育成

 

『こ ど も お ぢ ば が え り』 

  『こどもおぢばがえり』で、おぢばに帰らせていただくと、心が熱くなる。

 それは、喜ばせたいとの熱い思いが『おぢば』にあふれているからだ。

 私たちのおやさまは『このぢばに帰る者は、一人も喜ばさずには帰されん』とおっしゃった。そのおやさまのこころを自らの心として、人々はひのきしんに汗を流す。

 人に喜んでもらいたいという気持ちを、人々はひのきしんという形で表す。おぢばで行われる色々な行事は、みなそんな人々の無償の行為によって成り立っている。

 「冷たいお茶をどうぞ」。中学生の、少年ひのきしん隊の子供達の声が神苑のあちこちで聞こえる。「おいしいと言ってくれる声が一番うれしい」と、今時の大きな体の中学生がはにかみながら、答える。

 「慣れない団体生活と寝不足で、よく体調を壊すのですが、それでも中学生活で一番の思い出ですと、帰るときには言ってくれるんですよ」と付き添いのカウンセラーがうれしそうに言う。

 彼女も又、ひのきしんだ。

 「ブラスバンド部に入って最初に言われることは、信者さんの尊いお供えで買っていただいた楽器を、大事に大事に、扱うことです。」

 ブラスバンド部にいた人に聞いた言葉だ。その伝統はおそらく今も連綿と続いているのだろう。ブラスバンドが、あふれる汗をぬぐおうともせず、ひたすら演奏している。一日四回、風のない熱いテントの中で、楽器に汗がつかないように手袋までして・・・。 

  おぢばがえりをした子供達の一番の楽しみは、夜の『おやさとパレード』だ。電飾で美しく飾った車や、様々な地方からの鼓笛隊、ねぶたや太鼓や、アドバルーンや、その他いろいろと趣向をこらして、おぢばの夜をパレードする。

「おやさとパレードが、どんなパレードよりすばらしい点は、パレードに出場している者も、参観している子供達の付き添いも皆、ひのきしんで、子供達を楽しませるということだけが目的だということだ」ディズニーランドに程近い千葉の教会長が、言う。

 そしていろんな行事を支える裏方たち。

 「おぢばがえりの観客席のビスは、一本一本本当に気をつけて締めるんです。子供達にケガでもさせたら、それこそおやさまにおわびのしようがありませんから」一カ月間、おぢばで伏せ込みの汗を流す、青年会ひのきしん隊の隊員が、話す。

 おぢばがえりに関わる人々は、一体何人になるのだろう。優に一万人は軽く越えるだろう。ニキビ盛りの中高生も、バイトで忙しい大学生も、年休までとって参加する大人たちも、原点は『一人も喜ばさずには帰されん』という、おやさまの思いだ。

 おぢばがえりを本当に楽しむということは、そういう人々の思いを味あわせていただくことだ。おぢばの暑さよりも熱い、人々の思いを感じることだ。

 迎える者は、帰って来る者を何とか喜ばせたいと思い、また帰って来る者はその迎えるものの気持ちを感謝と喜びの心で受けとる。

 教祖のおっしゃる『ようきゆさん』とは、このようなことなのだろうと、思う。

 不足を言えば不足しか見えなくなる。喜べばその喜びは何倍にもなって帰って来る。

 「見させていただき、喜ばせていただいてばかりいた私共の教会からも、やっと喜んでいただく側に回らせていただける子供を、御守護戴けた」と、今は亡き鷲家分教会の親会長が、嬉しそうに語ったのを懐かしく思い出す。

 ある信者さんの子弟が、親里パレードに出場したときのことであった。

                                                       159年8月 

 

 

モームス             

先日ある信者さんのところへおつとめに行ったとき、高校生の息子さんから「会長さん相談したいことがあるんですけど…・」と、言われた。本人は真剣な面持ちで、これは厳しい相談かなあと思って、座りなおして、彼の相談を聞き始めた。

「四月十五日は、教会の教祖誕生祭で日曜日ですね。ちょうどこのときコンサートがあって、チケットを買ってしまったんですが、やはりおつとめの方が大事ですよね。」と、訴えるような目で言う。聞けばモーニング娘のコンサートらしい。以前から彼は、モーニング娘の大ファンである。

これぐらいの相談ならと、最初はほっとしたが、よく考えればなかなかの難問である。

「おつとめは、何よりも大事と聞かせていただいている。会長である私に、すがるような目で見つめられても、コンサートに行っても良いとは言えないけれど、今回に限り、券も買ってあるというし、会長さんが神様におわびさせていただいておくから、行っておいで。そのかわり、春の学生おぢばがえりは必ず参加するように」と、答えた。答えた後も、やはりおつとめに帰らせていただけと、厳しく言ったほうが本当はもっといいのだろうなと思う気持ちが少し残った。そんな後悔はあったが、若い高校生の彼から、そんな言葉を聞くとは思わなかったので、とてもうれしかった。

一月の春季大祭に、今年一年は、若い人々を教会へ繋がせていただくことに心を使いたいと心定めをさせていただいた。そんなおりでもあったので、思わぬ言葉にその日はなんだか身体まで暖かくなった。

会長にとって最もうれしいことの一つは、月次祭や婦人会のおつとめに大勢帰ってくれることだ。毎月帰ってくれる人はもちろん、めったに帰ってこない人が帰ってくれたら、本当にうれしい。前に巡教に行かせて頂いた教会では、会長さんが、月次祭の参拝者の一人一人に、「ようお帰り」と満面の笑顔で声をかけておられるのを見て、私も見習わねばと思っているのだが、勘定は得意だが、感情は表に出すのが苦手な古武士のような性格なので、なかなかそんなふうにも出来ないが、帰ってくれることへのうれしさは、その会長に負けないと思う。先年もある夫人が店をすることになったが、その時自分の方からおつとめの日は必ず休みますと言ってくれた。そんな言葉がとてもうれしかったのを今も覚えている。

教理は心の栄養というお話を、聞かせていただいたことがある。米が体の栄養になるように、教理は心の栄養のために必要なのだそうだ。いつも食べているといって米を食べることをやめれば、身体は痩せ、衰えてくる。それとちょうど同じように、その話は聞いた、この話は知っていると、教理を虚心に聞かせていただくことが出来ないと,心がやせ衰えてくるのだそうだ。

私たちは、魂と身体と心で出来ている。身体も心も神様からこの世にうまれ出る時に貸していただいたものであるが、それは出変わり生まれ変わっても無くなることのない魂の徳に応じてお貸しいただいたものだ。

身体に対する栄養が米で、心の栄養が教理だとすれば、魂への栄養は一体何なのだろうか。それがおつとめだと思う。人間創造のときの守護を今に再現するとお聞かせいただくおつとめ、陽気ぐらしを象徴的に現して下されたおつとめ。

身体の栄養は,とりやすい。とりやすいどころか、とり過ぎで節制さえ要求されている。しかし心の栄養も,魂の栄養も取りすぎることはない。米を食べた時のように、結果はすぐに出てこないかもしれないが、おつとめはあなたの魂の徳を、確実に増やしてくれているのだ。164年4月

 

 

世話をさせていただく

 今年教会より「こどもおぢばかえり」の「わかぎひのきしん」に、五人の中学生か出させていただいた。「わかぎひのきしん」とは、朝八時頃から、「アチコチランド」を始めいろいろな場所で、冷たいお茶の接待ひのきしんをし、夜の「おやさとパレード」の行進で一日が終わる。毎年見させていただくばかりの「おやさとパレード」だが、去年も今年も子供達のお陰で見て楽しむだけでなく、出させて戴き楽しんでもらう方にもまわらせていただきうれしく思っている。

 三十一日、わかぎひのきしんに出た三人の中学生を迎えがてら、「おやさとパレード」を見学に行った。高校生を始め若い人が、一生懸命にひのきしんをしている姿は本当に清々しい。パレードが終わり、興奮さめやらぬ中学生達を教会まで送り、とんぼ返りで詰所へ帰る途中、三輸神社の参道口で道路にじかに座っている百名余りの若者達を見た。

道路に座りたむろする若者達、その若者の中にもひのきしんをしていた者もいるかもしれないし、一つの現象だけを見て、軽々にどちらかどうというわけにはいかないと思うが、、「こどもおぢばかえり」で汗だくになって子供達の世話をしている若者達を見た直後だったので、群れをなし、たむろするその若者達にショックを受けた。

 その後、八月五日六日の両日にわたり詰所で今度は中学生の勉強会をさせていただき、ひのきしんで汗を流す若者とたむろする若者の違いは、世話をする立場に立っているか、世話をしてもらう立場のままの違いではないかと思った。というのも、勉強会では高校生以上の学生会の諸君が講師やカウンセラーを担当する。新高校生にとっては昨年まては受講生として世話をしてもらう立場から、世話をする立場への百八十度の転換だ。それを自覚をもってできている者と、大学生になってもお客様の立場からなかなか抜け切れない者もいる。

 人間は、赤ちゃんや子供時代は、世話をしてもらわなければ生きていけない。成長するという事の一つの証しは、世話をしてもらう立場から世話をする立場になることだと思う。親になっても、嫁さんに、子供は四人などと父親の数まで子供の人数として入れられるのは論外としても、世話をしているつもりで、本当は世話ばかりかけている場合も多いようだ。いつまでも人の世話になってばかりいるのは情けないと思う。

 そこまでは世間のお話。天理教ては世話をする側にも、世話をしてやってると思う人と、世話をさせていただいていると思っている人の二種類あるとお聞かせ頂く。世話をしてやってると思う人は、すぐに相手に対して、礼を言わないとか、感謝か足りないだとか、不足の心が出る。

 世話をさせていただくという気持ちで行うということは、「ひのきしん」の精神で生きるということだ。周りの全ての人か神様によって共に生かされており、「わかるよう胸の内より思案せよ人たすけたら我が身たすかる」というおふてさきの言葉を真から信じているということだ。

 神様のお言葉の中に「わからん子供かわからんやない、親の教えか届かんのや」というのがある。

 どんな時にもそんな気持ちて通らせていただけたらとは思うが、そこまでに到達することは本当に難しい。でも「ひのきしん」と言う言葉を知っており、「させていただく」という言葉を使っていても、そこに到達することの難しさを自分の中で骨身に染みて知っているものと知らないものの違いは遥かに大きいようにも思う。