なぜ生きる  高森顕徹監修 

◎親鸞聖人は「万人共通の生きる目的は、苦悩の根元を破り、「よくぞこの世にうまれたものぞ」の生命の大歓喜を得て、永遠の幸福に生かされることである。どんなに苦しくとも、この目的を果たすまでは生き抜きなさいよ」

 

◎どんな行動にも目的があり、たとえば、タクシーに乗った時、いかに無口な人でも、まず行き先を告げるでしょう。目的地がわからねば、どこへ走ればよいか困るからです。むやみに車を走らせたら、時間とお金の無駄になります。

 

◎考えさせられる小話を一つ、紹介しておこう。

所はある南の国。登場人物はアメリカ人と現地人

ヤシの木の下で、いつも昼寝をしている男をつかませてアメリカ人が説教している。

「怠けていずに、働いて金を儲けたらどうだ」

じろりと見上げて男がいう。

「金を儲けてどうするのだ。」

「銀行にあずけておけば大きなお金になる。」

「大きなお金ができたらどうする」

「立派な家を建て、もっとお金ができれば、暖かい所に別荘でも持つか」

「別荘を持ってどうするのだ」

「別荘の庭のヤシの下で、昼寝でもするよ」

「俺はもう前から、ヤシの下で昼寝をしているさ」

 こんな幸福論の破綻は周囲に満ちている。

 

◎百パーセント堕ちる飛行機に乗るものはいないが、私たちはそんな飛行機に乗っている。

 

◎うそくらべ 死にたがる婆 とめる嫁

 

◎「今日一日禁酒」の壁紙を張った男は時計とにらめっこをしながら、明日の来るのをひたすら待った。夜になり12時が近づくと、一升瓶をぐいと引き寄せ、ノドをグーグーうならせる。12時の時計を合図に「さあ飲むぞ」と、酒を手にした男が壁を見て、「あっ津、今日もまた禁酒か」と叫んでがっくりする。

「今日一日」とは、死ぬまでのことだったのか。今日の真意を知った男は死ぬまで酒を断ったという。

「今年」が終われば、また「今年」である。「今日」が終われば、また「今日」だ。悠久の過去といっても、永遠の未来といっても、今、今、・・・・と、「今」の連続である。永遠の過去も未来も今におさまるから、古来「永遠の今」といわれる。