祖師に背いた教団  田原由紀雄著

 

◎今日われわれの深い悲しみは教団の喪失である。しかも寺があり、檀家がある。因習の重圧でもっても生命の開放であることを止めている。教員・吏員に流れつつある寺院子弟乃至住職たちのおびただしい現状は、寺院経営の破綻的な困窮から由来するも、根源的には教団の喪失を理由としている。寺院も教団も挙げて如何に経営するかが第一義とされている事実が教団の死の表白である。中略

教学とは時代の苦悩を宗教的実存において負荷することである。時代の苦悩というところに教学の生命がある。「真人 一九四九年十一月十日号 社説

 

◎信心よりも寺の経営が優先される宗門のあり方を批判してやまない暁烏は募財の方法をたずねる教務所長に対しても「金を集める方法なんどきくような人は信心がないのだ。四十間四面の大堂は念仏から湧き出たものです。念仏がなくなったときは消えるのが当たり前です。念仏がなくて金が集まらない時は潰れたらよいでしょう。心配はいりません」と答えた。暁烏内局のもとで、赤字のほとんどは解消した。

 

◎高光大船は「夜明けの前は闇にきまっている。闇に先立つ夜明けはないのである。」と言い放ったことがある。「人生に迷わぬ限り人生の闇は知る限りでなかろう。況や闇の晴れた喜びなど闇に遭着しない人のこれに参到するどうりはないのである」と。