無痛文明論  森岡正博

無痛文明論  森岡正博

 

◎現在文明とは集中治療室ですやすやと眠っているこのような人間を社会規模で作り出そうとする営みなのではないだろうか。

元気そうに働き、楽しそうに遊んでいるようにみえても、実はその生命の奥底でただすやすやと眠っているだけの、そういう人間たちを都市という名の集中治療室のなかでシステマチックに生み出そうとしているだけではないか。だとするといったい誰がそのような罠を仕掛けたのか。なぜ文明は、この方向へ進んでしまったのか。

 

◎家畜化の本質は奪い取ることにあるのだ。家畜化とは、単に動物を管理することなのではなくて、動物が自分の生命を自分のために生き切る可能性を、人間が一方的に奪い取ることなのである。

 

◎人間の家畜化

 

◎身体の欲望が生命のよろこびを奪う。

これが自己家畜化のもっとも深い意味であり、われわれの文明のなかで進行している最も根源的な問題なのである。

 

◎条件付でない愛

 私がある人を条件付でなく愛するとは、たとえその人がどのような人であろうとも、私はその人の存在を承認し、肯定し、祝福するということだ。たとえその人が私の枠組みを破壊するような存在であったとしても、私はその人を承認し、肯定し祝福するということだ。いくら私がつらくなり、苦しみ、声を上げて叫びそうになったとしても、私はけっして目の前にいるその人から一方的に逃げたりしないし、どこかへ閉じ込めたりしないし、存在を抹消したりしないということだ。

 

◎こどもが親に突きつける最後の問いは、ここへ行き着く。「もしあなたが<自分は子供を無条件で愛している>という自己イメージをあいしているのでないんだったら、その証拠を、いま私の目の前でありありと見せてくれよ。

 

◎強い者も弱い者も、共に生き生きと暮らせるような共生を目指した社会をつくりあげなければならないのではないか。

中略

そのような社会を目指したいという思いと同時に、われわれの内部には、今享受している快適さを失ってまでもそのような社会改革に乗り出したくないという思いが強固に存在しているからである。たとえ他人が構造的に犠牲になっているとしても、今の自分の快適さや既得権益を大幅に失ってまで、その犠牲の構造を買い足したいとは思わない自分が、鉛のように重く現存しているからである。ほんの少しだけ義捐金を出したから、もう後は考えなくてもよい、という目隠し構造がわれわれのまわりで張りめぐらされる。