月次祭祭典講話

神殿講話 立教167年4月

只今は結構に四月の月次祭をつとめさせていただきました。誠にありがとうございました。誠に届かないものではございますが、ご指名を頂きましたので、しばらくの間お話をさせていただきます。

本日はあと大きな喜びの行事もございますので、出来るだけ短くさせていただきたいと思っております。

今月十八日には、おぢばで教祖の二百六回目の誕生祭が盛大につとめられました。

そして只今はその教祖の、百二十年祭三年千日活動の真っ最中、まさに実動の旬とお聞かせいただきます。私達は今年祭活動真っ最中、実動の旬と本当に思い、そして勇み立っているでしょうか。

真柱様は今年の春季大祭の神殿講話で、

「三年千日という言葉は、教祖の年祭活動に限らず、年限を仕切る時に私達はよく使っているのでありますが、そもそもは、ひながたの道を通るべき年限の目安としてお示しくださったものであります。明治二十二年十一月七日のおさしづの中で、『ひながたの道通れんようなことではどうもならん。長い事を通れと言えば、出けんが一つの理』と仰せになった上で、せめて千日、ひながたの道を通れ、とお諭し下さっているのであります。」と話され、続いて「この三年千日は、ひながたの道をひながた通りにたどらせていただく三年千日として、教祖の道を思案しながら歩むことが肝心」であり「そして何よりも、教祖がよく頑張ったとと喜んでくださるようなつとめ方をさせていただきたいと思います」と御話し下さいました。

私は申し訳ないけれど、この真柱様のお話を聞かせて頂いて、改めてこの三年千日ということはそういうことなのだと再認識したのであります。そして教祖や真柱様によく頑張ったと喜んでいただけるまではなかなかできなくても、せめて私の大変尊敬する前会長様、そして私が心より敬愛して止まない大教会長様に少しでも喜んでいただけるような通り方をさせていただきたいと思わせていただいておるのであります。

ですから改めて今からしっかりと教祖のひながたの万分の一でも通らせていただきたいと思っているのですが、その教祖のひながたの道を通るということについて自分が注意しなくてはならないと思っていることが2つあります。そのことについてお話させていただきたいと思います。

私が、教祖のひながたの道を通るということについて自分が注意しなくてはならないと思っていることの、一つはカン違いしないこと、もう一つは「それはそれ、これはこれ」と思わないということです。

人間はだれでも自分の事は良く見えるものです。ですから通ってもいないのに、通っているつもりになってしまうこともないとはいえないのです。そしてそれが大きなカン違いなのです。

皆様方から見たらどう見えるか知れませんが、私は自分を苦味ばしった中年の男前だと思っています。それはなぜか、鏡を見ないからなのです。

私の後頭部はうすくなってきたようです。見えるようですというのは、実際は見たことがないのです。詰所の教養掛りの部屋の鏡は、ちょうど後頭部に電気が当たってよく見えるようになっていますが、まじまじと見たことはありません。真実を見るのが怖いからです。真実を見なければ自分はまだまだ男前で髪の毛もふさふさだと思っていられるのです。

私だけでなく人は皆自分を、実際の自分よりよく見ようとしているのではないでしょうか。女の人が化粧するのも、素顔より不細工になろうと思って化粧している人はいないと思います。結果的にそうなっている人はいますが・・。

人間は自分を実際の自分よりよく見せたいと思うし、またもっと重要なことは、人は鏡に映る本当の自分を見たくなく、鏡に映る自分より本当の自分はもっといいとカン違いしているのが人間なのだと思うのです。

人は自分の見たいものしか見ないし、都合のよいことしか聞こうとしないのです。

そして問題は、それが自分の容姿だけではなく、心についても同じなのではないかということです。

私は自分では、自分が素晴らしい信仰者だとまでは思っていませんが、そこそことは思っているのです。教祖のひながただって、ちょっとは通っているつもりなのです。ところがそれは大きなカン違いなのです。

自分がいかに自分の心を過大評価しているかをまざまざと教えられる機会がありました。先日、私共の教会が隣地を買わせて頂きました。これはこれで結構なご守護であり、大変ありがたくうれしいことだと思っています。ところが今までから隣地は空き地で駐車場になっていたのですが、買うまでから月次祭の日には悪いと思いながら勝手に信者さんの車を置かせて頂いていたのです。ところがいざ教会の土地になって、先日知らないトラックがおいてあるのを見ると何で勝手に置いてるんやと心がざわつくのです。それもはじめはその心がざわつくことを何とも思わなかったのです。思わなかったどころか、信者さんと「勝手においてもろたら困るな」と話をしていたぐらいでした。二日目ぐらいにやっと、教祖のお話を一つ思い出しました。泥棒と鉢合わせをして、その泥棒がびっくりして荷物を盗らずに逃げたことを教祖にお礼申し上げたら、教祖が「欲しい人にもろてもろたらもっとよかったのに」と仰せられたという逸話篇のお話です。

他に何の仕事もせずに、神様の御用だけをしていれば自分は道一条を通っているつもりになりがちなのです。教祖のひながたの万分の一でも通っているつもりなのです。隣地を買わせていただけたというおおきなご守護を教会は頂きましたが、教会が立派になることで、自分までも立派になったとカン違いしていたのです。教会は立派になりましたが、私は教祖のお話を忘れ、自動車を置きたい人においてもろたらもっとよかったのにとなかなか思えないどころか、そんな思えない自分にさえ、すぐには気づけなかったのです。

そんな話を信者さんに申し上げるとある信者さんが、「せやけど会長さん。それはそれ、これはこれでっせ。なかなかそんな風にはなれませんぜ」と言ってくれました。慰めてくれているのか、それとも諦められているのか、大変微妙なんですが、確かになかなか教祖のひながたをひながたどおりには通れないのです。そしてもっと問題なのは「それはそれ、これはこれ」という気持ちが、ちょうど私がなかなか気づけなかったように、ほとんど無意識に、自分の中にはびこっていることなのです。

今ここにおいでになる方の中で、教祖の五十年のひながたの道を知らない人はないと思います。そしておそらく、私だって皆様程度には教祖のひながたの道をお聞かせいただいているのであります。そのお聞かせいただくひながたを、無意識のうちにこの話は、ええ話や、この話はすごい話や、せやけどこのようにはなかなか通れへんと意識しているのではなく、半ば無意識のなかで、これはこれ、それはそれと分けていることはないでしょうか。

例えば私は腹立てであります。腹を立てるのは心の済んだるとは言わんとお聞かせいただいていますが、腹を立てているときに、もし嫁さんにそんなことを言われたら、何えらそなこというてるんや、とさらに逆上するのがおちであります。

おさしづに八つのほこりについて、「「日々八つ?のほこりを諭して居る。八つ諭すだけでは襖に書いた絵のようなもの。何遍見ても美し描いたるなあと言うだけではならん。」明治治32年7月23日

とお聞かせいただきますが、「それはそれ、これはこれ」と思う限り、私にとって八つのほこりは襖に書いた絵にすぎないのです。

 それでも日々神様の御用をして、自分の心を振り返ることが出来なければ、いつまでたっても、自分は少しは通っているつもりになるのです。

 ちょっと申し訳ない言い方かもしれませんが、ここで一番問題なのは、ひながたの道を通っていないことではなく、通っていないことさえも忘れて、ちょっと神様の御用をしていることで、自分は通っているつもりになっていることなのです。私達は教祖のひながた、教祖のひながたとよく申し上げます。しかし自分と教祖の違いが心底わからずに、ただ口だけで唱えているだけではないかと言うことを、まず自分自身に問い直すことからはじめたいと思うのです。

よくにきりないどろみずや、心澄み切れ極楽や。10―4

というお歌があります。心さえ澄み切れば、ごくらくやとお聞かせいただきます。しかし、心を澄み切るというためには、自分の胸がよくにきりないということを本当に自覚することが大事なのでもあります。家でも何でも、汚いと思わなければ掃除はしません。汚いと思って初めてそうじをするのです。

そして部屋は汚いと分かるが、自分の心は汚いとはなかなか思えない。

しかし、本当は自分が思っている以上に自分の心は汚く、濁っているのです。その心、欲にきりない心をしっかりと見つめなおすこと、それがひながたを通らせていただくための第一歩なのではないかと私は思っています。

最後に明治三十一年一月十九日のおさしづを少し割愛して読ませていただきます。

「前略 皆心病み、人間心病み、人間の心を立てヽ神の理そこ退け。そこで、どうもならん理になる。暗がりの理を以って通るから、暗がりになりたら足もと暗がりになる。何も分からん。中略 人間心立てヽ神の理薄なる。神の理薄なりて何の守護有るかないか、よう聞き分け」

 人間心立てて、神の理そこ退け、人間心立てヽ神の理薄なる。神の理薄なりて何の守護有るかないか、よう聞き分けとお聞かせいただきます。この旬に自分は人間心を知らず知らずのうちに立てていないか、立てているはずなのです。立てているはずの自分に気づいていない自分に気づかせていただき、もう一度しっかり自分の中に教祖を置きなおさせていただき、真柱様が仰せ頂きますように、ひながたの道をひながた通りに通らせていただく努力をさせていただくことが私達の年祭活動の基本にさせていただかねばならないと思います。ご清聴ありがとうございました。