社会問題・心理学

 読書ノート1より

(カウンセリングを語る 河合隼雄氏)
◇ 
つまり
問題を先生にくれるのが問題児です。
私はよく言うのですが、先生と言うのは自分が問題を出して、生徒が解かなかったら
怠けているとか言って怒るんです。その癖に生徒が出した問題を解かない人が非常に多いんです。

◇大体真実と言うのは心の痛むことが多い。うそというのは痛まん方が多いのでついつい僕らもうそをつくんです。                          21

(宗教と科学の接点 河合隼雄氏)
◇だいたい「人のために尽くしている」と確信している人は、まず反省などしないものである               35

◇相当な学問や知識のある人が、みすみす迷信とわかるようなことに多額の金を費やすので不思議に思うときがある。しかし考えてみると、これは自己実現の残酷さに直面することを逃れるための免罪符としてなされていることがわかる時がある。自分は問題を解決するためには迷信と思えるようなことにさえ敢えて頼ろうとした。しかし駄目であった、ということによって、もっとも本質的な苦しみとの直面を避けるのである。それが免罪符的な意味を持つために、金額は高ければ高いほど歓迎されるようなところがある.このあたりをうまく見越してうまく儲ける人もある。

(滝田修解体 たけもとのぶひろ氏)
◇社会的矛盾の解決が一直線に社会的合理性の領域を拡大する方向へ必ずしもつながらない。むしろある種の社会矛盾の解決が、別種の社会的矛盾を生み出している            43

◇自らを否定し犠牲にするものは、他者をも否定し犠牲にする                45

◇他の不当を言う.だからといって私の正当正義を示したことにはならない。そして前者はたいしたことではなくて、後者こそが肝心なことであった。だが、この点についてきちんと自覚的に認識していたとはいえない。

◇ある力関係のもとでは大衆の側に属する人間が他の場面では、大衆のなかからあらかじめ自分を排除したうえで、大衆について話をする
 一事が万事ありとあらゆる人間関係がこの調子でやっている。個々の人間が無数のタテ関係のからまりの中を生きている。目覚めているものと目覚めていないもの。先端を進んでいく者とおくれてそのあとをついていく者。意識的先鋭と無自覚分子。力のある者とない者。などなど。どうしてもタテの大小強弱上下関係になる。無限にこのたての支配関係が再生産され増殖する。どうあっても対等にならない。                
47

◇それでは何故異分子に我慢ならないのか。
 唯一絶対の正義、絶対無謬の心理が存在しており、それを自らの手に握っていると考えるからであろう。自己の絶対無謬を信じるからこそ、その主張を共有しない人間はまちがいをおかしていることになる。        49

◇強い弱いは相対的である。強者は強者だけで存在しているのではない。弱者の存在に依存して存在しているのである。
であるなら、どうして強いことのみが価値で、弱いことは価値でないのであろうか。
 強者をよしとする社会は、弱者を必要とする。優等生をよしとする社会は、劣等生を再生産しつづける。        50

◇抑圧されたものの中にこそ真理(神)が宿るという思想は、確かに一面の真理があると思う。それをいうならそして真理が存在しなければならないとしたら、抑圧も不可欠の必要事となるのではないか。                             51

◇自己批判要求などというおかしな他社批判があるぐらいだから、運動は他者批判が大好きであるが、他を問うものは自分を問おうとはしない                                57

◇世間の人々にわかってもらえないのは、働きかけが不足しているからであろう、と。しかし、それは違うと思う。 左翼・過激派も充分に働きかけてきたし、今も働きかけている.十年一日のごとくである。にもかかわらず、人々の心に届く気配がない。何故か.その働きかけの内容と方法が根本においてまちがっているのではないか。その働きかけの内容と方法が根本的にまちがっているのではないか。その働きかけのレベルが余りにも浅きに過ぎ、軽きに過ぎるのではないか。むしろ今私が思うのは、私と他者のお互いがそうそう簡単には分かり合えない存在であり関係であるからこそ、祈りにも似た他者への思いと願いがうまれてこざるをえない。−そういう時代を私達は生きているのではないか、ということである。    58

(エリク・エリクソン氏 世界乳幼児精神医学会第一回総会において)
◇いまや人類は、子孫をつくることについて、重大な岐路に立たされている。今までは子供を産むことは自然のことであった。しかし、現在では産むか産まないかを選ぶ自由が与えられた。したがって、いま生まれてくる赤ん坊は、産むことを選ばれた子供かあるいは制限され損なって生まれてきた子供か、どちらかに限られるようになってしまった。               61

(東京漂流 藤原新也氏)
◇変革以前の日本的家屋構造は、機能的ではなかったが世間に向かって解放されており、自然環境の中で呼吸している「生き物」であった。
 そうした様々な変化の中で基本的に言えることは、家の構造が解放から閉鎖へ向かッ他ということである。人々の「家」はそのお互いが交流するものからお互いを遮蔽するものへと変容していったのである。(中略)
  それを象徴的に表すものは、「縁側」と「神棚」ということができよう。
  縁側は、世間からの、やってきてもやってこなくてもよいような人がやってきて、そこでお茶を飲み縁をつくっていったから縁側という。(中略)
 神棚や仏壇は、人間が自然や超自然的なるものと交流を交わす玄関であり、縁側であった。                        71

◇自分の尺度で計る「愛」はやさしい。しかし他人の尺度でそれを測ることほど難しいことはない。それが難しいのは「自我」を消すという、人間の存在にまつわる最も困難な事業を伴っているからだ      78

◇つまり「善行」とは、本質的に私的救済のための「偽善」に他ならないという一つの覚醒のもとに、それを社会のシステムの中に位置付け、社会の人間関係をより円滑に消化していくための方策にするというやり方があったのだ。
ヒンディズムイスラム法がそれである。
 インドやイスラム国では富者が貧者に施しすることによって、その率に応じて死後、自己が救済されるという教えがある。      78
◇人々の環境や家々が自閉化し、ブンカ的に整備され滅菌浄化されていくにつけ、
断罪されるべき悪、醜のイメージは、ハエからやがて、人間に拡大されていくのであるかもしれない。            83

(身体としてのリーダー  上田紀行氏)
◇「開かれた」理念を声高に叫ぶ集団が、その内部においては専制的リーダーシップによる差別と抑圧の「閉じられた」体系を生み出し、結局のところ「輝かしい未来のために今を抑圧しよう」と行った自己撞着に陥ってしまった例を我々は数限りなく知っている。                                   87

◇集団を相対化し、集団内の力学にのみにこだわる視点は、ある地点まではラヂカルな解放をもたらすにもかかわらず、集団そのものを支えている社会システムについて問わないがゆえに、ミクロな解放とマクロな抑圧という状況をもたらしがちだ。               88

◇病は「気づき」を与えるものとして存在している。それは自分のあり方が「いのち」のあり方と相いれないものとなってしまっていることの表れなのだ。                        89

(排除の現象学 赤阪憲雄氏)
◇異質なるものと遭遇したときの対応の形式によって、あらゆる社会を、「異物吸収型」と「異物嘔吐型」に分類する 事が許されるかもしれない。例えば、精神病者の処遇を例とすれば、彼らを共同体の内側から排斥せずに、常人から分かたれた聖なる者として包摂している社会(吸収型)と、かれらとの接触を忌み怖れるがゆえに共同体から疎外し、収容施設に隔離しておくことを選ぶ社会(嘔吐型)とに分類される。           95

(心理療法序説 河合隼雄氏)
◇大人は一般に「指導」するのが好きである。「指導」によって人間が簡単に良くなるのなら、自分自身を指導することからはじめるとよいと思うが、それをせずに子供の指導をしたがるのだから、ナンセンスである。        99

「自立」と「依存」とは、反対の関係じゃないのですね。「依存」しないのが「自立」やと思うのは大間違いで、何も依存せんと生きとる人は、これを「孤立」というわけでして、上手に依存する事と自立することは必ずしも対立しないのですね          102

◇子供達は大人たちの魂のゆらぎが欲しいのだ。
 物がない時は、物によって心を伝えることが容易であった。とくに日本人は心のことをそれだけ取り出して顕わにすることを好まず、物の中にさりげなく入れ込むことがすきであった。ちょっとした物の贈答、あるいは飯粒一つを大切にと教えることで、心のことを教えたのである。
 ところが余りに急激な経済成長によって物が豊かになったとき、我々はどのようにして心の接触を保ち、魂のはたらきを表現するかわからなくなったのではなかろうか。103

◇エレンベルがーという人が「創造の病」ということをいいだしました。病は病なのだが、それが創造につながっていくのです.身体の病気であれ、ノイローゼであれ、あるいは、事故、大変な失敗、災難・・・・、こういうものを全部ひっくるめて、我々の受け止め方によって、創造の病に変化していくと思います。                       104

◇苦しむことによって精神は鍛えられる。しかし苦しみが強すぎると精神は破壊されることもあるのではなかろうか。。無用の苦しみというものがあることに、われわれは気づくべきである。日本の軍隊は訓練中に「苦しむ」ことにかけては、世界一だったかも知れない。しかし、その苦しみによって、どれだけ軍人の判断力や批判力が破壊されっていったかは、歴史がよく教えてくれている。           106

(トランスインフォメーションブック)
◇様々な行動があり、自分の自由意志で行われています。しかし表面上は自由でも、隠れた声を明るみに出してみると、いるように見えても  、うまく学校でいい成績をとらなければ。うまく友達づきあいをしなければ。うまく仕事をしなければ。うまく結婚をしなければ。うまく老後に備えなければ。と、じつは本質は全部「うまく・・・しなければならない」の単調な人生だったとはいえませんか 124

◇私たちが「分かる」ということには、二つの次元があります。understand。頭で分析し理解するという分かり方で、これが通常私たちが「分かる」といっている次元です。しかし実際に私たちが生きていく上では、人生を創造していくうえでは、もう一つの分かり方が重要なのです。それはrealizeという分かり方で、頭だけではなくあなたの存在自体が実感するという分かり方です。そしてrealizeという言葉に「実現する」という意味があるということからも分かるようにrealizeの「分かる」には実際に自分自身がその状態を体現していて実際に自分でもできるという意味が込められています。                    126

◇「頭」でただ分かるだけでなく、実際に「できる」ようになるためには、「頭」のシステムとは異なったシステムをたんきゅうしなければなりません。そして分かるという知力とともに、「できる」ためのエネルギーを同時に開発しなければならないのです。                         127

 
読書ノート2 より

 

(信じやすい心  島田裕己氏)
◇消費主義社会は、あらゆる事を疑う人間を好まない。コマーシャル・メッセージをそのまま鵜呑みにしてくれる人間の方が、はるかに都合がいいのだ。そういった状況のなかで、社会は若者たちにイニシエーションの機会を与えて、大人へ成長させようとはしない。大人になればただ鵜呑みにするのではなく、まず疑ってかかるようになる。それでは簡単に消費行動を煽ることはできないのだ。

◇ディズニーランドのようなテーマパークが広く受け入れられるようになったのは、雄sれを受容する社会が変化してきたからではないだろうか。子供ばかりでなく大人までが、ディズニーランドにおいて、「つもり」になり「はまる」ことに快楽を見出すことができるのは、一般の社会においても、「つもり」になることや、「はまる」といった行為が重要性を持つようになったからだと思われる。   50

(生命の意味論  多田富雄氏)
◇人間の胎児は受精後7週暗いまでは、まだ男でも女でもない状態、あるいは女でも男でもある状態である。  55

◇人間はもともと女になるべく設計されていたのであって、Y染色体のTdf遺伝子のおかげで無理やり男にさせられているのである。         56

◇同性愛の成立の要因として、従来はフロイト的解釈に基づく、幼児体験や生活環境を重視してきたが、どうやらそれは、もっと生物学的解剖学的なものに規定されているものらしい。そうだとすれば異常性欲として差別したり、道徳的に非難したりするのは全く根拠のないことである。同性愛はまさしく、人間の性の生物学的多型性の中での一つの形である。    58

◇20歳を過ぎた頃から、一日十万個ていどの細胞が脳の中でしんでいくといわれている。アルコールや薬剤はこれを助長するという。
 それにも拘わらず、脳神経系の老化による変化は、他の臓器に比べてむしろ軽微である.それはこの臓器が140億個超える神経細胞(ニューロン)で構成される、きわめて予備能力の高いシステムであるからである。例えば50年間にわたって一日10万個の細胞が死んでいっても、たかだか13パーセント程度の減少に過ぎない.100歳になって初めて約20パーセントの神経細胞が死ぬ計算である。それに対して、一生の間で使われている神経細胞は10パーセントていどといわれている。       61 

読書リスト 3  より

 

(男達へ  塩野七生氏)
◇こどもと親が友達づきあいという家族の生き方が理解できない。友だちは何人もできるだろうが、親というのはたった二人しかいないのである。どんなに社交的な人でも、その人の生活に親は父親一人と母親一人しか持つことは出来ないのである。そのたった一つしかもてない関係を、何故その他大勢の関係と同じにしようとするのだろうか。                    

◇ここしばらく奔放な生き方が賞賛の対象になることがよくなるが、奔放な生き方を貫ける人は、もともとそれをできる環境に恵まれていたか、それとも、古い言葉を使えば人間のしがらみに、無神経でいられる「大胆」な人にかぎられる。10

◇燃え上がった恋愛は、そのまま燃やすに任せるのが、自然にかなった対応なのである.水をかけて、それでもな思えているならホンモノなどという考えはm恋愛を味わう資格なし、と私ならば思う。

 (ファシズムのかませ犬達へ  対談 宮崎哲弥氏 島田裕己)
◇海千山千で現実の裏も表も、人生の酸いも甘いも知り尽くしたはずの中堅の人びとが、ヒッピー崩れの宗教かぶれが夢想するようなピュアで素朴な世界観を素直に受け止め、心を震撼させているのです。これでは、まるで「花よ恋よ夢よ星よ」の大昔の女学生みたいなイノセントぶりではないか。折伏とかヤマギシの特講のような強烈な人格統制を受けて価値転換に至るのではなくて、たかだか一冊の本を読んだだけで立派な大人が、平坦でなかったであろう人生行路で得た経験知をいとも簡単に打ち捨てて、回心してしまう。今この現実喪失のありようを見ていると、この国はかってなかったアノミックな状態に陥りつつあるんじゃないかという気がしますね。

(百匹目のさるの甘いささやき 山本 弘氏) 
 ◇「百匹目のサル」のエピソードが人々を魅了した理由として「祈るだけで理想は実現する」という甘い幻想を振りまいたことがあげられる                                    

(カウンセリングを考える 河合隼雄氏)
心をどれだけその人のために使うかというのが、愛情じゃないでしょうか。ところがこのころはへたをするとお金の方が計りやすいので、お金で愛情合戦やっているみたいですね。                                                            69

ものがないときというのは、人間は仲良くできるのです。物がなければ、夫婦が力を合わせなければ食っていけませんからね。                70

◇やっぱり夫婦でと死をとっていくというのは、大変難しい時代がきたんじゃないかということです。

「親子というのはお互いに選べない。」というところが非常に不思議なところです。                        71

楽をしていて本当のことはなかなかわからない。

(いろいろ苦労しながら)生きて行くということが人生であって、そういうのを全部「うるさい」と思う人には、「なんでもそんなにうるさかったら、もう死んだらどうですか。」と、私はよく言うんです。                                    72

ふっと悟れる人は幸運な人です。しかしそういう人はあまり人の役には立たないのと違うか。