困った人たちの精神分析   小此木啓吾氏

ただの噂好きと、ウラ子さんはどこが違うのか。
その違いは、普通なら「かもしれない」と憶測で話す事が、「そうなのよ」と断定した「思い込み」になってしまう点にある。そうではないかという推測のはずなのに、本当にそのように思えてしまう時、ウラ子さんにはミクロな心の狂いが起こっている。p35 

強迫心理の背後にはこの種の全能感がある。何でも自分の心の思う通りに外界の出来事までもコントロールし、支配したいという願望に発している。「がんのこの人を死なせないで治してほしい」「この受験、絶対に合格したい」といった願いを叶えるために、おまじないをしたり、お祈りをするのも、この種の心の営みである。そしてこの気持ちの裏返しは、何か決まったことをしないと、悪い事が起こる、不幸が起こる。たぶーを破ると災厄が起こるという恐怖である。宗教心理にはこの種のタブーがたくさんある。

 私が世の中でもっとも恐ろしいと考えている人物像の一つが、この正義君と共通心理を持った人々だ。彼らは正義君と同じように、ある瞬間から自分が正義の味方になり、相手を完全な悪玉と思い込む。彼らは、些細な傷つきや、相手のわずかな攻撃を何十倍にも大きなものとして経験し、自分の暴力を正当化する。
  この場合の特徴として、彼らはいつも、自分が迫害されたり攻撃されるから、相手を攻撃するのだという論法を用いる。そうなると自分の攻撃、いじめ、暴力はすべて正当なものになり、相手はそれを受けて当然だという感情に駆り立てられる。 しかも暴力を振る以前には、興奮して感情的になるが、いざ暴力行為そのものの動作や行動に移ると、緻密な計算をして、あらゆる科学的な方法で相手を殺戮したりする可能性がある。

○国家が戦争や軍隊という暴力を肯定している国の場合には、どうしても体罰も正当化される度合いが高いようだ。このような暴力の正当化は、国家レベルだけでなく、家族レベルでも起こる。国家レベルでも、家族レベルでも、正当化された暴力を加える場合、その加害者の多くは、加害について罪悪感を持たない事が特徴である。むしろ自分は正義の味方であり、正しい事をしているのだと思い込む。
 この魔法を人々の心にかけた上では、どんな暴力行為も正当化されてしまう。国家では時の為政者が、家族では親が神聖視され足り、理想化される。それらの存在の命令は、暴力を神聖化し正当化する。
 恐ろしいのは、人々が暴力を正当化する信念とか教条とかにとりつかれている場合である。なぜならばこの場合、被害者である国民、そしてまた子供たちの側が、逆に罪悪感をうえつけられてしまうからである。つまり、国家的な規範に従わなかったから、自分たちが罰を受けるのは当然だというふうに思い込まされる。親の言いつけに背いて自分は悪いことをしたから、体罰を受けるのは当然なのだという思い込みが出来上がる。
 このような思い込みによる罪悪感は「処罰恐怖型の罪悪感」と呼ばれる。また、そのような暴力的な処罰とそれに対する恐怖が内在化して残酷な超自我を形成する。そのような超自我に対して子供たちは一方的に従属する。したがって、条件反射のように、自分たちがその命令に背くならば、厳しい罪悪感を抱き、自分を責めるp159
超自我や良心の呵責をごまかしてサデイズムを正当化する心理のまとめを最後に述べたい。
  @スケープゴートをつくる。…そのグループでいろいろな欲求不満が高まったり、外部からの迫力や圧力が高まったりするときに、自分のグループ内部の少数派、あるいはみんなから嫌われている存在を悪玉に仕立て上げて、そこにみんなの攻撃を向けることで、グループ全体の連帯感やお互いの傷つけ合いや争いを防ぐ心理である。
  A自分と同じ悪を働いている人を正義の味方の振りをして、人の先頭に立って攻撃する。
  Bみんなの復讐心をあおる…・お互いの攻撃性を発揮するときもっとも正当化されるのは、隠忍自重、もうこれ以上耐えられないとして、自存自衛のために、あるいは復讐のために立ち上がる場合である。すでに述べたようにほとんどの戦争はこのような復讐や自存自衛のための戦いとして正当化される。
  C機先を制する…・じっとこのまま閉居していると相手に攻撃を加えられる。相手はいろいろと自分に対する攻撃の準備をしている。周りからひそかな迫害が起こっている。中略 自分が攻撃される前に相手を攻撃することで自分の生存をはかるという、機先を制するという形での攻撃性の正当化がしばしば行われる。
 本当の平和をわれわれが心からともにするためには、今挙げた攻撃性を正当化するさまざまな論法を十分に熟知し、その使われかた、正当化の論理の背後にある人々の真意をよく理解し、それぞれに適切な対応を行うことが必要である。今述べたような攻撃性の正当化は、国家社会のレベルから個々人のレベルにわたって常に見られる心のメカニズムである。
第三は、道徳的マゾヒズムである。心に傷を受け、あるいは自分の攻撃性を親に投影し、厳しい超自我像が心の中にできあがってしまう人々がいる。このような人々は、幼いときから自分を、罪を犯した人、罪深い人だというふうに思うようになる。そしてあらゆる艱難辛苦を、自分のこの罪のために当然受けなければならない報いとして受けとめようとする。

 その人物のパーソナリテイが一定の発達を遂げているかどうかは、パーソナリテイの障害を評価するときに重要である。人と人の間に、それぞれ個と個としての自立した自他の境界の明確な心のあり方を本当に身につけた人なのか、それともまだ自と他が融合していて、人と自分のもののけじめや区別がつかないままでいるのか…。

このような意味で、葛藤外の二次的な自立機能になっていたものが再び葛藤的なものになって症状としてあらわれるものに、排便とか、ものを食べるとか、あるいは勉強するとか、学校に通うとか、性生活などがある。
  これらの基本的な生活機能が葛藤的なものになることなく、自立性を保つ能力をどれだけもっているかが、そのパーソナリテイの健康度をはかる目安になる。
  ところが、パーソナリテイ障害の場合には、これらが一つ一つ葛藤的なものになる。ものを食べること食べないことが、母親との葛藤の取引に使われたり、アルコールを飲むことが自分の現実を否認する手段になったり、不安を解消するために次々と異性と交渉を持ったりするという場合には、性生活の機能、食事をする機能がいずれも別な心の葛藤を処理する手段にもちいられている。その結果基本的な生活機能そのものが乱れ、傷害されることになる。