評論 竹内靖雄氏

 

正義と嫉妬の経済学  竹内靖雄著

 ところが、「垂直的公平」の名で主張されているのは、累進課税によって、十億円も稼ぐ人からは九億円の税金をとってもよい、いや取るのが当然だという「歪んだ正義」なのである。これを正当化しうるような倫理学も経済理論も存在しない。いくら稼いでも、累進税率で剥ぎ取って、結果において万人に差がないようにすべきだという「結果平等主義」は、あきらかに嫉妬の産物である。 

マスコミはこの荒廃の原因は過熱する進学競争と管理教育にあるという説を好んで流し続けているけれども、これは見当違いの俗論に過ぎない。成功をめざす競争があれば、失敗や落伍があるのは当然のことで、そのこと自体は荒廃でも何でもない。荒廃が生じるのはこの落伍者に別のゲームの場を用意せず、進学マラソンにもともとむいてない人間まで学校という施設に強制収容して、分からない勉強をさせるという精神的虐待を加え、苦痛と屈辱の人生を送らせるような制度を続けているからである。そしてそのような収容施設の大半は公立、公営であって「顧客にサービスを提供する商売」という感覚とは正反対の、「規定どおりの教育を配給してやる官業」として存在している。

教育に関する神話には次のようなものがある。
人の能力は、生まれた時には(白紙の状態では)平等である。
 本心ではこんなことを信じている人はいないかもしれないが、タテマエではこうでなければならないらしく、これをまっこうから否定して「人間は生まれながらにしてその能力に差がある」などと公言することははばかられる。ともかく日本人の教育熱心さはこの平等主義のタテマエに支えられているのである。生まれたときに差がなければ、あとはどれだけ熱心に教育するかで差が生じることになる。唯そう信じて教育に熱を入れる方が、最初から諦めて努力を放棄するよりはよい結果をもたらすことだけは否定できない。

子供は誰でも「無限の可能性」をもっている。それを発見し引き出して育てるのが教育の仕事である。教育次第で子供はどこまでも伸びる。
 「無限の可能性」と見えるのは、子供の場合すべてがまだ不確定で、遠い将来になんにでもなれそうに見えるというだけのことである。教師も学校も、形のない泥の塊から自由自在に人間の形をつくりだす彫刻家のような真似はできない。教育に過大な期待を抱くのはまちがっている。

人にはそれぞれ何かしら取り柄がある。つまり他の人よりもすぐれた才能がある。
 このような仮定や思い込みには根拠はないが、そう思わないよりは思ったほうが救いにはなる。ただし、現実には学業やスポーツ、芸術方面まで何をやらせてもすぐれている子供もいれば、逆に何をやらせてもダメな子供もいる。最近では、女性も才色兼備の才媛が多い。天は二物も三物も与えると見えて、顔もよければ容姿も抜群と言った例が本当は多いのである。4−3 

要するに「万人に平等な教育を」というのはナンセンスな議論なのである。「万人に同じ室の同じ量のコメを食べさせて、身長・体重を等しくすべきである」といえば、そのばかばかしさは誰にもわかるのに、教育のこととなると、何故かそれと同じ性質の目標に掲げる空想的理想主義がはびこるのである。

 市場は需要があるものは何でも供給する。家事やや育児というサービスをはじめ、夫婦が外で働くために必要な機能は、いまやもれなく供給してくれる。(中略)これは外で働く夫婦だけではなく単独で生活する男女の場合も同様であって、たとえば男性の単独生活者も24時間営業のコンビニエンスストアや弁当屋のおかげで、「自炊」せずに暮らしていくことができる。(中略)
 女性の単独生活者もまた同じように考える。「三高」で優しく限りなく従順な彼となら一緒に暮らしても悪くないけれども、そんな男性はいそうにないから、猫を彼として暮らそう。何なら爬虫類のペットでもいい。欲しいものはお金さえあれば何でも買える。そのためには外で働いて稼がなくては。結婚して子どもを産んで自由を失っては大変・・・。と女性の単独生活者は計算する。

 「市場型人間」の計算は全て交換の原理に導かれているから、人間関係についても利己主義に徹し、せいぜい交換型のものまでしか認めない。「優しい献身的な妻」を夢想したり、「アッシー」や「ミツグくん」のような男性をちゃっかり利用したりすることはあっても、自分が「ただで」誰かに尽くす気はさらさらない。他人のためには血も汗もカネも出す気はない。献身や自己犠牲を強いられるような面倒な関係には巻き込まれたくないのである。どこかの国の態度によく似ているが、こうした「市場型人間」ばかリ集まっている国では、国際社会に貢献することなどできそうにない。4-14

市場と資本主義が男女双方に単独で生活できる条件を整えてくれたおかげで、結婚も家族の形成も否定されはしなかったけれども、しかしそれは「あってもなくてもよいもの」になってしまったのである。