生き方

 

後ろから拝む

ある先生から聞いた言葉が忘れられない。「おつくし(お供え)の話をして、人に聞いていただけるのは、その人から後ろから拝まれる人になってからである」

 その話を聞いて、と言ってももう十年程前のことであるが、わたしも自分を後ろから拝んでくれる人が何人いるか指折り数えてみた。片手どころか一人も見当たらなかった。

 が、おもしろいことも経験した。おさづけに行かせていただいた時のことである。その家は神様を祭っておられるので、幾度となく行かせていただいてはいたが、いつも家人とは、玄関先で失礼していた。ある時、おさづけの理の取り次ぎに行かせていただいた帰り、玄関先で別れ、家を出て角を曲がるとき何げなく振り返ったら、玄関先で別れた家人が、門を出て深々と頭を下げてくださっていた。

  前から願を下げていただくのはそう難しい事ではない。しかしそれは、その人に頭を下げているのではなく、その人のもっている地位や、力、お金に頭を下げているだけである。そうはわかっていても、それに慣れてしまうとそれが自分自身に対して頭を下げてくれているかのように錯覚する。

 それに対して後ろから頭を下げていただくために必要なものは、相手に対する底無しの親切であり、誠真実である。言うなれば、、前から頭を下げる場合は目に見えるものに対して頭を下げるのであり、後ろからの場合は目に見えないものに対して頭を下げてくれるのである。

 前から頭を下げてくれる人と、後ろから頭を下げてくれる人の数を自分なりに数えてみると、どちらがより難しいかは言うまでもないだろう。

 ある時もつと大切なことに気がついた。果たして自分は人に対して後ろから頭を下げているだろうかということである。指折り数えてみた。後ろから拝めるような人は余りいないものである。しかしよく考えてみると、後ろから頭を下げられる人が余りいないということは、それだけ高慢ということにはなりはしないだろうか。人聞の身体は神様かの貸りものである。人が生きているということは、神様から見たらその人に存在価値があるからなのである。たとえ自分にとって、その人がいやでいやで仕方がなくても、逆にそうだとしたら、神様から見たら、そうだからこそ、自分の心を鍛えるためにその人の存在か必要なのである。

 四方正面とお聞かせいただくおぢばの礼拝場の姿は、人間は拝み合いをして生きて行くとということを、形にしたのだとお聞かせいただく。かんろだいを中心にして、東の礼拝場から参拝した人は西の礼拝場の人と、南の礼拝場の人は、北の礼拝場の人と、拝み合いをしているのだ。そう考えたら後ろから拝めないということは、やはり高慢以外の何物でもないということになる。

 人生の価値というのはいろいろな計り方がある。どれだけ名刺の横に肩書があるかということを、人生の目的にするような人も多いように思う。しかし、一生のうちでどれだけの人を後ろから拝めるようになるか、その人を今からどれだけ増やせるかが、一生の目的になるような人生を、私は送りたいと思う。

 

     

好物の食べ方

 子供達の好物の食べ方を見ていると、食卓に出た好物を最初に食べてしまう子と、最後に食べる子と、どうやら二つの型があるようだ。楽しみを先に食べてしまう方と、楽しみは後に残しておく方と、果たしてあなたはどちらですか。

 そういえば先月出された大教会長の本の題名は「今日より明日」、先日の「憩いの家」元院長の山本利雄先生はお話の中で「明日より今日」とおっしゃられていた。

 一説によると狩猟民族の基本的な考え方は、「明日より今日」。畑を耕し、種を蒔き、何カ月かたって収穫する農耕民族は、「今日より明日」だそうである。

 宗教でも、天国や極楽、つまりは死後の世界に幸福を求める宗教は、「今日より明日」、反対に現世利益を全面に打ち出す宗教は「明日より今日」ということになるかもしれない。

 まあ、黄色い財布を買ったらお金がバカバカもうかるとか、竜のペンダントを買ったら、競馬でもパチンコでも儲け放題という類いは、「何よりお金」と言う奴で論外だが・・・・・。

 天理教はどちらだろうか。天理教はお二人の先生がおっしゃるように、「明日より今日」であり「今日より明日」なのだと教えてくれた教えなのだと思う。『たんのう』というお言葉にその思いが凝縮しているのだと思う。

 神様は『よふきぐらし』という人間究極の理想を教えて下さった。しかし残念ながら現実の私たちは『よふきぐらし』と程遠い厳しい日々を通らなければならない時もある。そんな時その厳しい毎日を、私たちは「明日の幸せ」を信じて通っていく。しかしそれは、彼岸に幸せを求めることではない。また今日をあきらめることでもない。ましてや、何もしないで座して幸せを求めるものでもない。

 昨日の積み重ねが今日の結果であり、今日の積み重ねが明日になるのだという当たり前の事を、当たり前に受け入れることなのだと思う。そしてその今日の積み重ねが明日になるという当たり前に、残念ながら神様の入る余地はない。

 今日割り残した薪が、一晩中おつとめをしたからといって明日無くなるわけではないのだ。私たちの薪割りの結果に、神様の出番はない。しかし今日薪割りで疲れた体を、明日元気にしてくれ、残された薪割りをさせていただける身体に戻したのは、私ではない。それが神様のお働きなのだ。身体が神様よりの『かしもの』であることを忘れたら、私たちの信仰は無いとお聞かせ頂く。

 今日があるのも、そして今日の積み重ねである明日があるのも、まず生かされている自分があるからこそだということを、喜び感謝することが天理教の原点だと思う。そのことを忘れ、私たちは、ややもすれば薪の数を減らしてもらうことを神様にお願いしているのではないだろうか。

 今日割らなければならない薪割りが、こんなに残っているのは、昨日しなかったからに過ぎない。明日少しでも少なくしようと思えば今日できるだけ頑張ればよい。明日に出来るだけ残さないように頑張る人は頑張ればよいし、頑張れない人は、明日、明後日に残るだけだ。大事なことは薪割りを楽しむことだ。薪割りをしているその時を楽しむことだ。斧が真芯に当たってパカッと気持ち良く二つに割れる瞬間も、いくら斧を振りかざしても節があって一向に割れない時も同じように楽しむことだ。それが『たんのう』ということだと思う。

 好物を先に食べるか、後に残すかの話が、「明日より今日」「今日より明日」へと発展して、あさっての方角へ行ってしまった。

 最後に私の好きな格言を一つ。「今日できることは、明日でもできる」

 

人生の評価基準

 人生の評価というのはどこで決まるのでしょうかね。あるとき、ある人との会話である。「棺を覆いて定まる」というような言葉があったと思うのですが、死んでお棺の蓋をした時、その人の評価が決まるとよく言ううじゃないですか。その評価の基準というのは何なのですかね」

 「世間の評価の話か、神様の評価の話かどちらのこと」

「すぐ会長さんは神様の話が出てくるから、世間というか、神様の話じゃないほうですよ」

「世間の話はよくわからないけど、評価といっても、自分が自分の人生を評価する場合と、他人が評価する場合では大分違うのと違うか。他人が評価する場合は、一番分かりやすいのはその人の業績ということになるやろ。大きな会社の社長さんやったり、えらいさんやったりとそういうことが評価の基準の一つじゃないか。国が評価してくれる叙勲なんかは、その典型とちがうやろか。」

「勲章をもらうやつですね。あれって、この道ひとすじといった職人さんのような人の評価より、政治家だとかそんな人の評価が高いですね」

「人が人を評価する場合はどうしても見た目の派手さに目がいくわな」「地位が高いというのは見た目の派手さなんですか。」

「と、私は思ってる。せやけど見た目の派手さを馬鹿にしてはいかん。そのために一生を捧げる人も大勢いるのやから・・・」

 「他人が評価する方は分かりましたが、自分の評価はどうなんですか」

「こりゃもうもっと千差万別やろな。自分が振り返っていい一生と思うか。ろくな人生でなかったと思うかは、その人になってみなければ、よくわからんもんな。さっきみたいな見た目の派手さを気にする人やったら、わかりやすいけど、それでも人間ちゅうのは一筋縄ではいかんから、見た目は派手やったが、ほんまはわしは幸せではなかったなんて、ようテレビドラマでやってるしな。」

「人生は見た目の派手さではないということですかね」

「そうとも言えんところが、人間の一筋縄でいかんところで、逆にどんな地味にやっていてもどこかにスポットライトを浴びたいという気持ちがないとは言えんと思うしな」

「どないせえていいますねん。」

「要は、人間の生きる目的が何かということやと思うね。生まれてから死ぬまで人間はなんのために生きているかというはっきりした価値基準がないやろ。昔なら、末は博士か大臣かといった立身出世が一つの目標というか価値基準としてあったといえばあったけれど、今はそういった事を声高にいうのは恥ずかしいという風潮もあるし、といってそれに変わる何か絶対的な基準がある訳でもない。」

「そういえばそうですな」

「それになもっと大事なことがあるで。最初に棺の蓋を閉めるという話やったけど、棺の蓋を閉めたら本人は死んでいるのやさかい、世間の評価もへったくれもないで。それに自分の評価も、死ぬ前は後悔も懴悔もできたやろけど、どっちにしても死ぬ直前やったらたいしたことは出来へんしな、死んでからではどうしょうもないやろ。そこで出番や」

「なんのでっか」

「わかってるやろ、神様やがな」

「そうきましたか。」

「人間が人間に対する評価は先程言ったように千差万別や、せやけど神様の評価基準は一つやで。神様のお言葉に『世界の道は千筋(せんすじ)、神の道はひとすじ』ていうお言葉もあるぐらいやからな。」

「えらい自信満々でんな、神様の人間の人生に対する評価基準ていうのはなんですねん」

「それはその人が生きている間に、どれだけ人を喜ばしたかということやと思うねん。これやったら地位や功績に関係ないで。えろうなっても人泣かしてきた人もあるしな。」

「そりゃそうですな。せやけど世間でもそんなこと常識ていうか、そない思てる人ようけおるんと違いますか。」

「そりゃ結構なことや。人に喜んでもらうことを目標に暮らすことは陽気ぐらしへの一番の近道やさかいな。せやけどいつもそんなわけにはいかんやろ。」

「そりゃそうですわ。わしらかて人さん喜んでもろたら嬉しいけど、我が身はもっと可愛いですからな」

「私もえらそな事言えへんけど、それは『人に喜んでもらうことが人生の目的や』ていうことをようほんまに信じきらんからやと思う。もっと言えば神様がおられるということをはっきり信じてないから、神様の言われるように人に喜んでもらおうと一生懸命してみるときもあれば、神様なんかおらへん、自分が楽しむことが一番大事やと思うてみたりして、ふらふらすんねん。」

「えらい言われようでんな。せやけどそれを信じる方法てありますのか」

「そりゃ実例があるやないか。人を喜ばすことを最優先したのが教祖のひながたや。そのひながたを少しでもたどらせていただこうと、先人の先生方は自分たちの幸せを後回しにして、ひとだすけに奔走したのやないか。それがいまそれぞれ教会として結実して結構になってるやないか。三名之川はその典型やないか。」

「ほんまですな、親奥さんや、前の会長さんらは、そりゃ苦労してくれましたもんなあ。それを考えたら今の会長さんは、ええとこどりでんな。先祖の苦労した種を収穫してるだけですもんな。強盗みたいなもんや。」

「そう思うけど、そこまで言わんでもええがな」「さっきの敵討ちでんがな。せやけど人に喜んでもらうような気持ちになるのは難しいですな。それに人に喜んでもらおうとしても、素直にとってもらえんときもありますしな」

「さっき神様の人間の人生に対する評価基準は、その人が生きている間に、どれだけ人を喜ばしたかということやと言うたけど、それは自分が自分の人生をどれだけ喜んだかということにもなると思うねん。自分の人生を喜ぶていうても、結構な時は誰でも喜べるけど、つらいときや苦しいときも喜ぶと言うことやね。普通考えたら、つらい苦しいときは喜べへんけど、喜べと神様は教えてくれたんや。

 結局私は、自分が喜んでなくて、人に喜んでもらう事なんか出来へんと思う。自分の現状に対して不足一杯のくせに、人に喜べとか、人に喜んでもらうことをさせていただくなんて出来へんと思うんや。

 だから結局神様の評価基準は、今の自分をどれだけ喜んでいるか、どれだけいままでの人生を喜んで来たか、これからの人生をどれだけ喜べるかということに尽きるのやないかと思うのや。」

「なるほど、それならわしもこれから毎日を喜べるよう少しでも努力してみますわ」

 

忘れるということ

妻や子供たちには、昔からと言われているが、最近とみに物忘れがひどくなってきた。

しかし、弁解する訳ではないが、神様から与えられた能力の中でも忘れるという能力ほど素晴らしいものはないと聞いたことがある。人生の様々な挫折や、苦しみ、悲しみをその直後と同じ気持ちで、忘れられることが出来なかったなら、人間は生きていけるものではない。最愛の人を失ったときの気持ちのままで、一生を過ごすなんてとても出来る相談ではない。時がたてば、自分の胸の中にぽっかりあいた穴も、いつとはなしに埋まっていくものなのである。そんなふうに考えれば、忘れるというのは神様がその悲しみを自分に変わって引き受けてくれているのではないかと思う。

しかし厄介なことに、人間には忘れてよいことを忘れられない傾向がある。というより、忘れてはいけないことを忘れ、忘れなければならないことを忘れないのが人間の習性のように思う。

世間には「あのことだけは絶対忘れられない」と、あのことを話し出すと、顔つきまで変わってくる人がいる。たいていの場合、あのことはうれしいことではない。あの人のご恩は一生忘れませんではなく、あの人の仕打ちは一生忘れませんだ。しかしそれは自分が生きていく上で誰かにしていることであったかもしれないのだが、そんなことは思いもつかない。悪いことをされたことはなかなか忘れないが、自分が人に対して悪いことをした場合は意外と覚えていないものなのである。

反対に良いことの方はどうだろうか。こちらの場合は、してもらったことはすぐに忘れるが、してやったことはなかなか忘れない。最近周りの人にしてやったこと五つと、してもらったこと五つを挙げよと言われれば、してやったことは簡単に挙がるのに、してもらったことはなかなか思い出せない。思い出しても「私はそれ以上してやってるのだから、それぐらい少ないぐらいよ」と、感謝よりも不足に思ってしまうことも多いのではないだろうか。

『神人和楽の陽気ぐらし』と、私たちはお聞かせいただいている。私はこのお言葉が好きだ。私たちの教えは全てを神にゆだねるのではなく、神がここまでしてやるから、あとは人間の方が頑張れよというそんな感じがとても好きなのだ。

忘れるというのは、神様がその悲しみを自分に変わって引き受けてくれているのではないかと書いた。それは悲しみを忘れさせてくれるのは神様の領分だから、お前達はお前達の出来ることをしっかりせよと教えてくれているように思うのだ。

神様が悲しみを忘れさせてくれるのだから、私たちは喜びを忘れないようにしたら良い。辛い悲しいことは神様が忘れさせてくれるのだから、私たちはうれしい楽しいことをしっかり覚えておけばよいのだ。あの人にこうされたと嘆くのではなく、あの人にこうしていただいたと喜びをしっかり覚えておけばよいのだ。

そして、忘れることは神様の領分だから、人にしてやったことは、いつまでも覚えておかず、忘れてしまったらよいのだ。忘れたら神様に届くのだから、あっという間にわすれてしまい、早く神様に届いて天に貯金してもらったらよい。この不景気でさえ利息は、今も変わるず一粒万倍のはずだ。

そう考えてふと気付いたことがある。忘れるのは神様の領分だから、物忘れのひどくなった私は、ずいぶん神様に近づいていることになるのではないだろうか。そう考えれば、物忘れもそんなに悪くない気がしてきた。周囲はだいぶ迷惑のようだけれども・・・。164年6月

 

 

土壌改良

役場との塀際に植えていただいた樫の木が昨年来より少し調子が悪い。松を植えてくれた植木屋さんは、うどん粉病という病気ではないかとのことで、昨年は木をほとんど丸坊主にして薬も蒔いてくれたが、今年も余り元気がよくないようなので、ある信者さんが、奈良県南部農林振興事務所の方を紹介してくれ、早速様子を見てくれる事になった。

この木はこんな病気だから、こんな薬というような、手っ取り早い方法を聞かせていただくのだとばかり思っていたが、どうも勝手が違って、その人は土を掘りだし、根の様子を見て、どうも土壌改良が必要だという。

土が固く、排水性が悪いので、根が張らないそうなのである。私としたら既に植えてから三年余り経つので充分根も張っているものだと思っていたが、聞いてみると移植して一・二年は移植のときに根にまわしてある土の養分を吸い取り、二・三年後にやっと移植した土地へ根を張り出すそうである。その土地が固ければ根が張らず、排水性が悪ければ根が腐ってしまう。だから移植して一・二年は元気一杯の木が、その後急に元気が悪くなることがよくあるそうである。

即効性の化成肥料や薬剤は、カンフル材としては有効だがそれ以上の意味はもたず、結局は地道に土を掘り起こし堆肥を埋めていく土壌改良が、一番遠回りのようだが一番の方法だという。

そんな話を聞きながら、何か人生について言われているような気がしてきた。

事情や身上といった節に際して私たちは信仰においてさえ、即効性を求めがちだ。事情なら即座に解決、身上も病院で解決、先日ある信者さんが言っていたが、病院で直るのは病気ではなく病体だそうである。心を直すのではなく、身体だけを直すのだ。しかしちょうどそれは、病気の樫の木に促成肥料を巻き、薬剤を散布するのと同じで、即効性はあるが、根本治療にはならない。

樹木の根であり土に当たるのが、人間では親であり先祖であり、もう少し教理的に言えば、その人の「いんねん」なのだと思う。

この道はいんねんを切らせていただく道だとお聞かせいただく。土壌を換えていくのと同じように、心のほこりを掘り返し、「ひのきしん」や「つくしはこび」を続け、しかもそれを誇ることなく静かに埋めていくことが、一番大事なのだと改めて考えさせられた。165年6月