可能性としての家族 小浜逸郎氏
くり返すが、かって家族的紐帯の強固で豊かな時代があったわけでは決してなかったし、またその紐帯なるものが、女性の非社会的活動の領域(育児や家事)に専念していたがゆえにしっかりと保たれていたわけでもなかった。そんな牧歌的なイメージが完全な形で私達の全生活をおおっていたという想像を許すほど、私達の歴史的条件は甘くはなかったのである。4-23
現代家族という枠組みの中で子どもは、飽食と身の安全とが保証されて、飢餓や死の危険についての間隔を身体的に喪失している。そのことが当たり前となっていれば、子どもは自分の活動の主たる関心を、食を得ることや身を守ることに向けない習慣を自然と身につけることになる。つまりそのような方向で自分を活動させることによって自分の生存の意義を確認しようとしないわけだ。
たとえば、生命危機から自力で脱出したというような経験を自分の誇りとして取り込むことは彼らにとってほとんど不可能である。すると彼らの関心は、人間どうしの中でどのような評価、どのような扱いを受け、どのように振舞って見せるかといったところに必然的に集中していくだろう。言い換えると、そういう方面での感心が彼らの生存にとっての決定的な意味をもつようになってくる。そしてそれが的確に果たせない限りは、彼は自己能力の結果としてではない「食」と、「身の安全」とをたえずただごくつぶしのように享受することになるわけである。
現代家族という枠組みの中で子供は、飽食と身の安全とが保証されて、飢餓や死の危険についての感覚を身体的に喪失している。そのことが当たり前となっていれば、子供は自分の活動の主たる関心を、食を得ることや身を守ることに向けない習慣を自然と身につけることになる。つまりそのような方向で自分を活動させることによって自分の生存の意義を確認しようとはしないわけだ。
私たちはだが、<家族>を持続することにおいて、何を生きているのか。うまくいうことができないが、確かなことは、誰もがその何ものかを基底音にしながら、小さな嘘をくりかえしたり、<本当の気持ち>なるものが瞬間的に突出しそうになるのをじっと呑みこんでしまったり、感情を時に爆発させながら今度は爆発させた後の行為によってかえってその感情をうらぎってみせたり、また相互に秘密を作りあい、親子として対するときと配偶者として対するときとで全く態度を変えたり、いわゆる<本当の気持ち>を言い当てられたときそれを必死で否定したり、といったことを行使しつつ、そしてそれらのふるまいが指示してくる己の卑小性に耐えているということである。この<場所>では、<真実の生き方>とか<誠>とか<うそのない>とかいったきれいごとじみた単色の原理は全く歯が立たないことが経験的に知悉されているし、また今後も<家族>がそのような原理によって動くことは永久にありえない。そしてもしこの事実をもって家族を単なる虚偽の関係とみなしてすましうるものならば、初めから<家族>などは組まないのがよいのである。
言いかえると、逆にもし家族を続けたいと思うならば、これら単色の原理を家族生活の中で実践的に否定し去ったとしても、伊やまさに否定し去ることにおいて、」家族の紐帯と活動はつづけられるしかないのだという事実に対して、積極的な覚悟をもつほかないのである。4−30