今月の信者宅祭文  四月

之の神床にお鎮まり下さいます親神天理王命の御前につつしんで申し上げます。親神様には月日にハせかいぢうゝハみなわが子 たすけたいとのこころばかりでとのお言葉どおり、約束の年限の到来とともに教祖をこの世界に御現しくださり、世界助けの道をお教えくださいましたことは誠にありがたくもったいない限りでございます。私たちはその思召に感激し、一つ心に親神様をお迎えしてお鎮まり戴き尚も成人の道をお仕込み戴くままにお連れ通りいただいてまいりましたが、今日は月毎のおつとめをつとめさせていただくめでたい日柄でございますので、真心からおつとめをつとめ、日頃の御恩にお礼申し上げるとともにこれから先も変わらぬご守護をお願い申し上げます。特に今月は私達人間の親である教祖のお生まれ下さいました尊い月でございますので、私達も一入深くひながたを見つめ自らの心を再点検させていただきます。親神様にもわたしどものこの真実をお受け取りくださいまして、まだまだ至らぬ届かぬ事も多うございますが、何卒変わらぬ自由用の御守護を下さると共にどんな中でも心倒さずおすがりして深い親心の悟れる真実の人に成人できますようお導きお連れ通りの程を慎んでお願い申し上げます。

 今月の祭文の思い

もう二十年近く前になるだろうか、信者さんが交通事故で病院に運ばれたことがある。

病院にその方を見舞い、おさづけを取次ぎ、本部の教祖殿にお願いに走った。夜の一時近くで、開いていた南礼拝場に参拝して教祖殿の外の廊下から教祖にお願いをした。そのとき一陣の風が吹き、「お前がこんな時間にくるのはお願いの時だけやなあ」といった言葉がどこからともなく聞こえてきた。それが教祖の声なのかどうかは知らないが、今も心に残っている。

それから以降そんな時間にお願いに行くことは、それはいいことなのだと思うが、今のところない。それじゃお礼に行っているのかといえば、残念ながらそんな時間に行くことはない。

この道元草生えの中から言えば、しんどの仕損というは教祖や。』という「おさしづ」があるが、しんぞのしぞんをかけているのは過去だけのことではなく、今のことなのだと、改めて自分を振り返って思う。一人の信者の悩みや苦しみを聞くだけでへたりそうになる自分を考えれば、教祖はどれだけの悩みや苦しみを聞かれてきたのだろうか。

 せめてこの旬に、教祖に喜びをお伝えできるような通り方をさせていただきたいと、改めて思う。