みなの長屋信仰談義  第五章 ひながた

みなのながや信仰談義  三十六

 この信仰談義は教典を中心にした教理を、みなの長屋に住む長く天理教を信仰している物知り顔のご隠居さん、信仰しはじめの熊さん、無信仰の虎さんの三人の会話を通してできるだけ分かりやすく?したものです。

第五章  ひながた ①

教祖は、口や筆で親神の教を説き明かされると共に、身を以ってこれを示された。この道すがらこそ、万人のひながたである。

教祖は、寛政十年四月十八日、前川半七正信の長女として生まれ、名をみきと申される。

幼少の頃から、慈悲と同情の心に篤く、又、深く道を求め、世塵を脱けて、生涯を信仰に捧げたい、と熱願されたが、奇しきいんねんの理によつて、大和国山辺郡庄屋敷なる、中山氏という元のやしきに迎えられ、善兵衛の妻となられた。

以来、益々信心の道に心を磨かれると共に、人の妻として、忠実やかに夫に従い、両親に仕え、家人をいたわり、篤く隣人に交り、又、家業に精を出された。かくて、慈悲と同情の天禀は、愈々深められ、高められて、よく怠者を感化し、盗人を強化されたばかりでなく、自分を無きものにしようとした者に対してすら、その罪を責めることなく、我が身の不徳のいたすところとして、自然のうちにこれを徳化せされた。又、預かった乳児が病んだ時は、我が子、我が身の命を捧げ、真心をこめ、命乞いをして、瀕死の子を救われた。

              (天理教教典 p45~46)

ご隠居 さあ、今月からはいよいよ第五章ひながたに入る。

今までの四章までの教理も、又六章以下は教理をどのように実際の生活に生かしていくかについて書かれているのだが、そのどちらも、全て教祖によって教えられ、そして教祖がお通り下された生き方に全てが詰まっているということを考えれば、ひながたこそが信仰の生命であるという事や。

虎さん と、どこかの先生がおっしゃているんや、と続けなあきませんで。

ひながたというのは、教祖中山みき様の一生のことで、わしらの手本となるから、ひながたと言うんでしたな。

熊さん どしたんや、虎さん。今日はすごいなあ。

ご隠居 ほんまにそやな。ようわかっとるやないか。正確には、教祖のひながたと申し上げる時は、立教以後の五十年間をいうのや。この文は、まだ教祖が親神様の社となられる前の話や。せやから、「深く道を求め、世塵を脱けて、生涯を信仰に捧げたい」というのは、仏門に入りたいということや。

熊さん それでは、「自分を無きものにしようとした者に対してすら、その罪を責めることなく、我が身の不徳のいたすところとして、自然のうちにこれを徳化せされた。又、預かった乳児が病んだ時は、我が子、我が身の命を捧げ、真心をこめ、命乞いをして、瀕死の子を救われた。」と、書いてありますけどどういうことですねん。。

ご隠居 話をすれば長くなるけど、みき様(立教以前なので教祖とは書かないで名前でいうけど)が結婚された当時の中山家は、庄屋もしたような家であり、大勢の下働きの人がいて、その中に「かの」という下働きの女性が、みき様の夫善兵衞さんの寵(ちょう)を良いことに、日増しに増長して勝手の振る舞いが多く、終には、みき様を亡き者にして、わが身がとってかわろうと企て、ある日食事の汁のものに毒をもったんや。虎さん 寵(ちょう)ってなんですねん。

ご隠居 かわいがってもろたいうことや。

熊さん 頭なぜて

ご隠居 まあそういうことやな。

虎さん それだけでっか。

ご隠居 わかってんねやったら聞くな。

熊さん それでどうしたんでっか。

ご隠居 みき様はそれを召し上がられた後、激しく苦しまれた。調べたら「かの」の犯行とわかり、人々は余りの事に驚き怒ったが、みき様は「これは神や仏が私の腹の中をお掃除下されたのです」と、なだめゆるされたそうや。

熊さん でけんことでんなあ、それじゃその「かの」も改心したでしょうな。

ご隠居 そうや深く己の非を詫びて心底から悔い改め、やがて自ら暇をとって身を退いたと、教祖伝には書かれているな。熊さん 瀕死の子を救われたというのは、どんな話でんね。

ご隠居 みき様三十一歳の頃の話やそうやが、子どもを次々と亡くされ、六人目の男の子も、乳不足で育てかねている近所の人がいて、みき様はそれを見るに忍びず、親切にもその子を引き取って乳を与え世話をされていたんや。その時、その子が疱瘡(ほうそう)にかかり、医者にとても助からんと言われたんや。せやけどみき様は何とかたすけてもらいたいと、氏神様に百日の願をかけて自分の娘二人の命を身代わりにさし出し、それで不足の場合は願満ちたその上は私の命も差し上げると、一心に祈願されたのや。

虎さん 何で、その時天理の神さんに頼まへんだんですか。

熊さん まだ立教以前やというとるやろ。みき様もただの女の人やったんや。

虎さん そうかそうか、それでどうなりましてん。

ご隠居 子どもは日一日と快方に向かいやがて全快したが、みき様の次女おやすさんと四女おつねさんは亡くなったんや。

熊さん むごい話でんなあ。

ご隠居 そうや、むごい話や。この点について天理教教典講習録で上田嘉成先生が次のように書いてはる。

「命乞いのくだりですね。ここはどういうふうに悟らせてもらうかということがなかなか容易でないところだと思います。けれども教会を回ったりしていると、時々こういう話に出くわすことがあります。親が布教時代に、今役員になっている者をお救けいただきたいという願をかけて、その代わりに私を差し上げましたので、私には一度もおさづけの理を取り次いでくれませんでした、というような人が時々いるのです。けれども命乞いのくだりは、親神様がこの世の表にお現われになるより十年前の話です。だから一人の命を救けてもらおうとて、子供二人で足りねば自分までと言うて三人の命を差し上げて願うというようなことがあったのです。いつまででも、そんなことを言わしておいては本当にむごたらしいから、親神様がたすけ一条のこの道をお始め下されて、すっきり心のほこりを払って、たすけ一条の誠真実の心を定めたならば、どんな身上でも救けてくださるという結構な教えが始まったのです。」と、いうことや。

熊さん よかった、わしら、自分の子供の命なんかよう差し上げませんから・・・。

虎さん せやけど今は、人助けのために命を差し上げるんじゃなくて、保険金のために子供の命さえ取る人もおりますで。

ご隠居 世も末やなあ。せやさかいこの教えをもっと真剣に伝えていかにゃならんのや。

みなのながや信仰談義  三十七

 この信仰談義は教典を中心にした教理を、みなの長屋に住む長く天理教を信仰している物知り顔のご隠居さん、信仰しはじめの熊さん、無信仰の虎さんの三人の会話を通してできるだけ分かりやすく?したものです。

第五章  ひながた ②

天保九年十月二十六日、齢四十一歳を以つて、月日のやしろと召されてからは、貧に落ち切れ、との思召のままに、貧しい者への施しにその家財を傾けて、赤貧のどん底へと落切る道を急がれた。

この行は、家人や親戚知人に、理解され難く、厳しい忠告や激しい反対のうちに、十数年の歳月を重ねられた。かかるうちに、夫は出直し、一家は愈々どん底へと向つたが、この大節のさなかに、一身一家の都合を超えて、同年、末女こかんを大阪に遣し、天理王命の神名を流された。

このように、常人の及ばぬ信念は、却つて人々の冷笑を呼び、離反を招いて、遂には、訪ねる者もなく、親子三人で食べるに米のない日々を過された。父なき後、一家の戸主となつた秀司は、青物や柴の商によつて日々の生計をはかつた、しかも、教祖は、かかる中にも、人の難儀を見ては、やつと手にした米を、何の惜しげもなく施された。

或る年の秋祭の日に、村の娘たちが、今日を晴れと着飾つて、嬉々としているのに、娘盛のこかんは、晴着はおろか着更さえもなくて、半分壊れた土塀のかげから、道行く渡御を眺めていたこともある。又、夏になつても吊る蚊帳はなく、冬は冬とて吹きさらしのあばら家に、あちらの枝を折りくべ、こちらの枯葉をかき寄せては、辛うじて暖をとり、点す油にこと欠く夜は、月の明りを頼りに、糸つむぎなどして過されたこともある。

 十年に亙る長い年月の間、かかる窮迫の中にも、教祖は、常に明るい希望と喜びとをもつて、陽気ぐらしへの道を説かれた。そして、時には、水と漬物ばかりで過されながら、「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんというて、苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」と、子達を励まされた。

               (天理教教典 p46~48)

ご隠居 今月は、立教から十数年、教祖のひながたの前半部分や。

虎さん わし、ようわからんのですけど、このひながたの話聞かせてもろとったら、貧に落ちきれと、いろんなものをすべて施して貧乏になっていきますやろ。なんでですねん。

熊さん そりゃ、神さんが貧に落ちきれ言わはったからやないか。

ご隠居 そうや、「貧に落ちきれ。貧に落ちきらねば、難儀なる者の味がわからん。」という神様のお急き込みがあったんや。

虎さん せやから何で、貧に落ちきらねばなりませんでしたんやろ。そんな苦労しやんでもよかったん違いますか。

熊さん 神さんがそう言うてはるねから、ええやないか。

ご隠居 その通りや。神様のおっしゃる通りしはったんやからそれでいいと、わしも思うけど、個人的にはこう考えてるのや。というところで、今月は紙面の関係でまた来月ということになった。  

考えてないということではないから、決して勘違いしないように・・・。



みなのながや信仰談義  三十八 

 この信仰談義は教典を中心にした教理を、みなの長屋に住む長く天理教を信仰している物知り顔のご隠居さん、信仰しはじめの熊さん、無信仰の虎さんの三人の会話を通してできるだけ分かりやすく?したものです。

第五章  ひながた ③

ご隠居 先月は、立教から十数年、教祖のひながたの前半部分が、何故神様の思し召しが貧に落ちきれということやったのかという、虎さんの疑問でおわったな。

 それに対して熊さんは、神さんがそういってはるねからええやないか、という意見。そこで、わしがおもむろに意見を言おうと思ったら、枚数が尽きたのやったな。

熊さん 枚数が尽きたって、先月は一枚でしたやんか。

ご隠居 一枚でも尽きたら尽きたんや。

虎さん はいはい、おっしゃるとおりですわ。ほんで、今月はご隠居の考えとやらを聞かせてもらいまひょうやないか。

ご隠居 そないけんか腰でこんでもええやないか。

わしはな、教祖が貧のどん底をお通りくださったのは、陽気ぐらしが目に見えるものによって左右されるもんじゃないというのを、一番わかりやすく教えてくださったんと思うんや。

変なこと聞くけど、虎さん、熊さん、おまはんら幸せか?

虎さん えらいあらたまって聞かれると恥ずかしいけど、まあ幸せと思いますわ。

熊さん わしも、上をみたらきりがないけど、まあ幸せやと思いますわ。

ご隠居 今熊さんが、上を見たらきりがないって言うたけど、もし熊さんに、政府の偉い人か誰かが、お前は不幸せや、お前は気の毒やって言われたらどうする。

虎さん そりゃ昔はやった言葉言いますわ。「同情するより銭をくれ!」って。

熊さん そりゃわしも銭をくれるんやったら、不幸や言われても我慢しますけど、只そう言われるだけなら、余計なお世話ですわ。

「わしが不幸かどうかお前に決めてもらわんでも、わしが決める」と言うたりますわ。

ご隠居 そうや、その通りや。幸せていうのは、人から見て決めるもんと違ごうて、その本人が決めるもんや。何ぼ金が無くて、飯も十分に食えんで、あんな不細工な嫁はんで、出来の悪い子供ばかりおっても、本人が幸せやと思ってたら、幸せなんや。

熊さん えらい言われようですな。なんか不幸せに思えてきましたで。

虎さん それにあんな汚い長屋に住んどるしな。

ご隠居 わしの長屋やがな。

話を戻すけど、幸せは本当は誰が決めるのではなく、自分が決めるもんや。せやけど、今は熊さんも虎さんもよう似たレベルやけど、虎さんが宝くじでも当たって、うちのマンションよりちょっと高級なマンションに移ったとしたら、残された熊さんは、ちょっと不幸に感じるかもしれんやろ。

熊さん そりゃそう思うかもしれませんな。

ご隠居 人間ちゅうもんは、情けないもんで、そんな人との対比の中で、幸せとか不幸とか考えてしまいがちなんや。

 そしてそれに囚われてしまったら、本当は幸せやと喜べることも喜べんようになるんや。虎さんも熊さんもちょっとかんがえてみ、今一番欲しいものがあるやろ、それを必死になって手に入れても、そのときは幸せを感じるかも知れんけど、じきに又何か他のものが欲しなるのや。一番ええ例がお金や。お金は、持ったら持っただけ余計に欲しいなるのや。

虎さん どけちのご隠居さんの言葉やさかい、説得力がありますなあ。

熊さん ご隠居さんの言うことは最もですけど、そんなんみんなわかってますやろ。

ご隠居 そや人間は、みんなそんなことは言われんでもわかってるつもりや。せやけど、見えなくなるんや。それがこわいんや。

 神様からみたら、わしら人間に大きな御守護をくれてるんや。

神様は願いどおりのご守護ではなく、心どおりのご守護やていうのは聞いたことがあるやろ。せやけど、神様は親やから、子供である人間が可愛くて仕方ないから、心の埃を一杯積んであるものでも、ほとんどは神様が帳消しにしてくれて、ほん少しだけ今の自分の境遇に現れているだけなんや。せやさかい、神様からみたらもう今生きているこの状態、この境遇が大きな御守護を前渡ししてくれてるんや。せやけど、人間はそんなんご守護と思わんで、何か欲しいんや。その何かは人と比較してのご守護やから、欲になるのや。「欲にきりない泥水や」ってみかぐら歌にあるけど、欲のご守護を何ぼ願って、もしいただけても、余計に埃積むだけなんや。

 それをわかりやすく、教祖が自らそんなものを捨てられて、しっかりわかるように教えてくれたのが、ひながたの前半やねん。

これは、教祖がわしらに通ることによってしかわからんもんやと教えてくれたのや。

 せやから、ひながたは絶対通らなわからんのや。

虎さん ところでご隠居はこの前半を通られましたんか。

ご隠居 通っていたら、こんなこと言わんでも、わしを見ろとだけいうがな・・・。

熊さん しょうもない落ちがついたところで、又来月へ

 

みなのながや信仰談義  三十九 

    この信仰談義は教典を中心にした教理を、みなの屋に住む長く天理教を信仰している物知り顔のご隠居さん、信仰しはじめの熊さん、無信仰の虎さんの三人の会話を通してできるだけ分かりやすく?したものです。

第五章  ひながた ④

月日のやしろとなられてから、このようにして二十余年を過ごされたが、やがて、をびや許しによつて示された珍しいたすけが、道明けとなり、教祖を生神様として慕い寄る者が、近郷一帯にあらわれた。教祖は、これらの人々に、病の元は心からと教え、不思議なたすけを示されたことは数知れぬほどで、不治といわれた難病も、教祖の前には決して不治ではなかつた。盲人もその場で眼を開き、気の狂うた人も、すみやかに正気に復した。

 かくて、輝かしい道の黎明は訪れたが、それは又同時に、新な苦難への門出でもあつた。嫉妬、猜疑、無理解から起る弁灘攻撃、或は又、白刃を抜いての乱暴狼藉などが、それであつた。かかる煩わしい生活に明け暮れされたが、教祖は、益々心勇み、陽気なかぐらづとめを教え、てをどりの手をつけられた。まことに、そこには、過去三十年に亙ってなめられた苦難の陰影はなく、又、白刃の下をくぐられた酷しい日々の片影さえも窺えない。ただ、一れつの子に、親神の胸のうちを知らせよう、との親心あるばかりである。

 更に、筆をとつて、たすけづとめのしんである人間宿し込みのぢばと、かんろだいの理を明かし、つとめの人衆について教え、なお、証拠まもりや、いき・てをどりのさづけを渡すなど、たすけ一条の道を示された。

 

ご隠居 今月からは、教祖のひながたの後半部分に入る。

立教から最初の十数年、教祖のひながたの前半部分が、親神様の思し召しで、貧に落ちきったと考えれば、今度はいよいよおたすけにかかられ、不思議な御守護をお見せいただくのやが、今度は外部からのいろいろな弁難攻撃が起こるのや。

虎さん をびや許しによって示された珍しいたすけとありますが、をびや許しというのは何ですの。

ご隠居 安産の許しということや。教祖の時代は、まだまだ出産は大変なことで、出産の失敗で命を失ったものもたくさんあるし、今と違って、これは食べたらいかんやとか、こんなことはしてはいかんとか、いろいろな出産についての迷信や差別的な扱いも多かったのや。教祖はおびや許しを出されて、迷信を排し、神様にもたれさえしたら、どんな出産も、無事安産の御守護をいただけるをびや許しをはじめられ、そこからこの信仰に入る人が出てくるのや。

熊さん をびや許しは、心どおりの守護ではなく、願いどおりの御守護でしたな。

ご隠居 そうや、神様はこのをびや許しだけは、「ぢば」に来て願えば、神様の御守護を疑わず、もたれきりさえすれば、必ず願いどおりに守護してやろうと仰せられるのや。「ぢば」は、人間創め出しの元の場所やから、よろづたすけもをびや許しから始ってるのや。

虎さん それで熊さんも四人も、五人も子供ができたんやな。心どおりやったら、そんな簡単にできるわけ無いもんのう。

せやけどご隠居、をびや許しをはじめ、不治の病さえ治ったというんでっしゃろ。みんな感謝こそすれ、なんでそんな弾圧されますんや。

ご隠居 たすけてもろた人はそれはうれしいけど、今まで狐憑きや何やと思ていた人が、そんなたすけをするわけや。その当時は庶民は医者にかかる事はほとんどなく、又医学自体もそんなに進歩していたわけではないやろ。お寺や、神社がそのかわりをしてたんや。その人たちにとっては、商売敵や。それもこないだまで、おかしなったと馬鹿にしていた人、それも女の人や。せやから、余計に弁難攻撃もしやすかったんやろな。

熊さん なんでその人たちに「ばち」当てませんでん。

ご隠居 子供に小便かけられたというて、ばちを当てる親がいるか?。わしらから見たら、腹立つことやけど、教祖から見たら、可愛いもんや。反対するのも可愛い我が子とのお言葉もあるように、にっこり笑ってその中をお通りになっているのや。それどころかそんな中に、慶応二年、三年、明治三年と、現在のかぐらとてをどりのおつとめを教えられているのや。

熊さん そうでんなあ、わしも時々おつとめに合わせていただきますけど、いろんな鳴り物を入れて陽気なもんですなあ。よう考えて見たら、それを教祖が教えられていたときは、山伏が刀を抜いて迫ってきたりと、普通に考えたら生きた心地もせん毎日を過ごされていた時なんですな。やっぱり、神さんでんな。

ご隠居 だから教典にも「そこには、過去三十年に亙ってなめられた苦難の陰影はなく、又、白刃の下をくぐられた酷しい日々の片影さえも窺えない。ただ、一れつの子に、親神の胸のうちを知らせよう、との親心あるばかりである。」と、書かれているのや。熊さんも、おつとめを拝するときは、教えていただいた時の状況を思い出し、このおつとめに込められた親心をしっかり心に刻みながらつとめねばならんで。

虎さん ご隠居、ちょっと神がかってますで・・・・。

ご隠居 教祖が急き込まれたのは、つとめの人衆を揃え、その心を澄み切らせ、しかも一手一つにそろえるということや。  

この普通から見たら厳しい状況の中で、教祖はただひたすら、子供である人間に、たすかりの方法を教えてくださっているのや。つまりつとめとは何で、何故この場所でつとめるのか、どういう意味があるのかを、口ばかりではなく、おふでさきでもお教えいただき、噛んで含めるように教えられているのや。

虎さん 親なればこそでんなあ。

熊さん お前が言うと、冗談に聞こえるで・・・。

ご隠居 いやいや、ほんまに親なればこそや。しかしまだまだ迫害は続くのや。それは又次回や。


みなのながや信仰談義  四十 

   この信仰談義は教典を中心にした教理を、みなの長屋に住む長く天理教を信仰している物知り顔のご隠居さん、信仰しはじめの熊さん、無信仰の虎さんの三人の会話を通してできるだけ分かりやすく?したものです。

第五章  ひながた ⑤

 かかる中にも、厳寒酷暑を問わず、十数度に余る獄舎への御苦労が続いたが、聊かもこれを意にかけず、ひたすら、疑い深く理解の鈍い人心を強化しようと、日夜、手を尽し心を砕き、或は暖かく或は鋭く、折にふれ、人に応じて導かれた。

 かように行き届いた導きによつて、教は、大和はもとより、五畿内から関東、東海に伸び、山陽、四国に及んだ。かくて、教祖を慕う白熱の信仰は、人々の足をぢばへぢばへと運ばせたが、なおも、教祖は、親神の思召のまにまに、終始、かぐらづとめを急き込まれた。

 しかし、迫害は歳を追うて激しさを加え、つとめをすることは、直に、教祖の獄舎へのご苦労となつたが、教祖は、何処においでになつても、平常と少しも変られないばかりか、これを、却つて、表に出るとか、働きに行くとか仰せられて、迎えの役人を、やさしく労われた。

 かかる態度によつて仕込みを受けた人々は、このひながたを慕うて、たすけ一条の上には、我が身どうなつてもと、勇み立ったが、高齢の教祖に、これ以上の御苦労をかけるには忍びなかつた。

虎さん 教祖の教えが、だんだんと広がっていくにつれて、村人たちの反感や、医者、僧侶の非難攻撃があるのは分かりましたが、今度は獄舎への御苦労と書いてありますが、これは警察につかまったということでっしゃろ。なんで警察にまでつかまりますねん。

ご隠居 教祖がこの道を教えていただいたのは、幕末から明治にかけてや。徳川幕府が倒れて、明治初期までは、政府といってもまだできたばかりやさかい、あんまり干渉はなかったんや。神様からみたら、この世界が神様の創られたものやさかい公認ということは何の意味もないことやけど、周囲の人にとっては大問題やったんや。せやから公認されたいと、江戸時代は秀司先生(教祖の長男)が、吉田神祇官領(江戸時代の神社の元締め)に許しを願い出たが、教祖は無意味なこととさとされている。結局吉田家には認められたが、明治の新政府になって反古同然となったわけや。

熊さん 明治になって宗教政策は変わりましてんやろ。なんで天理教は迫害されますんや。

ご隠居 明治政府は、その拠り所として万世一系の天皇制を持ってきたんや。天皇を現人神(あらひとがみ)として、それに添うように宗教を統一しようとしたわけや。

熊さん そうするとちょっと、天理教の教えが加減悪かったということでんな。

ご隠居 そうや、

高山にくらしているもたにそこに

くらしているもをなじたまひい  (13‐45)

(高山(上層社会)に暮らしている人も、谷底に暮らしている人も親神様の子どもとしてまったく平等である。)という、全人類が平等と言う教えと、天皇陛下が神様であると言う教えが並立するのは無理やわな。せやけどここで大事な事は、そんな監獄への御苦労を教祖は御苦労とは思っていられなかったということや。

みへるのもなにの事やらしろまいな 

高い山からをふくわんのみち     (5‐57)

このみちをつけようふとてにしこしらへ

そばなるものはなにもしらすに    (5‐58)

このとこへよびにくるのもでてくるも

神のをもわくあるからの事      (-59)

(大意 見えるといっても何が見えるやら分からないであろう。それは高い山から世界に向って広々とした往還道がつくのである。(5‐57) この往還道を付けようとだんだんと準備をしてきたのであるが、教祖の側の者たちは何も知らないでいる。(5‐58) この所へ警察が呼び出しに来たり、屋敷の中を調べに出て来るのも、親神の深い思惑があってしているのである。(-59)) と、おふでさきで予言されとるのや。

そしてこの一連のおふでさきの歌が作られてから、半年ぐらいたって、この大和神社の節から始る十二年間にわたる教祖の監獄への御苦労がはじまるというわけや。

大和(おやまと)神社のふしと言われる最初の官憲からの呼び出しも、教祖が「大和神社へ行き、どういう神で御座ると、尋ねておいで」との方から高弟の方に聞きに行かせたのが発端となっている。

人間からみればそれこそ、官憲の不当な弾圧というふうに思うかもしれないが、親神様からみれば往還道に至るための高山布教のはじまりなのや。

熊さん そして教祖の御苦労とちょうど反比例するように、教えはどんどん広がって行くんですなあ。

ご隠居 そうや、それがふしぎやなあ。教祖が監獄に御苦労下さる度に、出迎えの人が増えていったということや。監獄から出てくる教祖に向って人々は一斉に拍手を打って拝むんや。警察は怒って止めるんやが、命の無いところをたすけてもろたら、拝まんとおられるかいと、尚も拍手を打って拝む有様で少しも止めることはできなかったということや。

虎さん せやけど教祖、高齢ですさかい、こたえはったでしょうなあ。

ご隠居 教祖の身体は人間の身体や。それも九十歳近い老人や。みんな自分はどんな苦労のなかも、教祖のために通ろうと思っても、教祖のお教えどおりにつとめたら、その一番大事な教祖が、監獄へ連れて行かれるのや。こりゃ、ほんまに大変なジレンマやで。

熊さん ご隠居の口から横文字が出てくるとは思いませんでしたが、ほんまに難しい問題ですわなあ。

ご隠居 そうや、それが、明治二十年一月二十六日の大節につながるのや。


みなのながや信仰談義  四十一 

   この信仰談義は教典を中心にした教理を、みなの長屋に住む長く天理教を信仰している物知り顔のご隠居さん、信仰しはじめの熊さん、無信仰の虎さんの三人の会話を通してできるだけ分かりやすく?したものです。

第五章  ひながた ⑥

 かくて過ぎゆくうちに、明治十九年陰暦十二月八日、教祖の身に異常かうかがわれた。この時、「これは世界の動くしるしや」と仰せになつたが、人々は、どうした親神の思召であろうかと、憂慮のうちに種々と協議を重ね、心の練合いに日を過した。そして、一同の協議に上つた問題で、思案に余る困難な事情を悉く披瀝して、十数度に亙り、繰り返し繰り返し、押しての願いを以て理を伺つた。これに対して示された思召は、常に一貫して、たすけづとめの急き込みで、

  さあ今と言う、今と言うたら今、抜き差しならぬで、承知か。

と、厳しい言葉で、のつぴきならぬ重大時機の迫つている事を暗示された。そして又、

  心定めの人衆定め、事情無ければ心が定まらん。胸次第心次第。

と、己が身上を台にして、一同の決心を促し、

  さあ〱実があれば実があるで。実と言えば知ろまい。真実という

は、火、水、風。

さあ〱実を買うのやで。価を以て実を買うのやで。

とて、胸のおき処を諭された。

 かくも明確に思召を承りながら、直につとめにとりかかれなかつたのは、徹し切れない人間心のはかなさとはいえ、教祖の身に降りかかる御苦労を、気遣うたからである。

 

熊さん 教祖の身に異常がうかがわれた、とありますが、どないしやはりましたん。

ご隠居 教祖伝によると、教祖が風呂場から出られるとき、ふとよろめかれたのや。その時のお言葉や。

 人々は容易ならぬ出来事が起こるのではないかと考え、練りあい、談じ合いを重ねるとともに、幾度となく神様へもお尋ねをするんや。このときに、熊さんも聞いた事のあるような有名な「おさしづ」が、いくつも出されてるのや。

虎さん 結局神様と人間の間で、どんな問題があったわけですか。

ご隠居 神様は、人間が陽気ぐらしをするための方法として、おつとめを教えてくださり、その実行をせかれているわけや。せやけど、昨月も言ったようにおつとめをすると、教祖が警察へ引っ張られるわけや。これも今から考えさせていただくと、人々の心を、しっかり神一条の心にするための神様のお計らいやが、そんなことは当時の人にはなかなか理解できんかったんや。また出来たとしても、目の前の教祖が御苦労されるんは、人間として忍びなかったということや。

熊さん もひとつようわからんのですけど・・。

ご隠居 それやったら、その時のおさしづに沿って、ちょっと話してみようか。その方がわかりやすいかもしれんな。

 何回も読ませていただいたら、当時の雰囲気や、神様の思い、人間の側の考え方というものが分かると思う。説明するのが難しいからいうているんや無いで。

熊さん それじゃしっかり読ませていただきますわ。

 

おさしづより

明治二十年一月四日 (陰暦十二月十一日)

 教祖お急込みにて御身の内御様子あらたまり、御障りに付、飯降伊蔵へ御伺いを願うと、厳しくおさしづありたり。(教祖御居間の次の間にて)

 

さあ/\もう十分詰み切った。これまで何よの事も聞かせ置いたが、すっきり分からん。何程言うても分かる者は無い。これが残念。疑うて暮らし居るがよく思案せよ。さあ神が言う事嘘なら、四十九年前より今までこの道続きはせまい。今までに言うた事見えてある。これで思やんせよ。さあ、もうこのまゝ退いて了うか、納まって了うか。

 

この時教祖の御身上は冷たくなる。それに驚き、一月五日(陰暦十二月十二日)より鳴物不揃にて御詫のおつとめ為したれども、おつとめ内々故、門を閉めて夜分秘そかにする為にや、教祖は何も召し上らず、八日(陰暦十二月十五日)の夜の相談には(当時居合わせし者は昨年教会の話合いの人なり)、世界なみの事二分、神様の事八分、心を入れつとめを為す事、こふき通りに十分致す事に決まり、明方五時に終る。

九日(陰暦十二月十六日)の朝より教祖御気分宜しく、御飯も少々ずつ召し上りたり、それ故皆々大いに喜び居ると、又々教祖より御話あり。

 

明治二十年一月九日(陰暦十二月十六日)

 教祖御話

 

さあ/\年取って弱ったか、病で難しいと思うか。病でもない、弱ったでもないで。だん/\説き尽してあるで。よう思やんせよ。

 

右の如く仰せあり。然るに一月十日(陰暦十二月十七日)には、教祖御気分宜しからず、午後三時頃皆々驚き、又相談の上御次の間で飯降伊蔵に伺う、『教祖の御身上如何致して宜しく御座りましようか。おつとめも毎夜致さして頂きますが、夜ばかりでなく、昼もつとめを致さして貰いましようか、すっきりなる様に御受取り下されましようか』と伺う。

 

明治二十年一月十日(陰暦十二月十七日)

 飯降伊蔵を通しておさしづ

 

さあ/\これまで何よの事も皆説いてあるで。もう、どうこうせいとは言わんで。四十九年前よりの道の事、いかなる道も通りたであろう。分かりたるであろう。救かりたるもあろう。一時思やん/\する者無い。遠い近いも皆引き寄せてある。事情も分からん。もう、どうせいこうせいのさしづはしない。銘々心次第。もう何もさしづはしないで。

 

右によりて一同打驚き、談合の上真之亮へ申上げて銘々も心定めを為す。その日の人は、前川菊太郎、梶本松治郎、桝井伊三郎、鴻田忠三郎、高井猶吉、辻忠作、梅谷四郎兵衞、増野正兵衞、清水与之助、諸井国三郎なり。右の者真之亮へ神様の道の御話の事を迫りしところ、何れ考の上と仰せあり。夜九時過ぎ又々相談の上、鴻田忠三郎、桝井伊三郎、梅谷四郎兵衞、増野正兵衞、清水与之助、諸井国三郎、仲野秀信、真之亮の御返事なき故、前川、梶本の意見を問う。両人より真之亮の御返事を聞く事となりぬ。而して今夜は神様の仰せ通り徹宵つとめするには、上の処如何なるやと心配にて決定せず。これも真之亮より神様へ伺う事となり、夜明けて皆々休息す。

一月十一日(陰暦十二月十八日)朝教祖の御気分宜しく、御床の上にて御髪を櫛けずらせ給う。十二日(陰暦十二月十九日)夜も亦御伺いの事に付、真之亮の御返事を待ちたりしに、明方三時頃その返事あり。よりて真之亮に、前川、梶本両人差添いの上、教祖に伺う。

 

明治二十年一月十三日(陰暦十二月二十日)

 教祖御話

 

さあ/\いかなる処、尋ねる処、分かり無くば知らそう。しっかり/\聞き分け。これ/\よう聞き分け。もうならん/\。前以て伝えてある。難しい事を言い掛ける。一つの事に取って思やんせよ。一時の処どういう事情も聞き分け。

 

押して、真之亮より「前以て伝えあると仰せあるは、つとめの事で御座りますか。つとめ致すには難しい事情も御座ります。」と申し上げられると、

 

さあ/\今一時に運んで難しいであろう。難しいというは真に治まる。長う/\長う四十九年以前から何も分からん。難しい事があるものか。

 

真之亮より答「法律がある故、つとめ致すにも、難しゅう御座ります。」と

 

さあ/\答うる処、それ答うる処の事情、四十九年以前より誠という思案があろう、実という処があろう。事情分かりが有るのか無いのか。

 

真之亮より「神様の仰せと、国の掟と、両方の道の立つようにおさしづを願います。」

 

分からんであるまい。元々よりだん/\の道すがら。さあ/\今一時に通る処、どうでもこうでも仕切る事情いかん。たゞ一時ならん/\。さあ今という/\前の道を運ぶと一時々々。

 

真之亮「毎夜おつとめの稽古致しまして、しいかり手の揃うまで猶予をお願い致します。」

 

さあ/\一度の話を聞いて、きっと定め置かねばならん。又々の道がある。一つの道もいかなる処も聞き分けて。たゞ止めるはいかん。順序の道/\。

 

真之亮「講習所を立て、一時の処つとめの出来るように、さして貰いとう御座ります。」

安心が出けんとならば、先ず今の処を、談示々々という処、さあ今と言う、今と言うたら今、抜き差しならぬで。承知か。

 

真之亮「つとめ/\と御急き込み下されますが、たゞ今の教祖の御障りは、人衆定めで御座りましようか、どうでも本づとめ致さねばならんで御座りますか。」

 

さあ/\それ/\の処、心定めの人衆定め。事情無ければ心が定まらん。胸次第心次第。心の得心出来るまでは尋ねるがよい。降りたと言うたら退かんで。

 

押して願(明け方教祖御身上に付願)

 

さあ/\いかなる事情。尋ねる事情も、分かり無くば知らそ。しっかり聞き分け。これ/\よう聞き分け。もうならん/\/\。難しい事を言い掛ける。一つ心に取って思やんせ。一時の事情、どういう事情を聞き分け。長らく四十九年以前、何も分からん中に通り来た。今日の日は、世界々々成るよう。

 

引続きて真之亮より「教会本部をお許し下された上は、いかようにも神様の仰せ通り致します。」

 

さあ/\事情無くして一時定め出来難ない。さあ一時今それ/\、この三名の処で、きっと定め置かねばならん。何か願う処に委せ置く。必ず忘れぬようにせよ。

 

(三名とは真之亮及前川、梶本両人の事なり)

真之亮「有難う御座ります。」と

 

さあ/\一時今から今という心、三名の心しいかりと心合わせて返答せよ。

 

引続き真之亮「このやしきに道具雛型の魂生れてあるとの仰せ、このやしきをさして此世界始まりのぢば故天降り、無い人間無い世界拵え下されたとの仰せ、上も我々も同様の魂との仰せ、右三箇条のお尋ねあれば、我々何んと答えて宜しう御座りましようや、これに差支えます。人間は法律にさからう事はかないません。」

 

さあ/\月日がありてこの世界あり、世界ありてそれ/\あり、それ/\ありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで。

 

続きて真之亮「我々身の内は承知仕りましたが、教祖の御身の上を心配仕ります。さあという時は如何なる御利益も下されましようか。」

 

さあ/\実があれば実があるで。実と言えば知ろまい。真実というは火、水、風。

 

押して願

 

さあ/\実を買うのやで。価を以て実を買うのやで。



みなのながや信仰談義  四十二 

   この信仰談義は教典を中心にした教理を、みなの長屋に住む長く天理教を信仰している物知り顔のご隠居さん、信仰しはじめの熊さん、無信仰の虎さんの三人の会話を通してできるだけ分かりやすく?したものです。

第五章  ひながた ⑦

 

 その年も暮れ、明けて明治二十年陰暦正月二十五日になつて、気分甚く勝れられず、どうしたことかと思召を伺えば、

 「さあ〱すっきりろくぢに踏み均らすで、さあ〱扉を開いて〱、一列ろくぢ。さあろくぢに踏み出す。さあ〱扉を開いて地を均らそうか、扉を閉じて地を均らそうか〱」

との仰せであつた。真意を解しかねた一同が、扉を開く方が陽気でよかろうとの思いから、扉を開いてろくぢにならし下されたいと申上げると、

「一列に扉を開く 〱〱〱。ころりと変わるで。」

と仰せられた。

 明くれば二十六日、教を開かれた元一日の縁の日であり、しかも、つとめを急き込まれることが、極めて急であるので、今は、最早や躊躇している場合でないと、一同深く心に決して、万一に備える準備を整え、常になく鳴物までもいれて、つとめにかかつた。

 教祖は、休息所にやすまれながら、この陽気なかぐらづとめの音を聞かれ、いとも満足げに見うけられたが、北枕で西向のまま、静かに眠りにはいられた。齢、正に九十歳。

 教祖は、現身の寿命を二十五年縮めて、姿をかくされたが、魂は永久に元のやしきに留り、存命のまま、一れつ子供の成人を守護されている。

 

  にんげんをはじめたをやがも一にん

  どこにあるならたつねいてみよ  (教典p53―54)

 

ご隠居 さあこれからが、教祖が現身を隠されるところや。信仰の白眉や、ここがわからんと何もわからんとこや。

虎さん 現身て、なんですねん。

ご隠居 教祖の現実のお身体のことを、現身と書いて、うつしみというのや。、教祖の時にしか使わないけど、おまはんらも知っているように教祖は身体は人間の身体やけど、心は神様や。月日のやしろとしてもらい受けられたのは知ってるやろ。どこの社でも、お社自体は木でできているが、中には神さんが入っているね。教祖の場合は、神さんが、中山みき様という人間を「やしろ」としてもらい受けられたわけや。せやさかい「おふでさき」にも 

いまなるの月日のをもう事なるわ

くちわにんけん 心月日や(十二 67)

と書かれているのや。

熊さん もうひとつよく分からんところがありまんねん。今までの話を整理させていただくと、教祖はおつとめを急き込まれたわけですねやろ。せやけど人間の側が、おつとめをすることによって教祖が警察に引っ張られたりするのを恐れて、なかなかおつとめにかかられへんだわけですな。そういっておつとめをせんかったら、ますます教祖の身体が弱られるので、ついに二十六日におつとめをすることを人間も決意したわけですな。

ご隠居 そうやその通りや。

熊さん 二十五日に尋ねてますやろ。それで扉を開くほうが陽気でよかろうということで、扉を開いたら教祖がなくなったんでっしゃろ。それはどういうことでんねん。

ご隠居 亡くなった違う、現身を隠されたというてるやろ。教祖の場合は、身体は消えたけど魂はそのまま「もとのぢば」に留まって今もたすけをしてくれているのや。

 それでさっきの話にもどるけど、人間の方は扉を開いたほうが陽気でよかろうと扉を開いてくれと言うたけど、社の扉を開くということは、人間の身体である教祖の身体つまり社から、魂が出て行くということや、それに気づかんだわけやな。

熊さん 社の扉を開くというのが、現実の教祖がいなくなるとその当時の人にとっては分からんかったということですやろ。そこがわしもわかりませんね。なんで神さんもっと分かりやすいように説明してくれなかったんでっしゃろ。

ご隠居 そこや。

虎さん どこですねん。

ご隠居 古典的な突込みをするな。わしも昔はそう思ってたんや。

十一に九がなくなりてしんわすれ

正月二十六日をまつ (3 73)

と、おふでさきのお言葉もあるように、教祖が九十歳で現身を隠されるというのは、既定の事実やったということもあると思う。せやけどもっと大事なことは、意味が分かっても分からんでも、言ったことは必ずその通りにしてくださるということを思うのも大事やと思てるんや。教祖が現身を隠されて途方にくれた人々は本席様におさしづを願うんや。そしたら、

「前略 扉開いてろっくの地にしようか、扉閉めてろっくの地に。扉開いて、ろっくの地にしてくれ、と、言うたやないか。思うようにしてやった。後略」

とのお言葉が下るんや。

このことは非常にだいじなことを二つ教えてくれてるんやと思うねん。結局その当時の人々にとっては、神様のお言葉の意味がわからなんだんや。それでも神様は、それ以上説明はされず、わかってもわからなくても人間の言うとおりにしてくださるということ。もう一つは、たとえその結果が、人間にとって思わしくないように見える結果が出ても、人間なりに一生懸命つとめた結果であるなら、長い目で見れば、必ずよい結果となってかえってくるということや。

虎さん それはどういうことでんねん。

ご隠居 教祖が現身を隠されてから、十年の間に、天理教は急速に伸びていったということなんや。明治二十年には数万の信者しかいなかったの天理教が、十年後の教祖十年祭には、三百万近い信者数になってるんや。

熊さん そりゃすごいですなあ。みんなご存命の教祖を信じて働かはったいうことでんなあ。

ご隠居 そうや。教祖が現身を隠された時は、みながこの教えももう終りやと思ったんや。せやけど、神様の思いとご守護は違ったということや。それはいつも忘れてはいけないことやと思うんや。

それとわしこの明治二十年のことについてはもうひとつ是非言うておきたいことがあるんや。

これはわしの悟りというか、そうおもてるんやけどな、

元の理というお話、前に話したやろ。

虎さん 人間を創造した時からの話ですな。

ご隠居 そうや、あれはわしは人間の形というか、今の人間の形になるまでの身体の成長の話のように思うねん。

教祖がこの世界に現れてからは、今度は魂の成長がはじまるんやとおもうねん。人間は教祖に話を聞かせていただくまで、自分が幸せになりたい、自分が助かりたいと思ってきたわけや。この当時の先生方かって、みんな始めは自分や家族の病気や事情を助けてもらいたくて入信したんや。それが、明治二十年一月二十六日、「命すてても」とのお言葉どおり、自分が助かりたいと思っていた人が、自分の命を捨てても、おつとめ、おつとめというのは、よろづたすけのもとと教えていただくように人を助けるためのもんやから、自分の命を捨てても人に助かって欲しいというふうに心が変わってるんや。

元の理で、人間が三寸から、四寸、五寸と出直しを繰り返すたびに少しずつ成長し、教祖の魂であるいざなみの命が「いずれ五尺の人間になるであろうとにっこり笑ろうて身を隠された、という場面と明治二十年の教祖のお姿がだぶってくるんや。自分がたすかりたいとばかり考えていた人間が、人をたすけるために自分の命を捨ててもという気持ちになったことを見届けて、教祖はいずれ全ての人々が教祖のお考えになるような人間に成人できるであろうとにっこり笑って身をかくされたんじゃないかと・・・。

わしは思うてるんや。人間の身体がその時点から何千回の出直しや生まれ変わりを繰り返して今の五尺の人間にまで成長したのと同じように、人間の魂の成人もまだまだ何千回の生まれ変わりを繰り返しながら、だんだんと心の成人がおこなわれるんや・・・・。うっつ・・・。

熊さん ご隠居さん、ご隠居さん。大丈夫でっか。あ、えらい熱や。興奮しすぎやで。

虎さん ご隠居さんが生まれ変わりをくりかえしそうやがな。

熊さん ご隠居さん、おっしゃることはようわかりました。

今日は、このへんにしときまひょか。

〔ご隠居、熊さんに担がれて退場する〕

 

みなのながや信仰談義  四十三 

   この信仰談義は教典を中心にした教理を、みなの長屋に住む長く天理教を信仰している物知り顔のご隠居さん、信仰しはじめの熊さん、無信仰の虎さんの三人の会話を通してできるだけ分かりやすく?したものです。

第五章  ひながた ⑧

ご隠居 さあこれで、ひながたは終りやが、虎さん、熊さんようわかったかい。

虎さん はあ、わかったような、わからんような・・。

ご隠居 何がわからんのや。あんだけ一生懸命話したのに・・。

虎さん ご隠居の熱意はようわかりましたけど、せやけど

熊さん 虎さん、わかったいうとかな、ご隠居、また神がかりモードに入りはるで・・。

ご隠居 もう遅い!。それじゃもう一度しっかり話をするさかい、よう聞いときや。

教祖は人間創造の時、「いざなみのみこと」のたましいを持ったお方やったわけや。いざなみのみことは人間宿しこみのとき、女雛形・苗代の理の役をされた方で、簡単に言えば人類全部の母親という訳や。そのお方が、宿しこみの時の親神様との約束によって、子数の年限、つまり九億九万九九九九年たったとき、人間宿しこみの元の場所であるぢばにあった中山家の人としてもう一度この世界に現れてくださったのや。それが立教の三大いんねん、教祖たましいのいんねん、やしきのいんねん、旬刻限の理と聞かせていただくのや。そして立教以後は、もう一度私たち人間の親として人間創造の目的を教え、しかも自らが実際にお通りくださり、本当の生き方を教えてくださったのや。その教祖の歩んで下さった生き方を「ひながた」と申し上げ、私たちもその万分の一でも通らせていただきたいと念じているわけや。

熊さん ほら始まったやないか。虎さん、はよわかりましたと言わな。

虎さん ご隠居かんべんしてください。ようわかりました。

ご隠居 かんべんしてくれとはどういう意味や。なんかわし悪いことしてるみたいやないか。

 虎さんは、信仰気がないと言うてるからようわからんかもしれんけど、わしはなあ、もうええ年や。おやじもおふくろもとうの昔に死んでしもた。せやけど教祖が、存命の教祖が実の親以上にわしのことをいつも心配してくれてると思たら、なんとも言えん気持ちになる時があるのや。

虎さん わしもそれはわかりますわ。わしもこないだから親亡くしましたやろ。それまでそない思わんだけど、亡くなったら急にさびしなって教祖殿へ参拝したことがありますねん、そしたらなんかほーと楽になりましてん。

ご隠居 そやろ、教祖は天理教を信仰しとる、しとらんにかかわらず、わしらみんなの親なんや。そんな教祖に悲しい思いをさせてないかとしっかり反省することが、わしらの教祖百二十年祭やとわしは思てるんや。