親 の 息
小さいころは生傷が絶えない。わたしの子供達も膝小僧やおでこによくけがをする。わたしの小さいときもそうであった。けがをして、べそをかきながら帰った時、よく親が息を吹きかけてくれたものである。『痛くない、痛くない』と呪文のように繰り返して、ハアハアと息をかけてくれた。別にそれだけだったが、不思議と痛みがひいていった。
先日急にそんなことを思い出した。そしてハアハアと優しい言葉とともに親の息をかけずに、最初から子供に怒ってばかりいる自分に気がついた。
今月、自分の子や信者さんの子供の何人かにいろいろな身上や事情を見せていただいた。七月の祭文で少年会行事について言及し、縦の伝道(子供に信仰を伝えること)への決意を親神様に奏上させていただいた矢先のこの節に、神様の大きなお働きを感じさせていただいているが、それとともに、神様は何をわたしに教えようとして下さっているのかをわたしなりに反省し、思案していたとき、ふとこのことに思い当たった。
あのとき、親に息をかけてもらって、痛みがひいたのは何故だろうか。親の優しい愛に浸れたからであろう。親の子供への愛情を暖かい息と共に感じられたからこそ、子供はその安心の中で現実の痛みを忘れられたのであろう。親の無条件の子供への愛が、子供を安心させたのだと思う。それがまず一番。怒るのはその後で充分なのである。
現実の子供はもちろんのこと、届かぬながらも会長としてお許しいただき、この教会につながる親神様の子供の世話取りをまかされているはずの自分が、優しい言葉と息をかけずに怒ってばかりいたのではないか、不足ばかりしていたのではないかと言うことに思い当たった時、届かない私に、それでも私の心の成人に見合うよう、様々に手を変え品を変えてお導き下さる親神様・教祖の慈愛に改めて気づかせていただくことができた。 155年8月
わるいとこまわり
一月十五日、M分教会で、御巡教くださっていた大教会長様に帰り際に、「これからどこかへ寄るのか」と尋ねられ、「病院に寄って帰ります」とご挨拶したら、「わるいとこまわりやな、人間はだれでも、ちやほやされるような[ええとこまわり]はしやすいけど、行くのがしんどい[わるいとこまわり]はしにくいもんや。せやけど特に教会長は行きにくいとこや、しんどいとこへしっかり行かせていただくことが一番大事や。」とおっしゃられ、とても印象に残った。
誰にでも行きやすいところと行きにくいところがある。私にしても、みんな元気で結構な御守護をいただいている所へは行きやすいが、行きにくい所もある。病人さんのところへ『おたすけ』に行かせていただくのでも、すぐに御守護いただいた時は足取り軽く行かせていただくが、容易に御守護いただけない病人さんのところへは行きにくい。そんな人の所へこそ、何度も行かせていただかねばならないのだが、目に見えた御守護をいただけない時は、足がだんだん重くなってしまう。そんな私の心を見透かされたようで、今年一年は[わるいとこまわり]というのを座右の銘にしようと思った。
一月二十六日、今度はアメリカで教会長をさせていただいている友人に久しぶりにあった。おつとめを共に拝した後、少し話をした。[わるいとこまわり]の話が頭に残っていたのか、そのときこんな話が出た。「身上のおたすけにかかっても、なかなか御守護いただけない時がある。病気がよくなるというような目に見える御守護だけが御守護ではなく、出直すことが御守護の時もあるんだというようなことは頭で分かるけれど、やっぱし難病が鮮やかになおるというような奇跡をみたいな」というような話になった
短い時間だったのでそれ以上突っ込んだ話も出来なかったが、厳とした信仰のある彼を感じて、自分が取り残されたような気がした。
教会に帰って、どんなことも御守護と思えないのは、結局は自分に真剣さが足らんということかなあとふと思った。考えてみれば、御守護いただいたと思えた経験は、すべてその時、自分なりに真剣だったと思う。自分なりに思いのすべてをその人のために使っていたと思う。『おたすけ』にかかって、自分の真実をその人に捧げたら病気の帰趨はどうあれ、その人と私にとっては御守護であったと思える結果をお与えいただいてきたと思う。今、目にみえる御守護を欲しいと思う自分は、結局[わるいとこまわり]を、避けようとしている自分の姿を神様が見せて下さっているのだなと思えてきた。そんな反省をして、もう一度しっかり今年一年、[わるいとこまわり」を座右の銘にして、かなんとこ、行きにくいとこへ行かせていただきますと、改めて神様にお誓い申し上げた。
教会に何年来、ある御守護を願っている信者さんがいる。大きな御守護をいただいたが、それがなかなか結果にはつながらないので、私としても気になっている信者さんの一人だ。今月は見えられないので、電話をしようと思いながら、なかなかできなかった。[わるいとこまわり]の苦手な私の現実である。 一月二十九日、「今月参拝遅くなりまして」とその方が参拝に見えられた。いつもは他の参拝者もおられゆっくり話をする機会もなかっが、その日は何年か振りにゆっくり話をさせていただけた。話を聞かせていただくうちに、その人にとって目に見える御守護をお見せいただいていないところにこそ、神様の御守護があるのだということが、共によくわからせていただけた気がする。
大教会長様を使い、アメリカの友人を使い、信仰がにぶりがちになっている原因を知らせ、その解決方法を信者さんを寄越してお教え下さる教祖。
その信者さんに『おさづけの理』を取り次がせていただきながら、「お前を育てるのは本当に容易じゃないわい」と苦笑いされている教祖の息遣いを感じさせていただいた私であった。
教祖の逸話編の中に力比べの話がある。信者と手を握り合った教祖は必ず信者以上の力で握り返されるのだ。そして教祖は『人間の方が力を入れたら神の方はその倍の力や。それが天理やで』と仰せ下さる。
自分が真剣に努めさえしたら神様はどんな御守護もお見せ下さるということは、私たちにとってよく分かっていることだ。しかし分かっていることとと、実行していることは違う。実行するどころかそのことを忘れてしまうことの方が多い私たちなのではないだろうか。そんな事を再認識した一月であった。