近代性のパラドクス      石崎嘉彦氏

        家庭での役割を放棄し、自己省察を嫌う現在人は、自分を見詰めず精神的向上も要求しないおもしろ志向の大衆文化に身を寄せることに安堵を覚える。弱者を虐待したり、笑ったりする番組を見て、自分が弱者であることを忘れ、弱者を笑う立場に立つのである。そうすることによって自己の現実を忘れようとする。そのとき自分が「もの」として扱われることに慣れてしまっているので、「もの」として虐待されるシーンを見ても嫌悪を感じなくなっている。そして知らない間に子供を「もの」として扱うようになっている。

        親も子も相手を思いやることよりも自分の疲れている状況を相手に訴え、自分の大変さをわかってもらうことしか考えることができなくなっている。こうして個人の自己主張のみが繰り返されることになる。そこには、心の通った対話は存在しない。家族どうしの間でさえ「人に迷惑をかけなければ何をしてもよい」と言う個人主義、結果主義が堂々と語られることも少なくなくなった。子供の面倒を見るよりはテレビの野球ほうそうを優先してしまう親は現実に多いのではないだろうか。パチンコにいってる間に何らかの原因で死亡したり、行方不明になった子供達は、今年の上半期だけで八人にも及ぶ。この事件は自分の欲求の充足のためになすべき義務を怠るwれわれの自己中心的風潮を端的にあらわしている。

        私が私であること、わたしらしさについて根本的に考察するとき、男女の性差を超えた「人間としてのわたし」と、「男性、女性としてのわたし」に行き着かざるをえない。もし男性、女性のセクシュアリテイを全く認めないとするなら、そこに出てくるのは虚構の、現実には存在しないわたしでしかない。男性は子供を生むことはできない。女性は子宮の中で胎児を育て出産できる。実際に生むかどうかではなく生める可能性を持った性なのである。

        お互いが本音でぶつかり合うことができれば、相手の本心を理解することができるかもしれないが、本音でぶつかり合うためにはそれぞれがある程度自立した人間になっていなければならない。

        実家依存症の未熟な親たち、仕事に疲れ、家事育児に疲れ自己主張しかできない親が増えている。われわれ若い親はすでに耐えることを美徳とする時代に育ったのではなく、消費は美徳の時代に育ち、欲しいものを何でも手に入れることのできる世代である。目的実現のために何かを断念したり、自己を犠牲にすることを知らない世代である。自分のいうことを聞かないこどもを躾と称して折檻したり、無視したりする幼児虐待の実態が声高に叫ばれている。これはモラルの低下とか愛情の低下とかいうことに止まるのではなく、先ほど述べたように相手を自分の思い通りに動く道具「もの」として扱いたいと言うネクロフィリアや自分本位のナルチシズム、また未成熟で責任意識が欠けている近親相姦的固着の定位が助長された社会の病理現象にほかならないのである。

        コミュニケーションをとろうにも親も子も疲れ、自己主張が唯一のコミュニケションとなっているような家庭も現実に少なくないようである。また、自分の自由ばかり主張し、相手の自由を尊重しようとしないわれわれは、社会的な規範に従うことを嫌う一方、マニュアルがなければ何もできず、自分で行動しようとはしない。