みなの長屋信仰談義  第9章 よふぼく

みなのながや信仰談義  五十七 

   この信仰談義は教典を中心にした教理を、みなの長屋に住む長く天理教を信仰している物知り顔のご隠居さん、信仰しはじめの熊さん、無信仰の虎さんの三人の会話を通してできるだけ分かりやすく?したものです。

第九章 よふぼく ①

たすけて頂いた喜びは、自ら外に向つて、人だすけの行為となり、ここに、人は、親神の望まれる陽気ぐらしへの普請の用材となる。これをよふぼくと仰せられる。

親神は、一れつたすけの切なる思わくから、多くのよふぼくを引き寄せようと急き込まれる。

  一寸はなし神の心のせきこみハ

  よふぼくよせるもようばかりを   三―128

  よふぼくも一寸の事でハないほどに

  をふくよふきがほしい事から    三―130

  この人をどふゆう事でまつならば

  一れつわがこたすけたいから   一三―85

よふぼくには、男女の別もなく、貴賎の差もない。その用向には、時と所にしたがい相違があろうとも、心一つの理によつて、ひとしく、親神のよふぼくたるに変りはない。

  この木もめまつわまつわゆハんでな

  いかなる木いも月日をもわく    七―21

思えば、親神の類ない陽気普請に、よふぼくとして引き寄せられるのは、実に、道の子の幸である。しかし、心が直くなくては、折角引き寄せられても、役に立たぬから、親神は、時に応じことに当つて、種々様々とていれをされる。これをしつかり心に治めさえすれば、身上のさわりも事情のもつれも、ただ道の花として喜びの中に受け取れる。

にち〱によふぼくにてわていりする

  どこがあしきとさらにをもうな  三―131

(天理教教典8486)

ご隠居 今月から第九章「よふぼく」の章に入る。

虎さん 「よふぼく」って何ですか。

熊さん 別席を運んでおさづけの理を拝戴した人のことやね

ん。わしもよふぼくやで。

ご隠居 そうやな、天理教の制度の上では、今はおさづけを

もろた人はみんな「よふぼく」と言われているけど、元来神様が使われているのは、漢字の用木に由来する言葉で「おふでさき」では「よふき」あるいは「よふぎ」とも書かれている。親神様のよふきぐらし世界の建設を、建物の建築にたとえ、そのために使用される用材としての「用木」であり、天理教の布教伝道の場における人材を意味しているんや。おふでさきの一三の八五のお歌にも書かれているように、多くの「よふぼく」を神様がお待ちくださっているのは、世界中の我が子である人間を助けたいからなんやということを「よふぼく」は忘れたらあかんということや。

虎さん 熊さんがこないだ「おさづけの理」を拝戴したとき、わしもこれでご隠居さんへの義理がたったんで、ちょっといっぷくと言うてましたで。

ご隠居 これこれ熊さん、おさづけの理をいただいた日、会長さんも言うてはったやろ。これからが始まりなんやで。

虎さん これから、しっかりおさづけを使わせていただいて、病んでいる人々をたすけ、神様の世界だすけのお手伝いをさせてもらうんや。そういうことですな、ご隠居。分かったか熊さん。

熊さん わかったけど、お前に言われとうないわ。

ご隠居 熊さんにかかわらず、別席を運んでおさづけの理を拝戴したら、それで終わったように思う人が最近は多いのや。本席様がおいでになった頃はおさづけの理は、誰もがいただけるものではなく、また何日もお運びのない日もあったんや。また別席だって今のように車で天理まですっといけるものではなく、近くの駅まで一時間も二時間も歩いて一日仕事で天理へ行き、一泊して帰ってきたそうや。そんな時代の方が真剣さがあったやろな。

熊さん うちの婆さんの時は、天理まで歩いていったいうてましたさかいなあ。せやけど確かに熱心でしたわ。

ご隠居 おばあさんの話が出たけど、「よふぼく」というんは、男女の隔てがないということや。宗教のほとんどが男女の差があるんやけど、この教えは「おまつめまつはゆわんでな」とのお言葉通り、男女の差や、国籍、貴賎の差もないんや。おつとめ考えたらよく分かるやろ。おてふりも本部のかぐらづとめは、男女五人ずつの十人、教会のすわりづとめも男女三人ずつの六人でつとめるやろ。

 それとちょうど普請するときに材木はいがんでいたらのこぎりで切ったりかんなをかけたりするやろ。それと同じで「よふぼく」も時に応じ事に当たっていろいろと「ていれ」されるんや。せやけどそれは神様の御用に使いやすいようにしてくれているので、それをしっかり心に治めることが大事やということやな。

熊さん お手入れというやつでんな。おばあさんはよう言うてましたわ。

ご隠居 お手入れやねさかい、その人の心のどこを直してくださろうとされているのかを知らなあかん。病気になっても、教会へ言うと色々言われるさかい、黙って病院へ行く人もないとはいえんようやけど、自分で神様の思いがわかればそれでもいいけど、わからんときは教会でしっかり聞かせてもらわなならん。そうじゃなかったらせっかく病気になった甲斐がないというようなもんや。

熊さん そうでんなあ。婆さんはちょっとしんどいだけでもよう教会へ言っておさとしをしてもうてますわ。

ご隠居 せやろ、独りよがりの信仰にならんことが大事やとわしは思うねん。

 

 

 

みなのながや信仰談義  五十八 

   この信仰談義は教典を中心にした教理を、みなの長屋に住む長く天理教を信仰している物知り顔のご隠居さん、信仰しはじめの熊さん、無信仰の虎さんの三人の会話を通してできるだけ分かりやすく?したものです。

第九章 よふぼく ②

かくて、引き寄せられて親里に帰り、別席順序を運ぶ。だんだんの席を重ね、話の理によつてほこりを払い、行いを正すうちに、心は澄んで、たすかりたいとの願は、たすかつて貰いたいとの念となる。そこに、さづけの理が授けられて、心は生れかわる。さづけの理は、よふぼくたる銘々の心に授けられる天の与えである。このさずけの理が心に治つて、初めて、こうのうを見せて頂ける。

  精神の理によつて働かそう。精神一つの理によつて、一人万人に向かう。神は心に乗りて働く。心さえしっかりすれば、神が自由自在に心に乗りて働く程に。

(明治三一・一〇・二)

と示されている。即ち、さずけの理を授けられたものは、日々常々の心遣いが大切である。さづけの理を頂いたその日の心を、生涯の心として通つてこそ、親神は、いつも変らぬ鮮やかな守護を下さる。

たん〱とよふぼくにてハこのよふを

   はしめたをやがみな入りこむで   一五 60

このよふをはじめたをやか入りこめば

どんな事をばするやしれんで     一五 61

およそ、よふぼくの使命は、たすけ一条にある。それは、自らはげんで、天の理をよく心に治め、身をもつて教の実を示しつつ、一言の話を取り次ぐにをいがけに始まる。そして、更に進んでは、なんでもたすかつて貰いたいとの一念から、真心こめてさづけを取り次がせて頂くところに、珍しいたすけの実が現れる。

それは、見えた形の巧拙によるのではない。ただ、たすかつて貰いたいとの切なる願に基いて、真実を尽して取り次ぐから、親神は、その心をそのまま受け取つて、珍しい守護を見せられる。即ち、己が力によるのではなく、親神が、よふぼくに入り込んで、働かれるからである。

 (天理教教典86~87)

虎さん これを読ませてもらうと「よふぼく」っていうもの

はたいへんなものですなあ。

熊さん しんどいいう意味の大変か、すごいという意味の大

変か、どっちのたいへんや。

虎さん 両方や。「話の理によつてほこりを払い、行いを正す

うちに、心は澄んで、たすかりたいとの願は、たすかつて貰い

たいとの念となる。そこに、さづけの理が授けられて、心は生

れかわる。さづけの理は、よふぼくたる銘々の心に授けられる

天の与え」なんやで。熊さん見とったらそんな大層なもの貰

ろたとは、とても思えへんわ。

熊さん 失礼な奴やな。随分わしは変わったで・・・。そり

ゃまだまだ問題もあるけどな。

ご隠居 熊さんからそんな殊勝な言葉を聞くだけでもだいぶ変

わった証拠や。

別席の話は前にも言うたけど同じ話を九回聞くのや。それは今度自分が「おたすけ」に出るときに、人様に取り次がせてもらうためなんや。人にもの勧めるのに一番よい勧め方は、自分も使ってみてこれはよろしでと勧めることや。使てもおらんもの、勧めたって自信はないし、人も聞いてくれんやろ。それと同じで、別席で聞かせてもらった話をまず、自分がお話通りさせてもらうのや。そしたらだんだん心も澄み、それこそ今まで喜べなかったことも喜べるようになり、自分の心の向きが変わるのや。今まで助けてほしいとばかり願っていたのが、神様の親心を感じるにつけもう助けてもらっていることに気付き、その喜びを人に伝えずにはおれなくなるのや。自分の周りを見渡してまだその喜びに気付いていない人に、何とか伝えたいと思うようになってくる。それが「にをいがけ」であり、「おたすけ」になるのや。

  次のおさしづにあるやろ、神様はそれぞれの心に乗ってお働き下さるのや。「精神一つの理によって、一人万人に向かう。」こんなええお言葉はないで。

熊さん そう言ってもおさづけの理をなかなか病人さんに取り次ぎにくいですわ。わしらまだまだ信仰したてやもん。

虎さん そりゃそうや。俺かて病気になってもお前にはおさづけ取り次いで欲しいとは思わんもんな。

ご隠居 それが大きな間違いや。つぎのおふでさきに書かれているやろ。よふぼくには神様が入り込んで下さるのや。昔の先生はよう教祖のお供で行かせていただくという気持ちでおたすけに行かれたそうや。教会の会長さんも前におっしゃっていたが、おさづけをいただいた最初の頃は教祖のお供で行かせていただくという気持ちで、実際に教会を出るときはまず教祖に出ていただき、病人さんの病室も教祖に先に入ってもらい教祖の代わりにおさづけの理を取り次がせていただいていた。あの気持ちを忘れたらあかんと、言うてはったで。

最後に書かれているように、おさづけの取次ぎの形が上手にできるとか、できないといった「見えた形の巧拙によるのではない。ただ、たすかつて貰いたいとの切なる願に基いて、真実を尽して取り次ぐから、親神は、その心をそのまま受け取つて、珍しい守護を見せられる。即ち、己が力によるのではなく、親神が、よふぼくに入り込んで、働かれるからである。」ということにつきるのや。それを忘れたらあかんのやで。

熊さん ようわかりました。

ご隠居 虎さんはどうや。

虎さん なるほどよくわかりました。自分の心をまず神様がお入りいただけるようきれいにしておくことが大事ということですな。熊さん、心の中の○○本を片付けときや。神さんに見られたら恥ずかしいで。

熊さん お前には言われたないわ。

ご隠居 何でお前らはそちらの話になるねん。

みなのながや信仰談義  五十九 

   この信仰談義は教典を中心にした教理を、みなの長屋に住む長く天理教を信仰している物知り顔のご隠居さん、信仰しはじめの熊さん、無信仰の虎さんの三人の会話を通してできるだけ分かりやすく?したものです。

第九章 よふぼく ③

かくて、よふぼくは、さづけを取り次いで、病む人々にたすかつて貰うのであつて、自分がたすけの主ではなく、どこまでも、親神のよふぼくに外ならなぬ。されば、よふぼくたるものは、日々、ひたすら己が心を治めて、曇りのない天の理を映すことが肝心である。銘々が常に、教祖のひながたをたどり、俗にいて俗に堕せず、進んで土地ところの手本雛型となつてこそ、真のその使命が全うされる。

身上を病んで苦しむ者に、さづけを取り次ぎ、せんすべない事情に悩む者に、教の理を取り次ぐのが、よふぼくの進む道である。それを単に、あの痛み、子の憂いを除くだけではなく、寧ろ、かかる苦しみを見せて頂いている、その人の心を、しんからたすけさせて貰うのである。

   (天理教教典8789)

虎さん 熊さんは、もうよふぼくになっているのかい。

熊さん そうや、おさづけの理をいただいた。これはたから

やと聞いてんねん。どの宝も使えば減っていくけど、この宝

だけは使えば使うほど、増えてくるそうや。

ご隠居 その通りやけど、もう取り次がせていただいたんか。

熊さん そりゃもう、まだでんねん。

ご隠居 なんでや、こないだ見舞いにいったというとったや

ないか。あの時取り次がせていただくと張り切っとったんじ

ゃないんか。

熊さん そのつもりでしてんけど、いざとなると恥ずかしい

し、わしらみたいのもんのおさづけが効くとはおもえません

しな。

ご隠居 わしはな、むかしある先生におさづけで一番大事なのは

この病人さんをほっとけんという気持ちや、と聞いたことがある。

熊さんさっき、わしらみたいなもんのおさづけて言うてたけど、

もしおまはんの子供が明日をも知れぬ重病やとして、なんぼ自信

が無くても、おさづけ取り次がせていただくやろ。

熊さん そりゃそうですわ。

ご隠居 せやろ、おまはんさっき、わしらみたいなもんのおさづ

けがとか言ってたけど、ありゃごまかしの言葉や。ほんまにその

人をたすけたいと思ってへんねん。

虎さん えらいきつい言葉でんなあ。

ご隠居 きつい言葉やけど、わしはやっぱりこう思うことは大事

やと思うねん。

おさづけの理とは、あの痛み、この憂いを除くだけではなく、

寧ろ、かかる苦しみを見せて頂いている、その人の心を、しん

からたすけさせて貰うのである。とあるように、その人の心を

しんからたすけさせていただくためには、まず一番大事なこ

とはその人にどうでもたすかって欲しいという気持ちが無か

ったらあかんと思うねん。教祖のひながたはまさにそのお心

を自分も持たせていただくことやと思うねん。


みなのながや信仰談義  六十 

   この信仰談義は教典を中心にした教理を、みなの長屋に住む長く天理教を信仰している物知り顔のご隠居さん、信仰しはじめの熊さん、無信仰の虎さんの三人の会話を通してできるだけ分かりやすく?したものです。

第九章 よふぼく④

人は本来、己が力で生きているのではない。しかも、己が力で生きていると思い誤り易いのが人の常で、そこには、涯しない心の闇路があるばかりである。たすけとは、かかる人々に、親神の思召を取り次いで、その守護のまにまに、暗黒の境涯から光明の世界へと導くことである。

まことに、この道は、心だすけの道である。心がたすかれば、身上や事情の苦しみ悩みは、自らいやされ、解決される。それは、親神の思召しにそのまま添いきるからである。

  心さい月日しんぢつうけとれば

  どんなたすけもみなうけやうで

よふぼくは、仮令、年限の理に浅い深いの相違があろうとも、教祖ひながたの道を慕い、ひたむきなたすけ一条の心から、あらゆる困難を乗り越え、温かい真心で、一すじにたすけの道に進むなら、何人でも、親神の守護を鮮やかに頂くことが出来る。

  しんぢつにたすけ一ぢよの心なら

  なにゆハいでもしかとうけとる

  わかるよふむねのうちよりしやんせよ

  人たすけたらわがみたすかる

ひたすら、世の人の上に親神の守護を願いつつ、我が身を忘れて行ううちに、親神に守られ、その胸に抱かれて、自身もいつしか心は成人して、明るく陽気に救われて行く。

 

   (天理教教典8789)

虎さん 人は本来、己が力で生きているのではない。しかも

己が力で生きていると思い誤り易いのが人の常で、そこには、

涯しない心の闇路があるばかりである。と書いてありますが、

これはどういうことですねん。

熊さん そうや、おさづけの理をいただいた。これはたから

やと聞いてんねん。どの宝も使えば減っていくけど、この宝

だけは使えば使うほど、増えてくるそうや。

ご隠居 その通りやけど、もう取り次がせていただいたんか。

熊さん そりゃもう、まだでんねん。

ご隠居 なんでや、こないだ見舞いにいったというとったや

ないか。あの時取り次がせていただくと張り切っとったんじ

ゃないんか。

熊さん そのつもりでしてんけど、いざとなると恥ずかしい

し、わしらみたいのもんのおさづけが効くとはおもえません

しな。

ご隠居 わしはな、むかしある先生におさづけで一番大事なのは

この病人さんをほっとけんという気持ちや、と聞いたことがある。

熊さんさっき、わしらみたいなもんのおさづけて言うてたけど、

もしおまはんの子供が明日をも知れぬ重病やとして、なんぼ自信

が無くても、おさづけ取り次がせていただくやろ。

熊さん そりゃそうですわ。

ご隠居 せやろ、おまはんさっき、わしらみたいなもんのおさづ

けがとか言ってたけど、ありゃごまかしの言葉や。ほんまにその

人をたすけたいと思ってへんねん。

虎さん えらいきつい言葉でんなあ。

ご隠居 きつい言葉やけど、わしはやっぱりこう思うことは大事

やと思うねん。

おさづけの理とは、あの痛み、この憂いを除くだけではなく、

寧ろ、かかる苦しみを見せて頂いている、その人の心を、しん

からたすけさせて貰うのである。とあるように、その人の心を

しんからたすけさせていただくためには、まず一番大事なこ

とはその人にどうでもたすかって欲しいという気持ちが無か

ったらあかんと思うねん。教祖のひながたはまさにそのお心

を自分も持たせていただくことやと思うねん。

みなのながや信仰談義  六一 

   この信仰談義は教典を中心にした教理を、みなの長屋に住む長く天理教を信仰している物知り顔のご隠居さん、信仰しはじめの熊さん、無信仰の虎さんの三人の会話を通してできるだけ分かりやすく?したものです。

第九章 よふぼく ⑤

よふぼくとしての丹精の効があらわれ、道を求めるものが、次第に相寄り相集まって、教会名称の理が許される。それは、なんでもという精神の理に許されるもので、よふぼくの役目は、ここに一段と光を添える。

教会は、神一条の理を伝える所であり、たすけ一条の取り次ぎ場所である。その名称の理を、真によく発揚するには、ここに寄りつどうものが、ぢばの理に添い、会長を心として、心を一つに結び合うのが肝心である。かくて、教会生活は、国々所々における人々の和楽を深め、互に扶け合いつつ、心の成人を遂げる陽気ぐらしの雛型となる。

されば、会長の使命は、常に元を忘れずに、自ら進んで深く教の理を究め、心を治めて、道の先達となり、実真実をもつて、人々を教え導くにある。かくて、その徳に薫化された人々の心は、自と成人し、共に和し共に結んで、教の実は挙げられて行く。

 しんぢつにたすけ一ぢよてあるからに

 なにもこわみハさらにないぞや

               (天理教教典90~91)

ご隠居 ここもそんなに意味としては難しいことはない。

 書いてある通りや。

熊さん えらいさらっと流しますなあ。

虎さん ご隠居、会長さんに何か言われたんと違いますか?

ご隠居 実を言うとな、ここはさらっと流してほしいと言われたんや。

熊さん 何ででっしゃろな。会長さんは、教会というのは、その土地における陽気ぐらしの手本ひながたであり、またそれぞれの信仰を磨くための道場でもあり、信者さんの真実が寄り集まって出来てるとよう言うてはりますがな。

虎さん ははーん、そうすると次のとこやな。

会長の使命は・・・というとこをさらっといきたいのやな。そこを突き詰められるのを怖がっとんと違うか。

ご隠居 これこれ、めったなことを言うではない。

熊さん 最後のおふでさきは、真実にたすけ一条であるなら、何もおそれることはないという意味でんな。

虎さん ということは、たすけ一条じゃないから怖がってると言うことか。

ご隠居 これこれ、コメントの出来んことを言うんじゃない。

 ということで、今月で第九章は終わります。

 次回からは、最後の章、第十章 「陽気ぐらし」に入ります。