夫  婦



            

 

夫 婦

 婦というものは不思議なものである。よく世間では夫婦は他人、親子は血が繋がっているという。確かに夫婦の縁は切れても、なかなか親子の縁は切れないものである。

 しかし神様は『このよの地と天とをかたどりて、夫婦をこしらえ』とおきかせいただき『これがこの世のはじめだし』とお聞かせいただいている。夫婦というのは、世間から見れば他人同士である。そしてその他人から切っても切れない血の繋がった親子ができる。夫婦があって始めて親子が出来るのである。しかも親子でも言えないことが夫婦では言える。そこに夫婦の不思議がある。

神様は夫婦が元であるとお聞かせいただく理由の一つを、わたしなりに考えてみた。神様は

「人間は皆神の子で助け合わねばならない」と教えられる。しかし現実はなかなかそういう訳には行かない。自分の子の苦境には自らを投げ打ってでも助けようとする親が、他人を蹴落とすことに何の痛痒も感じないことはそう珍しいことではない。しかしそのわが子は他人である配偶者との愛によって神様から授けられたものなのである。

 人間が誰とでも本当は心から繋がることの出来る一つの証拠を、神様は夫婦という形でお見せいただいているようにわたしには思えるのだ。

 『おふでさき』の中で『それよりの楽しみなるはあるまいな』というお言葉でお話しくださっていることがある。それは『ことしから七十年は夫婦とも病まずよわらずくらすことなら』(第十一号−五十九)というお歌に続く歌である。

私は若いころ本当にそれが最高の楽しみかなあと思っていたものだが、今確かにそれよりの楽しみはないと思えるようになってきた。
 夫婦という最小の単位があって、そしてその夫婦が健康でにこやかに暮らしていくことがすべての基本である。そしてそれがいかにむずかしいかは、少し考えてみればだれでもわかることであろう。それゆえこそ親神様が『それよりのたのしみなるはあるまいな』とお聞かせいただいた所以である
 その喜びがあってこそ、その上に様々な喜びも花開くのである。          155年10月

 

 

「結婚式」                              

 三月から四月にかけて、四回結婚式に出させていただいた。

 時々、三高という言葉を耳にする。高学歴、高収入、背が高いの三つが女性の結婚相手に望む条件だそうである。こんなことを本当に結婚の基準に考えている女性がいるなどとは、女性に対しての侮辱でしかないとは思うが、それでも援助交際なんて言葉を聞くと、そんな人も中にはいるかなあと思ってみたりもする。

 愛や恋などと言う言葉を青臭いと言って、鼻で笑った人に出会ったことがある。けれどもそんな青臭い様々な青春の匂いが、無性に懐かしくなるときもある。そんな思い出も持たないその人の老年は、何かとても寂しい気がする。

 無くそうと思わなくても、無くしてしまうものを、そんな若いうちからむりやりに無くしてしまうことはないのにと、老婆心から思ってしまう。         

 幸いな事に、それぞれの結婚は愛に溢れ、青春の匂いの香りたつ美しい結婚式ばかりであった。新郎新婦の初々しい顔を見ていると、こちらまで心が明るくなる。
「今、二人はあなたがいるだけで、他には何もいらない。あなたがいるだけで幸せだと思っているでしょう。あなたがいるだけで・・・というその気持ちを、一生忘れないように」と、あるところで祝辞を述べさせていただいた。

 人生には思い通りに出来ることと、出来ないことがある。
 思い通りに出来ないことの方がはるかに多いだろう。
 思い通りに出来ないことをくよくよ思い悩むことを、神様は『先案じをしないように』と優しく戒められた。しかし、人間は、今自分が出来ることを忘れて、自分の力ではどうも出来ないことを一生懸命何とかしようとあがきがちである。

 あなたさえ、いてくれれれば幸せと思っていた二人なのに、十年が過ぎ、二十年が過ぎても、あなたさえいてくれれば幸せと思い続けることの出来る夫婦は少ない。ひどいのになると「あなたさえいなければ幸せ」とさえ、なりかねない。

 あなたさえいてくれれば幸せだった心を、あなたさえいなければ幸せに変えたのは、だれでもないあなた自身の心だ。

 愛するという、自分に出来ることを忘れて、愛されるという自分ではどうにも出来ないことを追い求めてしまったあなた自身の責任だ。

 そうならないためには、愛することを忘れないことだ。結婚式のその日の心を決して忘れないことだ。

 神様の『一日の日の喜びを生涯の心に』という言葉をしっかり心に刻み付けることだ。160年5月

 

 

ふ た 

「神様が一番の幸せとおっしゃているのは、夫婦がこれから先何十年も、病まず弱らず暮らすことなんだそうですよ」とお話すると、信者さんは最初怪訝な顔をして、そしてその後、なるほどとうなずいてくれる。

信者さんも、神様が一番の幸せとおっしゃるのは、どんなに素晴らしいことかといろいろ想像するようで、夫婦が年をとっても、病気にならず、弱らず暮らすことだと聞いて、一旦は拍子抜けするようだ。

しかし当たり前のことだが、それがなかなか難しいことは、少し考えてみればよくわかることだ。

おふでさき第十一号五十九、六十のお歌には、

ことしから七十年はふうふとも やまずよハらすくらす事なら

それよりのたのしみなるハあるまいな これをまことにたのしゆんでいよ

とある。

 私の父親は、二人の奥さんをもらったが、最初の奥さんとは早くに死別し、二度目の奥さんとも、つまり私たちの母親だが、私が小学四年生の時死別した。幼かった私にはその時の父親の悲しみを、理解する力はなかった。大学生だった兄が「天理教信仰していて、何でこんなことになるのや」という問いかけに「お前に言われんでも、世間の人みんなそう言ってくれてる」と答えたという父親の言葉に、今さらながらにその時の父親の思いを想像するだけだ。

今私は、元気で聡明で美人でやさしい妻をお与え頂いている。そう書かなければ怖いから書いているのではなく、そう思ってしっかり喜ばなければならないのだと、心から思う。『それよりのたのしみなるハあるまいな』とまでお聞かせいただく楽しみを、私たちは妻に不足し、夫に不足することで、どれだけ捨ててきたのかと思う。

夫婦は似てくるという。夫婦は鏡だともお聞かせいただく。「年をとったら好々爺になるなんてうそですね。主人たら、私がいやだと思う面ばかりが、年をとるとますますひどくなってくるんですよ。」と、年配の奥さんが、ため息混じりに言う。夫婦は似てくるという。夫婦は鏡だともお聞かせいただく。妻の心に夫のいやな面ばかりを写してはいなかっただろうか、毎日そんな鏡を見ていたら、夫がますます昂じてくるのも、それはそれでしかたがないのではないか。

私が、やさしい主人ですねと言ったら、必ず、「外面はいいけど、家では怖くて難しい人なんですよ」と、返してこられた奥さんがいる。その奥さんが、ご主人を亡くして、しみじみ述懐された。「おとうちゃんのおかげで、助けられていたんやなと今になってやっと思います」と。

いつかふたりになるためのひとり 

やがてひとりになるためのふたり

私のお気に入りの歌だ。人間の一生は神様から見たら、一日とお聞かせいただいたことがある。ふたりでいることの出来るほんわずかな時間を、しかも神様から、それよりの楽しみはないとまでお聞かせいただくこの瞬間を、不足の中で捨ててしまうのではなく、喜びをもって、お互いもっと大切にしようではないか。

そんな気持ちの夫婦が、日本中に溢れたら、今叫ばれている青少年のいろいろな問題の殆どが、解決するのではないかと思う。いつかふたりになるためのひとりであるよりも、いつまでもひとりでいたいという若い人たちも、そんなうらやましいふたりになりたいと思ってくれるのではないだろうか。

 今日は奇しくも、母親の命日。

いろいろな思いを残して出直したであろう母親が、私をそんな気持ちにさせてくれたのだと思う。