配偶者の死も大きな悲しみですが、それ以上に納得できないのが、子供の死です。
人は「また春が来る」と言います。
しかし、その春の中に、あの子はいないのです。
また来ん春 中原中也
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たって何になろ
あの子が返って来るぢやない
(中略)
ほんにおまへもあの時は
此の世の光のただ中に
立って眺めてゐたつけが……
小林一茶は、五十歳の時、一歳の娘を亡くし、次のように詠みました。
露の世は露の世ながらさりながら
小林一茶
この短い言葉の中に、どうしようもない悲しみが込められています。
歌人五島美代子は、愛娘を亡くした時の思いをこう残しています。
ひとみいいこでせうと言ひし時
いい子とほめてやればよかりし
空が美しいだけでも生きてゐられると
子に言ひし日ありき 子の在りし日に
美しい空を見るだけで生きていけると思えたのは、その子がいてくれたからでした。
子供を失う親の悲しみは、本当に深く、言葉では言い尽くせないものです。
わが妻は吾子の手握り死にてはいや
死にてはいやと泣きくるひけり
木下利玄
同じ子供の死にも、さまざまな悲しみがあります。
まだ見ぬ子を、見ぬままに失うこともあります。
何も知らない
あなたの笑顔 知らない
あなたの笑い顔 知らない
あなたの好きな遊び 知らない
あなたの好きな食べ物 知らない
なぜ 知らないの
母なのに
そして善意の言葉が、その人を傷つけてしまうことがあります。
「早く元気にならないといけない」
「また次の子が授かる」
そのような言葉は、悲しみの中にいる人にとっては、深く突き刺さることがあります。
今は「この子の死」が悲しいのです。
その悲しみは、他の何かで置き換えられるものではありません。
まだ見ぬ子であっても、母は確かに命を感じ、語りかけ、未来を思い描いていました。
そのすべてが、一瞬で失われるのです。
思い出だけでなく、未来まで失われる悲しみがあります。
破壊されそうな悲しみの中に、人は立たねばならない時があります。
そして何気ない言葉に、深く傷つくのです。
しかしその中で、人は少しずつ、自分の中に残るものに気づいていきます。
それは、その子と過ごした時間であり、その子が確かに存在したという証です。