読書ノート1より
(出典不詳)
(中略)物質現象としてたとえば私のからだのなかの一つの炭素にマークして、それがどうふるまうかをずっと追いかけて見る。たとえば私が死んで、火葬場で焼かれて灰になったところで、炭素の原子はずっとあるふるまいをしつづけるわけです。 20
◇僕は自分の母を敬愛しているが、母の最も偉かったところは一つのものを二つにして食べる、二つのものは四つにして食べるという考え方だった。中略
客が来れば一匹の魚を二つに分け、その上、客がくればさらにそれを四つに分けた。物はそうして食べるのが最もおいしいのだということをくりかえしくりかえし、僕らに教えてくれた。 25
◇人のあらゆるごうまんは、自分が生きているという、思い上がりからくるものだろう。
一つの「生」は他の無数の「生」によって生かされているという思いが人の生活のなかに常にあるならば、人は他の命をけちらして生きることに苦痛をおぼえるはずである。 26
(ゼロより愛をこめて 安野光雅氏)
◎「年をとったから大人だとか、成人式がすんだから大人だというんじゃない、客観的な見方をできる人が大人で、一人前の顔をしていても、人の立場でものが考えられないものはまだ子供なんだ。」
(出典不詳)
◎同じ道でも行きより帰りのほうが短く感じるのはどうしてだろう。
はじめての道は、あっちをみたり、こつちをみたり、先の実験でいえば、たくさんの風景写真をみせられたと同じような状態になる。だから、時間が長く感じられる。 一方、帰り道は、すでにみて知っている風景だから、みている風景写真の枚数が少ないということになり、だから時間を短く感じる。 ちなみに、年をとると時間の経過がはやく感じられるのも、世間への関心が弱くなり、みようとする"風景写真"の数が減ってくるからなのである。
◎帝王切開したお母さんの八割は、すぐには母乳が出ない。やはり生みの苦しみを越えないとホルモンが分泌されない。
(ゾウの時間・ネズミの時間 本川達男氏)
◎心拍数一定の法則
物理的時間で測れば、ゾウはネズミより、ずっと長生きである。ネズミは数年しか生きないが、ゾウは百年近い寿命をもつ。しかし、もし心臓の拍動を時計として考えるならば、ゾウもネズミもまったく同じ長さだけ生きて死ぬことになるだろう。小さい動物では、体内で起こるよろずの現象のテンポが速いのだから、物理的な寿命が短いといったって、一生を生き切った感覚は、存外ゾウも、ネズミも変わらないのではないか。
◎これは「島の規則」だ。ルイーズの話を聞きながら、そう思った。島国という環境では、エリートのサイズは小さくなり、ずばぬけた巨人と呼び得る人物は出てきにくい。逆に小さい方、つまり庶民のスケールは大きくなり、知的レベルはきわめて高い。「島の規則」は人間にもあてはまりそうだ。
(乳の海 藤原新也氏)
◎たとえば日本の楽器の三味線とか琴とか琵琶なんてのは、それを使っていた人の怨念や例が籠もっているから、余り軽はずみに譲り受けたりするものじゃないって話がある。着物だとか櫛なんてのもそうだ。しかしギターやピアノやイブニングドレスに霊が籠もっているなんて話は聞いたことがない。農耕民族は自分の外のあらゆる物に生命や霊を感じ 1
◎その最初の自分の神聖なる生産であり、表現である糞やおならが悪臭をはなっているという自己矛盾に耐えねばならない。つまり葛藤だ。だからクソってのは依存から自立に移行する人間にとって非常に大事な個人的所有物なんだな。個人の成立の起源であるとも言える。そのクソを管理しようという方向は人間に最初に萌芽する自我を摘み取ること以外のなにものでもない。 2
◎安全のための管理といえば聞こえはよいが、これは早く言えば責任回避のための管理あるいは保身のための管理にほかならない。高度成長で小銭をためて、持ち家も持ち、一家でぐるめができるようになって、みなそれなりの「満足生活」を送っている。その小さな満足の壊れるのが怖い。
◎満足生活とは臆病生活であり、保身生活でもある。深さがたった20センチの池に有刺鉄線を張って、危険の看板を出すのは別にその池にはまって死ぬ子供のことを思いやっているのではない。万一そこで何かあった場合に、巡ってくる責任を回避する、自分のための保護処置である。 5
(この国のかたち 司馬遼太郎)
◎どんな岩にも、理(すじ)というものがある、大理石の理、そいつをさがしだして、その理にそってノミを叩き続けてゆくといつかは大割れに割れるものだ。そういうことを申すものでございますから、みなでそのとおりに致しますと、本当に割れました、そういう理でもってシベリアの岩をずいぶん割って参りました、といった。
(出典不詳)
◎問題は何故集団で討議するとリスキーな(危険な)選択をしてしまうかである。
考えられる原因は三ツある。一つは、集団で討議すると、議論が単純化され、一見して威勢のいい意見、過激な意見が通ってしまうこと、もう一つは、集団の中でリーダーシップのある人は、往々にしてリスキーな意見の持ち主が多く、参加者がその意見に引きずられるということ。そして最後は、集団で議論すると「責任の拡散」が起こるということである。 戦前の日本も、軍部や内閣がこうした集団討議をするうちに戦争のドロ沼にはまっていったのだろうが、「みんなで話し合う」ことには、こうした危険が潜んでいることは、覚えていた方がいい。 16
(文学部唯野教授の女性問答 筒井康隆)
◎愛と結婚をすぐくっつけるのが不純なら、どういうのが純粋なのかな。愛のない結婚のほうが純粋なのかな?あるいはすぐさまセックスに結び付けるのが純粋なのかな?。(中略)
「ミツグ君」「アッシー君」の騎士道精神を褒めました。そう、もちろん彼らの無償の愛もほめなきゃいけないよね。チャップリンと同じで、実に美しい純愛だよね。そして美しいのはあくまで彼らの方だけであって、ものを貰い、ただで車にのせてもらう女の方じゃありません。無償の愛じゃないんだし、愛ともいえない、ただの乞食です。 60
(天使の王国 浅羽通明氏)
◎私は彼らのようには「遠方の不幸」や「地球大の不安」に対して切実さをおぼえないからだろう。この人たちが、はるかな遠方の問題を、何故こんなにも切実に受け取れるのかが、わからないからだろう。90
◎効果にかかわらず、参加すること自体に意義がある行動、それではいわゆる宗教儀式と異ならない。94
◎矮小で非力なエゴイストである私たちが、「遠方の不幸」に対して涙を流し眠れなくなるほど切実になる必然性があるだろうか。
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「遠方の不幸」や「地球大の不安」によって不安に陥るような強迫観念をあらかじめ刷り込んでおいて、「無力感」と「後ろめたさ」にさいなまれる感情を「良心的」であると讃え、同時にその不安から救われて精神の安定を得られるための世界観をも教え込む。これまで紹介してきた感傷的な投書や、道義的論説投書は、この世界像をまとめマスメディアという教会へ提出して掲載という評価を得て安心する自己救済儀式である。
(カウンセラーのための児童文学 河合隼雄氏)
◎15年生きた人も75年生きた人もあまり変わりないみたいですね(笑)。どうもぼくらの常識でいいますと、15年生きている人よりも75年生きた人のほうが幸福だし、早いこと死んだ人を何か不幸みたいに思いますけれども、よくよく考えてみるとあんまりそうでもないみたいです。20歳で死んでもすごい人生を送る人もありますし、80何歳で死んでもあんまりすごくない方もおられます。(笑)
◎そういうことを我々はある程度知っていないといけないと思う。そうでないと、何か不幸な人がいたり、幸福な人がいたり、いろいろあるように思います。そうではなくてよくよくみてみますと、短命で無くなった方もはっきりとした意味をもっておられる、というふうに考えた方がいいんじゃないかと思います。 87
(人は変われる 高橋和巳氏)
◎この現実が「なんとかしなければならない現実」から「どうしようもない現実」へと変化したとき、現実の重みから自分を解放する可能性が開け始めたのである。 103
◎心のもっている自分を変えるるための第一の能力は、自分から離れることができる能力、自分から離れて自分を客観視できる能力。第二の能力は絶望することの出来る能力。つまり八方塞がりの状態を受け入れることの出来る能力。三つ目は純粋性を感じることの出来る能力、思い込みや過去の自分の常識に縛られないで新しいこころの動きを感じることができること。 106
(文明の逆説 立花隆氏)
◎体重60キログラムの人間を燃やすと、約5キロばかりの骨と灰が残る。貴賎賢愚の別なくそれで全部である。115
◎「今日」と「明日」を正しく使いこなせるのは3歳児でそれぞれ68%と64%。「あさって」「おととい」となると6%と4%。時間の概念ができあがるのは10歳児になってから。 未来の意識があるのは人間だけ。
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◎人間の耳は、強い音に対しては、自動的に感度が鈍くなる。物理的な音の強さから言えば、蚊の鳴く音と近くの大砲の破裂音との間には、10兆倍の差がある。普通の会話は、木の葉のそよぎより一万倍大きく、繁華街の中心部の騒音は、普通の市内の深夜に聞こえる音の一万倍である。地下鉄のなかの騒音より、電車が通る時のガード下の100倍うるさい。 こんなことを聞いても、とても信じられないだろう。実感と著しくちがうからである。物理的現実と実感とをこれだけ狂わせているのが、中耳の自動音量作用である。
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(サイレント・マイノリティ 塩野七生)
◎わたしには、あの若者が何を欲しているのかは分からなかったが、何かを欲することを強烈に欲していることだけはよくわかった。122
◎1938年12月15日
ファンファーレ、旗の波、延々と続く行進。
一人の馬鹿は一人の馬鹿である。二人の馬鹿は二人の馬鹿である。1万人の馬鹿は、歴史的な力である。
(レオ・ロンガネージの日記)128