信仰談義

今月の少女趣味こうなあ十五

わたしたちの信仰談義①

                     樋口孝徳

この信仰談義は、大教会創立130周年を立教百八十六年に迎える私たちの信仰を、もう一度再確認するために、長く天理教を信仰している物知り顔の分教会前会長のご隠居さん、信仰熱心な熊さん、ちょっと疑い深い虎さんの三人の会話を通して現在の問題点を、できるだけ分かりやすく?考え、成人の一助にしようとしたものです。

一、日本が変わってきた    その一

虎さん  よう熊さん、どこへ行くんだい。

熊さん  おう、虎さんかい。これから教会へ参拝に行くんだ。

虎さん   わしも信仰させてもらってるけど、熊さんはえらいな。わしら教会へ行くメリットが感じられへんね。

熊さん  わしに言わせたら、そのメリットという言い方が、

    悪しき資本主義に毒されている証拠だと思うぞ。 

虎さん  えらく小難しく出ましたな。何の話なんや。

熊さん  こないだ教会で話をしていて、どうも天理教が元  

    気がないという話になって、その原因をわしらなりに探ることになったんや。教会のご隠居も、会長を引かはって、することがないようで、ご隠居と二人でその話をしているんや。

虎さん  そりゃ暇な話やな。せやけど、わしもついていくわ。ご隠居には世話になったさかい、話聞くのも、人助けや。

熊さん  それでは、二人で教会へ参拝して、ご隠居さんのお話を聞かせてもらおうか。

(参拝を終わって前会長の前で)

虎さん  前会長さん、久しぶりでございます。

ご隠居  おう、虎さんかい、久しぶりやなあ、ご隠居さんでいいよ。

虎さん  熊に聞くと、ご隠居さんと与太話、いえ良い話をされているとお聞きしましたので、わしも聞かせてもらいたいと伺いました。

ご隠居  そうか、よう来てくれたな。こないだ熊さんが、天理教も昔みたいな活気が少し無くなってきたというから、ちょっと一緒に、なんで活気が減ってきたか考えようという話になったんや。

虎さん  そんなことご隠居はわかるんですか。

ご隠居  いや、わしかて、ようわからんけど、ちょっと思うことはあんねん。この百年で世の中は恐ろしいほど変わったやろ。その変わり方を見て行けば、見えてくるものがあるんやないかと思うねん。

     一番目は、地域社会の変化や。これは産業革命以降の経済の大発展に関係している。そしてそれに伴う経済至上主義がわしらの心を取り込んでいる。

虎さん  ハハーン。それで熊さん、悪しき資本主義に毒されているとか言うててんな。

ご隠居さん、お説はごもっともではございますが、もう少しわかるように話をしてくれませんか。

ご隠居  おまはんらは、ここに代々住んでいるけどな。

昔と今とだいぶ変わったように思うやろ。

虎さん  そりゃ、第一人が減りましたわ。わしらの頃は、人口八千人と言うてました。一万人で町になると言われてたので、町になるのを楽しみにしてましたんや。それが、今は二千人切ってますもん。

熊さん  ほんまにそうですわ。みんな都会に行ってしまい

    ましたから、仕方ないことですけど・・。

ご隠居  虎さんの言うように、この村の人口もあっという

    間に減ってしもた。これは全国的な風潮で、高度成長期と言われた一九六〇年代から、東京、名古屋、大阪などの大都市圏への人口の流入がはじまり、田舎の人口はどこもあっという間に減ったんや。

熊さん  都会ほど稼げますからな、しゃあないことですわ。

ご隠居  わしらの子供の時代は、みんな村に住んで、村か  

    ら出たことがないという人も、何人もおった。それ

が自動車ができて都会へも簡単に行けるようになったし、都会ほど給料が良いということでみんな勤め人になったんや。

虎さん  そうでんな。昔は村の中で買い物をして、村の中だけで生きていけましたけど、村の店もほとんど閉めてしまいましたな。

ご隠居  戦前はまだ親の職業を継いでいた人が多かったんや。そして、次男や三男が村を出ていくというパターンやな。それが先ほど、熊さんが言うたように、都会ほど稼げるさかいと、長男も家を出ていくようになった。

虎さん  わしの同級生も、村を出て行った人が多いで。

熊さん  わしの同級生もほとんどそうや。

ご隠居  これは経済の大発展によって、地域社会が根こそぎ変わってきたということやな。

     そして地域社会が変わっただけではなく、人の思いも変わってきたのや。

虎さん  人の思いが変わるとはどういうことですか。

ご隠居  そのことは次回としようか。

わあわあ言いながら長屋談義は続きますが、お後は次回ということで

 

 

 

 

 

わたしたちの信仰談義②

 この信仰談義は、現在の問題点をできるだけ分かりやすく?考え、成人の一助にしようとしたものです。

一、日本が変わってきた     その二

虎さん  ご隠居さん、人の思い方も変わってきたと言われましたが、どういうことですか。

ご隠居  おまはんら、子供の時に、よう「おてんとうさんが、見ているで」みたいなこと言われへんかったか。

熊さん  そういや、おばあさんに子供の頃、いたずらしたら、「誰も見てへんでも、おてんとうさんは見ているで」、そんなこと言われた覚えがありますわ。

虎 さん  わしも、近所のおっちゃんに、おっちゃんとこの柿を取ったやろと言われて、取ってへんと言うたら、「まあええわ。せやけどおてんとうさんは、見てはるで」と言われました。ほんまはとってたから、お日さんに追いかけられてる夢見たん、いまも覚えていますわ。

ご隠居  ほんだら、今度はあんたらが今の子供にそんな話したことあるか?

虎さん  いや、今どきの子供はそんなん迷信やと言うにきまってますわ。太陽は人じゃないとわかってますもん。

ご隠居  わしも戦後生まれやから、学校で宗教的なものは一つも教わっていないけど、家が教会やったし、神様や、目に言えないものに対する畏敬の思いは自然に心の中へ芽生えてきたけど、今の子はと言うより今の親は、そんな宗教的な環境に育ったわけではないし、田舎にはあっても、自分の家に仏壇や神棚がない子もいると思う。それで宗教的な素養がないのは仕方がないけど、目に見えないものが見てくれているという考え方は、大事だとわしは思うねん。

熊さん  宗教的な素養っていったいどういうことでっか。

ご隠居  難しいことやないんや。昔は自分の家に仏壇や神棚がほとんどあったやろ。それがないうちが増えてきたんや。小さいときから、目に見えないものに対して頭を下げる習慣のない子供が増えてきているということや。それは、言い換えれば、心の中に「おてんとうさんが見てくれている」ということを信じられるかどうかや。目で見えるものだけではなく、目に見えないものの中にも大事なものがあると知っている心のことやな。

虎さん  また難しいこといわはりますな。

ご隠居  今外国から、人が来ないようになってるけど、日本は街にごみが落ちてないやとか、落とした財布が必ず戻ってくるやとか、日本は外人に「クールジャパン」とか言って大人気やったろ。それは、国民全体に、「おてんとうさんが見ている」という意識が行き渡っていたからやと思うねん。 

熊さん  ほんだら、わしらも子供や孫に「おてんとうさんが見ている」と教えなあきませんな。

虎さん  せやけど今どきの子供は、そんなん嘘やって、すぐ言うんと違うか。おてんとうさんなんか、見てないと言われたら、実際その通りですからな。

ご隠居  おてんとうさんが見てるというのは、誰も見ていなくても、してはいけないことがあるということを教えているのや。今はあんまり言わんようになったけれど、「世間様に顔向けできへんようなことはするな」というような言い方もよくしたな。

熊さん  わしは母親に小さいときに、「世間に笑われる」ってよう言われました。世間という苗字の人がいるのかと思ってました。

虎さん  わしはあの言い方が大嫌いやったわ。

ご隠居  世間というようなことをよく言う人は、人の顔色ばかり見ている、もっと自立した人間になれと、世間という考え方に反対した人もあったが、反対しやんでも、世間というようなものも、近所同士の付き合いが希薄になるにつれ消えてしもうた。

熊さん  近所同士の付き合いと言えば、田舎の葬式も随分変わりましたで。昔は近所の誰かが死んだら、三日ぐらい手伝いがありましたんや。お葬式をその家でするから、食事に隣の家を貸してもらうんや。貸してもらうには、日ごろの近所付き合いがものをいうんや。せやけど今は、葬式も葬儀屋でするし、家族葬とか言うて、身内だけでするのも増えましたわ。

虎さん  そういや、香典も取らんようなところも増えたな。

ご隠居  「村八分」という言葉があるやろ。村との付き合いのうち、火事と葬式以外の八分は、つまはじきにするということや。今は、葬式が家族葬になって、自分から付き合いを断っているようなものやな。おてんとうさんの話から、葬式まで話がよう飛んだな。

     終戦から今まで、日本は大きく変わってきた。地域社会は都会への流出によって、壊滅的な打撃を受けた。特に、シャッター通りに象徴されるように、自営業は、ほぼ壊滅や。自営業のように、親の職業を継ぐこともまれになった。

地域社会を形成する人々が減ってくると、その人たちが持っていた思いも、消えてくる。そこへ輪をかけたのが、経済至上主義の台頭や。

わあわあ言いながら長屋談義は続きますが、お後は次回に。


 

わたしたちの信仰談義

長く天理教を信仰している物知り顔の分教会前会長のご隠居さん、信仰熱心な熊さん、ちょっと疑い深い虎さんの三人の会話を通して現在の問題点を、できるだけ分かりやすく?考え、成人の一助にしようとしたものです。

  一、日本が変わってきた      その三

虎さん  一九六〇年代の高度成長期、ちょうど前の東京オリンピックがあった前後から、田舎の人口が都会へ激しく流出しだして地域社会も変わってきたのと同じように、人の心も変化してきたというお話でしたが、それはもっと具体的にはどんな感じなのでしょうか。

ご隠居  大きな変化の一つは、冗談みたいやけど、尊敬されない父の増加やな。

戦前のような家父長制度が、いいとは言わんけど、家父長制が亡くなったら、父親の権威は、失墜しぱなしや。その原因の一つは、親と同じ職業をする人が減ったからやないかと、わしは思うてるねん。

特に減少したのは、自営業や。自営業者や自営業に従事している家族が、一九八四年には、千四百八十四万人おった人が、二〇一六年には六百八十四万人まで減少する。半減以上や。

サラリーマンの家なら、同じように見えるけど、親と職種が違う人が多いやろ。職種が違えば、同じ職業とは言い難い。

親の仕事と、子供の仕事が全く別のことをしている人が多なった。同じ仕事をしていたら、親は子供に教えることもあるし、子供も親に聞かなあかんこともある。せやけど別な仕事となると子供は親と、情だけで繋がるだけや。

熊さん わしは山行き(山で伐採などをする山林労務者のこと)ですけど、親父もそうでしたから、いろいろ教えてもらいましたが、息子はサラリーマンです。何も教えることはありませんな。

ご隠居 子供に、間接的な魅力だけで尊敬を勝ち取ることはなかなか難しい。

虎さん 熊さんを尊敬しろと言われてもなあ。

熊さん わしの材木の伐採の仕方は、芸術的やと言われているんやぞ。

ご隠居 同じ職業やったら、熊さんの伐採は芸術的で尊敬の対象かも知らんけど、子供が関係ない職業をしていたら、なんぼ芸術的な伐採であろうが、それで尊敬はせんわな。子供は芸術的な伐採を見る機会さえないもんな。親と子が別の仕事をしていたら、話をする機会も減る。

そこへ仕事が違うから、話もない。昔は「親を大事に」とかいう修身みたいなものもあったが、今はない。

    そんなところへ、今までになかった価値観や考え方が入ってきたのや。職人やったら、自分の仕事の成果がその人のモチベーションの源や。それがサラリーマンとなったら、その人の仕事の結果がなかなか見えにくくなっている。だから給料として表されるものに、頼るしかない。給料が高いほど、評価されているということになる。どれだけお金を稼いでいるかが、評価の基準となったんや。

熊さん せやけどわしらは親に、人の価値はお金やないとよく言われましたで。

虎さん そりゃ熊さんの家には、ほんまにお金がないから、人の価値はお金やないと言うしかないわな。

ご隠居 わしは明治生まれの人と、大正生まれの人に育てられた。それぞれの時代の特徴というものがあって、明治や大正生まれの人々には、生まれたときには、武士の名残もあり、職人も身近にいたようで、お金に対しても、お金は不浄なものやとよく言われたものや。不浄やから、人に渡すときには熨斗紙に入れて渡すんやと言われたもんや。熊さんの親のように、やせ我慢であっても、人の価値はお金ではないという言い方もよくしていたように思う。それが高度成長期を経て、みんなが豊かになってくると、お金に対する考え方も、大転換があったのや。

虎さん みんなが、お金に一番の価値を見出さすようになったんですな。

ご隠居 「武士は食わねど高楊枝」というようなことはただのやせ我慢になった。我慢は矜持と表裏の関係にあり、我慢も美徳の一つだったはずだが、しない方がいいものになった。

虎さん  我慢は、身体に悪いそうですで。

ご隠居  それが今の風潮となっているのはわしも知っているが、誘惑から逃れるためには我慢が特効薬や。それなのに、「我慢は体に悪い」とばかりに、我慢の効用は失われていきがちとなった。

貧しいから我慢しやなあかんとなって、我慢が不必要な何でも買えるのが、豊かな社会ということになった。

熊さん 豊かですもんな。お金があれば、何でも手に入ります。

ご隠居  売り買いの時に出てくるのが、いわゆるコストパフォーマンスや。かけたお金に対して、買った商品はそれに見合っているかということやな。買い物だけじゃなく、何もかもが商品として計算されることになったし、それが唯一の価値基準となったのや。

     それが商品だけならまだいいけど、教育や果ては宗教まで、コストパフォーマンスとはかけ離れたものも、そんな目で見るようになってきたんや。

わあわあ言いながら長屋談義は続きますが、お後は次回で。

 

わたしたちの信仰談義④

二、コスパの信仰と弟子入りの信仰   その一

熊さん  先月の話は、今の世の中は、何でもコストパフォーマンスで見ることが多くなったという話ですが、もう少し詳しく教えてくれますか。

ご隠居  モノを買うときは、値段と品物を比較して自分にとって損か得かを考えるやろ。これだけのお金を出して買うだけの価値があるかどうかということやな。それは、商売や買い物を考えるときには、大事なことや。

それを今は、商売だけでなく、何事についてもそれで考えるようになったんや。

虎さん  コスパが高いとか、低いとか言いますもんね。

ご隠居  物を買うときは、それが損か、得か考えてもいいわな。せやけど、何もかもが高い安いというわけにはいかんやろ。品物やったら、買ったらどんな用途に使って、どれだけ楽になるか分かるから、コスパもわかりやすいわな。

しかし、例えば子育てなんかは、この子を育てたら、こういうお返しがあるなんて考えへんやろ。そんなところにも、コスパを考えるような人がいる時代になったということやな。

虎さん  そういや、ある幼稚園で給食を食べるとき、「いただきます」と言うのを、「自分で給食費を出しているのやさかい、何故いただきますと、お礼言わなあかんね」と、クレームを言うて来た人がおるらしいな。

熊さん  いただきますを勘違いしている人がいるんやな。

ご隠居  金出してるのに、何故礼を言わなあかんのかということやな。何故礼を言わなあかんのか、その人は教えてもらってないらしいな。

     教育というのを調べてみたら、「教育とは、対象の人間の心身を変化させることを目的とした活動」やそうや。心身の変化は、すぐ起きる場合もあれば、何年もかかる場合もある。それを費用対効果だけで見ると、すぐに結果を求めてしまうことになるし、さっきのいただきますに文句を言った親のように、こちらがお金を出してるのに、何故礼を言わなあかんと言うような短絡的な話になってしまう。     

  勉強がその人の役に立つかどうかは、すぐにはわからんものや。時間的経過が必要なものに、すぐ損か得かで判断することはできんわな。

熊さん  宗教もそんな点がありますわな。わしは長い間信仰してきて、辛いこともありました。そやけど今じっと振り返ってみると、助けられてきたのやなあと思います。

ご隠居  わしの知ってる信者さんの祖母は、男の子二人を四十代で亡くした。こんな信仰していて何になるのやと親類からも随分言われたそうや。

     今、その人の孫が、もう七十代後半やけど、親々の信仰のおかげで今があると、しみじみ言ってたことがあるんや。

熊さん  信仰ってそういうもんですなあ。

虎さん  なに二人で、別世界に行ってるのや。こちらへ戻って来いよう。

ご隠居  すまん、すまん。別世界へ飛んで行ってしもた。せやけど、宗教というのは、ただ損か得では考えられんということは、おまはんにもわかるやろ。

     わしは信仰をするということの理想形は、弟子入りすることに似ていると思うのや。以前天明誌で、熱心な会長さん二人にインタビューしたことがあったのやけど、その時次のような会話をしたことをよく覚えている。

     「日参やにをいがけをいつも心掛け、そのようにさせていただくのが本当は、大事な事というのはわかっているのですが、それがなかなか出来にくいのです」という問いに、一人の先生は、「どんなことでも、これをしたら教祖が喜んでくれるだろうということをさせていただけばいいだけですよ」と答えられ、もう一人の先生も、「理屈はいらないと思います。おつとめをせよと神様がおっしゃっているのだから、おつとめをする。ひのきしんをするということだけです」と、話されました。

虎さん わしらは何でも、何のためにするかを知りたがります、

熊さん  これしたらどうなるか、知りたいわな。

ご隠居  それが、コスパに毒されているということや。

何かをするという方法は二つあるんや。一つはこれが自分にとってどのような役に立つのかと調べ、納得してからするという方法。もう一つはそれがなんの役に立つかはわからないけれど、まずさせていただくという方法や。最初の方法は、コストパフォーマンスの考え方で、二つ目は弟子入りした者の方法や。

宗教は、教祖の弟子として通らせていただくのが、本当の通り方やと思う。

「金に換算して生きている私と、教祖の弟子である先生方との違いがよくわかります。反省しています。ありがとうございました」と、答えるしかなかったのをよく覚えているのや。     

虎さん  負けず嫌いのご隠居にしては、潔かったのですな。

熊さん  めずらしいことやなあ。

ご隠居  初代の信仰は、みんなたすけられたのやから、弟子入りの信仰や。それが代を重ねると、わしのように弟子入りの信仰ではなく、いろいろと迷いながら信仰に入る場合も多い。

     まずは次回から弟子入りの信仰とはどういうものかを考えていきたいと思う。

わあわあ言いながら長屋談義は続きますが、お後は次回で。

わたしたちの信仰談義

 この信仰談義は、大教会創立130周年を立教百八十六年に迎える私たちの信仰を、もう一度再確認するために、長く天理教を信仰している物知り顔の前会長のご隠居さん、信仰熱心な熊さん、ちょっと疑い深い虎さんの三人の会話を通して現在の問題点を、できるだけ分かりやすく?考え、成人の一助にしようとしたものです。

二、コスパの信仰と弟子入りの信仰   その二

熊さん  弟子入りの信仰とはどういうことですか。

ご隠居  ここに師弟関係について、内田樹さんが書いている箇所がある。信仰についてもいえるよくわかる話だから、引用したい。

自分に理解できるところ、自分にできるところだけ「つまみ食い」をする。理解できない教え、実現できない技術は「自分には関係ない」とスルーする。師弟関係の中で師から贈られた技芸を自分で取捨選択する。取捨選択する権利があると思っている。これは師弟関係では許されないことです。習う立場にあるものは「習うべきこと」と「習わなくてもいいこと」を自分で判断してはいけない。そうしてしまう人は師から受け渡された技術や知識をどこかで「商品」と見なしている。でも、師弟関係で授受されているのは商品ではありません。これは「パス」なんです。学問でも技術でも、その本質は「パス」です。先人から受け取ったものを次の世代に手渡すことです。「買い物」ではありません。』 

街場の戦争論 内田樹より   

虎さん  『師弟関係の中で師から贈られた技芸を自分で取捨選択する。取捨選択する権利があると思っている。師弟関係の中では許されないことです』というのを、もう少しわかりやすく教えてください。

ご隠居  弟子は師によって教えられる立場であり、教えられることは、どんなことも自分には関係ないと自分で判断してはいけないということやな。

それが自分にどんな意味があるか、自分にとって不要であると弟子の方は、判断することはできないということや。わかりやすく言えば、弟子は長さを図るものさしは持っているが、重さに関しての測り方を知らないと考えてみてごらん。師匠が今度は重さの測り方を教えようと思っているのに、それはいらないということは、それを学ぶ機会を失うということや。金を払って、これを教えてもらうというビジネススクールじゃあるまいし、弟子入りするということは、師匠の技量をこちらで判断するのではなく、教えてもらうことに全力を集中することなんや。

熊さん  教祖の逸話編に「天の定規」という話がありましたな。

虎さん  わしあの話好きでンねん。飯降伊蔵先生が、ある時教祖に、まっすぐな定規をつくってくれと言われて、自分なりに精一杯まっすぐと思われる定規を作って教祖にお見せしたけど、調べてみたらちょっといがんでいたんや。教祖に「その通り、世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで」と、教えていただく話でんな。

ご隠居  まさにそのことや。信仰というのは今まで習わんだ「天の定規」のような全く新しいことを、教えてもらう機会やねん。だからこそ、自分で教えてもらうことを取捨選択したらあかんということや。

熊さん  おつくしの話をされたら、その話は聞きたくないなどと言ったらあかんということですな。

虎さん  それはわかりましたけど、わしらは教祖に弟子入りしたけど、なんか上の人の中には、自分に弟子入りしているのやと間違っている人もよくおりますやんか。ご隠居さん、そんなん嫌いでっしゃろ。

ご隠居  いわゆる、上級は絶対、部内は完全服従というような考え方やな。信仰に入った時に、教祖の高弟以外はみんな、誰かに教祖の教えを取り次いでもろた人がいる。

その順番を系統というのやが、その時は確かに絶対的な順番であっても、助けてもらった人の代が変わった時も、その順序を大事にするかどうかということやな。わしは虎さんのご期待に反するようだが、たとえ人が変わっても、自分より立場の上の人を師匠として立てていくことはとても大事なことだと思うているねん。確かに無茶なことを言ったり、理不尽な言動にさらされたりすることは無いとは言えん。せやけど、それを神の思いとして弟子が受け取ることによって、その師匠が大したことのない師匠だったとしても、その師匠の思惑を超えた何かを与えられることはあるのじゃないかとも思うねん。

     これはもう信仰上の思い方やから、はっきり説明はしにくいんやけど、三代真柱様の百年祭の時のお話の中で、「百という数字が尊いのではなく、百という数字を尊いと思う私たちの心が、百という数字を尊くさせるのだ」というお言葉があるねん。

虎さん  「判じ物」みたいなお言葉ですな。

ご隠居  これ失礼な事言うでない。百周年、百年祭と百という数字が尊いのとちがう。それを尊いとわしらが思うことによって、その百という数字が尊くなるのだということや。それと同じように、立場の上の人が大した考えもなく言ったことも、それを尊い神様の思いだとわしらが思うて一生懸命その意味を探り、実行しようとする努力をしていくことによって、思わぬ結果が引き出されることがあり、それが神様の思いかも知れんということや。

虎さん  引き出されへん場合もありますけどな。

熊さん  まあ、今日はご隠居の顔を立てて、そんなこともありますなぐらいにしておきましょうや。

わあわあ言いながら長屋談義は続きますが、お後は次回ということで・・・。

わたしたちの信仰談義

この信仰談義は、大教会創立130周年を立教百八十六年に迎える私たちの信仰を、もう一度再確認するために、長く天理教を信仰している物知り顔の前会長のご隠居さん、信仰熱心な熊さん、ちょっと疑い深い虎さんの三人の会話を通して現在の問題点を、できるだけ分かりやすく?考え、成人の一助にしようとしたものです。

二、コスパの信仰と弟子入りの信仰   その三

ご隠居  先月の話やけど、弟子入りをするということは、今までの自分をすべて捨てていくということや。こないだの「あらきとうりよう」誌に、二代真柱様が、本席の伏せ込みについて、次のように書いてくださってある。参考になるんではと思うから引用するわ。

   「本席は必ずしも、教祖の一番最初のお弟子さんであったんではないのであります。しかしながら、家族縁者は別といたしまして、家族でもない、縁者でもない立場の上から、その家業を一擲して、家族打ち連れだって屋敷に住み込まれるようになったのは本席が最初であるように思われるのであります。言わば本席は道を求める意味において、すべてのものを投げうって、自らおひざ元に来られたのであります。」

そして、伏せ込んだものの通り方を、本部の青年が本部に入って来られるときに言う話が一つあるとしてお話しくださっています。

「お前たちはこれから何も言わない。何も言わないから、誰でもできることを素直にできるように、一つ訓練しよう。一例を申しますと、誰でも朝早く起きることはこれはできるのです。軍隊におって、法に縛られて、命令で起きるのではなく、自分の気持ちで長く寝ていられないような、かような訓練を各自各自に自分の心に御しておくことが一つの修養なんです。東向いて座っておれと言われたならば、ハイと言って、青年は東向いてジッとして座っていること、これが大切なのです。中略

東向いて座っておるのは、大学を出たものでなくてもできる。つまり誰にでもできるようなものに大学を出たものを使うということは、人物経済の上から言うならばもったいないことじゃないか。もしも人物経済ということを考えればその通りです。しかしながら、本人にとって信仰修養するという上から思案するならば、学校で教わってきた技術というものは、本部の仕込みとは別なんです。」  求道と伝道 あらきとうりよう誌269号

熊さん  「誰でもできることを素直にできるようになる」というのは難しいことでんな。

ご隠居  「誰にでもできること、これをやりおおせることは、これが一番大切な基礎であるとともに、ややもすると、頭でものを考えるときには難しいんです。本部でいろいろな内規を作ってみたりしても、言った二・三日は皆やるんですが、抜けていくことが多いのです。しかも案外理屈の分かっている人から抜ける」と真柱様はおっしゃっている。

虎さん  ちょっと頭のいいもんは、すぐに要領を覚えてしまうけど、信仰は要領と全く正反対ということですな。

ご隠居  そういうことやな。

理屈の分かったものは、理屈の分かったようにしたいのや。せやけど弟子入りして修行するということは、理屈を忘れることが大事ということやと思うねん。

信仰を修行として考えていくことは、今のような社会の中ではとても難しいことやと、わしは思う。

わしらはどうしても「そんなことして、何になるねん」と考えてしまいがちや。東向いて座ってろと言われたら、そんなことして何になるんや、と考えてしもたらそこで修業はおわりや。師匠は、弟子にはわからない天の定規の使い方を教えてやろうと思っているのに、わしらが地上の損得計算を基準に考えてしもたら、座っているだけの時間は無駄やさかい、携帯でゲームでもしようかということになってしまうんや。

熊さん  どっかの新会長さん、思い出しますわ。

ご隠居  師匠と弟子はレベルが違うのやということをしっかり信じることによって、師匠と弟子という関係は成り立つのや。

虎さん  レベルの違わない師匠もいますで。それどころか、弟子以下の師匠もおりますで。

ご隠居  教祖のお話の中で女房の口一つというお話があったやろ。

     「やすさんえ、どんな男でも、女房の口次第やで。人から、阿呆やと、言われるような男でも、家にかえって、女房が、貴方おかえりなさい。と、丁寧に扱えば、世間の人も、わし等は、阿呆と言うけれども、女房が、ああやって、丁寧に扱っているところを見ると、あら偉いのやなあ、と言うやろう。亭主の偉くなるのも、阿呆にな

るのも、女房の口一つやで。」教祖伝逸話篇 三二

 これ以上詳しく書かへんけど、これで察してくれ。

熊さん  どんなあほな上級でも、部内の口一つで、あほがばれへんということですか。

ご隠居  こらこら、わしはそんなこと言ってへんぞ。

虎さん  玉虫色の解決ですな。

ご隠居  この話を聞いて、納得できたら、弟子入りの信仰をしているのやとわしは思う

     そして忘れてはならないのは、わしらは皆、教祖の弟子ということや。わしたちの成人を促すために、道具として、上級や部内があるかもしれんが、あくまで師匠は教祖であるということを、忘れたらあかんと思うねん。

わあわあ言いながら長屋談義は続きますが、お後は次回ということで・・・

 

わたしたちの信仰談義

二、コスパの信仰と弟子入りの信仰   その四

熊さん  教祖の弟子としての信仰をもてという、ご隠居さんの思いはわかりましたけど、具体的にそれはどうしたら持てるんでしょうか。

ご隠居  弟子としての信仰は尊いし、信仰的に悩むことは少ないと思うけれど、みんなが弟子のような信仰になれるわけではないと思うねん。

虎さん  疑い深いわしみたいな者のことですな。

ご隠居  そうや、そんな人は、はじめはそれこそコスパの信仰で、この信仰をして得か損かと考え、助けて欲しいと願う信仰から誰もが入るねん。

     信仰の道中でこの道を教えてもらった先生に傾倒して弟子に入る人もあれば、虎さんのようにそうじゃない人もいるやろう。

そんな者でも、一生懸命信仰をしていく中で、何かを見出すことはあると思うねん。

神様の思いをしっかり探す努力をするという生き方の中で、弟子になれなくても、だんだんと神様の思いに近づいていく方法があるように思うし、それはそれでいいと思う。

  まずそのためには、神様に熱い思いがあって、なんとしてもほかでもない自分に届けたいメッセージがあるということを、知ることや。

虎さん  神様の熱い思いとは何ですの。

ご隠居  人間を幸せにしたいということや。

熊さん  どうしたらその思いを知ることができますか。

ご隠居  神様の思いは、いつもどこにでも、駆け巡っているのや。せやけどわしらが聞こうとしてないだけやと、思うねん。

電波の話でよくこんな言い方をするけど、神様の思いは地球上をいつもどこでも、駆け巡っているのやけど、私たちの体が神様の思いに同調してへんさかい聞こえへんだけや。身体は神様が作ってくださったのやから、誰でも神様の思いという電波に、同調することはできるはずやけど、聞き逃しているのやと思う。

赤ちゃんが言葉を覚えるのを考えてみれば、思いを知る方法もわかると思う。できることは、神様の思いに同調することではないかと思う。わしの孫が今二歳やけど、やっと少しづつ言葉を覚えてくるようになった。

熊さん  可愛い娘さんでんな。

ご隠居  そうやねん、こないだもじいちゃん大好き、じいちゃん大好きと言うてわしのところへ来てくれるねん。お前も知っての通り、かわいいし・・・。

虎さん  ご隠居、孫の話はそれぐらいにして、何を言いたいんでっか。熊さん、ご隠居に孫の話ふったらあかんやろ。

    話が長なるだけや

ご隠居  すまんすまん。つい孫の顔が出てきてな。

えっと、何を言いたかったかと言うと、孫は今言葉覚えてる真っ最中やね。その孫が言葉を覚えるには、孫に何としても伝えたい思いがあり、その思いは他ならぬ孫に向かっていることを、孫がわかることが大事やと思って、わしは一生懸命孫に向かって話しかけてるねん。

赤ちゃんは、テレビがついていて、話が聞こえてきても、それが自分に話しかけられていると思わへん限り、言葉は伝わらんらしいんや。それはただの音や。音が聞こえてるだけでは覚えへんらしいで。

神様の言葉も同じやと思うねん。それが他ならぬ自分に言われているということが分からん限り、神様の思いはその人に伝わらへんのやと思う。逆に言ったら、自分に言われていると思いさえすれば、すぐにでもわかるほど、神様の思いはこの地球に満ち溢れていると思うねん。

熊さん  それはどういうことですか。

ご隠居  聞く力さえあれば、聞こえるということや。

     それは先日思ったことなんやけど、何か一つ一つの節を通して、どうしてもわしだけに伝えたいことがあるのではないかとしか思えんということやねん。

わしは去年妻を失くしたやろ。その時に思たことがあるねん。大勢の人が葬式にきてくれて泣いてくれたけど、泣いてくれた人それぞれに悲しみの思いは違うやろ。わしにはわしの悲しみがあるし、子供たちには子供たちの、信者さんも信者さんそれぞれの悲しみがあると思うねん。みんなそれぞれに悲しみが違うように、神様の思いも、みんなそれぞれに違うんやと、その時にふと思たんや

同じ一つのことが起こっても、それの受け取り方は千差万別や。大事なのは、それを自分へのメッセージであると受け取ることやと思うねん。神様が何を言いたいのかはわからない、せやけど何としても私に伝えたいメッセージがあると思うことによって、メッセージはだんだん了解されてくるのではないかと思うねん。孫が自分に向けられている言葉だと知って、言葉を理解していくのと同じように、節を通して神様の思いを知ろうとすることによって、わかってくるものがあると思うねん。

     妻の死によって、わしにはいわく言い難い悲しみがある。こんなことは、誰に伝えてわかってもらえるものでもないけど、父親が、ふと漏らした言葉を思い出すとき、深い共感と悲しみを感じられるように思うねん。その言葉を聞いた当時は、違和感しかなかったけれど、それが妻の死を通して、その言葉に、深い共感と悲しみを感じられるようになったことを、ご守護と喜ぶ気はせんけど、一つ前に進んだという気はしないでもないのや。

熊さん  奥さんのことや、親会長さんのことを言われたら、文句を言うわけにはいきませんもんな。

虎さん  最後は煙に巻かれた気がしますな。

わあわあ言いながら、話は次回へということで

わたしたちの信仰談義

この信仰談義は、大教会創立130周年を立教百八十六年に迎える私たちの信仰を、もう一度再確認するために、長く天理教を信仰している物知り顔の前会長のご隠居さん、信仰熱心な熊さん、ちょっと疑い深い虎さんの三人の会話を通して現在の問題点を、できるだけ分かりやすく?考え、成人の一助にしようとしたものです。

三、自分の現在地     その一

熊さん  ご隠居さんとしたら、教会として、また信者として、わしたちはこの旬をどういう風に通ったらいいと思ってはるんでっか。

ご隠居  一番大事なのは、大教会長さんが『成人目標』でお説きくださった、「勇み心を結集し、御恩報じの歩みを」ということや。まずは勇むこと、自分たちが心機一転して、親の思いに添い、勇むことが、この旬やと思うねん。しかし、勇んでいる人は問題ないことやけど、勇んでない人は、どうしたら勇めるかということや。そういう人は、心機一転するしかないのや。

ちょっと前になるけど、真柱様が諭達第一号で、『心機を一転して』とお聞かせいただいたことがある。心機を一転するということは、今までの軌道を修正するということや。軌道を修正するには、まず現在の自分の位置を知らなければ修正のしようがないやろ。自分のいる場所を間違えたら、もしくは勘違いしていたら、軌道は修正できへん。

成人するための旬やとお聞かせいただくけど、わしはもう成人していると思い違いしたら、そんな旬は必要ないということになる。人間というのはすぐ高慢になるから、成人したと勘違いしてしまうことも多いと思うねん。自分は今どの位置におるか、それをよく考えることが一番最初やと思う。

熊さん  どういうことですか。

ご隠居  わしは若い頃、自分は「たすけ心」が満帆にあると思ってたことがある。家が教会やから、おたすけの話ばかり聞いてたやろ。だからわしも病人さんと出会ったら、そのタンを飲んだり、水垢離やお茶断ちをしたり、何でもできると思ってた。

     そしてある時父から信者さんのおさづけの取り次ぎを言われ、わしは勇躍おたすけにかかったんや。

     そこでわしはものすごいショックを受けたんや。

虎さん  ご守護いただけへんかったんですか。

ご隠居  違う。反対や。リュウマチで寝たきりの人が、最初  

    の取次でベッドに起き上れるようになり、何回も行かせていただくうちにトイレにいけるようになったんや。

 元気になってきたので、教会の近くの実家へ帰ることになり、父から「毎日おさづけに行かせていただけ」と言われ、それからは毎日行かせていただくことになったんや。家は信仰をしており、その人もずいぶんご守護を戴いたので大変喜んでくれてる。行かせて頂いたら、「先生、先生」と下へもおかないおもてなしや。

ところが、わしは、勇んでおさづけに行かせていただいてたかというと、そうでもないんや。それどころか毎日行かせていただくのがだんだん苦痛になってきた。もっと正直に言えば毎日行くのが邪魔くさくなってきたんや。

わしは、教会で生まれ育った。病人さんをたすけるために、水垢離をしたり、お茶断ちをしたりとそんな話はたくさん聞いていたけど、おさづけにいくのが邪魔くさくなってきたなどと言う話は一度も聞いたことがなかった。だから、こんなに人だすけが嫌になってくる自分を、本当に情けないと思ったんや。「なさけないとのよにしやんしたとても 人をたすける心ないので」(1290)というおふでさきの言葉そのもののような私の姿に、自分ながらショックを受け、鷲家の教祖殿で一人教祖に尋ねてみたりもしたが、鬱々とした気持ちは全く晴れへんのや。

そんな毎日を通っていて、自分は最低の人間の気がしていた。

虎さん  それが普通でっせ。すき好んで人を助けたいというような殊勝な心の人は少数派でっせ。

ご隠居  今となったら、わしもそう思わんでもない。せやけどその時は、わしも自分の居場所を、勘違いしてたんや。「おたすけ名人」といわれる人の話ばかり聞いてたから、わしもそんな先生と同じ立場のつもりやったんやな。

     人をたすける心が、そんな簡単に人の心にあるようなものやったら、教祖がご苦労されることはなかったはずやからな。

虎さん  だから軌道修正の時の自分の居場所をやいやい言わはるのでんな。

ご隠居  そうや。わしの若いときのように、話だけ聞いて、自分の居場所を勘違いしやんように、老婆心から思ってしまうのや。

熊さん  若いのの中に、たまに勘違いしている人がおりますな。

虎さん  若くないのに勘違いしたままの人もおりますで。

     前会長になっても、勘違いのままの人もおりますぜ。

ご隠居  なんや、それわしのこと言ってるんじゃないやろな。

虎さん  めっそうもございません。

虎さん  自分の手柄でもないのに、長生きしていたら、それだけでご守護もろてると思てはる人もいますもんな。

ご隠居  年を重ねても元気な人と、そうじゃない人がおるわな。それはコロナにかかる人もおれば、かからん人もおるのと同じような話やな。

わあわあ言いながら長屋談義は続きますが、お後は次回で。

わたしたちの信仰談義

この信仰談義は、大教会創立130周年を立教百八十六年に迎える私たちの信仰を、もう一度再確認するために、長く天理教を信仰している物知り顔の前会長のご隠居さん、信仰熱心な熊さん、ちょっと疑い深い虎さんの三人の会話を通して現在の問題点を、できるだけ分かりやすく?考え、成人の一助にしようとしたものです。

三、自分の現在地     その二

熊さん  ご隠居の思い違いの話は、とてもよく分かるのですが、

    その思い違いは、どうなりましたか。

ご隠居  おたすけに行くのが邪魔くさくなって悶々とした日を過ごしていたある日、本部の月次祭に参拝させていただいた時や。

当時東西礼拝場普請が打ち出され、北礼拝場から教祖殿に仮廊下が繋がっていた時代やった。その仮廊下の中ほどで参拝していたが、神殿講話で「おさづけにいくというのはなかなか大変や」というようなお話を聞かせていただいたんや。本部の先生がそうおっしゃるのなら、私が邪魔くさく感じても当然やと変な自信を持てたんや。それで、もう一度心を入れ替えてお願いのおつとめをさせていただこうと、お願いづとめを始めたんやけど、ちょうどその時間が、おつとめが終わって、多くの人が教祖殿へ参拝される時間になり、境内係の人が向こうから順番に廊下で座っている人を立たしだしたんや。わしは、人がせっかくもう一度おたすけをしっかりさせていただこうと思っているのに、立たなければならないのかと思いながら、向こうから順番に人を立たせている境内係の人を見てたんや。

そして、その人が私の前の人を立たせたのち、私を立たせることなく、私の前で私を守るように手を広げてくれたんや。

その時初めて、神様はいてはると、思ったんや。これがわしの信仰の原点や。

あの時何万人もの参拝者があり、みんなそれぞれに「たすけ」を願って参拝に来られていたと思うんや。その中でおたすけに行くのが邪魔くさいなどと考えていたのは、おそらく私一人ぐらいだったやろう。

せやけどそんな自分でも、もう一度、心の向きを変え、しっかりおたすけさせていたきたいと思ったら、神様はこんな私の心を受けて、この境内掛の人を使って、手を広げて守ってくださるのやと思ったのや。その時の感激は、今でも覚えているぐらいや。

 「わかるよふ むねのうちよりしやんせよ 人たすけたらわがみたすかる」(3 47)ということは、こういうことなのだと、本当に思ったんや。

私は人をたすける真似事をさせていただく事によって、初めて自分の心の中に、人をたすける心がないということがわかり、それでも、力を振り起して改めて人をたすけさせていただきたいと思うことによって、神様の存在を実感させていただいたんや。

虎さん  ご隠居は前に「人をたすける心の涵養と実践」という言葉が、お気に入りでよく話してましたな。

ご隠居  これは四代真柱様の諭達第二号の中にあった言葉やけど、その中で涵養というのは、育み、育てることや。つまり人をたすける心は、もともと、人の心の中にあるのではなく、育み育てなければならんということが、公式に認められたような気がして、嬉しかったんや。

     そんな中で次のような言葉に出会うのや。

本部准員の井上昭夫先生の「世界宗教への道」という本の中の一節や。

「自己の関与する洞窟にある、家族の一生命の死に、魂を揺さぶられるような悲しみを憶える人間は、自己の外にある数十万の餓死者に一滴の涙も流し得ない存在でもある。

神の子であるべき人間にとって、この驚くべき冷淡さは何故なのか、という奇妙で、しかも非常に宗教的な問いは、脳というものが一個の人間をとりまく環境の中でのみ生存することをたすけられるようにつくられていて、それ以上の大きさをとり扱うようにはできてはおらぬという、ごく単純な生物学的理由でもって明確に答えられる。」

熊さん  難しいでんな

ご隠居  なんも難しないやん。家族が死んだら死ぬほどつらいのに、遠いアフリカの何万もの餓死者に「気の毒やなあ」というだけで平気なのは何故なのか。

     それは、人間の脳が、自分の周りで生きていくために必要な事だけ、つまりは自分の周りのことしか取り扱わないということや。

     自分の妻や子供やほん周りの人の死は、血の涙をながすほどつらいことやけど、遠く自分に関係ない人の死は、気の毒やなあで終わってしまうのは、脳がそうなっているということなんや。

虎さん  二人称までの死以外は取り扱えないということやな。

熊さん  何のことや。

虎さん  一人称の死とは、I、つまり自分の死や。二人称の死はYOU、あなたの死や。目の前にいるあなたの死は、辛く悲しいやろ。せやけど三人称のSHEHEどっかの彼や彼女の死は、気の毒なけど、気の毒やなあでしまいや。人は二人称までの死が、自分にとっての死ということや。

熊さん  なるほど、ようわかった。

ご隠居  まあそういうことやな。

     わあわあ言いながら長屋談義は続きますが、お後は次回で。

わたしたちの信仰談義

三、自分の現在地     その三

虎さん  自分の現在地を過不足なく見つめることの大事さは、よくわかりましたが、神様から見て、私たち人類の立ち位置はどのへんなのでしょうか。

ご隠居 大きく出たな。難しい話やけど、ちょっと考えてみようか。

わしは世界中の考え方は、神様の思いを知ってるか知らないかは別にして、だんだんと時がたつにつれて、神様の思いに近づいてきているように思うねん。全くの弱肉強食の時代から、奴隷制度や植民地時代などを経て、今は民主主義の世界と共産主義の世界に大きく分けられる。民主主義は、アメリカや日本のような国やし、共産主義は旧のソ連や、今は中国がその代表や。

     共産主義の世界、つまりはマルクスの考え方やな。わしは詳しくないんやけど、

「階級社会を打破し、労働者や小作人を解放して自由・平等な社会の実現を掲げた社会主義・共産主義の思想、その中核を担ったマルクス・レーニン主義ほど広範な人々の心を捉え多大な影響力を発揮した思想は、歴史上他に類を見ないと思う。

しかし、この社会主義・共産主義国において、対外戦争とは別に、革命の過程や革命後の 国家建設過程において、いわゆるブルジョアジー や貴族階級ばかりでなく、被搾取者であるとされる労働者や農民、さらに知識人や様々な中間層、そして革命を担った多くの同志でさえ、拷問や迫害、収容所での強制労働、強制移民、そして現実を無視した計画経済政策の強行等によって無残に殺害され、その数は、第一次・ 第二次両大戦での死者数とほぼ匹敵し、ドイツの ナチス政権のホロコーストによるユダヤ人犠牲者数をもはるかに上回る規模に上っている。

なぜマルクス主義という「理想の教義」に基づいた「理想国家」の建設が、 どうして人類史上未曾有の悲惨な結末をもたらしたのだろうか。」

 社会主義・共産主義的世界観の特質と問題点

  滋賀大学教授  筒井正夫

それは、理想がどんなに素晴らしくても、それを使う人間が腐敗するからなのだと、わしは思っている。

共産主義がどれほど素晴らしい世界を描いたものであっても、それをするのは生身の人間や。人間はみんなわが身が可愛いし、少しでも楽をしたいと思っている。

理想と現実の狭間にあって、人は理想だけでは生きていけないのだと思う。

虎さん  一応民主主義の日本だって、最高権力者への「忖度(そんたく)」という言葉が流行語になるぐらいですからな。

熊さん  共産主義で、独裁ということになると、それがそのまま、自分や家族の生き死にかかわることなんやから、忖度なんて当たり前。もっとひどいことが起こるのもよくわかりますわな。

ご隠居  前にも言ったけれど、大きな目で見たら人間は進歩してきたと思う。奴隷制度は、悪であるというのは今の世の中の共通認識であり、人は平等であるべきというのも、ほぼ世界の共通認識だと思う。でもトランプ前大統領で代表されるような、自分ファースト、アメリカファーストと言うような考え方も根強い支持があるし、ネットには、人種差別的な考え方が、いっぱい流されている。

  人間というのは、残念ながらそういうもんかもしれん。

    だから変わるということは難しいということや。 

  自由で平等な社会の実現を求めて最初は活動していても、それがだんだん権力争いになったり、保身に走ったり、誹謗中傷の中で泥まみれになっていくようなことは、共産主義だけに限らず、キリスト教をはじめ宗教界にもいっぱいあったし、これからもあると思う。天理教にだって無いとは言えんかもしれん。

熊さん  ご隠居、口が過ぎまっせ。

ご隠居  きれいごとでは、ほんまの成人はできないと思う。わしらは、「八つのほこり」を教えてもろている。

その八つ目がこうまんや。それは、一番最後にあるように一番取りにくいほこりやと思う。

それをほんまに取ろうと努力しなければならない。ほんまに言うとるだけやと、あかんのや。

日々八つ/\のほこりを諭して居る。八つ諭すだけでは襖に描いた絵のようなもの。何遍見ても美し描いたるなあと言うだけではならん。めん/\聞き分けて、心に理を治めにゃならん。この教というは、どうでもこうでも心に理が治まらにゃならん。あちら話しこちら話し、白いものと言うて売っても中開けて黒かったらどうするぞ。    明治三十二年七月二十三日 と、ある。

ほんまに「おさしづ」通りと思う。

わしは以前会長やった。だから思うのやけど、「わしみたいな届かぬ者が」と口では言ってたけど、高慢は取りにくいほこりやと思う。ちょっと偉そうに言われたら、わしは会長やぞとか思ってしまうもんな。

そこから独裁や粛清までいかんとしても、そう遠くはないように思うのや。

熊さん  そら正直な話やと思いますわ。

ご隠居  せやさかい、共産主義も民主主義も、当初はどんなに理想的な考え方で通っていても、自分の中のいろんな心の変化で、どのようにもなっていくと思うのや。

     人間だけで理想的な社会を作ることは、だから難しいと思うのや。

虎さん  いよいよ天理教の出番ということですな。

ご隠居 このみちハどふゆう事にをもうかな 

このよをさめるしんぢつのみち」64

と、神さんもおっしゃてるしな。

わたしたちの信仰談義

この信仰談義は、大教会創立130周年を立教百八十六年に迎える私たちの信仰を、もう一度再確認するために、長く天理教を信仰している物知り顔の前会長のご隠居さん、信仰熱心な熊さん、ちょっと疑い深い虎さんの三人の会話を通して現在の問題点を、できるだけ分かりやすく?考え、成人の一助にしようとしたものです。

四、人間の限界と可能性     その一

虎さん  どんな理想的な考え方でも、人間だけでは必ず破綻するとおっしゃってましたが、そんなもんでしょうか。

ご隠居  共産主義を見ても、いろいろな運動の歴史を見ても、理想的な思いで創られたものも、時が経過するにつれて、当初の目的から離れたものになりがちなのは、歴史が証明していると言えるやろ。

     また、中世のキリスト教の歴史のように、宗教がバックボーンにあったとしても、いや宗教がバックボーンゆえに、さらに陰湿な中傷や迫害が現れることもあった。

熊さん  そんなことを言い出したら、人間はどうしようもない生き物のような気がしてきましたわ。

虎さん  そんなに気落ちする必要はないと思うで。人間にもいろいろな人がおるといいうことでええんと違うか。

ご隠居  わしもそう思うで。

     「働きアリの法則」というのをきいたことがないか。アリの中の働きアリのうち、よく働く二割のアリが八割の食料を集めてくるそうや。働きアリ全体のうち、よく働いているアリと、普通に働いている(時々サボっている)アリと、ずっとサボっているアリの割合は、二・六・二やけど、よく働いているアリ二割を間引くと、残りの八割の中の二割がよく働くアリになり、全体としてはまた同じ割合になるそうや。

  アリと人間を、おんなじというわけにはいかんけど、人間もすべてが一生懸命働く人である必要はないかもしれへんとわしは思っている。

  アンサングヒーローという言葉があるねん。

  内田樹さんのブログから引用するで。今回は、引用ばかりやけど、わしが書くよりわかりやすいと思うのでな。

  「アンサング・ヒーロー(unsung hero)」という言葉があります。「その功績が歌に歌われて、称えられることのない英雄」という意味です。たいへんな功績をあげたのだけれど、人々はそのことを知らない(場合によっては、その人自身も自分がたいへんな功績をあげたことを知らない)。実際に、歴史上そういう人はたくさんいました。その人たちの目に見えない気づかいのおかげで、多くの人が、多くの街や、多くの文明が救われた。でも、その人を「英雄」として称える歌は誰も歌わない。知らないから。

  でも、これは僕の個人的な意見ですけれど、みんながその功績を知っていて、みんなに「称えられる英雄」よりも、「誰も(本人さえ)その功績を知らない英雄」の方が、ほんとうの英雄ではないかと思います。

 というのは「アンサング・ヒーロー」たちは、たぶん自分たちの英雄的行為を、なにげなく、とくに「こういうことをすれば、これこれの結果が導かれるかもしれない」というような予測もせずに、ごく日常的なふるまいとして行ったはずだからです。

  例えば、雪の降った日に、朝早起きして、雪かきをした人がいたとします。その人は一通り雪かきを終えると、家に入ってしまいました。あとから起き出して通勤通学する人たちは、なぜか自分の歩いている道だけは雪が凍っていないことにも気づかずに、すたすた歩いてゆきました。でも、この人が早起きして、雪かきしてくれなかったら、その中の誰かが滑って、転んで、骨折したりしたかもしれません。さいわいそういうことは「起こらなかった」。起こらなかったことについては、誰もそれについて感謝したり、それを称えたりはしません。でも、たしかに雪かきした人はこの世の中から、起こったかもしれない事故のリスクをすこしだけ減らしたのです。

 この人もまた「アンサング・ヒーロー」です。

「アンサング・ヒーロー」とはどういう人か、これで少しわかったと思います。

  それは誰かがしなければいけないことがあったら、それは自分の仕事だというふうに考える人のことです。

誰かが余計な責任を引き受けたり、よけいな仕事をかたづけたりしないといけないなら、自分がやる。そういうふうにふだんから考えている人。そういう人は高い確率で「その功績を歌われることのない英雄」になります。」    

道徳について  内田樹

熊さん  そういえばわしは見てないけど、何年か前に、「アンサングシンデレラ」ていうテレビドラマもありましたな。

ご隠居  わしらは、そのアンサングヒーローなり、アンサングシンデレラを目指したらええのやとわしは思うねん。

     「おさしづ」にも「心から真実蒔いた種は埋ってある。」

                   明治23年9月30

    というのがあるし、積んだ徳は、人に見てもらわないようにするという、陰徳という考え方もあるからな。

熊さん  信仰のない人から見たら、アンサングヒーローやけど、

    天理教のものから見たら、誰も見ていなかっても、神様は見てくれているということですもんな。

ご隠居  「ひとがなにごといはうとも

かみがみているきをしずめ」(四下り目 一ッ)と、言うてくれてるもんな。そう考えれば、ありがたいことやな。

わあわあ言いながら長屋談義は続きますが、お後は次回で。

 

 

わたしたちの信仰談義

四、人間の限界と可能性     その二

ご隠居  先月のアンサングヒーローの続きや。

「誰かがしなければいけないことがある。それは誰がやるべきか。

  ふつうはそういうふうに問いを立てます。もちろん、その問いの立て方で正しいのです。少しも間違いではない。でも、そういう問いの立て方は道徳としては「浅い」ということです。

  繰り返しご注意申し上げますけれど、それは「間違い」ではないんですよ。ただ「浅い」「薄い」「軽い」というだけのことです。

  誰かがしなければならないことがあるなら、それは私の仕事だ。こういう考え方をする人はそれほど多くありません。そして、実際にそれほど多くの人がそういう考え方をする必要もないんです。三〇人に一人、いや五〇人に一人くらいの割合でそういうふうに考える「変な人」がいてくれたら、それだけで、もうこの世の中は充分に住みやすいものになります。そういう人は、道に落ちている空き缶を拾ったり、席を譲ったり、雪かきをしたりというのは「誰の仕事でもないのだから自分の仕事だ」と思っている。それが当然だと思っている。

「だって、誰かがやらなくちゃいけないわけでしょう。だったら、『誰かがやらなくちゃいけない』と最初に気がついた人がやればいちばん効率がいいんじゃないですか?」

  こういう人は満員電車で席を譲るのと同じように、床に落ちているゴミを拾い、エレベーターで先を譲り、そして、たぶんふだんと同じような口調で「難破船から脱出する救命ボートの最後の席」を前にした時も「あ、お先にどうぞ」と言えるんじゃないかと僕は思います」

               道徳について 内田樹

熊さん  「ひのきしん」みたいですな。

ご隠居  おまはんもそう思うか、わしもそう思う。

     まあ、わしは、ほめられたい気があるし、難破船から脱出する最後のボートの最後の席にはしがみつきそうな気もするんやけど、それ以外では、わしらよふぼくがやっている「ひのきしん」と一緒やがな。

虎さん  ご隠居。いろんなところから、つぎはぎをして、この話を何とか結論にもっていこうというお気持ちは、よくわかりました。もう一年も連載していますので、そろそろ結論に行きましょうか。

結局、どうしたいのでっか。

ご隠居  なんか見透かされてるようで、わしは少し気分が悪い。もう一年ぐらいは、頑張るつもりや。

熊さん  ご隠居、ご機嫌を直して、続きお願いします。

ご隠居  まずわしら天理教の者は、天理教の教えが、「この世おさめる真実の道」であるということをもう一度自信をもって、しっかり自覚してほしいということやねん。

  一章で述べたように、世の中の姿かたちは随分変化してきた。そこへコスパという考え方が入り、自分ファーストでいいのだという考えも増えてきている。自分たちの教えられている考え方と、正反対の考え方が蔓延し、弟子入りの信仰をしていない人は、信仰について自信が無くなっている人もいるのではないかと思う。

     目的地を見失ったときは、ナビの出番やけど、ナビを使うために最も大事なことは、まず自分の現在地を正確に見ることや。人間というのは、自分を過大評価しがちやから、自分の本当の現在地をしっかり見つめなおすことが大事やということや。

     人間は寄って立つ基盤を間違えると、独裁や忖度を強要することになりかねないもんや。それをしっかりと心に入れて、自分は人をたすける心が本当にあるのかを見つめなおし、自分の今、居る場所をもう一度考えて欲しいということや。

熊さん  それじゃ、弟子入りの信仰までは行かずに、不足の多い自分が、それでもこの教えが、世界を救う教えであると思ったら、まずわしは何をしたらいいんでっか。

ご隠居  魂ということをしっかり考えることやと思う。

虎さん  魂といわれても・・・・。

ご隠居  急に目に見えない話をされてもわからんと思うが、ほんまにしているかどうかは別にして、魂のことをしているところがあるやろ。

教会や。自分の所属する教会を大事にすることや。魂の安らげる場所にすることや。そして、その場所をしっかりと守り育てることや。

わしらは信仰しているから、例えば神殿を、清浄な場所やと思っているけど、そして、そこに主人である神様や教祖がおってくれていると信じているけど、自教会の神殿は、その自教会に住んでいる会長や家族が、一番その理を軽くしがちやと思う。

熊さん  それはどういうことでっか。

ご隠居  自分がその教会で大将になりがちやということや。それを防ぐには、二代真柱様が言わはった「誰でもできることを素直にできるように、訓練する」ことが第一歩で、そして最後に心しなければならないことやと思うのや。参拝をする。日供を供え、下げる。掃除をする、どこかへ出かけるときや帰ってきたときは、必ず参拝する。そんな当たり前のことを、当たり前にすることが一番大事だと思うのや。

     それが霊的な神殿をもっと霊的にすることであり、魂の安らげる場所を創ることにもなると思うのや。

     わあわあ言いながら長屋談義は続きますが、お後は次回で。


わたしたちの信仰談義

六、プラスアルファの信仰へ     その一

ご隠居  まず会長が当たり前のことを当たり前にすることさえできたら、霊的な場所はさらに霊的になっていくと思うのや。

     霊的な場所なんて、その価値がわからん人も多いかもしれん。そして本当の霊的というのは、おどろおどろしい装飾物や、壮麗な飾りが必要なもでもない。そこに集う人が、その場所を本当に尊いと思って、真実の祈りを捧げていくことによって、だんだんとその場所が霊的なものになるんだと思う。

わしは会長時代、神殿を建てさせてもらったが、新しい神殿ができたからと言って、霊的な場所になるんではないということが、普請中に思い知らされたのや。確かに前の普通の民家を改造した神殿より、神殿らしくはなったが、それで霊的な場所ができたんとは違うねん。神殿普請の工事の最中に、「前々会長さんの話を聞いたり、自分の話を聞いてもらったあの神殿が無くなることは、身を切られるように寂しいです」とある信者さんに言われたことがあるねん。その言葉を聞いて、きれいな新しい神殿になったからといって、霊的な場所ではないということが本当によくわかったんや。

霊的な場所は、大きさでも美しさでもない。そこにどれだけの人が、真実の思いを尽くしたかということやと思う。

虎さん  真実の思いを尽くすというのはどういうこと

でっか。

ご隠居  こないだも言うたけど、なんも難しいことする必要はないと思う。

まず会長たる自分が、会長としてするべき当たり前のことをしたらいいんや。

     教会では神様が主人であるというならば、ちゃんと主人に仕えたらいいのだと思う。

主人である神様に、朝の献饌から朝夕のおつとめお掃除と、きちんと仕え、きちんと神様の思いを信者さんに伝え、自分も神様が望まれていることを、きちんとしたらいいのや。 

そうすれば神殿は壮麗であるかどうかにかかわらず、そこはだんだん霊的な場所になるのだ。

  それを、神殿を造ることが霊的な場所を創るということと同じことやと思うから、話がおかしくなるんや。

虎さん  神殿はお金を出せば作れるが、霊的な場所はお金を積んだから作れるわけではないということですな。

ご隠居  その通りや。

     ちょうど子供を育てるというのも、霊的な場所を創るというのとよく似ているとわしは思うのや。お金だけを与えたからといって、子供は育たんやろ。

今信仰離れの子供が多いということが問題になってる。その理由として、教会生活の苦しさだとか、教会制度に原因があるという人もあるけど、しかし、それを言うたら、天理教の草創期や、多くの教会が設立された教祖四・五十年祭当時の方がもっと苦しかったかもしれん。だから一概にその理由だけで、離れていくのではないと思うねん。

草創期や、教祖五十年祭当時と今と、一番違うのは何かというと、天理教に対する自信やと思うねん。

この道が、この世界をたすける真実の道であるという自信が、今はどこかに行っているんじゃないか。教祖五十年祭には、人類更生を旗印として活動していたことを考えれば、今はいろいろある宗教の一つとしての天理教や。

熊さん  この道を信仰する自信を持てとのお話、よく分かりましたが、子供にも自信をもって伝えていけば、話を聞きまっしゃろか。

ご隠居  聞くと思う。天理教の会長は継がんでも、少なくとも反対者にはならんと思う。シンパにしたら、縦の伝道は成功やとわしは思っているのや。それは自分たちがどれだけ熱情をもって、信仰を伝えるかにかかっていると思う。

熊さん  シンパってなんですの。

ご隠居  シンパ・シンパとわしの時代はよう言うたが、共鳴者・同情者のことやな。せめて天理教を嫌いじゃない子供にしてほしいんや。天理教を熱心にしなくても、天理教は何となく好きですと言ってくれたり、誰かが天理教の悪口を言ったら、猛然と反発するか、心の中で否定してくれるような天理教にシンパシーを持ってる子供をまずは育てるように考えて欲しいと思う。

     子供というのは親の背中を見ているとよう言うやろ。だから、ちゃんと親が霊的な仕事をしていたら、それも見ているはずや。霊的な仕事をしていると言いながら、霊的なことをしていないとわかるのも、子供が一番早いと思うねん。

教祖五〇年祭には「人類更生」を旗印にしたのやで。口先で、「このよをさめるしんじつのみち」というか、ほんまにそのことを旗印として掲げるのでは、覚悟と自信が大きい違いや。

     わあわあ言いながら長屋談義は続きますが、お後は

わたしたちの信仰談義⑭

六、プラスアルファの信仰へ その二

この信仰談義は、大教会創立130周年を立教百八十六年に迎える私たちの信仰を、もう一度再確認するために、長く天理教を信仰している物知り顔の前会長のご隠居さん、信仰熱心な熊さん、ちょっと疑い深い虎さんの三人の会話を通して現在の問題点を、できるだけ分かりやすく?考え、成人の一助にしようとしたものです。

虎さん  ご隠居が先月おっしゃった「そこに集う人が、その場所を本当に尊いと思って、真実の祈りを捧げていくことによって、だんだんとその場所が霊的なものになるんだと思う」というのはわかりましたが、霊的な御守護、つまりは、奇跡というものも見たいですし、それが一番の布教にもなると思うのですが・・。

ご隠居  わしたちは、霊的なことをややもすれば病気がよくなったり事情が治まったりという現象面だけの御守護に目が行って、その御守護をいただいた後の自分の心を変えていくことを忘れがちになるもんや

虎さん  その話も分かりますが、まずその前提たる、現象面のご守護だけでもいただきたいと思いますわ。

熊さん  わしも、がんが治ったり、歩けない足が歩けるようになるようなご守護をいただきたいと思いますわ。

ご隠居  それはわからんでもないけど、例えばがんが治っても、本当は元の状態に戻っただけやろ。もともとがんはなかったんやから。

虎さん  ほんだら前の元気な時はどれだけ喜んでいたんやという話でっしゃろ。その話は分かりますけど、いったん病気になったんやから、目の覚めるような奇跡を見せて欲しいという思いも、神さんわかってほしいと、わしはいつも思いますねん。

ご隠居  それはわしが会長の時、熱心な信者さんが病気になった時、嫌というほど何回も思ったことや。 

せやけど、そう思いながらやっぱりちょっと違うとも思ったんや。

虎さん  何が違いますの。それが人情というものですやん。

ご隠居  それが人情というものやと、わしも思う。

    けど神情として考えてみて欲しいと思うねん。

熊さん  神情てなんですの。

ご隠居  人間に人情があるなら、神さんにも神情があるんと違うかなと思ってな。

虎さん  その神情から見たら何ですの。

ご隠居  神情からみたら、ちゃんとした身体を与えてあるときには、身体に対するお礼なんか一つも言わんくせに、ちょっと病気になったら、元の身体に戻せ戻せとやかましいことや。あまりにうるさいから戻してみても、今度は病気になったことは忘れて、自分のことばかり考えている。神情としては甲斐のないことや。そうは思わんか。

虎さん  そうは思わんかと言われても、わしは神さん違いますからなあ。

ご隠居  わしはあるとき思ったことがあるねん。

「この世界はいつ始まり、いつ終わるか知ってるか」と、人に聞くことがあるんやけど、わしはこの世界がいつ始まったか、ふと悟ったことがあるねん。ある教会で、日向ぼっこをしていた時のことやねん。

お日様の暖かい日差しの中で、「ああ、この世界はわしが生まれたときに始まり、わしが死ぬときに終わるのやな」と、豁然(かつぜん)と思ったのや。生まれたときから後のことしかわしは知らんのやし、四十二億年前だとか、九億九万九千年年前だとかは、わしにとっては関係ないことや。

わしにとって絶対的な事実は、わしが生まれたときにこの世界ははじまり、わしが死んだ時にこの世界は終わるということだけや。わしが死ぬときには、虎さんや熊さんも、みんな道連れやで。

わし以外の人にとっては、わしが死んだだけやけど、見方を少し変えたら、自分が死んだら世界は終わるんや。言い換えれば、わしのためだけに世界はあるんやと思ったんや。

神様はこの地球も、この社会も、日本もみんなわしだけのために作ってくれているのや。わしだけのためにこの世界を作ってくれているのやから、この美しい風景も、風のそよぎも、暖かい太陽の光もみんなわしのためにあるということや。それならわしはそれ以上何を求めるのや。求める必要がないやろ。全部わしのために与えられているのやから。

そうであるなら、わしは何をすればよいのや。

神さんができんことが一つだけあるのや。それは、わしの心を変えることや。それだけは神さんが人間に任せられたことや。何もかもわしのために作ってくださったこの世界で、わしはわしの出来るただ一つのこと、わしの心を変えることに専念したらいいのやと思ったんや。

そしてわしだけのためにこの世界を造ってくれたのなら、いろいろな節、つらいことや悲しいことも、わしのために神様が見せてくれていることなのかもしれんと、思えたのや。

おまはんらも、そんな風に考えてみたらどうや。

熊さん   そうでんなあ。この世界がわしだけのために神様が作ってくれた世界か。

それならわしだけのために作ってくれた世界なら、自分のことを願う必要はありませんわな。

わあわあ言いながら長屋談義は続きますが、お後は次回で。

わたしたちの信仰談義⑮

六、プラスアルファの信仰へ その三

熊さん  今、ロシアとウクライナが戦ってますやろ。どうにかならんかと思っているんですが・・・。

ご隠居  どうにかならんかというのはどういうことやねん。

虎さん  神様がいるのやったら、神様もそんな戦争望んでいないやろから、パッと終わらしたりできませんのか。

ご隠居  それは難しいな。人間の領分のことやさかいな。

熊さん  それってどういうことですの?

ご隠居  人間がしたことは、かみさんはどうもしないということや。

熊さん  それじゃ神さんがおる甲斐がありませんがな。

ご隠居  こういう話は、どうやな。

第二次世界大戦の時、ユダヤ人は大きな虐殺を受けた。その時なぜ神様は助けてくれなかったのか。ユダヤ人の中で、ユダヤ教への信頼が崩れそうになったそうや。その時、エマニュエル・レヴィナスという哲学者が、こんなことを言ったそうや。孫引きで申し訳ないけど、内田樹さんの話から紹介するわ。

『私が研究したレヴィナスという人は先の大戦で応召したのち、捕虜となり、捕虜収容所に終戦まで収監された。戦争が終わってみると、リトアニアにいた親族のほとんどはアウシュヴィッツで殺されていた。帰化した第二の祖国フランスのユダヤ人共同体は崩壊寸前だった。

若いユダヤ人たちは父祖伝来の信仰に背を向けた。彼らはこう言った。もし神が存在するというのがほん とうなら、なぜ神は、彼が選んだ民が600万人も殺されるのを看過したのか。なぜいかなる奇跡的な介入もされなかったのか。信者を見捨てた神を、なぜ私たちはまだ信じ続けなければならないのか、と。

 そういう人たちに向かってレヴィナスはこう語った。では訊くが、あなたがたはこれまでどんな神を信じてきたのか? 善行をするものに報償を与え、悪行をするものには罰を下す「勧善懲悪の神」をか? だとしたら、あなたがたが信じていたのは「幼児の神」である。

 なるほど、勧善懲悪の神が完全に支配している世界では、善行はただちに顕彰され、悪事はただちに処罰されるだろう。だが、神があらゆる人間的事象に奇跡的に介入するそのような世界では、人間にはもう果たすべき何の仕事もなくなってしまう。たとえ目の前でどんな悪事が行われていても、私たちは手をつかねて神の介入を待っているだけでいい。神がすべてを代行してくれるのだから、私たちは不正に苦しんでいる人がいても疚しさを感じることがなく、弱者を支援する義務も免ぜられる。それらはすべては神の仕事だから だ。あなたがたはそのように人間を永遠の幼児のままにとどめおくような神を求め、信じていたのか?

 ホロコーストは人間が人間に対して犯した罪である。人間が人間に対して犯した罪の償いや癒やしは神がなすべき仕事ではない。神がその名にふさわしいものなら、必ずや「神の支援なしに地上に正義と慈愛の世界を打ち立てることのできる人間」を想像されたはずである。自力で世界を人間的なものに変えることができるだけ高い知性と徳性を備えた人間を創造されたはずである。

「唯一なる神に至る道程には神なき宿駅がある」(『困難な自由』)この「神なき宿駅」を歩むものの孤独と決断が信仰の主体性を基礎づける。この自立した信仰者をレヴィナスは「主体」あるいは「成人」と名づけたのである。

「秩序なき世界、すなわち善が勝利しえない世界における犠牲者の位置を受難と呼ぶ。この受難が、いかなるかたちであれ、救い主として顕現することを拒み、地上的不正の責任を一身に引き受けることのできる人 間の完全なる成熟をこそ要求する神を開示するのである。」(同書)

 レヴィナスはこの峻厳なロジックによって、戦後いったん崩れかけたフランスユダヤ人共同体を再建した。二十代の私はこのレヴィナスの複雑な弁神論につよく惹きつけられた。信仰を基礎づけるのは市民的成熟であるという言葉は私がそれまでどの宗教者からも聞いたことのない言葉だったからである。』

(現在における信仰と修行)

熊さん  難しいけど、なんかわかります。

ご隠居  教祖の話の中にも、高野友治先生の著書の中で次のような話がある。

『教祖、あるとき、仰せには「神が働けば、世界一夜の間にも なむ天理王命にしてみせる」と。信者たちは喜んで、「どうぞ、そのようにしていただきとうございます」と。教祖の仰せには、「世界一夜の間になむ天理王命にしたところが、誰が修理肥に行ってくれますか」と。人間一人一人が、神様の思っている人間にまで成人するには大変な時間と労力がいるのや。それを神様が神様の力を使って、神様の望む世界にしたところで、そこには人間の努力は何も入っていないのと同じや。

虎さん  だから神さんは、「神の支援なしに地上に正義と慈愛の世界を打ち立てることのできる人間」が、陽気ぐらしの世界を作るのを待っているということですな。

ご隠居  第一次世界大戦・第二次世界大戦後もいろいろな戦争があった。それでも世界はだんだんとましな世界になってきた。今ロシアのウクライナ侵略戦争に対しても、世界の多くは反対の意思表示をしている。一国の我がままによっておこる戦争は、これで最後にしたいと多くの国が思っているだけでも、大きな進歩だとわしは思っているのや。

わあわあ言いながら長屋談義は続きますが、お後は次回で。


 

わたしたちの信仰談義⑯

プラスアルファの信仰へ その四

熊さん  私たちが今生きているということが、大きな奇跡であり、考え様によっては、自分だけのために神様はこの世界を造ってくださったんや、そして自分たちだけで、理想的な世界を作れる人間として人間を造ってくださったというご隠居さんのお話ですが、それはわかりましたが、それではご隠居が考える目に見える奇跡とはどんなことですか。   

ご隠居  目に見える奇跡は、今、私がこうして生きていることだと思う。それを奇跡と思わなかったら、奇跡はないと思う。

熊さん  もう少しわかりやすく言うてください。

ご隠居  宇宙は広いやろ。せやけど今わかる範囲で、生き物が生きているところは地球だけや。

     わしらは簡単に生きているけれど、空気があり水があり、適度な温度があるから生きておられるのや。そしてもう一つ大事なことは、それが地球だけで完結していることや。生きるためのものはすべて地球に用意されており、一番大事な水も空気もあるということや。

     そして永久運動のように循環している。それが奇跡だと思わなければ、奇跡なんてないはずやろ。

虎さん  それは、ご隠居の眼から見ればそうだと思いますが、信仰のない他の人から見れば当たり前のことです。もう少し別の面から奇跡を考えるなら、まずどんなことが思い浮かびますか。

ご隠居  別の面から言うと、大きな奇跡は、明治二十年一月二十六日の、あの日の姿やとわしは思う。

熊さん  あの日だけ、警察が来なかったということですか。

ご隠居  それも奇跡と思う人もあると思うが、わしが言いたいのは別の話や。人の心が変わったという話や。あの日の姿を思い出してほしいと思う。

     あの日人々は、「命捨ててもと、思うもののみつとめにかかれ」という初代真柱様のお言葉に代表されるように、自分の命を捨てても良いという思いでおつとめにかかられたのや。

 教祖の高弟衆といえども、最初、人々はみな、自分や家族の病気や事情を助けてもらいたいと信仰に導かれたのや。

その人々が、自分の命を捨ててもおつとめをする、おつとめをするというのは、人のために祈ることや。つまりは自分の命を捨てても人だすけをするという心になったんや。

 自分が助けて欲しいという心が、人を助けたいという心に変わった奇跡の日が、明治二十年一月二十六日や。

 そしてそれは象徴的な話で、わしたちにもわしたちなりの一月二十六日があるのやと思う。自分可愛い、自分ファーストの人間が、人をたすけたい、自分の利益を捨てても、人が助かってもらいたいと思えた日があったということや。その原点を忘れんことやと思う。

 もしその原点の日が無いというなら、せめて一生にまずは一回、すべてを捨ててもそんな日をつくってほしいと思うねん。

 命捨ててもとまで思わへんでも、せめて自分のことは忘れて人だすけに向かったら、神様は必ず働いてくださるのやと思う。

熊さん  そういう意味では、大教会創立百三十周年という一つの旬やから、せめてこの期間に、真剣に人のために祈る機会をつくらせていただいて欲しいということですな。

虎さん  そう考えれば、コロナによって人のために祈らざるを得ない機会を与えてくれたのかもしれませんな。

ご隠居  コロナというのはそういう意味では、意味深な病気やなあ。自分がコロナにかからんとこと思ったなら、だれが持ってるかわからへんときにうつるから、誰もかからんように祈るしかない。自分がコロナにかからないためには、人にもかかってほしくないと祈ることしかないということや。わしは、今ほど世界中の聖職   者が、祈ったことはないと思うのや。

熊さん  奥歯にものが挟まったような言い方をしてますが、聖職者はいつも祈ってますやろ。

ご隠居  わしの今までの話を聞いてたらわかるやろ。今ほど、本気で人のために、祈ったことはないということやな。

井上昭夫先生(㊟信仰談義⑨)がおっしゃった「洞窟」を広げるためには、人のために祈ることによってのみ、その洞窟が広げられると、わしは思っているねん。

虎さん  人のために祈ることができるようになることが、人 

間に対する神様の成人目標であるとすれば、コロナは、 

神様の一つの意思表示かもしれんということですな。

「我が身かわいい」という人の心を「人をたすけさせていただきたい」という心に変えることが神様の目的で、その目的のためにお見せいただいた病気や事情」やというお話はよく分かりますし、そのためには、人をたすける心の涵養が大事ということになるのですが、そのためにはどうしたらいいのですかという、堂々巡りから一歩も出れないような気がしますが・・・。

ご隠居  そのために節があるのや。

熊さん  わしはきつい節はいやですわ。

ご隠居  わしもきつい節は、いややけど、伸びるために節が 

あると考えたら、例えば年祭だとか、記念祭も大きな

一つの節目や。その時に一つ、今までとプラスアルフ

ァーのことをさせてもらうと決めたらいいのや。

     「神も仏もあるもんか」と思えるような節を超えてこそ、神がわかってくるのやと、レヴィナスさんは言うていたけど、年祭や記念祭で頑張らせていただけば、転じ替えてくれるかもしれんしな。

わあわあ言いながら長屋談義は続きますが、お後は次回で。


 

わたしたちの信仰談義⑰

この信仰談義は、大教会創立130周年を立教百八十六年に迎える私たちの信仰を、もう一度再確認するために、長く天理教を信仰している物知り顔の前会長のご隠居さん、信仰熱心な熊さん、ちょっと疑い深い虎さんの三人の会話を通して現在の問題点を、できるだけ分かりやすく?考え、成人の一助にしようとしたものです。

大団円 その一

ご隠居  長々話してきたけど、そろそろ終わりにしたいと思

ってるけど、二人ともちょっとはわしの話わかってく 

れたかいな。ちょっとでも参考になったなら、わしに

「よかった」とメール(anz2222jp@yahoo.co.jp)で言っ

てくれんか。先着三名に羊羹プレゼントするわ。  

熊さん  はじめは何を言うてはるんやと思いましたけど、よ 

くわかりました。記念祭の旬に頑張らしてもらいます 

わ。

虎さん  ご隠居、わしはあの井上先生の、洞窟の話、

「自己の関与する洞窟にある、家族の一生命の死に、魂を揺さぶられるような悲しみを憶える人間は、自己の外にある数十万の餓死者に一滴の涙も流し得ない存在でもある。

神の子であるべき人間にとって、この驚くべき冷淡さは何故なのか、という奇妙で、しかも非常に宗教的な問いは、脳というものが一個の人間をとりまく環境の中でのみ生存することをたすけられるようにつくられていて、それ以上の大きさをとり扱うようにはできてはおらぬという、ごく単純な生物学的理由でもって明確に答えられる。」という洞窟の話が、心に残ってますわ。       

     ご隠居もご存知のように、わしは少しへそ曲がりで 

すねん。人を助けるより、自分が助かりたい人間です

が、神様もできない自分の心を変えることが、この世

界におる意味なら、わしも少しは自分の洞窟を広げた

いと思いますわ。

ご隠居  わしも洞窟の拡張を目指して三十年余り、洞窟は相

変わらず定員一人のままやけど、拡張しにくい原因と、

拡張の手段はおぼろげながら見えてきた。拡張しにく

い一番大きな原因は、結局は拡張することのメリット

を感じていないということに尽きるのではないかと思

う。「ごく単純な生物学的理由」の枠組みを一歩も出て

いないということや。それは言い換えるならば、神様 

が人間に与えられた負?の特性、八つのほこりの呪縛 

から一歩も抜けていないということなのや。

国同士の紛争が八つのほこりにまみれているのと、それはまったく同じや。まさに世上は鏡やな。

虎さん  「このみちハどふゆう事にをもうかな このよをさめるしんぢつのみち」六号四(この道はどういうことに思うかな この世治める真実の道)ていうのは、ほんまに信じられますのか。

ご隠居 「それを言っちゃおしまいよ」という気がしないでもないが、それが本当の話であるということを、伝えるためにこの話を続けてきたのや。

     確かに世界は大きく変わってきた。その原因は産業の発達や。そのはじめは十八世紀後半から十九世紀にかけておこった産業革命や。そのころ、旬刻限(しゅんこくげん)の理によって教祖がお生まれになった。

その産業革命は、石炭という化石燃料の利用によって起こった。それが今の気温上昇の引き金や。

     世界が大きく変わろうとするとき、教祖は生まれ

たのや。それが神様の思惑であることは間違いないと思う。 

 そして今、コスパ全開、自分ファースト全開の世界にストップをかけられるのも、教祖の教えでしかないと思う。

わしがこの神様に間違いはないやろと思ったのは、神様のお言葉に、『悪を善で治め、たすけ一条、千筋悪なら善で治め』(明治22年2月7日)というおさしづを読んだ時やねん。悪を善で治めることは難しいことや。権威や金や武力で相手を屈服させる方が早道であり、一時は効果的なように見えるかもしれん。そしてそのほうがする方もすっきりするかもしれん。

武力で解決しようという声は勇ましく、人をひきつけるかもしれん。しかしそんな方法で相手を屈服させても、最終的な解決にならないのは、何よりも歴史が証明しているやろ。

だから真に世界を治めるには、たすけ一条、千筋悪なら善で治めとお聞かせいただく方法しかないのや。

千筋悪とはすごい言葉やと思わんか。すべてが、八つのほこりにまみれ、自分ファーストでコスパばかり考えている人々の中で、たった一筋、たすけ一条の心で治めていけとおっしゃっているんやで。こりゃ生半可な心ではいかんはずや。

そんな善の心に少しでも近づかせていただけるよう、大教会創立百三十周年に向けて、三年千日仕上げの年に相応しい年にさせていただきたいと思うねん。

熊さん  もう一回世界だすけに向けて頑張らせていただ

きます。

虎さん  大きく出たな。世界だすけか。

ご隠居  大教会長さんは、よく次のようにおっしゃっている。「地球という大きな世界もあれば、隣の家も又世界です」奥さんだって、子供だって、世界かもしれん。

熊さん  ほんまに嫁はんは世界ですわ。何考えとるかさっぱ

りわからんもん。

ご隠居  まずは自分のいちばん近いその世界としっかりと話

をしてみたらどうや。世間話じゃなくて、魂と魂の話

をしてみることや。魂と魂の話なら、わしみたいに片 

っぽ死んでてもできるぞ。

虎さん  ご隠居にそう言われたら、帰って嫁はんに今日聞い

たご隠居の話をしてみますわ。

ご隠居  お道の話は半端な話やないで。わしらが半端にして

しまったんや。

わあわあ言いながら長屋談義は続きますが、お後は次回で。


 

わたしたちの信仰談義⑱

この信仰談義は、大教会創立130周年を立教百八十六年に迎える私たちの信仰を、もう一度再確認するために、長く天理教を信仰している物知り顔の前会長のご隠居さん、信仰熱心な熊さん、ちょっと疑い深い虎さんの三人の会話を通して現在の問題点を、できるだけ分かりやすく?考え、成人の一助にしようとしたものです。

大団円 その二

熊さん   「お道の話は半端やないで。わしらが半端にしてしもうたのや」というのは、どういうことですか。  

ご隠居   お前、ひながたの道通っているか?この道の話を聞いた初代のようなつとめ方をしているか。

熊さん   そう言われるとなかなかむつかしいものがありますなあ。

ご隠居   それが半端にしたということや。

百年たったら、その人に直接お会いした人はほとんどおらん。教祖も現身を隠されて百四十年近くになる。また八木の初代が出直されたのが、明治二十九年。すでに百三十年近くになる。その当時。いろいろな迫害の中をこのお道を通るというのは、いろいろな御守護があったとしても、相当なものやったと思う。

熊さん   わしの家は代々天理教ですけど、信仰し始めたころは近所ばかりでなく、親類からもえらい反対があったそうですわ。

ご隠居   わしが教会に帰ってきた二〇歳当時、信者さんの中で「私はなま天やから」という言葉をよう聞いたんや。なま天とは、「なまくら天理教」の略や。自分はなまくらな天理教信者だから「なま天」なのや。でもそういっている人々が決して不真面目な信仰者ではなく、私から見たら熱心な信者さんばかりや、

   当時の信仰者の中に、あまりにも熱心やった人が多かったから、今のわしら程度の信仰のもんは、なま天というしかなかったんやないかと思うねん。

虎さん   ご隠居は昔のような信仰に帰れとおっしゃっているんですか。

ご隠居   そうできたらいいけど、それは無理やろ。

     だからせめて、人に何かを言うとき、わしらは誰も、天の定規を持ってないということを自覚して言ってほしいと思うのや。

わしたちは天の定規があると、逸話編に書いてあるから、あることは知っている。

ここで勘違いしてはいけないことは、信仰しているから天の定規を持っていると誤解し、会長だから私の言うことは、天の定規やと思ってしまいそうになる時があるんや。しっかり思わなければならないことは、天の定規があるということだけや。わしが天の定規を持っているわけではないのや。自分の物差しでは測れない天の定規があるということや。

虎さん   わかりもせんのに、偉そうなこと言うなと言いたいんでっか。

ご隠居   いやいや、滅相なことを言うではない。言うとくけど、これは誰のことでもない、わしのこっちゃ。

      今になってほんまに思うのやけど、大したことを言ったわけでもないのに、それを重く受けとってくれた人がおった。わしを会長やと思てくれたからや。そしてそう思うことによって、教祖が働いてくれるのや。わしが何にもえらいのと違う。そう受け取る信者さんが偉いのや。

熊さん  天の定規が働いてくれたんですね。

ご隠居  そうや。受け取る側が、天の定規やと思たら、それが天の定規になるのや。

 わしの祖父母もそうや。これが天の定規やと信じてこの信仰に入った。人に貸していたお金も全部ないことにして、道一条になったわしの祖父母が、わしの家の信仰のはじめや。その祖父母がこの地へ来て、食べる米が無くなった時、「これで教祖のひながたの万分の一でも通らせていただける」と、喜んだのやで。それがまだわしの二代前や。

普通で考えれば、食べる米がないということは、つらいことや。そこへ教祖のひながたという新しい定規を入れれば、教祖のひながたの万分の一でも通らせていただけるという喜びに変えていただけるのや。教祖のひながたは、つらいを喜びに変えてくれるのや。

わしはいつも思うねん。お前は今何を考えている。コスパばかり考えているのやないか。

そんなお前の中に、今教祖が、本当におってくれるのか。

お前の中で、教祖はどこにおるねん。その教祖がお前の魂の中におらへんだら、信仰している甲斐がないのと違うかと・・・。二代前の決心に泥を塗ることやないかと。

おまはんらもせっかくこの道に入れてもろたんや。

おたがい少しでもほんまの信仰をさせてもらいたいと思わんか。

熊さん・虎さん よくわかりました。ありがとうございます。

ご隠居  わしが今まで書いてきたことも、そのことを言いたいのや。わかったふりをして、ほんまは何もわからんのと違うのか。わからんことが悪いのやない。わからんだらわからんとすることが大事や。わからんくせに、分かったような顔をするなと、言いたいのや。

熊さん  ご隠居さん、興奮すると血圧上がりますで。

虎さん  ご隠居の血圧が上がって、病院へ搬送されましたので、これにて「私たちの信仰談義」は、終わらせていただきます。どうもありがとうございました。

わあわあ言いながら長屋談義は終わりますが、信仰はしっ

かりと続けましょう。ありがとうございました。


 

わたしたちの信仰談義⑲

ご隠居の独り言

最近、夢を見ることが多くなりました。眠りが浅いようです。妻を失ったりして、どうも心が不安定になっているに違いありません。

夢を見た記録として夢日記をつけていくと、夢がある程度思い通りの夢を見ることができると聞いたので、どうせ夢を見るなら、いつか酒池肉林の夢()でも見ようかと、下戸のくせに大きな夢を抱いて、夢日記をつけることにしました。

話は変わりますが、大教会報「天明」誌に掲載された「私たちの信仰談義」も、十八回で、無事何とか終わりを迎えることができました。先月感想を募集しましたが、私の関係の教会長が一人と、信者さん二人が、私の強要に負けてメールをくれた以外は何もなかったので、読者はその三人かと、少々不足気味ですが、私だけは少なくとも、信仰的に進歩できたようです。

この「信仰談義」の全体は、昨年第一回を掲載するときに最終話までできていて、大教会長様、前会長様のお許しを頂いて掲載を始めたのですが、最終話近くなって、少し方向が初めと違うようになりました。

 私の祖父母が小金貸しをしていた借金を帳消しにして、財産をお供えして、道一条になったことは父から聞き、食べる米が無くなって、「これで教祖の満分の一でも、ひながたを通らせていただける」と喜んだという話も、何回も父から聞きましたが、連載を続けるうちに、この話がただの話ではなく、教祖のひながたという、新しい天の定規を入れるということの本当の意味に、心を向けることができるようになりました。

最終話を来月に控えた七月二十三日、役員会で百三十周年の準備の予算については、私共の教会にかかっているという、大教会長さんの温かい励まし()を聞き流しておりましたら、その晩夢を見ました。殺人鬼となって、近所を機関銃で打ちまわっている夢です。本当の因縁から言えば、そうなっていたかもしれないという夢です。

教会には車が三台もあります。そのうち二台が走行距離20万キロを超え、アクワに至っては、トヨタの所長さんから、「20万キロを超えたアクワを見るのは初めて」との賛辞?を頂いておりますが、その新しい車の準備金として貯めていた分を都合つけることにしました。

メールが少ないと、別に拗ねているわけではありませんが、読者は少ない「信仰談義」でしたが、それなりに神様には受け取っていただいたように私は自負しています。(拗ねとるやないかい)ちょうど今月の「みちのとも」で『私の場合、特に路傍講演を続けるようになって、自分が変わったように思います。「たすけたいとの一条ばかりなんです、喜ばせてもらうんです」と話す自分の言葉を毎日、自分自身が聞いているからだと思います』と、聞かせていただいたように、私の好きな中島みゆきさんの歌詞で言うなら、「どんなにひどい雨の中でも 自分の声は聞こえるからね」ということだと思いますが、書くことによって、一番変われたのは、自分だったからです。

 そのことに強く感謝して、私の信仰談義を終わらせていただきます。ありがとうございました。