みなの長屋信仰談義 第2章 たすけ一条の道



みなのながや信仰談義  二十七

 

第二章               たすけ一条の道 パートU A

 おさづけの理  

熊さん ご隠居、わし、こないだから別席運ばせて頂いているといいましたやろ。別席というのは、話聞きにいくことでしゃろ。なんやおさづけの理とかいうのを、最後にもらうそうでんな。

虎さん そのおさづけいうんは、ご飯といっしょに食べるんでっか?。

ご隠居 まさか奈良漬の親戚やなんて言うんと違うやろな。

虎さん すんまへん。勉強しなおしますわ。

ご隠居 なんや言うつもりやったんかい。

おさづけの理というのは、正式には「さづけの理」というて、『さづけは「つとめ」と共に「たすけ一条の道」と言われて、特別な救済手段である。すなわちこのさづけの理を取り次ぐことによって特別な守護が得られる』(天理教事典)と書かれているように、病人にこのおさづけの理を取り次ぐことによって、病気を治してもらえるのや。

虎さん 熊さん、お前、そのおさづけの理もろたら、いの一番に自分の頭の悪いのなおしてもらえ。

熊さん わしよりお前の根性なおしてやるわ。

ご隠居 これこれ、けんかせんと・・。それにこれは自分には取り次げんのや。熊さんの頭が何ぼ悪ても、

熊さん ご隠居まで

ご隠居 すまんすまん、つられてしもた。

熊さんの身体のどこかが悪ても自分で自分におさづけの理は取り次げんのや。熊さんの悪いところは誰かに取り次いでもらわなあかんね。

熊さん ほんだらわしせっかくおさづけの理もろても、自分には取り次げへんちゅうことでっか。

ご隠居 そうや、おさづけの理は「生涯末代の宝」とまで神様からお聞かせいただくが、自分には取り次げへんというところに神様の神意があるのや。

ちょうど、こないだ教会の会長さんから孫にもろた別席の勧めというという手紙があるさかい、これをよましてもらおう。

熊さん ご隠居さん、うまいこと逃げ張りましたな。

ご隠居 そんなことあるかい。今から読ましてもらうさかいしっかり聞きや。

「『さづけの理』は、通常『おさづけ』とも呼ばれ、おぢば(天理)の別席場において、毎月一回づつ九回、都合九ケ月に渡って同じ神様の話をお聞かせいただき、十回目に本部教祖殿において、真柱を通して存命の教祖から『さづけの理』をお渡しいただくのです。

 その『さづけの理』をいただくために、九回、話を聞かせていただくことを別席といいます。

  『おさづけ』は、病気の人に対して取り次ぐもので、取り次ぐ者の真実と取り次がれる者の気持ちが一つになったとき、神様はどのような御守護もして下さるとお聞かせいただきます。

  私はこの『おさづけ』に『人をたすけて我が身たすかる』という、天理教の教えの根幹をお見せいただいていると思うのです。この『おさづけ』は自分には取り次ぐことができません。どんなに自分がつらくしんどくても、自分で自分に『おさづけ』を取り次ぐことはできないのです。あくまでも自分の戴いた『おさづけ』は、他の人にしか取り次げないのです。

  別席を運び『おさづけ』を戴くためには、九回おぢばへ足を運び、またいくばくかのお金も必要です。そしてようよう戴いたものが自分自身には使えないというのは、考えてみればとても不思議なことだと思うのです。私たちが、神仏に参るのは、まず私自身が、また自分の家族が助かりたいから、何らかの御利益を求めて、参拝するのです。ところが、苦労して戴いた『おさづけ』は、決して我が身に使うことは出来ないのです。もちろん『おさづけの理』を戴くことによって、また別席を運ばせて戴くことによって、お見せいただく御守護というものも多いのですが、実際、神様から戴くものが、自分以外の人にしか効用がないというのは、特に教理を考える上に象徴的だと思うのです。

 神様から見れば人間はみな可愛い子供であり、兄弟であるとお聞かせいただきます。だから、どんな子供にも精一杯の御守護をしてやりたいと思われています。しかし、例えば自分たちの子供が一つのお菓子を争って、例えば兄が弟の物を取り上げたなら、親は情けないと思い、叱ることもあると思います。逆に兄が我慢して、弟にお菓子をあげたなら、親はとても喜びます。教祖は、『その人が礼を言わなくても、親がかわりて礼を申しますで』と、お話し下されたとお聞かせいただきます。

  自分達が自分達だけの御利益を願うのは、神様から見れば、ちょうど兄が、親に、弟はどうでもよいから自分だけは何とか助けて欲しいと、願っているようなものです。親はどんなに情けない思いをするでしょうか。

  人類全体が、神様から見て、子供であるならば、『人をたすけて我が身たすかる』という意味は自ずからおわかりいただけると思います。

  『おさづけの理』はそれを、実地で経験させていただけるものです。『おさづけの理』を取り次がせていただいた時、相手である病人よりも、させていただいた自分が、助けていただいたことに気づくのです。それは、その病人がお礼をしてくれなくても、『親がかわりて礼を申し』てくれているのです。

  その経験を積み重ねていくことによって、神様の教えが間違いないことが、本当に心に治まってくるのです。

  ですから『おさづけ』は、人に取り次がせていただかねば、その真価はなかなかわかりません。

  せっかく『おさづけ』をいただきながら、一度も取り次がないとしたら、まさに宝の持ち腐れだと思うのです。

  世の中のものは何でも、使えば使うほど減ってきます。ただ神様からいただく『おさづけ』だけは、使えば使うほど、その価値は増してくるのです。

別席は、その第一歩です。どうぞ以上のことをお考えいただきまして、別席を運ばせていただきますようお願い申し上げます。」



みなのながや信仰談義  二十八

 

第二章               たすけ一条の道 パートU B

 おさづけの理 その二 

虎さん 今月の巻頭言におさづけの理をいただいた人のことを「よふぼく」というと書いてありましたな。「よふぼく」ってどんな意味ですねん。

ご隠居 「よふぼく」は、漢字で用木という字を当てることもあるように、親神様の世界救済、すなわち理想社会である「よふきぐらし」の世界の建設を建物の建築にたとえ、そのために使用される用材ということなんや。つまり神様の手助けをさせていただく人のことやな。

熊さん 巻頭言には、なんか難しいこと書いてありましたけど、わしらそんなこれからは人のために生きるなんて無理ですわ。

虎さん そりゃそうや、熊さんは自分の事さえできかねてるのに・・。

ご隠居 虎さん、ちゃちゃいれんでもええ。熊さん、難しいこと考えんでもええねん。おまはん子供可愛いやろ、それと一緒で神さんもおまはんら可愛いいてならんのや。おまはんも子供同士が仲ようしてたらうれしいやろ。それと一緒で神さんも人間同士が仲ようしてたらうれしいねん。あんたの子供がこうしてくれたら親のおまはんが嬉しいと思うこと、人にしたらええだけや。よふぼくにならせてもらったら、いままでよりちょっとそのことを頭の片隅に入れといたらええのや。それとしっかりさづけの理を使わせてもらいや。

虎さん ご隠居、そのおさづけの理をもろたら、病気助かりますか。

ご隠居 たすかる、みんなたすけてもろたさかい、信仰しているのや。せやけど病気助かるより大事なことがあるで。心が助かることや。病気たすけるのは、おさづけでなくても病院へ行ってもたすかる。せやけどその原因の心は病院ではたすからんのやで。

虎さん またややこしいこと言い出したで。そりゃどういうことですねん。

ご隠居 前にも言ったと思うけど、人間は神様から身体を借りていると言うとったやろ。この世界に生まれてきた時、身体は神さんから借してもらって、心だけ自由に使えるようになってるんや。

心は自由に使えるから、世の中にはどんな心の人もおるやろ。

熊さん そりゃ善人も悪人もいますわな。

ご隠居 そうや、善人も悪人もいるけど、悪人かってはじめから悪人やない。自由に使える心を、悪いように使ってきたから悪人や。人をたすけたいと思ってメスを握るお医者さんもいれば、同じメスを握っても人を殺そうと思う人もおる。その心をかえる、治すことができるのがこの教えなんや。病気は、悪いことに心を使わないようにという神様のサインなんや。だから病気になったら、病気を治すことも大事やけど、その神様のサインを考えることも大事なんや。

熊さん ほんだらご隠居、病気になるのは悪い心を使ったからでっか。

ご隠居 病気になろうがなるまいが、全てが善人の心の人なんかどこにもおらんやろ。

熊さん そりゃそうでんな。虎さん元気やけど、病気の矢七さんほどよっぽど善人ですもんな。

ご隠居 せやろ、神さんから見たら、逆に見所があるさかい、矢七さんを病気にしたんや。

虎さん わしらみどころないんでっか。

ご隠居 赤ちゃんに難しいこと言うてもわからんやろ。おしめつけとるもんに、便所はあっちやから言うて教えても意味ないやろ。

虎さん わしまだおしめつけてまんのか?

ご隠居 神さんから見たらそうかわからんというだけで、そりゃ神さんから見てどう見えるかなんて人間にはわからんことやけどな、そうかもしれんちゅうことや。

熊さん ご隠居なんかもうじき又おしめつけにゃあきませんしな・・。

ご隠居 店賃上げるで。せやけどな、矢七さんもせやけど、神さんの話を聞くのに、元気で何も言うことがなかったら、わざわざ神さんの話聞きたいとは思わんやろ。病気になったり、なんか事情が起こってちょっと立ちどまった時しか人間はなかなか神さんの話聞けんもんや。せやさかい、病気になった時は、神さんがちょっとわしの話も聞いてくれへんかと言うてはる時なんや。神さんの話を聞いて心を治すことが大事やいうのはそういうことなんや。

熊さん ほんだら病気の時は神さんが、ちょっとわしの話聞いてくれ言うてはる時でんねな。

ご隠居 そういうこっちゃな。せやけど、もっとええのは病気になる前に神さんのはなし聞いとくことやで。前もある先生が言うてはったけどな、病人を見舞いに言ったら誰でも、「健康のありがたさがようわかりました」て、言うやろ。せやけどそんな人は元気になったら、健康のありがたさを感謝しやへん、病気になった時、病気のありがたさがわかりましたって言える人が、健康になったら健康のありがたさに感謝できる人なんやそうや。

熊さん なるほどそうかもしれませんな。

ご隠居 せやさかい、元気な時に別席に行かせていただくほどありがたいことはないんや。ということで虎さん、十一月九日に教会でみんなおぢばがえりするそうやさかい、連れてってもろて、別席運ばせてもらい。

熊さん 虎さんそりゃええで。

虎さん なんでそないなりますねん。まあちょっと考えさせてもらいますわ。

可及的速やかに結論を出すよう善処いたします。

ご隠居 なんで政治家みたいになってんのや・・・。