この国はなぜ寂しいのか   小浜逸郎

◎人間が本来持っている暴力的、悪魔的な要素についての健忘症にかかり、「弱く保護されるべき無垢な存在」である「子供」が、自らの意思や欲望のために理不尽な暴力を行使することなどありえないはずだという奇怪な思いこみにとらわれるまでに至った。つまり、「こども」が残酷な行為や暴力行為に及ぶとすれば、それは何らかのかたちで大人が子どもに悪いことをしたからで、こどもの「悪」は、いつも大人の悪に対する正当防衛や有意義な抵抗の表現に決まっているというのである。

 

◎人間というものはもともと、いくつかの条件さえそろえばどんな残虐なこともしかねない存在であり、いわゆる「子ども」といえども決して例外ではありえないという事実にもう一度目覚めることだ。その上で、その条件としてどのようなものが数え上げられるのか、また人間の残虐性のあらわれ方歴史の中でどのように変遷してきており、その変遷にはどんな意味があるのかを冷静に確認することである。

 

◎「大人と子どもは対等な人権をもつ存在」などではない。

中略

社会の現場で生産に励み、それに応じた報酬をもらい、子どもを身体的、精神的に養う義務と責任を持った「大人」が、親の提供してくれる私財をもっぱら消費し、肉体的力も精神力も弱く、社会がどういう秩序とからくりでうごいているのかもまだよくわかってない「子ども」と同じ存在であるわけがない。

 

◎個であることのかけがえのなさと、個性的であることの価値とはもともと重なり合わない。個性的であるとは凡庸さのなかにあってひときわ目立つということであるから、それを人間としてより価値の高いことであると認め、誰もが実現すべき目標と考えるなら、その指向性自体は、凡庸であることの否定を含んでいる。

 他方、個であることのかけがえのなさとは、すべての人間は一個の存在として等しく尊重されるという意味であり、人間の値打ちはそのかぎりでは、凡庸であるか個性的であるかにかかわらないということである。「個であること」の尊重とは、別にその存在が際立った個性を示さなくても、一人の人間であるかぎり、他の個性ある存在と等価なかたちでその存在理由を認めましょうということである。

 このように個についての二つの価値原理は、究極的に和解不能な矛盾を含んでいる。

 

◎誰でも「高校生」や「大学生」の資格においては、みんな平等である。しかし資格においてみんな平等であるということは、決してその人間的資質において「みんな同じ」ということではない。

中略

要するに「人それぞれの個性」という言葉で納得しうるだけの範疇からはみ出さないように人と人との差異を収めておかなくてはならないということ。

 そしてこれこそは、平等主義のイデオロギーである。

 子どもたちは本当は知っている。たとえば、人には、すぐれた能力と劣った能力、人に好かれやすい性格とうとまれやすい性格、魅力的な容貌と美しくない容貌など、上下の価値感情によってしか感知・把握しえない質の差異がどうしても存在するということを。この価値感情の具体性が、なまなかたちで社会の表面に露出しないようにするための呪文が、個性という言葉なのである。「理解するのに時間のかかるタイプ」「個性的な顔」等々。

 

◎みんなの命がみんな同じように大事だということは、裏を返せば、それぞれの個人にとってどの人の命も同じぐらいの重みしか持たないという感覚を許容することに通じる。それは同時に、集団の中で、たまたま目立つ誰かを排除し、いじめ殺すことが、自分の愛憎のゆくえを決定する意味を持ち得ないということを意味する。「いじめられ自殺した彼」は、「生き残っているこちら側の誰かれ」にとって、特別にかけがえのない意味を持つということのない、一つの抽象的な命の消滅でしかないからである。