みなの長屋信仰談義  第10章 陽気ぐらし

みなのながや信仰談義  六二 

   この信仰談義は教典を中心にした教理を、みなの長屋に住む長く天理教を信仰している物知り顔のご隠居さん、信仰しはじめの熊さん、無信仰の虎さんの三人の会話を通してできるだけ分かりやすく?したものです。

第十章  陽気ぐらし ①

 たすけの道にいそしむ日々は、晴れやかな喜びに包まれ、湧き上る楽しさに満たされる。それは、常に、温かい親神の懐に抱かれ、人をたすけて我が身たすかる安らぎの中に身を置くからである。これが、陽気ぐらしの境地である。

 (天理教教典92

ご隠居 今月より最終章に入る。考えてみれば、六十二回目、五年余り連載を続けてきたということになる。長いことしてきたもんや。思えば遠くへきたもんだ、

今月から最終章、陽気ぐらしや。

熊さん 陽気というのは、喜び楽しむことでんな。

ご隠居 人生を喜び、楽しんで通るのが陽気ぐらしや。

虎さん せやけど、いつも陽気というわけには行きませんで。

ご隠居 そうや、その通りや。わしも随分長生きしたから、いろいろあった。病気になったこともあれば、大事な人を亡くしたこともある。そこで大事なのが、最初の言葉や。たすけの道にいそしむ日々は、晴れやかな喜びに包まれ、湧き上る楽しさに満たされる。と、あるやろ。陽気ぐらしは、おたすけを一生懸命させていただいていることが大事なのや。

熊さん せやけど、おたすけしている人が死んでしまうこともありますで・・・。

ご隠居 その通りや、わしも生き死にを御守護と考えるなら、死んだ人のほうが多いと思う。せやけど、違うねん。一生懸命自分の真実を尽くしておたすけをしている時は、たとえそのお願いしている人が亡くなっても、何か不思議を必ず見せてもらえるのや。

熊さん そうですわ。こないだ家のおじさんが死にましたが、何回もおさづけに通わせていただいていたら、あの怖いおじさんが、おおきに、おおきにと涙を流して喜んでくれましてん。こないだの葬式でおばさんからも、涙ながらにお礼を言われました。わしもおじさんが死んだのは、悲しいけど、なんかとても大きな御守護をいただいた気がしましてん。

ご隠居 そうや、生き死にで言うならみんな必ず死ぬのや。天理教の御守護は、そんなもんと違う。生きても、死んでも、常に、温かい親神の懐に抱かれて、いることが実感できることが大事なのや。熊さんもそうや。人をたすけて我が身たすかるとお聞かせいただくように、おじさんをたすけに行って、おまはんもたすけてもろたんや。それは、おまはんのおじさんをたすけたいという真実を神様が受け取ってくださったからや。神様がいてくれて、いつも自分達を見てくれているということを感じられることが、陽気ぐらしの第一歩で、終着点でもあるということやな。


みなのながや信仰談義  六三 

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第十章  陽気ぐらし ② 

親神は、陽気ぐらしを見て、共に楽しみたいとの思わくから、人間を創められた。されば、その思召を実現するのが、人生の意義であり、人類究極の目的である。 

  いつまでしん〲したとても

  やうきづくめであるほどに    五下り目 5

明るく勇んだ心、それは陽気な心である。この陽気な心で日々を送るところに、真の幸福があり、生き甲斐がある。いか程長く道をたどつても、心が勇まずに、いずんでいては、親神の心にかなわぬ、親神の守護のままに、日々、喜びと楽しみの中に生活するのが、人の世のこの上ない味である。閉ざされた心の窓を開き、遍き教祖の光を身に受ける時、自ら暗い迷いの雲は晴れ、明るい喜びの中に立つ。陽気ぐらしとは楽しみづくめの生活である。

               (天理教教典90~91)

 

ご隠居 親神様は、「人間が陽気ぐらしをするのを見て、神も共に楽しみたい」という親神様の人間創造の目的と、それに到達する方法を人間に教えるために、教祖をこの世界に現されたんや。

虎さん へんなことを聞くようですが、神様は何でこんなまどろっこしいことをしはるんでっか。

熊さん まどろっこしいて何やね。

虎さん 神様が全知全能なら、もっと人間が勇めるようにしてくれたら、ええのとちゃうか。それでもまだ人間が神様の思い通りのことをせんだら、もっと罰を与えたらええと思うねん。そしたら誰でも言うこときくやろ。

熊さん せやけどそんな世界、息詰まって楽しないんと違うか。

ご隠居 その通りや。

楽しなかったら陽気ぐらしとは言えんわな。

いつも言っているけど、神様は、人間が陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたいと思われたのであって、ロボットを作って陽気ぐらしをするのを見て楽しみたいと思われたんじゃないということや。心があるからこそ人間なんや。

恐怖や強制で陽気ぐらしをさせるのじゃなく、人間が自発的に陽気ぐらしに向かう姿をお待ちくださっているということや。

だから、わしはいつも思うのやけど、神様が創ってくれたものと、人間が作ったものは分けやなあかんと思うねん。神さんは充分に勇めるように御守護はしてくださっているねん。

例えば人間が生きていく上で、飢えないように充分の作物はあるやろ。せやけどそれを平等に分けるかどうかは人間の方の問題や。

熊さん ちょっとよくわかりませんねけど。

ご隠居 食料自体は全世界で充分あるんや。せやけど飽食でダイエットに血道をあげている人もいる反面、飢えで餓死する人もいる。それは神様の責任ではなく、人間のほうの問題や。せっかく与えていただいている守護を、人間の欲の心で分けてしまうから、飢える者がいる傍らで、食べ過ぎやと言うて、ほかしてしまう人もいるのや。日本のコンビニを考えてみ、今は期限切れで捨ててしまう食料がものすごい数になっているのや。それは、さっきも言ったけど、人間側の問題やろ。

 神様は充分に御守護してくださっているのや。わしらかってそうやろ。米と野菜とだけで暮らせるけど、たまには肉でも、たまにはカニでもなんて言うてるから、金がようけいるんやろ。なぁ虎さん。

虎さん わしはベジタリアンですで。

熊さん どこがベジタリアンやね。アタマタリアンやけど・・。

虎さん シャレにもなっとらんやないか。

ご隠居 せやから貧に落ちきられたという教祖のひながたは、

人間の欲の心を離れた時に見えてくる親神様の御守護を感じられる方法を教えてくれているのや。

熊さん 親神の守護のままに、日々、喜びと楽しみの中に生活するのが、人の世のこの上ない味である。」という教典の言葉は、そういう意味ですねんね。

ご隠居 そうや。異常気象やなんやって騒いでいるけど、それだって人間がしたことのつけを払っているだけや。地球の自転が二日かかったり、地球がひっくりかえったりしたわけではないんや。そんな大きな御守護をしっかりと喜び、大いなる守護の下で生きていると実感することが喜びがわいてくるもとなんや。

熊さん 次はどういう意味ですねん。

ご隠居 「閉ざされた心の窓を開き、遍き教祖の光を身に受ける時、自ら暗い迷いの雲は晴れ、明るい喜びの中に立つ。」というところやな。

これは、わしらは日々のいろいろな雑事の中でなかなかさっき言ったような大きな神様の御守護を実感できんやろ。それは心が自分の欲にばかり向いているから、心が閉じている状態なんや。それを教祖のことを考え、ひながたの道を通らせていただくことによって、自分を捨てて人の喜びを自らの喜びにするようなそんな生き方の素晴らしさに気づくのや。

その時、人間思案の中でうごめいていた自分の姿に気付き、大きな親に守られていることを実感し、心が晴れ喜びの心が湧いてくるということやな。それが信仰の出発点なんや。

熊さん 「陽気ぐらしとは楽しみづくめの生活である。」という言葉は、かっこいいですね。

虎さん  ほんまにせやなあ。そうなりたいもんやなあ

    


みなのながや信仰談義  六五 

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第十章  陽気ぐらし ③

陽気ぐらしは、他の人々と共に喜び、共に楽しむところに現れる。皆皆心勇めば、どんな理も見え、どんな花もさく。

 皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん〱楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。

(明治三〇・一二・一一)

人は、ややもすれば、我が身勝手の心から、共に和して行くことを忘れがちである。ここには、心澄みきる陽気ぐらしはなく、心を曇らす暗い歩みがあるばかりである。

 勝手というものは、めん〱にとってはよきものなれど、皆の中にとっては治まる理にならん。明治三三・一一・二〇)

一つに心合わせるのは、一つの道の理に心を合わせることで、この道を忘れる時は、銘々勝手の心に流れてしまう。

一手一つの心に、自由の守護が頂ける。いかに多くのものが相集まつても、一手一つの理を欠くならば、親神に受け取つて頂けない。人皆、相互に一つの道の理に心を合せ、互立て合い扶け合うてこそ、陽気に勇んで生活して行ける。真の陽気ぐらしは、ここに全うされる。

               (天理教教典9394)

虎さん 陽気ぐらして言うのは、一人では出来へんということでっか。近所のマンションの学生、ほとんど部屋にいますけど、今はインターネットで世界とつながってるといってましたで。

熊さん ああ、虎さんのネット友達か。

ご隠居 へー、熊さんネットしてるんか。たいしたものやな。

虎さん わしはこの界隈では、ネットの虎といわれてます。熊さん ○○サイトの虎やもんな。好き者やさかい、好きこそ物の上手なりの典型や。

ご隠居 横道にそれまくりやけど、そりゃ今の若い人は、一人で誰の世話にもなってないし、誰にも迷惑をかけてないなんていうけど、そんなことは絶対ないやろ。当たり前やけど、食べてる食事も自分で収穫したわけではないし、ネットで使う電気も自分で作ってるわけじゃないやろ。無人島で自給自足でもせん限り、人はみんなの世話になって活きていかなあかんねん。

虎さん 次の人は、ややもすれば、我が身勝手の心から、共に和して行くことを忘れがちである。ここには、心澄みきる陽気ぐらしはなく、心を曇らす暗い歩みがあるばかりである。」というのは、どういうことなんでしゃっろ。

ご隠居 そやな、勝手なことしていても、誰にも迷惑かけてないってよう言うわな。わしはな、自分は自分の好きな生き方を通しているという人に長い人生の中で何人か出会ったが、その周りの人は、その人のことを腫れ物に触るように気遣ってたなあ。それがわからへんのかなあと、何回も思ったことがある。自分の意思を通して、人生を生きているというような人は、周りが苦労してその人にそうさせてやっているということがわからんのや。

熊さん その人だけが陽気ぐらしで、周りの人は陰気暮らしということですな。

ご隠居 その通りや。

人間はさっきも言ったとおり、一人では生きていけへんね。人が二人になったら、やっぱり自分の勝手ばかり通すことはでけんやろ。お互いが相手を勇まし楽しまさなかったら陽気ぐらしとは言えんわな。

虎さん 「一手一つの心に、自由の守護が頂ける。いかに多くのものが相集まつても、一手一つの理を欠くならば、親神に受け取って頂けない。」と、書かれてますが、一手一つというのは、どういうことでっか。

熊さん 勝手の反対が一手一つや。

ご隠居 熊さん、その通りや。一手一つは、おさしづによく出てくるお言葉や。一手一つというのを説明するのにおつとめを考えたらよくわかると思うんや。

おつとめは、一人ではでけんやろ。教会のおつとめはお手振りの人が六人、鳴り物が九人、地方(歌を歌う人)を入れたら、最低でも十六人の人が必要や。本部のかぐらづとめやったら、お手を振る人は十人や。かぐらづとめはお手振りの手もみんな違う。それに鳴り物に使う楽器もみんな違うやろ。せやけど、一手一つにつとめるんや。バラバラと違うねん。なんでバラバラにならへんかというと、地方の歌に合わすからや。神様のお歌に合わすからや。

一手一つというのは、みんなが同じことをすることと違うねん。することはみんな違ってええねん。せやけど神様のお歌、つまりは思いに合わさせてもらって、自分の与えられた事を一生懸命することが一手一つや。

熊さん ご隠居さんがいつもおしゃてることでんな。おつとめが、陽気ぐらしというものを象徴しているんでんな。

ご隠居 そういうことや。おつとめが一人では出来んように、陽気ぐらしも一人では出けんのや。おつとめが、それぞれ与えられる役割が違うように、世間でもみんないろいろな仕事をしているやろ。おつとめがそれぞれの役割をしっかりつとめるのと同じように、世間の仕事も精一杯つとめることが大切や。そこで忘れたらあかんのが、おつとめが、地方の声に合わすのと同じように、世間での仕事も神様の声に合わすことが大事なんや。

神様の声とは何か、それは、おさづけの心や。

人をたすける心、人に喜んでもらいたいという心や。自分には取り次げず、人にしか取り次げないおさづけの理を、生涯末代の宝とお聞かせいただくことを考えたら、神様の思いはよく分かるやろ。



みなのながや信仰談義  六六 

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第十章  陽気ぐらし ④

  心合わせ頼もしい道を作りてくれ。あれでこそ真の道で

あると、世界に映さにゃならん。(明治三五・九・六)

親神にもたれ、教祖を慕い、教の理を省みつつ、互に心を合せ扶け合うて、陽気に生活すならば、ここに、たのもしい道が現れて、その喜びは世界に広まつて行く。親神は、これを望ませられる。

  せかいぢうみな一れつハすみきりて

  よふきづくめにくらす事なら   七―一〇九

  月日にもたしか心がいさむなら

  にんけんなるもみなをなし事   七―一一〇

  このよふのせかの心いさむなら

  月日にんけんをなじ事やで    七―一一一

 親神の守護を身に受けつつ、人々相扶け合うて、明るく浄く、勇んで生を楽しむ境涯に生きる。それは、親神の思召のまにまに、いそしむ日日であり、正しくきりなしぶしんである。そして、この明るい心に、自ら豊かな惠が与えられて、心は更に勇み立つ。子供の成人を待ちかねられる親神は、この陽気ぐらしを見て、共に喜び共に勇まれる。

               (天理教教典9496)

虎さん この歌はどういう意味でっか。大体分かるんやけど。熊さん 世界中の人の心が澄んで、お互いがたすけあう気持ちになって、陽気づくめに暮らすことなら、神様も心が勇むから人間も同じことや。

虎さん そのまま言うてるだけやないか。

ご隠居 まあまあそんなに間違ってないと思うで。

上田嘉成先生のおふでさき講義には次のように書かれている。

「この辺はおふでさきの中で、陽気ぐらしということを最もはっきりと生き生きとお教え下されているところです。

すなわち、世界中の人間の心が全部澄み切った心になって、陽気一すじの陽気ぐらしをするようになったならば(七―一〇九)、人間の心の喜びを受けて親神様もお喜び下され、明るい勇んだ心にお成り下さる。そうすると、その親神様のお心の喜びを受けて、人間の心も更に一層明るく勇んでくる(七―一一〇)。

こうして、親神様がお勇み下され、世界中の人の心がことごとく勇み立ってきたならば、親神様も人間も同じ一つの明るい勇んだ心になって、全世界が理想の陽気ぐらしになってくると、お教え下されているのです。

親神様と人間とは、切っても切れない血の通う親子です。ですが、神様と人間とは、はっきりそこに理の区別と言う者があって、人間がそのまま神様になったり、神様が人間になったりなさることはありません。けれども決して遠い者ではないのです。切っても切れない親子であるというのが、親神様と人間との間柄です。」

虎さん よう分かりました。

ところできりなしぶしんと言うのはなんでっか。

熊さん おやさとやかたの工事のことやと聞いたことがあるで。

虎さん おやさとやかたって、あの病院とか入っている建物のことか。なんでもあの建物で、本部を囲むつもりらしいな。

熊さん そうらしいで、それで全部囲んだ頃には最初の建物が壊れるので立て替える、それが建った頃には次の建物が壊れるので立て替える。

虎さん きりないなあ、それできりなし普請か。

ご隠居 黙って聞いてるとお前たちはなんということを言うのや。

 きりなしふしんというのは、三代真柱様が東西礼拝場普請の時にも「形のふしんに先行する心のふしん」と、おっしゃられたが、建設というような形のふしんを言うのではなく、心のふしんを意味しているんや。

 上田先生は次のようにおっしゃっている。

 「きりなしふしんということは、一つのふしんをやりあげて、そしてさらにまた、次のふしんにかかるということです。ですから、親子孫代々というふうに考えると、親の代の心のふしんができて、その次が子供の心のふしん、そしたら次は、孫の心のふしん。また、会長さんの心のふしんが出来たら、今度は役員さんの心のふしん。また教人・よふぼく・信者が、あっちこっちと心のふしん。きりなしふしんというのは、一つのふしんをやりあげて、さらに次のふしんに取りかかって、またこれをやりあげて、どんどんと、末代までもふしんを続けていくということですね」

熊さん うちの教会は会長さんの心のふしんで止まってるからなあ。

ご隠居 これこれ今日はお前らなんか腹の立つことでもあったんかい。口が滑りすぎるぞ。

虎さん 人間の心の喜びを受けて親神様もお喜び下され、明るい勇んだ心にお成り下さる。そうすると、その親神様のお心の喜びを受けて、人間の心も更に一層明るく勇んでくるという、おふでさきの人間と神様の関係もきりなしふしんのような感じですね。

ご隠居 そうやな、陽気ぐらしというのは、神様と人間で創り上げるのやからな。

                  

みなのながや信仰談義  六七 

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第十章  陽気ぐらし ⑤

人々は、この親心にもたれつつ、世界中皆一れつは隔てない親神の子、兄弟姉妹という理を心に治めて、高きものも低きものも、遠きものも近きものも、相互に扶け合い、常にたゆまず、ひながたの道をたどり、陽気に勇んで、心のきりなしぶしんにいそしむならば、やがては、全人類の心も入れ替わり、世は自と立て替つてくる。

かくて、世界一れつの心が澄みきる時、たすけ一条の思召が成就して、親神の守護は余りなく垂れ、ここに、人の世は、未だかつてない至福を受ける。これぞ、楽しみづくめの世界、新人和楽の陽気づくめの世界であり、真正の平和世界である。

思えば、人類社会は、久しく文化の進展を遂げながらも、徒らに迷いを重ね、行方も知れなぬ闇路にさすらいつつ、今日にいたつた。それは、互に争を事として、争を経ることによつて、己のよき生命を楽しめるものと、思いあやまつて来たからである。しかも他面、人は平けく安らかな生活をのみ求め望んで止まない。これは、限りない矛盾撞着である。この矛盾を解き、撞着を治めるのが、たすけ一条のこの道である。これこそ、人類に真の心の支えを与え、光ある行方を教える唯一の道である。

世界は、平和を求めて止まない、しかし、真の平和世界は、ただ人間相互が争わぬだけで、全うされるものではない、よしや、それは争のない姿であつても、光溢れる平和の訪れではない。真の平和世界は、親神の理によつてのみ築かれる。この親神の道が、人々の胸に正しく治められ、すべてが、己が利欲を忘れ、温かい親神の守護の下、互扶けの真実の働きにつとめ合い、親神の待ち望まれる陽気づくめの世界になる時、この世ながらの限りない生気溢れる楽土が全うされる。

               (天理教教典96~97頁)

虎さん なんかむつかしいでんなあ。

ご隠居 何がむつかしいねん。

虎さん 何って全部ですがな。

熊さん よし俺が虎さんにでも分かるように分かりやすう教えたろ。

世界中の人が、みんな神さんの子供で、兄弟姉妹ということが分かって、助け合うようになったら、親神さんも喜んでくれはって、人間本来の目的である陽気ぐらしのための全ての御守護を下さるようになるということや。

世界中の人々の心が澄み切ったとき、それが陽気ぐらしの世界が、この地上に出現するということやな。

人間の社会は随分進歩してきたけど、平和になったわけでもないし、平等になったわけでもない。平和になったかと思えばすぐに戦争がはじまる。それは、何でも争って強い者が多くのものをとればいいと思っているからや。せやけど競走すれば勝つ者も出るが、必ず負けるものも出るんや。

人は、争いばかりしていたら疲れるんや。平和な安らかな人生を持ちたいとも思うねん。これは矛盾してるんや。

その問題を解くのはこの教えしかないということや。

わかったか。わかったやろ。分かってくれ!

虎さん なんも泣かんでもええやないか。まあ分かったような、分からんような話やな。

ご隠居 そうやな、分かったようなわからんような話や。それは、実際まだ実現しとるわけではないからな。

せやけど、この世界が何の目的もなくただ在るのではなく、神様の「陽気ぐらしをするのを見て神もともに楽しみたい」という思いからはじまったということが第一点。

せやから、この世界は勝手にあるのではなく、昔も今も神様が守護してくださっている世界なんやというのが第二点。

ちょうど遺伝子が間違いなく子や孫に伝わっていくのと同じように、したことも思ったことも全て神様の帳面につけられており、子や孫に、そしていずれは自分に必ず返ってくるということが三点目。

陽気ぐらしというのは、一人ひとりが勝手なことをするのではなく、お互い助け合うことによってできるというのが四点目や。

虎さん なんでそんなことなってますんや。

熊さん なんでってどういうことや。

虎さん いや、なんでそんな世界になっているのかなあと思ったんや。

ご隠居 なんでって、神様がそういうふうに創られているからや。それはなんでわしが、昭和××年二月三日に生まれたんやと聞いてるのと同じや。

せやから何ぼ平和世界をつくるといっても、そのことがわからんと、お互い一人ひとりの欲の心は無くなってへんから、また戦争が起こるんや。

虎さん ほんだら世界中の人がみんな天理教になったら、争いは起こらへんということでっか。

熊さん そういうことや。ねえご隠居さん。

ご隠居 そういうことやけど、人間というのはほこりというものを必ず心の中に積むから、天理教やといってもいろんな人がいるのも事実や。きれいに心のほこりを全部掃除した人なんかおらへんというてもいいぐらいや。

 だから神様はきりなしふしんということも教えてくれたのや。心のきりなしふしんというのが大事なんや。

熊さん この話もきりがありませんなあ。

ご隠居 きりはないけど、その中を少しずつ、少しずつ成人させていただくことが大事なんや。

 

                

みなのながや信仰談義  六八 

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第十章  陽気ぐらし ⑥

推うに、親神が、教祖を月日のやしろとして現れ出でられるや、人間の陽気ぐらしを見て、共に楽しもうとの、人間世界創造の思召を告げ、専らたすけ一条の道を宣べて、たすけづとめを教え、又、いき・てをどりのさづけによつて、一れつたすけを急き込まれた。このたすけの理を明かそうと、元の理を説き、定めの人と所と時の立て合いによつて、この教を創めた所以を諭し、ここに、親神を天理王命とたたえて、祈念することを教えられた。

かくて、教祖が、教を宣べ、身を以てこれを証し、ひながたを示されたのも、親神の深い思わくのよるものであつて、正に、教祖ひながたは、道の生命である。

人は、先ず、身上や事情に手引きを頂き、親神を知る。そして更に、身上は、これ皆、親神のかしものなることを納得し、守護のあるところを悟り、ほこりを払い、心のふしんにつとめる。かくして進む成人の道すがらには、雨の日も風の日もある。しかし、その中に、日々たんのうの心を治め、又、ひのきしんに勇む。そして、治められた実真実は、自ら他に及び、一人の道は多くの人々の道となる。即ち、道の子はよふぼくを志し、さづけの理を頂いて、たすけ一条にいそしみ、天の理を取り次ぎ、道の先達となる。ここに、不思議なたすけの実が次々とあらわれ、魂は続々と更生されて行く。

かくて、我も人も共に和し、一手一つの心に、楽しみづくめの陽気ぐらしの世界が守護頂ける。それは、親神の望まれる真の平和世界であり、これぞ、この道の目標である。道の子は、存命のまま導かれる教祖に抱かれ、ひたすら、世界人類の平和と幸福を祈念しつつ、たすけの道に弥進む。

  このみちハどふゆう事にをもうかな

  このよをさめるしんぢつのみち

               (天理教教典9697)

ご隠居 教典もいよいよ最後や。この節は、今までのまとめということやな。

虎さん 長かったですなあ、六年近くやっていたことになりますなあ。

熊さん そうやなあ、その間にいろいろなことがあったなあ。わしはおさづけをいただき、今では立派なよふぼくやし、虎さんも、別席を運ばせていただいているしなあ・・・。

虎さん そうやなあ、思えば遠くへ来たもんだと、中也なら歌うところやなあ。

ご隠居 そういうところで、紙面が切れるので今回はここまでということで、終わろう。

熊さん えらい今回もええかげんですなあ。


みなのながや信仰談義 六九 最終章 

   この信仰談義は教典を中心にした教理を、みなの長屋に住む長く天理教を信仰している物知り顔のご隠居さん、信仰しはじめの熊さん、無信仰の虎さんの三人の会話を通してできるだけ分かりやすく?したものです。

第十章  陽気ぐらし ⑦

推うに、親神が、教祖を月日のやしろとして現れ出でられるや、人間の陽気ぐらしを見て、共に楽しもうとの、人間世界創造の思召を告げ、専らたすけ一条の道を宣べて、たすけづとめを教え、又、いき・てをどりのさづけによつて、一れつたすけを急き込まれた。このたすけの理を明かそうと、元の理を説き、定めの人と所と時の立て合いによつて、この教を創めた所以を諭し、ここに、親神を天理王命とたたえて、祈念することを教えられた。

かくて、教祖が、教を宣べ、身を以てこれを証し、ひながたを示されたのも、親神の深い思わくのよるものであつて、正に、教祖ひながたは、道の生命である。

人は、先ず、身上や事情に手引きを頂き、親神を知る。そして更に、身上は、これ皆、親神のかしものなることを納得し、守護のあるところを悟り、ほこりを払い、心のふしんにつとめる。かくして進む成人の道すがらには、雨の日も風の日もある。しかし、その中に、日々たんのうの心を治め、又、ひのきしんに勇む。そして、治められた実真実は、自ら他に及び、一人の道は多くの人々の道となる。即ち、道の子はよふぼくを志し、さづけの理を頂いて、たすけ一条にいそしみ、天の理を取り次ぎ、道の先達となる。ここに、不思議なたすけの実が次々とあらわれ、魂は続々と更生されて行く。

かくて、我も人も共に和し、一手一つの心に、楽しみづくめの陽気ぐらしの世界が守護頂ける。それは、親神の望まれる真の平和世界であり、これぞ、この道の目標である。道の子は、存命のまま導かれる教祖に抱かれ、ひたすら、世界人類の平和と幸福を祈念しつつ、たすけの道に弥進む。

  このみちハどふゆう事にをもうかな

  このよをさめるしんぢつのみち

               (天理教教典96~97頁)

ご隠居 教典もいよいよ最後や。この節は、今までのまとめということやな。

虎さん 二ヵ月前も、そういってましたで。 

ご隠居 これは今までの全てのまとめということやから、これを解説すると、最初からもう一度しなけりゃならん。先月号は久し振りに休んで、最終回をどうするか熟考したが、この本文をしっかり読んでいただくということで、みなの長屋信仰談義は大団円を迎えることにする。

熊さん ご、ご隠居。二ヶ月の熟考の結果がそれでっか。

虎さん まあみなの長屋らしいといえば、らしいでんな。

そういうわけで、皆さん、長らくのご愛読ありがとうございました。またいつかお会いしましょう、さようなら。