人生学ことはじめ  河合隼雄氏

        現在は家族の関係が実に難しいときである。「家族さえいなかったら」という嘆きを、相談の場面で私は何度聞いたかわからない。

        科学やテクノロジーの発展によって、現在は何でも自分の思いのままになると思い込んでいる。しかし、自分の一番思いのままにならないのが家族ではなかろうか。泣いている赤ちゃんに泣き止んでもらうだけでも大変である。自分の意志や能力を超えるものが存在することを実感できるという点で、家族関係は、現在人に宗教性を感じさせる緒(いとぐち)になるのではないか、と私は考えている。

        苦しむことによって精神は鍛えられる。しかし、苦しみが強すぎると木、精神は破壊されることもあるのではないだろうか。

        一番大切なことは、安心感を与え、感情を共にする人が傍らに居てくれる、ということだ。そのような人間関係に支えられて、苦しみ悲しんでいる人の心の底に、自己回復、自己治癒のきざしがそっと生まれてくる。人間は簡単に人を「救済」などできない。その人自身が自分の力で立ち直ってゆかれるような場を提供することが大切なのだ。

        忙しすぎてやすらぎがないという人がある反面、何もすることがなくて、やすらぎがない人も結構存在するのである。従って、ともかく人間というものは、仕事をせずにいれば安らぐとか、暇になればやすらぐなどという単純なものでないことがわかる。

        最愛の人が死んだ場合、「なぜ?」との問いに医学は「出血多量」などと感単に答えてくれる。しかし「なぜ、それが最愛の人なのか?」の疑問には答えられない。この答えられないことを、われわれは忘れている。

        怖いのは、魂の話を現実の戦争に勝つか敗けるかとか、カネが儲かるか儲からないかという次元に持っていく人がいることです。これは大失敗する。魂の話は魂の領域で話をしておらねばならないのに、魂の話を他の世界へ持っていくと、大和魂で戦争に勝つとか、ものすごくばかげたことをやるわけです。ばかげたことをやりすぎたんで、今度は現実的な自然科学があらゆる分野で支配的になってきた。