読書ノート1 より
(出典不詳)
◎教祖は人生を3つの時代に区切って、その時々の心の持ちようを示されました。
一、子供の時代、現在風に表現すれば食の旬で、食ってよく育ってお礼をいわれて過ごせる時代です。
二、子から親への切り替えのとき.これはいわば性の旬で、体の成熟に伴い、食い気より色気と変わっていきます.子供から親になる切り替えの時であり、全てを捧げて相手の喜びを作り出そうという生き方になるときである。
三、親の時代.これは育ての旬で、親と呼ぶにふさわしい成熟した人間の生き方です.自分達が育ってきた世界よりも一層子供たち一人一人が生き生きのびのび暮らせる調和のとれた世界を後に残そうと努力することに生きがいを持つ時代なのです。 1
(サンタクロースの部屋 松岡享子)
◎子供は遅かれ早かれサンタクロースが誰なのかを知る。(中略)
しかし幼い日に心からサンタクロースの存在を信じることは、その人の中に、信じるという能力を養う。
(中略)サンタクロースその人は、いつかその子の心の外にでていってしまうだろう.だがサンタクロースが占めていた心の空間はその子の心の中に残る.この空間がある限り、人は成長にしたがって、サンタクロースに変わる新しい住人を、ここに迎え入れることができる。この収容能力、つまり目に見えないものを信じるという心の働きが、人間の精神生活のあらゆる面でどんなに重要かはいうまでもない。 5
(カウンセラーを語る 河合隼雄)
上と下の関係になって、下の者に説教をするという格好を取る限りは、何時間やっても、するほうは疲れません.というのは、自分は高いところから下の者にいっているわけですから・・・・。長いことやればやるほど、こちらの精神衛生がよくなるくらいでして、つかれるということはありません。
6
(出典不詳)
◎眼が見えたことだけが不思議なのではない.次のような教会長の感動的な道すがらを聞いたことがある.青年の頃、事故で両岸がつぶれ、絶望の淵にあった時、やはりこの道に引き寄せられ、教会に住み込んで熱心に布教していたが、ある家を尋ねたら「自分の目が治ってから来てくれ」と断られた.翌日再びその家を訪ねた彼は、「眼があきましたので話を聞いてください」とつたえたところ、不審気中尾をしている家人に「あなたのおかげで心の目が開きました」との一言に、感じ入った主人が即座に入信し、数十年経た今、立派な教会を預かる会長とともに熱心に道を通っているという。
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◎さらに魂の問題において、この「出直し」を考えてみると、「魂の浄化作用」ということがいえると思うのである。
出直しは配役を変えること(いじめ役がいじめられ役に・・・) 13
(出典不詳)
◎しかし親神様のほうでは、生き通しの魂ですから魂に年齢はない、年齢はないからこの人を五十年後のある大きな御用に使おうと予定されるとしますと、逆算して必要な時期に引き取られるということもあるのではないでしょうか。
そうでなければ、短命の人は全部悪いんねんであるといった短絡思考がまかり通ることになり兼ねません。
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(元の理 井上昭夫氏)
◎ところが、信仰的な物の考え方をすれば、1000の喜びを10人に分けたら減るといったことではない.喜びは分けたら増えるのである。一の悲しみに一の悲しみを足したら悲しみは2倍になるかというとそうではなく、悲しみは減るか、あるいは喜びに変わって返ってくるかもしれない。喜びは分ければ増える。悲しみは足せば減る。出せば入るというのが天理教の算数、つまり心の天学とといったにびである。この心のてんがくが私達の人生を左右するルールなのである。 110
◎この「おぢば通い」をする人たちと、「おぢばがえり」をする人たちの違いは、簡単に見破ることができる。
前者は「ふるさと」に帰る喜びに条件をつける。設備がどうの、食事がどうの、待遇がどうのという比較である。また受け入れる側にしても、ややもすると魂の救済とは直接関係のない、こういった外的条件に心が奪われがちになる。ところが後者は、「ふるさと」に帰る喜びがおぢばがえりの前提になっているから、ただ、「ふるさと」おぢばに帰らせていただくことがありがたいのであって、受け入れの条件など二の次なのである。
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(みかぐら歌の世界 西山輝夫)
「昔お互いは、旅行はわらじをはいて歩くよりしょうがなかった。それ別に難儀がらへんだ。みなそうやから何も難儀がらへん。◎「私は失明して不自由していますが、不幸ではありません」(宮崎康平氏の話) 122