宗教の力  山折哲雄

◎日本の社会では、いつのまにか宗教的な言葉の権威が地に堕ちてしまっていたということです。更に言えば、我々は学校で、講演会で、書物の上で、イエスの言葉や仏陀の言葉、あるいは親鸞の言葉を見たり着たりしてわかったつもりになってはおりますけれども、それは、しょせんは「頭から上だけの理解」でしかない、腹の底から納得したり信じたりはしていない。つまり、宗教の言葉が頭の中で空回りしているだけで、腹の底に落ちていない。そういう非宗教的な状況が一般化してしまっていることを、阪神大震災は明らかにしたのだと思います。

中略

いろいろな宗教集団、いろいろな宗派の人々が現地におもむいて救済活動をしていました。ただ、それらの人々は宗教者としてそれをやっていたのではなく、一人のボランティアとしてやっていたと思うのです。これは宗教の立場からすると皮肉な状況といわざるを得ない。心の救済を使命とする宗教者が、いわば宗教以外の分野で人々を救おうとしたのですから。

 

◎しかし、他方で我々の周囲を見回してみると、モノでは解決できない問題で苦しみ、喉から手が出るほど心の救いを求めている人々が大勢います。そういう人々にとって本当に必要なのは、仏陀のような人間、イエスのような人間がそばにいてくれることでしょう。それだけが最終的な心の安らぎになると感じているに違いない。けれども、イエスのような人間、仏陀のような人間が現実にいるわけがありません。現実にいるわけがないからこそ、その隙を突いて偽者があらわれてくる。自分こそ仏陀であるという偽者、われこそイエスの生まれ変わりだという人間がどこからともなく出てくる。すると、おぼれて藁をもつかみたいと思っている人々がそこに近づいていく。麻原彰晃の教祖の出てくるような社会背景はそういうところにあると私は考えているのです。