信じる愛を持っていますか   渡辺和子氏

 ◎エドワード・リーンという人が本の中に、「他人の行動とか、事物を通しておこる‘’ままならないこと‘’に腹を立てた瞬間、私達は謙虚さを失っている」と書かれてあったように思う。他人から受ける不当な扱い、誤解、不親切、意地悪などから全く自由になりたい、なれるはずだと思うことは、すでに人間としての「分際」を忘れた所業であると書かれていたように思う。修道院に入って間もない頃、人間関係に悩み、多くの不合理に心穏やかでない時、ふと手にして深く考えさせられた本の一冊である。25

人の思うところは必ずしも神の思うところと同じではない。科学、技術がめざましく進歩し、生死を司るかに見える人間の偉大さが随所で証明されているこの時、人間の精神の真の偉大さは、おのれの限界を知ることにあるのではないだろうか。
 科学の粋を集めた新幹線が、雪という自然の力の前に故障し、おくれること自体、技術文明の限界を示すものであり、その限界を体験して、はじめて、ふだん見落としていた「小さい駅」の存在に気づくように、私たちの生活の中に苦しみが入ってくることは、決して悪いことではない。なぜなら、それは、ふだん忘れていたたいせつなものを思い出させてくれるからである。25

マザーテレサの言葉から
「後進国で多くの子供たちは、飢え、栄養失調、病気で死んでいます。日本でもたくさんの子ども(胎児)がやはり‘’死ななければならない‘’としたら、日本は決して富んだ国とは言えません」
「夫に、妻に、子どもに、ほほえみかける時間さえないとしたら、こんな貧しい家庭があるでしょうか」

修行とは、何の意味も見出せないような、または何の得にもならないようなことも、一つの信念のもとに繰り返し行うことによって積まれてゆくものであり、それはいつしか、その人の身にそなわった美しさを創りあげてゆく。
 そういえば、しつけとは「躾」と書く。思わずとる身ごなし、正しい判断、ゆかしい人柄は、一朝一夕で得られるものではなく、間断ない自己との戦いとも言える修行を通してのみ可能である。90

自分のみにくさ、傷口から目をそむけず、自分にみにくさがあること、自分が傷ついていることを認めることができる人はまた、他人の醜さ、傷口からも目を背けないでいられる人である。
 どうしたらみにくい自分を見つめ、受け入れてゆけるのだろう。それは誰かが心から「きみはみにくくない。ぼくは傷ついたままの君を愛している」と言うことによって可能となる。 

「私はこの人生を一度しか渡らない。だから、もし何か善いことだできるなら、もし私のまわりの人に何か親切ができるなら、今させてください。なぜなら、私は二度とこの人生を渡ることはないのだから」
 この祈りに似た言葉が私の生活の中に入って来たのは、もう十数年も前のことだった廊下。本の名は忘れたが、その中に書いてあって、深く心に残る言葉だった。
 自分の人生は一本の道で、日々歩みつづけることはできても、ひき返すことの許されない道である。道の随所に花が咲いている。手を伸ばせば簡単に詰めるものもあれば、茨を掻き分けてでないと達しないものもある。美しいとは知りながら面度だとおっくうがったり、人の思惑を気にしたりしてやり過ごしてしまった花は、後戻りして二度と摘むことは許されない。一度しか通れない道だからである。私の人生の「花束」はこのようにしてつくられてゆく。 

「一生の終りに残るものは、集めたものではなく、与えたものだ」と、三浦綾子さんの小説にあったが、本当にそういうことだろう。一生の終りに残るものは集めたものだと思いがちである。方々に旅行して集めためずらしい品、買ったもの、預金通帳に集めた金、土地、建物。しかしながら、人はこれらのものを持って死ぬことはできない。お棺の中に入れたとしても焼けて灰になるものばかりであり、そうでなければ、遺品として他の人に分けられるものでしかない。
 その人が、死後も「自分のもの」と呼べるもの、その人とともに永遠に残るものは、生存中にあたえたものー愛なのだ。この愛と呼ばれる目に見えないもの、レントゲンでうつしても決して映らないもの、手術をしても解剖してもメスに触れえないものこそ、人生を生かすたいせつなものなのである。197

◎人間は「善」しか選ばない。いやそんなことはない、現に数多くの人が「悪いこと」をしているではないか、と言われそうだが、当の本人は、その時、自分にとって「善」と思って悪事を働いているのである。子どもを融解するのは悪いと知りながら、借金の返済に追いつめられれば「身代金」の方が大きな善と考えられて来て誘拐し、殺すのは悪いと知りながら、逃走中、子どもが足手まといになれば「身の安全」という善のために殺してしまう。