■努力すれぼなんとかなるのか一努力してもしかたないのか戦後の日本杜会はまさにそこを二重底にしてきた。憲法第九条と日米安全保障条約の二重憲法体制など、戦後杜会はいくつかの二重底でつくられている。タテマ一と本音というより、もつと現実的な共犯関係。戦後日本とはいわば「二重底杜会」である。そのなかでも、「努力すればナントかなる/努力してもしかたない」の二重底は特に重要な位置を占める。
戦前までは、多くの人にとって努力すればナントカなるは夢であり、努力してもしかたないのが現実であった。それが敗戦とその後の高度成長によって、努力すれぼナントカな
るが急速に現実化していく。『お嬢さま』に成り上がれるような気もしてきた。その結果、国民の七割までが自分の杜会的な地位を中の中と答えるという、総中流杜会ができあがったーそれが戦後の日本の、常識的な理解だろう。
■理想は努力主義だが現実は実績主義
努力しても仕方ないという疑念を抱えつつ、努力すればナントカなると自分に言い聞かせて学校や会社の選抜のレースに自分や自分の子供たちを参加させてきたというのが日本の戦後の偽らざる姿である。疑念は疑念のまま、見えない障壁は見えない障壁のまま、存在しつづけている。現実は実績主義、理想は努力主義と言う、中途半端な、あるいは曖昧な成果志向の表明は、最終的にはそうした二重底の産物なのだろう。
■にもかかわらず、高い学歴をもつ人問は実績主義にかたむく。自分の地位を実力によるとみなせる。選抜システムの中でロンダリングされているようなものだ。「本人の努力」という形をとった学歴の回路をくぐることで、得た地位が自分の力によるものになる。
「本人の努力」という形をとった学歴の回路をくぐることで、得た地位が自分の力によるものになる。だからこそ、自分の地位を実績主義で正当化できたり、努力主義を「負け犬の遠吠え」とみなせたりする。そういう魔力こそが、「学歴杜会」の「学歴杜会」たるゆえんなのだ。
これが日本の選抜杜会の現実なのである。p68〜69
■くり返すが、差がつくことがわるいわけではない。本人が汗水ながした成果でそうなるのなら、一定水準の杜会保障さえあれば、どんなに大金持ちができて一向にかまわないと私は思う。
だが現状はそうではない。親も高学歴の専門職・管理職で本人も高学歴の相続者たちが、自分の成果をみずからの実績とみなす。みずからの力によらないものまで・みずからの実績にしてしまうのだ。それは、人生の選択という経験の希薄化とあいまって、実績というコトバの意味を暖昧にし、空虚にしていく。
W雇上の家庭に生れ、W雇上になるのがあたり前という雰囲気のなかで育つことで何をやりたいのかという目的意識を欠いまま、曖昧な形で選抜競争を勝ち抜き、実績をつくる。それでもW雇上の家庭にうまれたという有利さによって、競争には勝ち残りやすい。勝ち残ること自体が目的となっていても、勝ち残ったという点では手に入れたものだから、得た地位に対する権利意識は強い。さらに、選抜システムの「洗浄」効果(第二章)によって、他の人の目からも正当な権利のように映る。
その結果、「実績」は、何かができるはずだという責任をともなう資格という意味をうしない、たんなる既得権へと変質していく。いわば、W雇上の家庭にうまれたという既得権によって「実績」をつみ、そうすることで、その「実績」自体もまた既得権化してしまうのだ。
西ヨーロツパのような明らかな階級杜会であれば、たとえ競争という形をとっても、それ自体の不平等さが目に見える。目に見えるがゆえに、競争に勝ち残った人は勝ち残ったという事実だけでは自分の地位を正当化できない。自分がその地位にふさわしい人間であることを目に見える形で積極的に示さなげればならない。階級杜会特有の「高貴な義務」という観念がそこにうまれる。
ところが、戦後の日本では選抜競争が平等な競争であると信じられてきた。そのなかで「団塊の世代」のように、生まれによる有利不利が発生すれば、今のべたような、既得権が「実績」化し「実績」が既得権化するメカニズムが働く。「高貴な義務」の中身もかなりあやしいものだが、その「高貴な義務」という観念すらもたないエリート集団がつくりだされるのである。
実際、日本のW雇上二世のなかには、みずからの力によらないという事実にすらまったく気づかない人もいる。郊外のこぎれいな住宅地に生まれ、有名私立小学校から進学校に進み、有名大学を卒業して、大企業の幹部侯補生やキヤリア官僚(昔の「上級公務員」)になっていくなかには、W雇上以外の世界をまったく知らない人もいるだろう。平等杜会の神話につかったまますべての人が自分と同じように生活していると思い込んでいれば、みんなまったく同じ条件で競争していると考えても不思議はない。けれども、それはW雇上の世界だけしか知ろうとしないということであり、もっと幼稚な自已中心的態度である。
W雇上の二世たちはそういう危険をはらんでいる。いうまでもなく、すべての二世たちがそうだというわげではない。親や周囲とぶつかりながら、自分の道を選んできた人も少なくない。だが、全体としていえば、そういう危険をはるかに多く抱えこんでいる。
■入試にかぎらず、日本の選抜システムの試験はぺーパーテストの比重が高い。その評判は概して悪く、ぺーバーテストが諸悪の根源で、それさえなくせば杜会がよくなるかのようにいわれることさえある。だが、ぺーバーテストには一つ大きな長所がある。全員をできるだけ同じ規準で一律に選抜にかけられるという点である。
べーバーテストの反対、面接や小論文を考えてもらえばわかりやすいだろう。最近は「個性重視」というかけ声の下、面接や小論文を試験にとりいれるところも多くなったが、面接や心論文では、誰が面接をするか、誰が小論文を読むかによって評価がどうしても左右される。えこひいきしているわけではない。個性重視の試験では、試験される人の個性が前面にでやすいが、同時に試験をする人の個性も前面に出てくるのである。ぺーパーテストであれぼ、誰が採点しても○は○、Xは×だが、面接や小論文では採点者の主観がはいってくる。個性重視の選抜規準をとるかぎり、これはどうしょうもない。
だから、面接や小論文ではできるだけ多くの人間が評価にあたるようにするのだが、それでも消去できない偏りが発生する。特に大きいのは文化的同質性である。人間には自分と似た人問を高く評価するくせがある。これもごくあたりまえの心性であるが、選抜システムでは大きな偏りを発生させる。選抜する側が一つの文化的特性を共有している場合、選抜される側に同じ文化的特性をもつ人間がいると、その人を全員が高く評価してしまうのである。
この種の偏りは試験にかぎらず、日常的に広く見られる。例えば、「地方」出身の人は、方言で話しただけで「頭がわるい」とみられた経験を多少なりとももっているだろう。あるいは「学閥」を思いうかべてもらってもよい。同じ大学の先輩の上司が後輩の部下を高く評価するのには、必ずしも「学閥をつくろう」という意識が働いているわけではない。ただ、同じ学校文化をせおっているがゆえに、抵抗感少なく接することができる。人問関係がよければ、当然、仕事もはかどる。また、部下が何か失敗した場合でも、なぜ失敗したか、部下の身になって考えやすい。そうなると、やむをえない理由もしばしばみつかる。部下からみれば、挽回のチャンスをもらいやすい。(P113)
■ところが、日本の選抜システムは形式的には高度に平等で、全員を同じ年齢で一律に選抜にのせる。その上、選抜の方法も主観的た偏りがはいりにくいぺーバーテストが主で、選抜機会はかなり強く一元化されている。
その分、「敗者」とされた人は「向こうの見る目がなかったのだ」といった解釈をしづらい。たとえ内心ではそう思いたくても、多元化された選抜とはちがって、一元化された選抜では制度自体がそう解釈する余地をきわめて狭くしている。他人と同じ機会をあたえられたことを、誰も否定できないからだ。
■「選抜そのものが実は空虚なのだ」と選抜の勝者が言明する。エリートがエリートであることを自己否定する彩で、「敗者」の意欲をそがないようにする。簡単にいえば、「ポク、テストでいい点とるのがうまいだけなんですー」とエリート自身が告白したり自己批判することは、この杜会の選抜システムにとって、重要なお約束の一つなのである。
あえていえば、杜会がエリートに自已否定させているといってもよい。選抜システムの勝者であれぼあるほど、っまり受験競争や出世競争で勝ち残れぼ残るほど、この力は強烈に働いてくるわけだが、
■日本のエリート集団が空洞化する原因としてよくあげられるのは、小学校からはじまる長い受験競争・出世競争である。それが目的意識や野心を断片化して、競争に勝ち残ることだけを目標にさせてしまう、といわれる。だが、それ以前に、そもそもすべての人問に一律に機会をあたえる選抜システム自体に、根本的な原困があるのだ。この選抜システムが、何段階にもわたる長い競争を生みだし、かつ、エリートに自己否定を強いるのである。
だからこそ本気で自己批判しなくても誰も文句はいわないし、本気で自己批判しないことを疑問に思いもしない。エリートの側にとっても、わるい取引ではない。エリートである責任から逃れられるからだ。偽のエリートなのだから杜会を良くする責任なぞ負わなくてもよい。「自分がわるいわけじゃない、あの時はみんながこれがいいといったじゃないか」と自己弁護できる。もう少し敏感な人ならば、生まれによる有利不利への負い目からも逃避できる。それによって選抜システムでの「実績」はさらに既得権化する。
■私たちは機会の平等を結果の平等からのアナロジーでとらえがちだが、機会の平等は結果の平等とはまったく異質な原理である。両者のちがいをたんなる基準点のちがいだと誤解している人は多い。だが、もっと決定的な、文字通り本質的なちがいがある。それは、結果の平等は目に見えるが、機会の平等は直接目に見えないということである。
結果の平等が守られているかどうかは、ある時点の収入なり所得なりのデータをみれば判断できる。もちろん、「均等」と「必要」のように(第一章)、どういう規準に照らして平等だといえるかにはいくつか種類があるし、選抜システムであれぼ、先ほどのべたように、「実力」を測る規準の妥当性がつねに問題になる。それでも、一つの評価規準があたえられれば、平等かどうかは現状をみれば判断できる。
それに対して、機会の平等はたとえ「努力」という形で評価規準が一つ定まっていても、個人個人がもつさまざまな背景のちがいまで調べなけれぼ、守られているとも守られていないともいえない。(p167)