曽野綾子氏

「本当の話」

        悪くなくても憎まれることがあるのだという現実の認識は、実に信じられないぐらい偉大なことなのである。その認識があればこそ、その子は将来、本当の、苦しい人間理解に力を尽くそうと思うようになるだろうし、逆に簡単に人間不信にも陥らない。お互いに善人同士が対立して苦しむという真実さえはっきりわかっていれば、ハイジャックなどと言う手段によって、革命を起こそうなどとも思わなくなる。革命は、人々の心を労わりながらじわじわとしぶとくやりとおすべきものである。

        無心論者から見れば滑稽なことかも知れないが、喜びに際しても悲しみに際しても、最も大切なことは祈ることである、と私は思っている。祈ることの意味を信じないと、私には人生から香気が失われるように感じられる。

        祈りほど平等の力を持つものはない。極悪非道の犯罪を犯した死刑囚の祈りと、我々の祈りはまさに同じである。むしろ全霊をあげて祈る死刑囚の祈りのほうが、祈りとして立派になる可能性は多い。祈りは人類共通の悲しみであり、希望である。冠婚葬祭はいずれも区切りであり、或る「出発」なのだから、未知の未来に対して、我々は祈るほかない。そしてカネのある人もない人も、祈りだけは、全く差別なく「送る」ことができる。しかし祈りを売ることはできない。高位の僧が何十人列を作って祈っても、たった一人の、慎ましい祈りに及ばないのが祈りと言うものの本質である。

        ところが、人間というものは、動物と違って損をすることが、できなくてはいけないのである。これが、人間と動物を区別する大きな違いである。

        この頃民主主義を気持ちよく動かすためによく口にされる言葉、権利と義務は、使用法がまちがっているのである。権利は、自分がすぐ行使するものではない。他人がそれをもつことを承認するためのものである。これに対して義務は相手に要求すべきものではない。それは誰がやろうとなかろうと、自分が黙々と遂行すればいいものなのである。めいめいが、この二つを守れば、社会は必ずうまくいく。

しかし、今の社会では全く反対のことを言ったりしたりしている。他人には義務を要求し、自分が権利を主張することばかり考える。

        もし平等でなければ、今の時代には、人間は平等になるように要求する。国家や社会がその不運な分だけ援助や補償をすべきと考える。しかし不器量に対して、社会に保証を要求すると言う発想がないのはおもしろい。女の不器量もまた、当人には何の責任もない大きな不幸と災難であるのに、である。美醜に関する最大の解決の鍵は、自分の顔だけは、一日中見ていなくても済むようになっている事だ、と言うことも、私は目が治ってから発見したのであった。(中略)他人の顔はずっと見ているけれど、自分の顔は鏡さえなければ私たちは見なくて済む。こんなおもしろい解決法を考えたのが、私流に言うと神だとすると、神はほんとうに智恵者であり、慰め手である。