みなの長屋信仰談義  第8章 みちすがら

みなのながや信仰談義  五十四 

   この信仰談義は教典を中心にした教理を、みなの長屋に住む長く天理教を信仰している物知り顔のご隠居さん、信仰しはじめの熊さん、無信仰の虎さんの三人の会話を通してできるだけ分かりやすく?したものです。

第八章 みちすがら ①

親神のてびきによつて信仰に入り、教の理を聴きわけて、かしものの理もよく胸に治り、心のほこりも次第にぬぐわれ、いんねんの悟りもついたなら、ものの観方が変ってくる。

見えるまま、聞こえるままの世界に変りはなくとも、心に映る世界が変り、今まで苦しみの世と思われたのが、ひとえに、楽しみの世と悟られて来る。己が心が明るければ、世上も明るいのであつて、まことに、「こゝろすみきれごくらくや」と教えられている所以である。

しかるに、人の心は常に変りやすい。朝の心は必ずしも夕の心ではない。とかく、身近に起る事柄に心を動かされて、朝に明るい心も、夕には暗くなりがちである。一度は、教えに感激して信仰に志しても、やがて喜び勇めなくなることもあれば、折角、たすけて頂いても、又も、身上のさわりや事情のもつれで、心が動揺する時もある。この中にあって、常に己が心を省みて、いかなることも親神の思わくと悟り、心を倒さずに、喜び勇んで明るく生活するのが、道の子の歩みである。この心の治め方をたんのうと教えられる。

親神の胸に抱かれ、ひたむきに信仰に進むものは、我が身にふりかかるいかなる悩みや苦しみにも、溺れてしまうことなく、むしろ素直に成って来る理を見つめて通るから、悩みや苦しみも、かえつて喜びに転じてくる。かくて、真にたんのうの心が治れば、前生のいんねんは納消される。これを、「たんのうは前生いんねんのさんげ」と諭される。

たんのうは、単なるあきらめでもなければ、又、辛抱でもない。日々、いかなる事が起ろうとも、その中に親心を悟つて、益々心をひきしめつつ喜び勇むことである。かくて、身上のさわりも事情のもつれも、己が心の糧となり、これが節となつて、信仰は一段と進む、これを、「節から芽が出る」 と諭される。

(天理教教典74~76)

 

ご隠居 先月、「どこかに楽しい場所があるのではなく、楽しんでいる自分がいるだけだ」ということを話しし、次のように言うたやろ。

 「そして、どこでも楽しめるというのが、陽気ぐらしということやと思う。楽しむ自分をつくっていくことが成人で、どこでも楽しめるという力が徳やということなんやとも思うねん。せやけど、それを邪魔するのが、ほこりの心や。どっかにもっとええところがあるはずや、わしは損しとると思うような心や。それがだんだん強くなっていんねんとなるのや。そうなったらそう思わんとこ、もっと喜ばなあかんと思ても、勝手に不足の方へ心が行くのや。そのいんねんが、今生でよう切らんだら持ち越しのいんねんとなるのやな。前生からのいんねんというやつで、それが出てくると何を見ても喜べへん、勝手に悪いほうへ悪いほうへ考えてしまうのや、そうなったら、神様は心どおりの守護やから、起ってくることも悪いことばっかりや。まさに悪循環やな。その悪循環からの脱出の方法がたんのうや。」というところまで話したやろ。

 たんのうというのは、簡単に言えば、悪いことが起ってきても、神様の御守護やと思える心や。

虎さん そりゃ分かりますけど、そんなん簡単にできませんで。

ご隠居 上田嘉成先生は次のように言っておられる。

「たんのうというのは、あきらめたり、どうにもしようがないわというて放っておくのが、たんのうではないのです。ああ親神様の御守護あればこそ、こんなことですんでいる、ああうれしいてたまらんという気持になるのが、たんのうです。一つのたとえを申し上げると、海岸の波打ち際に立っている。山のてっぺんから億万長者が使い果たしてだんだんと海岸まで落ちてきた。一文無しやと思うと心細いでしょう。ついでに海にでもはまってやろうかというようなものです。同じ一文無しやと思うのでも、山のてっぺんから着たのではなく、海の底から来た、何十億という借金を全部払って一文無しになった。よい気持やなあ、というて喜んでいたら、今度は、山のてっぺんに登っていかずにはおれないようになる。このよい気持やというのがたんのうなんです。一文無しには変わりはないけど、うれしいなあと思うか、やけくそになって海へはまったれと思うか、それは心一つの働きなのです。その心一つに乗って、それからさきの運命が変わってくるのです。」

熊さん そういや前に教会の会長さんが、「わたしの先祖は、信仰に入り今までの財産をすべてお供えして、上級教会に住み込ませていただいた。「親類や世間の人には色々言われたが、その中を先祖は世間でどんなに一生懸命勤めていても、倒産することもあるんや。無一文になることもある。世間の無一文は悲しいつらいと嘆き悲しむけれど、道を通っての無一文はうれしい、けっこうや。えらい違いや。」と喜んで通ってくれたから、今のわしらがあるのや」とおっしゃっていましたが、そういうことですんやなあ。

虎さん なるほどなあ、そういや教祖のひながたもわざわざ貧に落ちられていますわなあ。その中を喜んで通ってはりますもんなあ。わしらにたんのうの見本を見せてくれてはりますねなあ。

ご隠居 そうや、ひながたが出てくるなんて虎さんもなかなか信仰がわかってきたんやな。

虎さん ほんだらわしらももっと貧乏喜んだらよろしいねな。先月も今月も店賃払えそうもないわい。うれしいなっと。

ご隠居 それは自分の都合のええことだけを喜んでいるだけで、たんのうと違うぞ。


みなのながや信仰談義  五十五 

  

第八章 みちすがら ②

日々常々、何事につけ、親神の恵を切に身に感じる時、感謝の喜びは、自らその態度や行為にあらわれる。これを、ひのきしんと教えられる。

  なんでもこれからひとすぢに

   かみにもたれてゆきまする 三下り目 7

やむほどつらいことハない  

わしもこれからひのきしん 三下り目 8

身上の患いをたすけて頂いた時、親神の守護が切実に身にしみる。病んだ日のことを思いかえし、健かな今日の日を思えば、心は言い知れぬ喜びに踊る。身上壮健に働ける幸福を、しみじみと悟れば、ひたすら親神にもたれて、思召のままにひのきしんに勇み立つ。

よくをわすれてひのきしん 

これがだいゝちこえとなる 一一下り目 4

ひのきしんに勇む心には、欲はない。この求めるところなく、ただ黙黙と骨身惜しまず尽す行為こそ、やがて、銘々の生活に美わしい実を結ぶ肥となる。

みれバせかいがだん〱と 

もつこになうてひのきしん 一一下り目 3

なにかめづらしつちもちや 

これがきしんとなるならバ 一一下り目 7

少しでも普請の役に立ちたいと、もつこを担うて、日々、土持のきしんをする。心は益々明るく勇み立つて、それが何よりのひのきしんになる。これは誰にでも出来るが、実地の身の行う、初めて、その言い知れぬ味がわかる。

ひのきしんは、信仰に燃える喜びの現れで、その姿は、千種万態である。必ずしも、土持だけに限らない。欲を忘れて、信仰のままに、喜び勇んで事に当るならば、それは悉くひのきしんである。

ひのきしんは、一時の行為ではなく、日常の絶えざる喜びの行為である。しかも、その喜びは、自分一人に止るのではなく、他の人々をも感化し、心あるものは、次々と相携えて、その喜びを共にするようになる。

ふうふそろうてひのきしん 

これがだいゝちものだねや 

親神は、「ふうふそろうてひのきしん」と教えられる。夫を化し、妻を導いて、夫婦共々に心を揃え、日々ひのきしんに勇むところ、一入そのむつまじさが溢れ出て、一家に春の明るさと和ぎが漂う。これを、「だいゝちものだねや」と仰せられる。一家の陽気は隣人に及び、多くの人々は、われもわれもと相競うて、ひのきしんにはげみ、世界には、一手一つの陽気が漲つてくる。かくて、親神の望まれる陽気ぐらしの世が現れる。

いつ〱までもつちもちや

 まだあるならバわしもゆこ  一一下り目 5

 (天理教教典76~79)

虎さん ひのきしんというのは良く聞きますが、ボランテイアとどこが違うのですか。

ご隠居 一番最初に書いてあったように、親神様の恵を感じて行うのがひのきしんで、人間同士の助け合いがボランテイアじゃないかな。そういえば天理教にも災害救助ひのきしん隊というのがあって、災害が起った場所に行き、ボランテイアの人と一緒に行動することが多いが、そこでよく驚かれるのが、作業が終わった直後にひのきしん隊の人たちが「ありがとうございます」と言う言葉じゃそうだ。礼を言うのはこちらのほうですと、相手が言うてくださるそうじゃ。しかし、このありがとうございますは、もちろん相手に対しての言葉でもあるが、もっと言えば今日こうして元気にひのきしんをさせていただいたことへの神様へのお礼でもある。だからボランテイアの人と、していることは同じでも、その行為の中に神様への感謝があるかないかということが一番大きな違いではないかと思うな」。

熊さん ところでご隠居、ひのきしんといえば土持ちということばでお教え下されていますが、何か意味があるんでしょうか。

ご隠居 ひのきしんは「みかぐらうた」で出てくるのじゃが、

みれバせかいがだん〱と もつこになうてひのきしん

なにかめづらしつちもちや これがきしんとなるならバ

と、土持ちと、ひとことはなしはひのきしんと、「にをいがけ」もひのきしんとして出てくるのう。このことについては、上田嘉成先生は、「にをいがけというのは「心のふしん」の、土持と言うのは「形のふしん」にお役に立つ道具です」と語られ、また形のふしんの代表として土持ちが出てくるのは、形のふしんをするためにはまず建物の土台が必要であり、土持は土台をつくるために今まであった土をどんどん掘ってどこかへ持っていくためのものであることを話され、掘るというのは、いんねんを掘り出してしまうこと、そして土台はまた埋め戻さねばならないことをお話しされ、一生懸命土を掘り出し土台を作ってその土台を埋めなおしてしまうところにこの土持ちのよいところ、ひのきしんの良いところがあるのだとお話下されているのじゃ。

つまりな、ひのきしんというのは、ちょうど信仰の土台をつくるようなものなんじゃ。そして、土台を土で埋め戻しするように、させていただいたひのきしんも、人に見てもらうものではなく、神様にだけ見ていただくもので、静かに土の中に埋めておくことが大事じゃ。

虎さん 熊さんみたいに今日はひのきしんをさせていただいたと、大声で帰ってくるのはあかんということでんな。

熊さん わしゃ別に人に聞いてもらいたくて言うてるんと違うぞ。ひのきしんをさせていただいたら、嬉しくてうれしくてしかたがないんや。それで自然と声にでてしまうんや。それにこないだは嫁はんは教会の炊事のひのきしん、わしはまき割りと夫婦でさせてもろたやろ。嫁はんが、あんたもひのきしんしてくれるようになってこんなうれしいことはない。あんたに惚れ直したわと言われたから、余計になんともうれしかったんや。

虎さん それで夜も共同作業をしたんやな。七人目やそうやな。

わしもちょっとそこは、熊さん見習わなあかんな。

ご隠居 せやな、最後にこれがだいゝちものだねやれとあるやろ。ものだねとはものの生える種のことや。金で買えないものの生える種のことや。赤ちゃんはまさにそうやなあ。

みなのながや信仰談義  五十六 

   この信仰談義は教典を中心にした教理を、みなの長屋に住む長く天理教を信仰している物知り顔のご隠居さん、信仰しはじめの熊さん、無信仰の虎さんの三人の会話を通してできるだけ分かりやすく?したものです。

第八章 みちすがら ③

たんのうの心が治り、ひのきしんに身が勇んで、欲を忘れる時、ここに、親神の思召にかなう誠真実があらわれる。その日々の姿には、何の裏表もなく、清らかさと明るさが溢れてくる。そして、親神の思召をそのままに読みとり、さながらに身に行えるようになる。

かかる誠真実に徹するのが、心の成人を遂げた所以であつて、親神は、それを待ちわびておられる。

いまゝでハせかいぢううハ一れつに

めゑ〱しやんをしてわいれども  一二―89

なさけないとのよにしやんしたとても

 人をたすける心ないので     一二―90

これからハつきひたのみや一れつわ

心しいかりいれかゑてくれ    一二―91

この心どふゆう事であるならば

せかいたすける一ちよばかりを  一二―92

この篤い親心に、そのまま添いたいと念ずるにつけ、人の難儀を見ては、じつとしておられず、人の苦しみをながめては、看過すことが出来なくなる。自分に出来ることなら、何事でも喜んで行い、なんでも、たすかつて貰いたいとの言行となる。そして、多くの人々に導きの手を与えるにをいがけとなり、人だすけとなる。それは、己の利害に偏らず、一れつ兄弟姉妹の真実に目覚め、互立て合い扶けあいの念から、人の苦しみを我が苦しみとなし、我が身を忘れて、人に尽すひたぶるの行為となつてあらわれる。(天理教教典79~81)

ご隠居 このところは、何も難しいところは無いように思う。

おふでさきもそんなにむつかしくないやろ。漢字を当ては

めて意訳すると、

「今までは世界中は一列に銘々思案はしてはいれども

情けない 世界中の人々がどのように思案をしたとても 人をたすける心が無いのである

これからは月日(親神様)の頼みや一列は、心をしっかり入れ替えてくれ。

この心をどのように入れ替えるのかといえば、世界中の人間を助けるという心一条に入れ替えてもらいたいのである」

ということやな。

熊さん たしかに言葉はむつかしいことあらへんけどなあ。

ご隠居 なんやその奥歯に物のはさまったような言い方は。

虎さん ほんだらご隠居言いますけどな、ご隠居は熱心に信仰されてますわな。

虎さん そらそうや。ご隠居の熱心さは鳴り響いていますで。天理教といえばご隠居、ご隠居といえば天理教と長屋で評判や。

ご隠居 えらい狭いところで鳴り響いてんのやな。

虎さん そうでんがな。せやさかいうるそうてかなわん。

ご隠居 なんやて!まあええわ。話が前にすすまん。熊さんさっきの話の続きはどうなった。

熊さん 教典は、人の難儀を見ては、じつとしておられず、人の苦しみをながめては、看過すことが出来なくなる。自分に出来ることなら、何事でも喜んで行い、なんでも、たすかつて貰いたいとの言行となる。そして、多くの人々に導きの手を与えるにをいがけとなり、人だすけとなる。それは、己の利害に偏らず、一れつ兄弟姉妹の真実に目覚め、互立て合い扶けあいの念から、人の苦しみを我が苦しみとなし、我が身を忘れて、人に尽すひたぶるの行為となつてあらわれる。と書いてありますやろ。わしらも最近は人の難儀をちょっとでも何とかさせてもらいたいと思ってますけど、なかなかそれ以上できませんわ。

虎さん せやなあ、わしらから見れば、ほんまにむつかしいことですわ。まずわしの難儀を助けてほしいですしな。

ご隠居 そりゃそういえば、わしもあんまりかわらんと思う。せやけどわしは、そうなりたいと思っているのや。そうなりたいと思っている自分と、そうなれない自分がおるやろ。そうなれないのは、自分の何が邪魔をしているのかと考えれば、我が身思案や、自分がかわいいさかいや。前に八つのほこりというのを話ししたやろ。「をしい・ほしい・にくい・かわいい・うらみ・はらだち・よく・こうまん」の八つや。これをわしは自分の悟りやけど、とりにくい順番やとも思ってるのや。わしはこの「かわいい」というところでひっかかっているのやというのがよく分かるんや。

虎さん わしら最初の「をしい」でひっかかってますわ。

ご隠居 せやけどもう一つ大事なことがあるんや。いつもこの八つのほこりにひっかかっているわけでもないやろ。たとえば、先日も全教一斉ひのきしんデーというのがあったけど、あの時熊さんも虎さんも行ってくれたな。あの時はいつもぶつぶつ言う虎さんが黙って一生懸命草引きしとったやないか。

熊さん そういえば虎さん一生懸命してましたなあ。

虎さん そういえばそやったなあ。終わってからもなんとも言えず気持ちよかったしなあ。あの時はみんな年寄りも子供も一生懸命していたからわしもつられたんかなあ。

ご隠居 たんのうの心が治り、ひのきしんに身が勇んで、欲を忘れる時、ここに、親神の思召にかなう誠真実があらわれる。と最初にあるやろ。深い意味を考えずとも、たとえばひのきしんに一生懸命させていただいたら、自然に自分の心を変えてくださるのや。先ほどの教典の言葉でも一緒や。そんな心になったらでは、いつまでたってもならんと思う。ならんならならんなりに、たとえば一度でもまずひのきしんをさせていただくことによって、その心をかえていただくのだとわしは思うのや。まずはちょっとでもすることが大事なんやと思う。

みなのながや信仰談義  五十七 

   この信仰談義は教典を中心にした教理を、みなの長屋に住む長く天理教を信仰している物知り顔のご隠居さん、信仰しはじめの熊さん、無信仰の虎さんの三人の会話を通してできるだけ分かりやすく?したものです。

第八章 みちすがら ④

  このさきハせかいぢううハ一れつに

  よろづたがいにたすけするなら     (一二 93)

  月にもその心をばうけとりて

  どんなたすけもするとおもゑよ     (一二 94)

かくて、教祖のひながたにならい、たすけにはげむ。口と心と行とは常に一致して、うまずたゆまず、理をみつめて進む。その日々は、人の眼から見れば、一寸には弱いもののようにも思われる。しかし、これこそ、親神の心に通う誠真実であるから、真にそのまま受け取つて頂くことが出来るので、ながい眼で見れば、これほど堅く強いものはない。

誠程強いものはない、誠は天の理である。誠であれば、それ世界成程と言う。     (明治二一・六.・二)

誠真実は、親神の思召に添い、天の理にかなう心であるから、親神は、この誠真実をすぐと受け取つて、いかなるたすけもひき受けられる。

しんちつに心にまことあるならば

  どんなたすけもちがう事なし      (一三 71)

誠一つの理は天の理、天の理なれば直ぐと受け取る、直ぐと返えすが一つの理。  (明治二三・四.・一七)

自分の心に誠真実の理が治れば、心ない人の口説に煩わされることなく、常に変らぬ喜びと力に溢れて、明るく陽気に進むことが出来る。

そこに正しく、一名一人の心に誠一つの理があれば、内々十分むつまじいという一つの理が治まり、他をも自ら化し、一波は万波を呼んで、更に多くの人々の心の躍動を呼び起こす。

  だん〱になにかの事もみへてくる

  いかなるみちもみなたのしめよ      (四 22)

 (天理教教典82~83)

ご隠居 これで第八章「みちすがら」の章は終わりや。

虎さん なんかむつかしいでんなあ。誠真実というのはよく

聞くような、聞かんような言葉ですが、どうなんでしょうか。

ご隠居 誠と真実を合わせたこの言葉は天理教独自の言葉で、

おさしづによく使われている言葉や。

熊さん つまり信仰も自分がたすけて欲しいだけの信仰から、

だんだん成人して、まず自分の置かれている状況が、自分の

行ってきたことや、思ってきたことの結果であるという「い

んねんの自覚」ができ、今の現況をそのまま喜び受け入れる

「たんのう」と言う心ができてくる。「たんのう」の心ができ

てくると、今まで自分に起こってきた様々な悪いことが、例

えば一度に起こってきたらもっと大変なのにいくつかに分け

てくれていたり、軽くしてもらっていると言うようなことが

わかってくるのである。そうなれば、全てが「陽気ぐらし」をさせてやりたいとの「元のいんねん」に気付き、「節から芽が出る」という本当の意味も実感できるのである。

虎さん 熊さんが壊れてしまった。

ご隠居 虎さんうるさいぞ。熊さん、たいしたもんや。続けてや。

熊さん 身上や事情の節を助けてもらった人は、そのときの苦しみを振り返り今の元気をありがたく思い、少しでも神様にお喜びいただきたいと「ひのきしん」に励む。夫婦で、そして一家で「ひのきしん」をさせていただくとき、お互いを立てあうむつまじさがあふれ、一家に春の明るさと陽気が漂うようになる。これが一番必要なときに、必要なものが生えてくる「ものだね」となるとお聞かせいただく。そのようなたんのうの心が治まり、ひのきしんに身が勇むとき、自然に欲を忘れて親神様のお思いが自然に読み取れ、また教祖のひながたをたどらせていただこうと言う気持ちになる。

それが誠真実の心というのと違いますか。

虎さん 長かったなあ。誠真実の説明かい。

熊さん まだわからんだら、もう一回説明させていただきましょうか?

虎さん いやいやもう結構でございますです。

ご隠居 熊さん、たいしたもんやなあ。その誠真実というのは、「教祖のひながたにならい、たすけにはげむ」とあるように教祖のひながたを通らせていただくと言う気持ちが大事なのや。先人たちの信仰を思うとき、みな教祖のひながたを慕い通られたのや。その当時は確かに人に笑われそしられてきた道であったけれども、それが今の大きな道につながっているのや。まさに「人の眼から見れば、一寸には弱いもののようにも思われる。しかし、これこそ、親神の心に通う誠真実であるから、真にそのまま受け取つて頂くことが出来るので、ながい眼で見れば、これほど堅く強いものはない。」という教典の言葉通りや。

虎さん そうでんなあ、教会も信仰始めににをいがけに回られていた時は、周りの人にぼろくそ言われたり、先先代の奥さんなんか、川でお願いの水ごりを取られていたとき、橋の上からしょんべんかけられたということですもんなあ。

熊さん そうやな、今の会長さんの家の信仰はその先先代の奥さんからの信仰やそうやからな。あの奥さんの誠真実があればこそ、家が治まり、信仰が固まって今の会長さんの幸せがあるということやなあ。そしてその誠真実が、教会となり信者に映ってきたということやなあ。

虎さん 今の会長さんにもえらそうに言うてばかりおらんと、もっと感謝せいというたらなあきませんな。

ご隠居 ほんまやなあ

熊さん ほんまや、ほんまや。