今月の信者宅祭文  十月      

之れの神床にお鎮まり下さいます親神天理王命の御前につつしんで申し上げます。 親神様は、私たちの我さえよくばの気ままな心が、他の人々の心を傷つけ曇らすばかりでなく、それがために己自身の心も傷つけ曇らせて危うい道にさまよいゆくことのないよう、事情や身上にしるしをつけ此の道にお引き寄せくださいましたことは、誠にありがたくもったいない極みでございます。  私たちはその思召に感激し、一つ心に親神様をお迎えしてお鎮まり戴き、尚も成人の道をお仕込み戴くままにお連れ通りいただいてまいりましたが、今日は月毎のおつとめをつとめさせていただくめでたい日柄でございますので、真心からおつとめをつとめ、日頃の御恩にお礼申し上げるとともに、これから先も変わらぬご守護をお願い申し上げたいと存じます 子や孫に信仰を伝えるのではなく、信仰の喜びを伝えるのだということをしっかり念頭において、自らの毎日を再点検させていただきたいと存じます。

 親神様にも何卒わたしどものこの真実をお受け取りくださいまして、まだまだ至らぬ届かぬ事も多うございますが、何卒変わらぬ自由用の御守護を下さると共にどんな中でも心倒さずおすがりして深い親心の悟れる真実の人に成人できますようお導きお連れ通りの程を慎んでお願い申し上げます。

今月の祭文の思い

 私たちの入信は、私たちか、私たちの先祖が、病気や、いろいろな事情に困っている時、話を聞かせていただき、おたすけいただき、入信するに至った場合がほとんどだと思う。私たち人間の側から見れば自発的に入信したように思うが、神様の方から見れば、祭文のとおり私たちの心の向きを変えるためにおひき寄せ下されたのである。

 私たちは心の自由用〈自分の心を自分がどのようにも使えること〉を許されているが、それはあくまで許されているだけであって、その自分の心を自分の好き勝手、自分が楽しいことばかりに使うことによって、人を不快にしたり困らせるだけではなく、結局は自分をも不幸にしてきたのだ。神様はそれを哀れと思われて、病気や、事情を通して私たちをお引き寄せ下されたが、信仰しているからといって、いつも人を思いやる心ばかりを使っているわけではない。

教祖のひながたを、自分の通り方の基本として、『我さえよくば』の心を、知らず知らずのうちに使っていないかをいつも反省させていただき、子供や孫に信仰を伝える時にも、信仰を伝えるに性急な余り押し付けになることなく、信仰を伝えるのではなく、信仰の喜びを伝えることが大事だということをお互いしっかり自戒したいと思う。