1.親神様と霊様のこと
1−1.神実さまって何?
あなたの家には神様のお社がありますか?
お社が2つある家と1つしかない家があると思いますが、お社が2つある家は、大きい方のお社に神実さまが鎮座されているはずです。小さい方にはその家の霊さまが入っておられると思います。
お社が1つしかない家は、神実様だけをおりしておられる家です。その家は、まだ天理教に改式されていないか、あるいは改式はしていても、一時的に親元を離れて住んでいるので霊さまをお祀りしていないか、このどちらかの理由がほとんどだと思います。
「うちの家は分家だから霊さまはお祀りしなくてもいい」と考えておられる方があるかもしれませんが、その考えは改めて頂いた方が良いと思います。
本家であろうと分家であろうと天理教に改式されているなら、ご自分のご先祖さまなのですから、ちゃんと家にお祀りすべきだと思います。
さて、大きい方のお社に鎮座しておられる神実さまに話を戻します。
神実さまのご正体は鏡です。つまり、神実さまは、親神様の御守護の理(神様のお働き)を映す鏡のことです。その大きさは、親指と人差し指の先端をくっつけてOKサインをして下さい。だいたい、それくらいの大きさです。
神実さまは、おぢばより大教会(直属教会)へお出し下されているものです。それを上級教会、所属教会と順序の道を通って下附されてきて、そしてあなたの家にお祀りされています。
ちなみに、教会にある一番大きなお社には、親神様の御守護の理を映すおさまが入っています。お目標さまも神実さまと同じ鏡ですが、その大きさに違いがあります。教会のお目標さまというのは、おぢばより各教会へ直々に教会名称の理のお許しとともにお出し下されたものです。
神実さまであれ、お目標さまであれ、親神様の御守護の理を映すということに違いはなく、決して御守護に差がある訳ではありません。
親神様は、私たちがどこにいても、私たちの心通りに御守護をして下さいます。
そして、親神様の御守護こそが、親神様そのものなのであります。
私は、ある先生に「教会には、真柱様より偉い方がおられる。いつも私たちをお守り下さっている親神様、がお座りになっているのだから、日々に失礼のないように、精一杯、心をこめてお仕えさせて頂かなければ、申し訳ないのやで」とお教え頂きました。親神様の御守護を軽んじることなく、理を重くして通らせて頂くことが、結構な御守護を頂く元であると思います。これは、教会に限らず、神様をお祀りしている家でも同じことです。
1−2.霊さまって誰のこと?
次に霊さまのことですが、霊さまとは、いったい誰のことでしょうか?
人間には、魂と肉体があります。人間は、その肉体に魂が宿った瞬間に心が生まれます。人間の魂は、ずっと生き通しで、何度も何度も生まれ変わりを繰り返しています。そのうちに、人間の心遣いの理によって、魂には徳というものと因縁(いんねん)というものがついてきます。人間は肉体が滅び、その一生が終わっても、魂についた徳と因縁を持ち越して、次の世に生まれ変わります。人間は自分の徳にふさわしい因縁のあるところへ、神様からまた新しい身体をお借りして生まれ変わってくるのです。
人間の因縁は、人間の魂が誕生した時から存在する「元のいんねん」というものと、生まれ変わりを繰り返す間に自分が積んだ「持ち越しのいんねん」というものがあります。
「元のいんねん」というのは、人間は神様の子供であるということです。
親神様は、「人間が陽気ぐらしをするのを見て、神も共に楽しみたい」と思召されて人間を創造されました。人間というものには、元来、「陽気ぐらし」という神様の思いが込められている訳です。「元のいんねん」のない人間などは存在しないのですから、何度生まれ変わりを繰り返しても、人間である限り、「陽気ぐらし」を実現できる可能性を秘めているということになります。
「持ち越しのいんねん」は、前生、前々生のことだけにわかりにくいのですが、自分の身の上に現れてくることをできるだけ上手に悟って、今生、生きている間に、それを徳に切り替えておく方が良いと思います。
「いんねん」の話はたいへん説明が難しいので、この辺でやめておきます。
興味のある方は、会長さんに詳しくお尋ね下さい。
天理教では、「死」がすべての終わりというのではなく、次への出発という意味がありますので、死ぬことを「出直し」と言います。人間は出直したら、次に生まれ変わってくるまでの間、どこにいるのでしょうか。その間、人間の魂は親神様に抱かれていると考えるのが、一般的な悟りであろうと思います。しかし、「この世は神の身体」とお教え下さっているのですから、神様の身体に抱かれているということは、人間は死んでもこの世にいることになります。
さて、この世のどこにいるのかということになりますが、私は、生前、その人に縁のあった人々の心の中にいるのではないかと思うのです。
何代も前のご先祖さまのことを思っても、お顔も浮かびませんし、思い出もありません。自分の心の中におられる霊さまのことを思い、朝に夕に霊さまを拝して、その霊さまに喜んでもらえるような心で通らせて頂くのが、私たちのつとめであるとも思うのです。