり、金銭であったり食べものであったりしますが、にくい、かわいというたら人間相手ですね。ですからをしい、ほしいどころではないでしょう。それよりもまとまったほこりじゃないかなあと思うのです。

けどね、にくい、かわいの次に、うらみ(恨み)はらだち(腹立ち)というものがありますね。これはにくい、かわいのもっと激しさの加わった手ごわいものですね。これを心のふしんの話として建築にたとえたらよくわかります。

うらみというのは古い井戸みたいなものです。うっかりはまったら命が危ない。そのくせに、何にも役にたたんでしょう。何年人を恨んでいても、恨んでもろうている人はちょっとも喜ばんわけなんです。恨まれているなあというて、うれしいという人はないでしょう。で、恨んでいる人は病気になるぐらいが関の山です。こんな割の悪い心遣いはないのですね。

はらだちというのはね、馬がさお立ちした形だと思います。私は五年ぐらい馬に乗って暮らしてましたので、あるときに「名文」という立ち馬のうまい馬に当たったことがあるのです。その馬は手綱をきつく引っ張って、両足の拍車をパーンと強く蹴ったらぱっと立ち上がる。(中略)

これの記念写真を撮ろうと地面の上で立ち馬をやらせてもらい、出来た写真を見ると、なるほど私は写っているのです。ところが馬の首が写っていない。尻馬に乗った写真になってしもうた。

人間が腹を立てたら、ああいうものだと思うのです。これもし地震なんかたとえ地面が二.三センチ動いても、もう家が倒れたり火事が起こったりして大騒ぎでしょう。もし建物が馬みたいに立ち上がって床が四十五度や五十度になったら、もう大騒ぎでしょう。片一方見たら天井で、もう一方見たら床で、そして上も下もガラスを通して青空だというようなことになってしもうたら、もう命が危ないでしょう。腹を立てたらいかんということですね。腹を立ててる間は、ふしんにならないということなんです。絶対に腹を立てんという心が定まったらふしんの旬ですね、心のふしんの一番肝心な角目であると思います。

というところで、長くなりすぎたので、以降は次回ということにします。

               

みなのながや信仰談義  五十 

   この信仰談義は教典を中心にした教理を、みなの長屋に住む長く天理教を信仰している物知り顔のご隠居さん、信仰しはじめの熊さん、無信仰の虎さんの三人の会話を通してできるだけ分かりやすく?したものです。

第七章 かしもの・かりもの ③

ご隠居 先月は八つのほこりのうち、「をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、」について説明したので、今月は、「よく、こうまん」について説明しょう。

虎さん 説明しようって、本から引いただけですやん。

ご隠居 だから今月も考えることいらんかったから楽やった。では上田嘉成先生の「天理教教典講習録」から続きを。

「よく」()というのは、八つのほこりの全部の総元締めであると言われているのです。「よくにきりないどろみづや」(十下り目 4)と言う、そんな泥沼の上に家を建てたら、どんな立派な御殿でもズブズブと沈んでしまって命が危ないですな。ですから「をしい、ほしい、にくい、かわいい、うらみ、はらだち」のそのあとに「よく」がでてきます。

ところがもう一つそのあとに、「こうまん」(高慢)というのが出てくるのです。総元締めの「よく」より、まだあとから出てくるのですからね。こいつが一番ほこりが多いんじゃないかと思うのです。どういう風にたとえたらよくわかるかなと思って、自分の身長が5尺しかないのに、ほこりが6尺積もっているんです。ほこりの中へ入ってほこりが見えないから、俺はちょっともほこりが無いと言うてる姿が「こうまん」で、人間の中にはちょっともほこりが無いと言う人間なんかおるはずがないですね。ですから「こうまん」というのが一番ほこりが多い。で、おれはほこりがちっとも無いという気になったら危ないということですね。

もう一つたとえようがあるのです。先のとんがった三角の山ではないかというふうにもたとえられますね。先のとがった三角の山ですから、どのくらい天の与えが降ってきても皆横へはねのけてしまうのです。「こうまん」はとんがっていますから、小屋の一つも建たない。もし建てようと思ったら、頭のほうをちょん切って、低うして平らにせんと小屋が建たない。立派な神殿やら学校の校舎らを建てようと思うと、どんどん削ってこの山をないようにしてもうて大きなお盆みたいな敷地にしたら、立派な普請が建ち、天の与えが何ぼ降ってきても皆いただけるでしょう。ですからなかなか徳が授からんなあと思うときは、俺の心はとんがった三角の山で、天の与えを皆横にはねのけてるのと違うかなと思案させてもらうと心が開けてきますね。

ですから、この八つのほこりは、人に諭す話ではなく、自分の心からほこりを払うためにしょっちゅう、これを反省させてもらうのが肝心です。」

ということや。


みなのながや信仰談義  五十一 

   この信仰談義は教典を中心にした教理を、みなの長屋に住む長く天理教を信仰している物知り顔のご隠居さん、信仰しはじめの熊さん、無信仰の虎さんの三人の会話を通してできるだけ分かりやすく?したものです。

第七章 かしもの・かりもの ④

即ち、いかなる身上のさわりも事情のもつれも、親神がほおけとなつて、銘々の胸を掃除される篤い親心のあらわれと悟り、すべて、現れて来る理、成つてくる理をよく思案するならば、自と、心のほこりを払うようになる。かくして、ほこりさえ綺麗に掃除するならば、あとは珍しいたすけに浴して、身上は、病まず弱らず、常に元気に、守護頂ける。

  ほこりさいすきやかはろた事ならば

  あとハめづらしたすけするぞや 三 98

しかるに、人は、心の成人の未熟さから、多くは定命までに身上を返すようになる。身上を返すことを、出直と仰せられる。それは、古い着物を脱いで、新しい着物と着替えるようなもので、次には、又、我が理と教えられる心一つに、新しい身上を借りて、この世に帰つてくる。

 

ご隠居 先月は八つのほこり、「をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」について説明したが、病気も事情も、それぞれの心のほこりの結果であるということや。その心のほこりの取り方が、最初のおつとめの手振りということや。

熊さん 最初のおつとめというのは、「あしきをはらうてたすけたまえ天理王命」ということでっか。

ご隠居 そうや、「あしきのとき合掌するやろ。だから神様と

いうことや。次に自分の胸を払う手振りや。神様の教えをほ

うきとして自分の胸のほこりを掃除してもらっているのや。

虎さん ほんだら、二十一回心のほこりを払うということで

っか。えらいようけありまんなあ。

熊さん 二十一回じゃすまんで。「あしきをはらうてたすけ

せきこむいちれつすましてかんろだい」というのも九回する

から、それだけで三十回や、それにおつとめは少なくとも朝

夕二回はするから、合計六十回や。一日八時間寝るとして、

起きてる間十六分に一回はほこりを積んでるということやな。

ご隠居 えらい計算やな。ようわからんけど、まあそれだけほこりは積みやすいということや。だから人は身上を定命までに返すことになるのや。

虎さん 定命とはなんですの。

熊さん 神さんが人間の命として教えてくれた年齢ですな。確か百十五歳やったかな。

ご隠居 そうや、人間は百十五歳まで病まず弱らず生かせて下さり、そのあとも心次第におりたかったらおらしたろというてくれてるのや。せやけどみんな遠慮深いんでそれまでに出直してしまうのや。せやけど出直しというように、死はそれで終わりということではなく、また生まれ変わってくるということなんや。

虎さん 人は、心の成人の未熟さから、多くは定命までに身上を返すようになる。と、ありますやろ。そやったら、長生きすればするほど、心は成人してるということなんでっか。

ご隠居 難しいこと聞いてきたな。これはわしの考えなんやけどな、わしはもうだいぶええ年や。わしより若い人の死もずいぶん見てきた。そのわしが自信を持って言えるのは、わしより心の成人は上やと思う人もずいぶん若くして死んだ人もいる。せやから年齢が高い人ほど心が成人しているとは言えんと思う。

熊さん そりゃそうですわ。ご隠居見てたらようわかりますがな。わし今ふと思ったんですが、たとえば自動車でも新車ばっかり買う人もおれば、一つの車を大事に長い間乗る人もおまっしゃろ。そんな違いでっか。

虎さん それはちょっと違うんとちゃうか。

ご隠居 わしもそれはちょっと違うと思うけど、わしも今ふと思ったんやけど、この天理教の教えを道というやろ。わしらはその道を通っているんや。だからちょうど身体を自動車と考えたら、神様から身体という自動車を借りて陽気ぐらしの道を走ってるわけや。スピードの出る車もあれば、遅い車もある。なんぼよう走る車でも修理を怠ればはよ壊れるわな。又ぼろい車でこんだけよう走ったなあという場合もある。普通やったら一万キロしか走られへん車が、五万キロ走ったのと十万㌔は走れる車が六万㌔しか走れへんで壊れたのとどちらがよう頑張ったかといえば、五万㌔のほうやろ。

人も同じで、その人がどんな車、つまり身体を神様からお借りしているか神様しかわからんのやから、やっぱり長生きしたから心の成人がどうやというのを人間が言うのは、おこがましいことやと思うな。

虎さん ご隠居のおかみさんが元気で、夏目雅子が早よ死んだんが不思議でしゃなかったんやけど、おかみさんはダンプカーっていうことでしてんな。

熊さん それで排気ガスもくさいんやな。

ご隠居 そういうことやな。違う、違う。

わしまでつられてしもたがな。せやさかいそれは神様の領分で、人間が勝手に判断するなというとるやろ。

もうこの話はこの辺で置いとこう。

虎さん 話が車やさかい、どこまでいくかわかりません。

みなのながや信仰談義  五十二 

   この信仰談義は教典を中心にした教理を、みなの長屋に住む長く天理教を信仰している物知り顔のご隠居さん、信仰しはじめの熊さん、無信仰の虎さんの三人の会話を通してできるだけ分かりやすく?したものです。

第七章 かしもの・かりもの ⑤

  きゝたくバたつねくるならゆてきかそ

  よろづいさいのもとのいんねん

人間には、陽気ぐらしをさせたいという親神の思いが込められている。これが、人間の元のいんねんである。

しかるに、人間は、心一つは我の理と許されて生活すうちに、善き種子もまけば、悪しき種子もまいて来た。善き事をすれば善き理が添うて現れ、悪しきことをすれば悪しき理が添うて現れる。

 世界にもどんないんねんもある。善きいんねんもあれば、悪いいんねんもある。       (明治二八・七・二二)

およそ、いかなる種子も、まいてすぐ芽生えるものではない。いんねんも、一代の通り来りの理を見せられることもあれば、過去幾代の心の理を見せられることもある。己一代の通り来たりによるいんねんならば、静かに思い返せば、思案もつく。前生いんねんは、先ず自分の過去を眺め、更には先祖を振り返り、心にあたるところを尋ねて行くならば、自分のいんねんを悟ることも出来る。これがいんねんの自覚である。

親神が、種々といんねんを見せられるのは、それによつて人々の心を入れ替えさせ、或は勇ませて、陽気ぐらしをさせたい、との篤い親心からであつて、好ましからぬいんねんを見せられる場合でさえ、決して、苦しめよう困らせようとの思召からではない。いかなる中も、善きに導かれる親心にもたれ、心を治めて通るならば、すべては、陽気ぐらしの元のいんねんに復元されて、限りない親神の恵は身に遍く、心は益々明るく勇んで来る。

 

虎さん 「いんねん」ゆうのは、家のばあさんがよう話してるやつでんな。せやけどわし暗い話嫌いでんね。

ご隠居 なんも暗いことないで。最初にも書かれているように、人間にはまず「元のいんねん」というのがあるのや。陽気ぐらしをさせてやりたいとの親神様の思いが込められているのや。それを忘れたらあかん。せやけど心の自由を許されてるから「善いいんねん」も積めば「悪いいんねん」も積むのや。「悪いいんねん」の話は暗い話になるけど、積んだ人間の方の責任や。神さんは陽気ぐらしさせてやりたいと一途に思ってはるのや。

熊さん 虎さんとこのおばあさんが虎さんを産んだとき、ええ子に育つように願ってたけど、虎さんの心がけが悪いからこんな人間になってしまったということでっか。

ご隠居 まあ当たらずともちょっと遠いか。親神様は人間が陽気ぐらしを出来るようにつくってくださっているわけや。せやけど、心まで神様の思い通りにしたら、ロボットといっしょやろ。せやから神さんは人間に心はどないでも使えるようにしてくれたんや。ええ事ばかり考えたらええけど、おまはんら見ても分かるように、ええ事より悪いことのほうがよく考えるもんや。せやから人間は前に習うたように「八つのほこり」なんかを使いすぎて人を苦しめたり困らせたりもするわけや。それが「悪いいんねん」となるんやな。それに人間は生まれ変わるから、前生でしてきた「いんねん」も残ってるわけや。「善いいんねん」より、どちらかというと「悪いいんねん」の方が多いわな。それでいろいろと病気になったり、事情になってくることがあるということやな。

虎さん 病気になったり事情が起るのはその「いんねん」たらいうやつのせいでっか。この因縁夜郎、おまえなめとんのか。

熊さん そりゃいんねんつけるというやつや。

前に事情・身上のとこで習うたやろ。事情・身上も神様のいろいろな思いで起るんで、「みちをせ」とか「てびき」とかいろいろあったやろ。だから全てが「悪いいんねん」のせいと考えて卑屈にならんと、もし「いんねん」のせいでも神様がちょっとでも運命を変えてくれるために起こしてくれた節やと喜ばせてもろたらええんですな、ご隠居さん。

ご隠居 その通りや。おまはん今月の店賃もうちょっと待ったるで。

熊さん ありがとうございます。せやけどそれやったら二ヵ月前のを待って欲しいですわ。

ご隠居 あきれた奴やな。三ヶ月もためとるんか。

熊さん すんまへん。それは置いといて、今「前生のいんねん」もあるとおっしゃってましたけど、なんで神さんそんな前のをおいてますねん。前生の分おいてあること考えたら三ヶ月ぐらいかわいらしいもんや。

虎さん わしの五ヶ月もたいしたことないな。神さん見習わなならんな。

ご隠居 お前らええ加減にしいや。何が神さん見習わなならんや。お前らが店賃ためとんのと、神様を一緒にするな。お前らは勝手に店賃ためてるけど、神さんは「いんねん」を分けてくださっているんや。考えたらそうやろ。神様はしたことだけでなく、思ったこともそのまま受け取るとおっしゃるのやからな。せやから「前生のいんねん」もしてきたこと、思ってきたことをそのまま返したら、それこそひどいことになるやろ。だから親である神さんが差し引いてくれてるとおっしゃているのや。前も言うたやろ。今のわしらみんな、「前生のいんねん」が十あれば、それの一割二割通っているだけなんや。

虎さん ということはまあ言うたら、大家さんが家貸してくれているように、身体を貸してくれてる神さんが、家賃も分割にしてくれて、ちょっと悪いことしても尻拭いもしてくれて、前の家賃は一割か二割に負けてくれてるいうことでっか。

神さんみたいな人でんな。

熊さん 神さんみたいな人って、神さんの話、してるんやないか。                  チャンチャン


みなのながや信仰談義  五十三 

   この信仰談義は教典を中心にした教理を、みなの長屋に住む長く天理教を信仰している物知り顔のご隠居さん、信仰しはじめの熊さん、無信仰の虎さんの三人の会話を通してできるだけ分かりやすく?したものです。

第七章 かしもの・かりもの ⑥

人の幸福は、その境遇に在るのではなく、人生の苦楽は、外見によつて定るのではない。すべては、銘々の心の持ち方によつて決まる。心の持ち方を正して、日々喜び勇んで生活すのが、信心の道である。

即ち、身上かしもの・かりものの理をよく思案し、心一つが我の理であることを自覚して、日々常々、胸のほこりの掃除を怠らず、いかなる場合にも、教祖ひながたを慕い、すべて親神にもたれて、人をたすける心で通るのが、道の子の心がけである。そこには、自他の心を曇らす何物もなく、ただ、親神の思召のままの生活させて頂き、連れ通り頂いている喜びがあるばかりである。

このよふハ一れつハみな月日なり

 にんけんハみな月日かしもの 六―120    

 

熊さん きれいな文章ですけど、難しいでんな。人の幸福は、その境遇に在るのではなく、人生の苦楽は、外見によつて定るのではない。その通りやと思いますけど、そのとおりかなあと思うところもありますしなあ。

ご隠居 わしわな、前にも言うたかもしれんけど、「どこかに楽しい場所があるのではなく、楽しんでいる自分がいるだけだ」ということに、人生は尽きるのやないかと思うのや。

そして、どこでも楽しめるというのが、陽気ぐらしということやと思う。楽しむ自分をつくっていくことが成人で、どこでも楽しめるという力が徳やということなんやとも思うねん。せやけど、それを邪魔するのが、ほこりの心や。どっかにもっとええところがあるはずや、わしは損しとると思うような心や。それがだんだん強くなっていんねんとなるのや。そうなったらそう思わんとこ、もっと喜ばなあかんと思ても、勝手に不足の方へ心が行くのや。そのいんねんが、今生でよう切らんだら持ち越しのいんねんとなるのやな。前生からのいんねんというやつで、それが出てくると何を見ても喜べへん、勝手に悪いほうへ悪いほうへ考えてしまうのや、そうなったら、神様は心どおりの守護やから、起ってくることも悪いことばっかりや。まさに悪循環やな。

虎さん ええことなしですやん。

ご隠居 心配せんでもええ。その悪循環からの脱出の方法がたんのうや。

熊さん たんのうとはどないしたらよろしね。

ご隠居 それが次回からの章「道すがら」に出てくるのや。

虎さん そりゃ次回への宣伝でっか。

ご隠居 そうや、つーびーこんてィにゅーやな。