母親幻想 岸田 秀
◎一般的によく言われるケースには、愛情の薄い母親に育てられたせいで、その子も愛情の薄い母親になった、というケースがあります。
しかし、母親の愛情が薄かったという事実と、そう知覚しているということは全く別のの問題です。人間というのは、自己を、自己のおかれている状況を無自覚に正当化していて、自分が受けている仕打ちを別に何の疑問も抱かずに普通のことだと思っていたりするものです。そもそも、親の愛情の多寡なんて比較できないものですし。
◎子育ての全部が貴重な一回限りの体験と思うから、それに対する意識も過剰になるのです。ここで失敗するまいと思うから、過剰に情報を収集するわけです。
しかし失敗するまいと思えば思うほど、親子関係というものは必ず失敗するものです。
◎セックスというものを単純な身体的な快楽と考えると、それはマッサージの一種になります。
◎甘えあうということは、幼児化するというのと同じわけですから。しかしそういった恋人たちでも、結婚すると大人になりました。大人としての社会的役割の仲に入りました。そして子供を産めばなおさらそうなるはずでした。
しかし今は結婚しても子供を産んでも大人になるわけではなく、子供のままです。かってセックスは大人がやることで子供には禁じられていました。ところが今は、一部のものは十代の前半でセックスしてしまい、二十代になると「もうセックスなんか飽きちゃった」などと言い、一部のものは結婚しても子供っぽいままでセックスをしない。あるいはしばらく続けてもそのうちセックスレス夫婦になってしまう。セックスは最も基本的なもの、結婚には不可欠な条件だったはずです。また、結婚しないと許されないものでした。今やセックスと愛情、セックスと結婚、セックスと年齢の結びつきは崩れてしまって、セックスはそれ固有の意味づけを失い、気まぐれにやったりやらなかったりするものになりました。
◎人間の人格には無意識層と意識層が会って、それらはしばしば対立しています。意識層では、親の欠点に気がついていて、あんな親になりたくないと思っているけれども、無意識層では、親の性質をそっくりそのまま受け継いでいて自分では気がつかないままなのです。他人から見れば非常に似ているけれど、本人は、親と正反対の性格だと思っているという、よくあるケースがこれにあたります。
男でも女でもいいですけれど、そういう人は無意識層で異性に惹かれるわけで、その無意識層で選んだのは往々にして親にそっくりの人です。
◎イメージとして立派な人間になることを強いられる経験が、自我の形成には必要不可欠なのです。生きることの規範になるような存在を心に植えつけることが、つまりそれが人格教育なのです。戦後民主主義教育は、そういう一見合理的に感じられないことを皆廃止しました。
中略
しかし人間というものは、理想とすべきモデルに基づいてはじめて自我を形成できるのですから、それを追放すると人格的には中途半端な存在になります。
◎なんと、女性の側から、母親になることへの拒否の意思表示が出てきたのです。それは、結婚して子供が出来ても父親としての自覚を持とうとしない男性と見合っています。世の中には自分の子供の姉か兄に間違われると喜ぶ母親や父親が増えました。